終戦70年・日本敗戦史(132)「大阪朝日」は軍部、在郷軍人会、 右翼などからの攻撃と不買運動を受けて、新聞部数が減少、社論を180度転換し、満州事変支持、満州独立論に賛成した
2015/08/13
終戦70年・日本敗戦史(132)
<世田谷市民大学2015> 戦後70年 7月24日 前坂俊之
◎『太平洋戦争と新聞報道を考える』
<日本はなぜ無謀な戦争をしたのか、
どこに問題があったのか、
500年の世界戦争史の中で考える>⑫
『軍部批判」の「大阪朝日」は軍部、在郷軍人会、 右翼などからの攻撃と不買運動を受けて、新聞部数が減少、社論を180度転換し、満州事変支持、満州独立論に賛成した
前坂 俊之(ジャーナリスト)
それには2つの理由が指摘できる。
まず、第一は国家の重大時に当たって新聞として軍部を支持し、国論の統一をはか るのは当然だとするナショナリズムである。
第二は不買運動である。
『大阪朝日』が軍部批判を行った結果、軍部、在郷軍人会、 右翼などから激しい反発をくらい不買運動が各地で起きた。
特に、関西では奈良で相当規模の不買運動が起こり『大阪朝日』をあわてさせた。 師団のあった香川県善通寺など軍都で特に不買運動が広がり、こうした落ち込みに 『大阪毎日』がチャンスとばかり拡張にくり込み、販売面で『大阪朝日』は苦境に立たされた。
いうまでもなく、編集と販売は新聞の両輪である。高邁な編集方針を貫くためにもそ れを支える販売力、経営の安定が欠かせない。販売部数が落ちれば、商業紙として 何よりもこたえる。
1・・『大阪朝日』へ不買運動が広がる
不買運動は『大阪朝日』の大きな打撃となった。その時の模様を当時の『大阪朝日』 整理部次長・大山千代雄は次のように回想している。
「大阪朝日全社内に満州事変を不満とする空気がみなぎっているものだから自然に 紙面にもにじみ出てくる。すると、小倉で新聞不買運動が起った。在郷軍人会が主と なって不買を決議した。
いろいろ朝日からも人を派遣して、了解を求めた結果、師団 長がこの決議を撤回するのに非常に骨を折ってくれた。それでも新聞の売れ行きは3万、5万と減っていった。下村海南(副社長)から『新聞 の売れ行きが減ることは重大な問題である。新聞経営の立場を考えてほしい』と苦情 が出たくらいだ」
結局、軍縮の先頭に立ち、軍部に歯に衣着せぬ批判を加えていた『大阪朝日』は 背に腹は変えられないと、主張を変えてしまう。一九三一(昭和六)年十月なかばの 重役会で「満州事変支持」に態度が決められたのである(9)。
この内幕について、ズバリの資料がある。当時の『朝日』の重役会について、大阪 憲兵隊が情報を収集して、マル秘として中央に報告していたものである。少し長くなる が全文を次に引用する(10)。
新聞が敗北していくきっかけとなった歴史的な資料である。
「大朝、大毎両社ノ時局二 対スル態度決定二関スル」(憲高秘第六五八号 1931年10月10日)であり、次のような内容である。
2・・憲兵隊のマル秘情報では
「大阪朝日新聞社ハ従来、社説其他二於テ国家財政経済的立場ヨリ常二軍縮論ヲ強 調シ、殊二、編集局長・高原操、論説委員タル調査部長藤田進一郎、経済部長・和田 信夫等ハ其ノ色彩最モ濃厚ナルモノトシテ注目シアリシカ、日支衝突事件ノ局面展開 シ国家重大時機ナルニ鑑ミ、
軍縮二対スル態度ハ暫ク措キ目下ノ時局二対スル方針 決定ノ為十月十二日午後一時ヨリ、同夜八時二亘ル間、同社重役会議ヲ開催シ取締 役副社長・下村宏、専務取締役・上野精一、取締役・村山長挙、取締役(編集局長)・ 高原操、同・辰井梅吉、同・原田棟一郎外主ナル各部等集合協議ノ結果、
大阪朝日 新聞社今後ノ方針トシテ軍備ノ縮少ヲ強調スルハ、従来ノ如クナルモ国家重大時ニ 処シ、日本国民トシテ軍部ヲ支持シ国論ノ統一ヲ図ルハ当然ノ事ニシテ、現在ノ軍部 及軍事行動二対シテハ絶対批難批判ヲ下サス極力之ヲ支持スヘキコトヲ決定。
翌十三日午前十一時ヨリ編集局各部ノ次長及主任級以下約三十名ヲ集メ、高原ヨリ 之ヲ示達、下村、辰井両取締役モ之ニ敷術説明ヲ加ヘタル由ニシテ、当時席上ニ於テ、
言論界トシテ外務省ノ如ク軍部二追随スル意向ナルヤ等ノ質問アリシモ高原ハ 之二対シ、現時急迫ナル場合、微々タルコトヲ論争スル時機ニアラスト一蹴セリ。
大朝ノ姉妹紙タル東京朝日ヲモ同様ノ方針ヲ執ラシムル為、下村副社長ハ十三日 上京ス」
これをみると、戦争と言う国家重大事に「軍部や軍事行動に対して絶対批難を下さない」という軍に徹底して従属する内容であったことが注目される。
この中にある13日の編集局各部次長の説明会の席上、「軍部二追随スル意向ナノ カ」と質問したのが大山であった。 高原は「それは質問ではない。議論である」とも逆襲した(11)、という。
しかし、依然としてその後も整理部内で事変への反対の空気が根強く、首脳部は、 整理部、支那部員と話し合いを続けた。この時も高原編集局長は「船乗りには『潮待ち』という言葉がある。遺憾ながら我々もしばらくの間、潮待ちをする(12)」と答えた。
しかし整理部の不満は一向におさまらず、会社側は1932(昭和七)年1月、整理部員の半数を入れ替えるという大異動に踏み切り、事変反対の空気を一掃した。
ただ、この大方針の決定、重役会での決定は、全社的に方針として打ち出され、社員 に徹底されたか、どうかは疑わしい。というのは当時、『大阪朝日』で駆け出しの経済記者をしていた
森恭三〈戦後主幹〉 は当時の模様をこう回想しているからだ。
「その頃の大阪朝日新聞社内の空気は関東軍にたいして批判的であるように私には 思えました。ところが、それがいつのまにか弱まっていった。社の方針が変ったのかどうか、私たち下っ端にはわかりませんでしたが、この時分から新聞の時流への妥協が 始まったのだと思います。当時、一口に軍部といっても、強硬論は関東軍だけで、東京の陸軍省や参謀本部 では、ともかくも事変不拡大方針でした。財界は事変勃発後、かなり長い期間、関東 軍にたいして批判的でした。
なぜなら、関東軍は『満蒙は我が国の生命線』と認識し、 後年の五・一五事件や二・二六事件につながるひとつのイデオロギーをもっていて 『満州に資本家は入るべからず』と公言していたからです。
そういう情勢を考えると、かりに大阪朝日新聞が『満州事変反対』の論陣を張ったと した場合、かならずしめ孤立無援ではなかったのではないか。 ところが、それをやらなかった。朝日の内部で、論説委員室や編集の部長会が、社運 を賭しても関東軍独走を批判し、事変に反対の姿勢をとれというような意見を出したという話を、私たちはついに聞かなかったし、また私たち若い記者がこの間題について 上部の説明を求める、ということもしませんでした(13)」
森は戦後、論説主幹となり、『朝日』の論説の中心となった人物である。
森の回想は 約半世紀たってからのものなので、どこまで正確さという点では、全面的に信頼でき ないかもしれない。 ただこの後でも『大阪朝日』は軍事行動に慎重であり、国際連盟脱退でも反対の立場 に立ったが、それらはあくまでも消極的な批判か、はっきりものを言わない沈黙にとど まっており、結局、軍部に屈伏し、最後には言論の自由の息の根を絶たれていったの である。
3・・高原社説180度転換のナゾ!-黒龍会・内田良平が恫喝、
ところで、最近重大な事実が明らかになった。高原社説の百八十度の転換、重役会での軍部への絶対支持決定の背景には驚くべき事実が隠されていた。
後藤孝夫『辛亥革命から満州事変へ――大阪朝日新聞と近代中国』(みすず書房で詳細に明らかにされているが、事変直後に右翼の総本山、黒龍会の内田良平から 旧知の調査部長・井上藤三郎を通じて、『大阪朝日』幹部への面会の申し入れがあっ た。
9月24日夜、大阪の料亭で井上は内田と会った。井上は『大阪朝日』に入社する前 に、黒龍会の機関誌編集にたずさわっており、同社内における右翼との折衝窓口で もあった。 この時の会談の内容は不明だが、翌25日の重役会では事変についての方針が協 議された。
この重役会には高齢のためそれまでほとんど顔をみせなかった村山龍平 社長が出席しており、重大な方針が決められたことをうかがわせる。
4・・ 軍部、右翼が一体で朝日を攻撃
この時の重役会の内容も不明だが、後藤は「内田が井上を通じて、『大阪朝日』の 姿勢を恫喝、脅迫した」とみる。 その結果、高原の満蒙放棄論への釈明書を本人が書いたのである。これは謝罪広 告に近いもので、東西両『朝日』に高原の名で掲載する予定であったが、美土路昌一 東京朝日編集局総務が「こんなものを出すと軍部に降伏したと物笑いになる」と掲載 に強く反対してストップとなった。
美土路は抗議をしていた参謀本部次長の二宮治重中将にかけあった。
二宮は「朝日は反軍の張本人だ」と美土路と激しくやり合い、二時間ほどの押問答 の末、結局今後は納得のゆくまで話し合おうということで了解し、謝罪広告は出さずにすんだ。
しかし、内田の直接行動をにおわせる恫喝に、高原も大阪朝日の編集幹 部も屈伏してしまった、と後藤は指摘する。
「時期が時期であり、大阪朝日としては単なる右翼の脅し文句以上の無気味なものを 感じざるを得なかったに相違ない」
右翼の巨頭としての内田の存在そのものとその背後には参謀本部のバックアップが あった。黒龍会はかつて白虹事件で村山社長を襲撃した実績がある。二宮や建川英 次参謀本部第二部長らは右翼団体を糾合して、新聞工作を行っていた。 軍部、右翼が一体化して攻撃を仕掛けてきたのである。 「大阪朝日を震駭させたのは、直接には軍部の威を借る内田の申入れである。暴力 に抗する方法なしというのが、村山社長変身の理由であろうが、いったん屈した以上<聖戦>への協力を阻む歯止めはもうありようがなかった(15)」状態になったのである。
満州事変への「木に竹をつぐ」ような180度の変化にはこのような恐るべき暴力、脅 迫が隠されていたのである。
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