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終戦70年・日本敗戦史(143)陸軍参謀総長の栄光と悲惨ー日清戦争の川上操六、日露戦争の児玉源太郎と比べて東条英機のインテリ ジェンスは10分の1ー辻政信参謀の「無謀・横暴・乱暴」

      2015/08/26

終戦70年・日本敗戦史(143)

<世田谷市民大学2015> 戦後70年  7月24日  前坂俊之 

◎『太平洋戦争と新聞報道を考える』

<日本はなぜ無謀な戦争をしたのか、

どこに問題があったのか、

500年の世界戦争史の中で考える>⑳

陸軍参謀総長の栄光と悲惨ー

日清戦争の川上操六、日露戦争の

児玉源太郎と比べて東条英機のインテリ

ジェンスは10分の1ーその麾下(きか)の

大本営参謀も「無謀・横暴・乱暴」

敗戦参謀の悲惨ー「地獄からの使者」の辻政信

 

無謀・横暴・乱暴、辻参謀」といわれたトリックスター・辻政信

参謀のタイプについて児島襄「参謀」(文芸春秋社 1975年)は4つの類型を挙げている。

  • 書記官型=指揮官の意志を伝達するだけで、指揮官の書記官に徹する。
  • 分身型―指揮官の分身として、指揮官の分身となり補佐する。
  • 独立型―指揮官の分身ではなく独立の人格として判断し補佐する。
  • 準指揮官型=③より以上の権限をもち、ときに指揮官の役割もはたす。

これは旧日本軍が手本としたプロシア、ドイツ陸軍の「クラウゼビッツ」などの戦略理論にそった分類だが、日本陸軍の「統帥綱領」では、次のように規定していた。

「幕僚の任務はー将帥の精神を諸種の圧迫より解放し、その意志の独立、自由を確保し、これを輔(たす)けて将帥の天稟を遺憾なく発揮させて、将帥の権威を高めること」(統帥綱領)とある。つまり、将帥の補助、知恵袋として、わき役に徹して、主役の将帥の才能をいかんなく発揮させなければならないーとうわけだ。あくまで幕僚(参謀)の任務は、指揮官の判断と決定の補佐で、命令指揮権をもつのは指揮官のみなのである。

ところが、実際の戦場ではこのような机上の規定通りにいくわけはない。戦況が刻々と変化するため、通信不良の環境で離れた指揮官にいちいち命令を仰いで行動していると間に合わない。ある程度、最前線の参謀の自主的な判断にまかせるのが「独断専行型」で、旧陸軍もこれを認めていた。

しかし、この一線をはるかにこえて将帥を全く無視して独断専行、猪突猛進して勝手に攻撃虐殺命令を下し、その結果、大敗北を喫したのに処罰されていないのが辻政信参謀のケースである。

辻政信ほど様々な異名がつけられた軍人はいない。「作戦の神様」「怪物」「神出鬼没」「悪魔の参謀」「無謀・横暴・乱暴、辻参謀」

「制限速度を無視して走るタクシー」(関東軍参謀・武藤富男)

「地獄からの使者」(陸軍少尉の作家・村上兵衛)

「国家の大事をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男なり」(山下奉文)

筆者は辻と同じ陸軍参謀本部にいた軍人を父に持つ友人から取材したが「まったくクレージーな男。中国人の肝臓を切り取り、それをなめながら“臥薪嘗胆”だとほえていたといいますから」と吐き捨てるように言った。

とにかく仰天のトンデモ男。ファナティックな悪名・虚名に満ちた「昭和の怪物・辻政信」の正体とは!? いったい何者か・・・・。

1902(明治35)年10月11日、石川県江沼郡東谷(現在の加賀市山中温泉)で

農家の4人兄弟の3男として生まれた。父は炭焼きで生計をたてていた。苦学して名古屋陸軍幼年学校に入学、同幼年学校を二番、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を三番で卒業した陸士三十六期生の恩賜組である。

 辻の令名は士官学校時代から鳴り響いていた。抜群の秀才、頑健無比、直情径行、激情型、古武士風、勇猛果敢、不正を憎む熱血漢、大音声の熱狂的弁舌の士として、少青年期にはすでに有名人だった、という。

1934年(昭和9)年9月、参謀本部員から士官学校の幹事(副校長)の東条英機に誘われて陸軍士官学校生徒隊中隊長に転出した。ここでその後の2・26事件につながる「陸軍士官学校事件}(皇道派のクーデター未遂事件)に関係して、辻も重禁錮30日の処分を受け、水戸連隊付へ飛ばされた。

1936(昭和11)年4月には関東軍参謀部に転出。当時参謀本部作戦課長の石原莞爾と会い、「五族協和」の石原の満州国理論に一目で心酔、熱烈な石原信者となった。

ところが、昭和12年7月の蘆溝橋事件(日中戦争)では、石原作戦部長の「不拡大方針」に逆らって、当時関東軍の東條参謀長に同調して、戦線拡大を支持して行動する。同8月に北支那方面軍第1課参謀へ自ら志願して転出、続いて関東軍作戦参謀に栄転した。

ノモンハン事件

ゴリゴリの対ソ強硬論者となっていた辻参謀はここでノモンハン事件に火をつけた。昭和14年に入り、ソ連と満州国の国境線付近で両軍の衝突、紛争が相次いでいた。このため辻が『満ソ国境紛争処理要綱』を作成し「国境線が明確でない地域では、防衛司令官が自主的に国境線を認定せよ。兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」との強硬方針を出し、同年5月、これを国境守備担当の第23師団(師団長小松原道太中将)へ下達した。同13日、第23師団では辻参謀が出席してこの要綱を全部隊に徹底するための会議を開いた。

席上『これを本当にやってよいのか』との半信半疑の質問が出たが 『やってもらう、それが命令です』と辻参謀はきっとなって反論した、という。(半藤一利「コンビの研究」文藝春秋社 1988)
いうまでもなく、「国境線の認定」は外交権の問題だが、辻の独断専行の強硬方針が事件を誘発し、案の定、数日後に事件が勃発した。

「大戦果をあげて中央を喜ばせよう」と功名心にはやった辻は作戦主任・服部卓四郎中佐とともに「侵犯の初動には、敵を徹底的に殲滅する必要あり」と大音声で強硬論を主張したたが、関東軍首脳部はあくまで慎重姿勢を崩さなかった。

辻の大規模な作戦計画を見た磯谷廉介参謀長は「師団規模の作戦だから大本営(参謀本部)の了解が必要」と指摘したが、辻は「いちいち中央の認可をうける必要なし」と独断専行で早期の出動を命じた。

この結果、第二三師団の白兵戦法とジューコフ大将率いる大型戦車、装甲車、砲兵の近代装備のソ連軍は全面衝突して、第二三師団はひとたまりもなく壊滅した。第2次、3次にわたり同戦闘法を繰り返し、戦死者一万八千人にのぼる大惨敗に終わった。

ところが、辻参謀らは大敗北の責任を、全て前線の指揮官たちになすりつけ、生き残った前線指揮官たちに自殺を強要した、という。

1940(昭和15)年8月、中佐に昇進し、南京勤務となった。ここで江兆銘政権樹立に呼応して、「東亜連盟運動」(石原莞爾主導)を推進しようとしたが、「反石原で犬猿の仲」の東條陸相の怒りを買い、同年11月、台北に飛ばされ、台湾軍研究部員となる。研究熱心な辻はここで「南方作戦」「熱帯での戦闘法」について研究した。

一方、ノモンハン事件の責任を問われて左遷されていた服部卓四郎は、昭和15年10月、参謀本部作戦班長に返り咲き、16年7月、作戦課長となった。服部は、南方作戦に研究実績のある辻の起用を上司の田中新一作戦部長に進言、辻も同月参謀本部戦力班長にカムバックしたのである。

シンガポール華僑虐殺事件

太平洋戦争開戦3ヵ月後のシンガポール占領直後、第二五軍(山下奉文司令官)の作戦主任参謀となった辻参謀はここでも勝手に“華僑粛清命令〟を出した。一八歳から五〇歳までの華僑・華人男子を何カ所かの指定場所に集めて、その中から「敵性華僑」「抗日分子」「共産主義者」「国民党員」やゲリラらを見分けて、トラックに乗せ海岸などに運び、機関銃で集団射殺したのである。この時、「建国の父」と呼ばれるリー・クァンユー(李光耀)前首相もこの虐殺寸前に一瞬のスキをついて逃げ出し生き残った一人であった。

シンガポール側の調査によると4万人以上、日本軍関係者によれば約5000人が虐殺された、という。

この時、辻参謀は、検問所やあちこちに現われ「何をぐずぐずしている、もっと能率よくやらんか、俺はシンガポールの人口を半分に減らすつもりだが、しっかりやれ!」とハッパをかけていたのを目撃、証言されている。

戦後、マニラで処刑される直前の山下奉文将軍は「あれは自分の意志に反し、辻参謀が勝手に手を下したようだ。辻参謀を探せばわかることだ。」「悪魔的作戦参謀辻政信―稀代の風雲児の罪と罰 (光人社NF文庫)2007年)と述べている。

バターン死の行進

本間雅晴中将の第十四軍はバターン半島に立てこもったマッカーサー軍を攻めあぐねた。辻は大本営派遣参謀として現地に飛び、バターン半島第二次攻略は4月9日に成功し米比軍は降伏した。この時も辻は敵捕虜処刑を主張、電話で各部隊に命令した、といわれる。

大江志乃夫「昭和の歴史③天皇の軍隊」小学館(1982年)によると、第六五旅団の歩兵第一四一連隊長の今井武夫大佐(30期)(元参謀本部支那課長)は次のように証言する。

「四月一〇日、別の参謀から電話で、バターン半島の米比軍高級指揮官キング少将は、咋九日正午降伏を申しでたが、日本軍はまだ全面的に承諾を与えていない。その結果、米比軍の投降者はまだ正式に捕虜として容認されていない。各部隊は手もとにいる米比軍投降者を、一律に射殺すべしとする命令を伝達する。貴部隊もこれを実行されたし」と辻参謀から口頭で命令があったと、電話で伝えてきた。

これに疑問を持った今井は「正規の筆記命令で伝達されたい」と要求し、口頭命令を無視した。ところが、口頭命令にしたがって多数の米比軍捕虜を殺害した部隊もあった、という。辻のこの独断専行の越権行為の責任は、何も知らなかった本間軍司令官がとらされ戦犯裁判で死刑となった。

ガダルカナル島(ガ島)の戦い

1942(昭和17)年8月、ガダルカナル島に米海兵第一師団が上陸して、米軍の反攻が開始されると、辻参謀は再び大本営派遣参謀として現地に飛んだ。「歩兵の銃剣突撃は日本国軍の精華で、敵はこれが一番怖い」、「積極果敢に断固戦え」—の持論をぶって夜襲攻撃を繰り返し、屍と餓死の山を築いた。

食糧、兵器の海軍の艦船、輸送船による補給が失敗したためで、艦船被害も予想以上だった。

辻参謀の「路傍にはからっぽの飯ごうを手にしたまま倒れたれた兵が腐って蛆がわいている」との戦況報告をだしている。結局、陸海軍とも互いに相手を非難攻撃して、2次、3次の戦力投入を繰り返し、連続敗戦するが、撤退の決断の先延ばしが続いた。

12月6日、田中新一作戦部長は、作戦継続のため船舶16万5千トンの増船を要求し、閣議が半減すると東条首相に向かって「馬鹿野郎!」と怒鳴って解任される事件も起きた。決断できずやっと大本営の撤退命令が下ったのは半年後の昭和18年1月4日である。

結局、送り込まれた三万の将兵中、敵兵火により倒れたれた者は約五千、餓死は約一万五千、救出された一万の兵力は、栄養失調、マラリア病で、ほとんどが餓死寸前の状態だった。

一方、米軍兵士の餓死者は全くなかった。大本営はこの作戦の大敗北を「撤退」ではなく,「転進」すると言い換えてウソの大本営発表し事実を覆い隠した。

こうした辻参謀の敗北戦の数々が太平洋戦争の帰趨を大きく左右したことは間違いない。

1945(昭和20)年8月15日。全面敗戦、無条件降伏の終戦。

ビルマ方面軍にいた辻は敗戦をタイ・バンコクで迎えた。一旦、自決を覚悟したが、「アジア諸国の民族独立運動をたすける」と心機一転した。黒眼鏡、白ヘルメットに白の上衣、黒のズボンをはいた南方華僑特有の服装に変装して、連合軍支配下のタイを脱出し、翌年6月には中国・重慶におもむき載笠、蒋介石に会い亡命に成功、国民党政権の国防部(蒋介石の特務機関)のポストを得る。国防部のボスの特務機関である軍統のボス、載笠とは旧知の仲だった。辻は日中連携を企図して数年間、東南アジアや中国大陸を潜行した。

1948(昭和23)年、奇跡的帰国を果たし、戦犯訴追を避けて国内に潜伏する。戦友のところ、寺院、右翼団体などを転々として偽名で炭鉱労働者となり炭鉱で働いていた。昭和24年には児玉誉士夫のところにも一時、潜伏した。

1950(昭和25)年には戦犯指定を逃れて、姿をあらわし潜伏中の記録「潜行三千里」「ビルマ戦記十五対一」を発表、一大ベストセラーとなって「辻ブーム」を起こした。

追放解除後の昭和27年には旧石川一区から衆議院議員に初当選、自由党、自民党、石橋派らに属しながら連続4回の衆議院議員に当選を果たした。

この間も辻の生来の陰謀癖、参謀癖が抜けず、各国を外遊、訪問し、エジプトのナセル、ユーゴーッスラビアのチトー、中国の周恩来、インドのネールら指導者と会見した。

昭和36年、参議院議員として東南アジア視察の旅に出て、北ベトナムでホー・チ・ミンと会見するためラオス入りし、4月21日を最後に消息を絶った。

その後、「消えた辻参謀」をめぐって各メディア、は追跡取材したが、行方はようとしてしれなかった。

9年後の「朝日新聞」は(1970年4月13日)は「ラオスの、パテート・ラーオ軍(共産党勢力)によってスパイ容疑でひそかに処刑されたのではないか」という情報を流した。今も、辻の最後はわかっていない。

辻は昭和陸軍の内部矛盾が生んだトリックスター

有馬哲夫『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』(新潮新書2010年)によると、CIAや米情報機関は「辻ファイルを」を作り、一貫して追跡調査をしていたが、「政治においても情報工作においても、辻の性格と経験のなさから無価値である」「機会があるならばためらいもせずに第3次世界大戦を起こすような男」(1954年のファイル)とのマトを得た低評価ぶりだった。

最近、「インテリジェンス」本が出版界をにぎわしている。米国の公開情報に1元的に依存した資料によって辻の無鉄砲な参謀行動パターン、謀略工作などインテリジェンスの欠如を過大に評価したり、また過小に評価するのは間違っている。

辻のパフォーマンスに惑わされてはいけない。辻は昭和陸軍の内部矛盾が生んだ鬼っ子であり、トリックスターである。グローバルな見識や科学的な思考力・精神の欠如、総合的なインテリジェンスは欠落し、怒号と蛮勇と無鉄砲の行動力にのみ凝り固まった道化師(ピエロ)である。

ただし、昭和の陸軍の中枢部門は辻ほど突出していないにしても、いずれもほぼ似たり寄ったりばかり。蛮勇はあっても、戦争の本質を知った大智、大勇の軍人は少なかった、大勢順応型ばかり。無統制、無責任体制の最大値としての日本軍の組織的欠陥、その中で下剋上した暗躍組が天皇ガラパゴス国家の「死に至る日本病」を招いたのである。

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