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終戦70年・日本敗戦史(134)満州事変報道で、軍の圧力に屈し軍縮論を180度転換した「朝日」,強硬論を突っ走った『毎日』,敢然と「東洋経済新報」で批判し続けた石橋湛山

      2015/08/13

終戦70年・日本敗戦史(134)

<世田谷市民大学2015> 戦後70年  7月24日  前坂俊之 

◎『太平洋戦争と新聞報道を考える』

<日本はなぜ無謀な戦争をしたのか、

どこに問題があったのか、

500年の世界戦争史の中で考える>⑫

 日本を滅ぼすキーワードとなった「満蒙はわが国の生命線」ー関東軍が謀略によって

満州事変を起こした①

満州事変報道で、軍の圧力に屈し軍縮を180度転換した「朝日」、

強硬論を突っ走った『毎日』,敢然と「東洋経済新報」で批判し続けた石橋湛山

前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

『朝日』のライバル紙の『毎日』はどうであったか。

当時の『読売』はマイナーな新聞として、社会的な影響力では朝日、毎日にはかなわなかったので、ここでは比較しない。満州事変の前から戦争へ一歩一歩のめり込んで行く過程で、『朝日』 『毎日』 のどちらがより軍部や世論をあおったかといえば、それはいうまでもなく、『毎日』である。

「大阪毎日」が東京紙の『東京日々新聞』を買収して、東京で発行を続けてきたが、もともと『東日』は政府擁護の御用新聞としてスタートし、伊藤博文や伊東巳代治らの支援を受け、三菱財閥に買収されて加藤高明が社長に就任するが経営不振は打開されず、1911年『大阪毎日新聞』に買収された。そうした経緯があり、朝日と違って、政府擁護、軍部擁護の姿勢が強いのです。

満洲事変の前には「満蒙は我が国の生命線」という松岡洋右の主張を全面的にバックアップし、満州権益論の熱心な後援者になった。事変勃発と同時に時機到来とばかりいっそう力を入れた。毎日新聞大阪本社外信部長(1945年当時)で戦後、立命館大学教授になった前芝確三は「満州事変が起こったあと、社内の口の悪いのが自嘲的に『毎日新聞後援、関東軍主催、満州事変』 などと言っていました」 と述べているほどです。

 『東京日日』 の満州事変についての社説は次の通り。

九月二十日―「満州に交戦状態―日本は正当防衛」
二十三日 「満州事変の本質‐誤れる支那の抗議」
二十五日 「連盟の通告とわが声明」
二十六日 「第三者の批判の価値‐事件の真相が解っているか」
二十七日 「時局は極めて重大だ‐国民的覚悟を要す」

十月一日   「強硬あるのみ‐対支折衝の基調」
九日  「進退を決せよ‐無力な現内閣」
十日 「最終的対支抗議‐これ国民の声なり」
十三日 「第三者の容喙[ようかい]に惑うなかれー正義の立場」
十四日 「満州事件と政局‐在野党の消息」
十五日 「堂々たる我主張‐国論一致の表現」
二十日 「連盟は事情を正解せよ‐我国民は真剣」
二十三日 「撤兵は容易に出来ない」
二十四日 「無茶な決議案‐理事会の不誠意」
二十六日 「正義の国、日本‐非理なる理事会」
三十一日 「我国の覚悟‐今日の憂慮は誤りだ」

この社説の見出しの一覧を見ただけでも、満州事変に対する強硬姿勢がうかがわれます。今の若い人には満洲事変といっても、よくわからないかもしれませんが、満洲事変は関東軍の石原莞爾大佐が謀略によって仕組んだもので、満鉄の線路を爆破して、中国軍がやったものとウソの報告をして攻撃進軍したもので、その後も政府の不拡大方針を無視して戦線を一方的に拡大した戦争です。イラク戦争における、米軍、多国籍軍の一方的な攻撃を思い起こして、そのときのメディアの報道と比較しながら考えていただければ、この時の「東日」の主張がよくわかると思います。

事変勃発直後の20日の「満州に交戦状態」は異例の二段組みの社説で暴発した関東軍の行為を「迅速なる措置に対し、満腔の謝意を表し、(中略)出先き軍隊の応酬を以てむしろ支那のためにも大なる教訓であろうと信ずる」と関東軍の暴走を賞讃した。

「満州事変の本質」(九月二十三日)では「事変を拡大しない」という政府の不拡大方針に疑問を呈し、「日本はまさに支那のために、国威と利益を蹂躙された被害者」であると抗議した。二十五日朝刊第二面はトップで「満州事変、帝国中外に声明、『正当の権益擁護、軍事占領にあらず」(四段の見出し)で、大々的に、内閣の声明を報道した。

中国側が国際連盟へ提訴した結果、連盟理事会議長は日中両国代表に「各自の軍隊を直に撤退し得べき適当な手段」を探究しようと申し出たが、日本政府は拒否した。

「第三者の批判の価値」では、この拒否を「最も適当なる処置」「わが国民全体が満腔の共鳴を持っ」と評価し、第三者[国際連盟]は事変の真相がわかっていないと批判した。
「時局は極めて重大だ」(九月二十七日)では慎重な政府の態度を弱腰として叱咤し、強硬論をくり返し、ぬきさしならぬ方向へと駆り立てていったのです。

「これ、実に我が国民の上に下されたる日清日露戦争以来の一大試練であって、われ等は大声叱呼して、国民的大努力の発動を力説しなければならぬ。今にして、正義の主張をまげる如きことがあれば、我が帝国は侮りを外にうけるのみならず、国家の進展の如き思いも及ばざるところである」

『東京日日』の主張はさらにエスカレートし「強硬あるのみ」(十月一日)では、軍部と歩調を全く合わせ「支那の非違を改めしめ、わが権益を積極的に擁護すべき時期が、今日到来したのである。……

国民の忍耐は、今回の事件によってその限度を超えたのである。ここにおいて、国民の要求するところは、ただわが政府当局が強硬以て、時局の解決に当る以外にない。われ等は重ねて政府のあくまで強硬ならんことを切望する」とくり返した。

「不拡大方針」をとる政府に対しても、「進退を決せよ」(十月九日)で「今や国民の間には政府の無為無能に愛想を尽かさんとしている」と強く批判した。

「第三者の容喙に惑うなかれ」(十月十三日)では

「わが国民は実に満蒙生命線の確保か否かの危機に今直面している」と主張、国際連盟理事会での日中両国の主張に対しては「堂々たる我主張」(十月十五日)で、(支那の申し分は)盗人たけだけしいといいたい」と反論、わが国の芳沢代表の主張には「満腔の共鳴をなす」とともに「この上は挙国民同一心一体、結束一致の実を示す以外わが帝国の国威を維持し、利益を保護するの途はない」と訴えた。

「連盟は事情を正解せよ」(十月二十日)では

「日本国民は今日事情を知らざる第三者の机上の空理空論に耳を傾くべく……国際政治研究室の犠牲には断じてならない」。

十月二十四日、連盟理事会で日本側の主張は十三対一(日本のみ))で否決されたが、これに対して二段見出しの「正義の国、日本」(同二十六日)では「わが国の権益を泥土に委せんとする理事会の決議は、自主国日本の天賦の権利を奪わんとするもので、これを歴史に徹し、これを人類発達の跡に見て断じて正義ではない」といった具合で、権益擁護の強硬路線の主張は当時の新聞でも最右翼であった。

十月二十六日朝刊では、見開き二頁で、「守れ満蒙=帝国の生命線」の横見出しで特集記事を掲げた。中には「満蒙におけるわが特殊権益は日清日露の二大戦役を経て、十万の生命と数十億の国幣(こくど)の犠牲として獲得したもので、わが民族の血と汗の結晶」という歴史や満州事変の原因は「権益蹂躙と排日」であるとするなど、強硬論を突っ走ったのです。

こうした、関東軍の謀略による侵略行為の全面的な支持した論調にたいして、戦時中の 『毎日』の編集総長、代表取締役高田元三郎はこう述べています。

「満州事変に関しては非常に強硬論でした。領土的野心をもつのではなく、正当に保持していた経済的権益を守るので第三者の介入を許さぬというものでした。(中略)特に政治部を中心に開戦に至るまで 『毎日新聞』は新聞の論調の上で最右翼のような形でいましたので、責任は大きかったと思います」 と述べている。

満州事変への批判的言論ー東京帝国大学法学部教授・横田喜三郎の卓見

『朝日』『毎日』らの大新聞の追従的な報道とは一味違って、事態を冷静に見つめていた人物や新聞も少なくなかった。

東京帝国大学法学部教授・横田喜三郎は満州事変を「中国側が仕掛けたものであり、自衛力の行使である」とする政府の主張にはいち早く疑問を呈した。横田は「関東軍の謀略ではないのか」と事変の真相を見破っており、10月5日『帝国大学新聞』に「満州事変と国際連盟」という論文を発表しています。

「わずか数メートルの鉄道が破壊されたと伝えられる事件をきっかけとして、ほとんど南満州の
要地が日本の軍隊によって占領され、さらに軍部の独断で、朝鮮から国境をこえて出兵するというまでに事件が拡大した。
軍部は、最初から、まったく自衛のためやむを得ない行為であると主張した。しかし、厳正に公平に見て、はたして軍部のいっさいの行動が自衛権として説明されうるであろうか。鉄道破壊に基づく衝突から、僅に六時間内外のうちに、四百キロも北方を占領し、二百キロも南の営口を占領したことまで、はたして自衛のために止むを得ない行為であったといいうるであろうか。しかも、これらの占領は、ほとんど抵抗なくして行われたことを注意しなければならぬ。……
最初の衝突や北大宮の占領は自衛行為であるとしても、その後の行動までがすべて自衛権によって是認され得るかいなか、十分間題になり得る」

同帝大経済学部の経友会は10月に入って満州事変の連続講演会を行い、事変当事者の参謀本部の建川美次、政友会総務の森格らから話を聞いたが、同15日には反対論者として横田教授が招かれた。
横田教授は「不健全な挙国一致を排せ」と題して、さらに強い調子で満州事変を批判した。

「わたしは弁護人としてではなく、裁判官として論じてみたい。……連盟の勧告の〟事件の拡大を防止すべし〃というのは、もし日本が自衛の範囲に止まるものであればその必要はない。しかし、自衛の範囲に止まるやいなや?事件が起こる。数時間で営口を占領したのはなぜであるか?これらは新聞によれば、ほとんど無抵抗で占領した。軍部は満州における支那側の機先を制するためには、仕方がないというかも知れぬが、機先を制するために、国際法を躁欄してもよいか。 ……以後起こった事件が例の錦州事件である。

日本は、これをやはり自衛権で説明しているが……同日の新聞の報道によると、張学良の政府を承認せず、断固として排斥するとあるが、これは国際法上許すべからざる内政干渉である。いわんやこれを空中より投弾して、破壊せんとするにおいてや。……軍部が支那側が撃ったか諸衛したということはたんなる糊塗であって、偵察に行ったのなら、爆弾を持っていくはずがない」

こうした横田教授の批判に対して、右翼団体や右翼新聞『日本』から激しい非難、攻撃が加えられた。『日本』は十月三十日で、「世論に脅えて逃走した帝大の売国教授、毒筆の主、横田喜三郎上満へ、 当局糾弾の声喧し」「売国言論を引用、支那猛烈に逆宣伝、学府に巣食ふ国賊を葬れ、と憂国の士、極度に憤慨」の大見出しをつけ、横田教授を非難した。

いわく。「国内における紛争は一切水に流して、挙国一致を以て此の空前の大困難に当らねばならぬのであるにも拘わらず、国立帝大教授ともあろう公人が浅薄なる根拠と、明らかに不達の意図に立ってわが皇軍の行動へ奇怪なる云為を及ぼす事は許し難い反逆の大罪である」

横田教授の宅には「国賊」「売国奴」「不遥国賊、覚悟しろ」などの脅迫状や非難の手紙、ハガキが多数舞い込んだ。10月中旬、上海で開催された太平洋問題調査会に横田教授は出席、帰国する段階で、右翼の危害を警戒し、神戸の上陸を長崎に変更、帰京もしばらく見合わせた。

仙台の『河北新報』の批判ー「挙国一致内閣の正体」

 

事変の批判的な言論への圧迫は、これだけではなかった。10月14、5日の両日、仙台の『河北新報』は「挙国一致内閣の正体」という上下の連載を行った。事変によって若槻内閣は危うくなっており、軍部はこの機会に「満州問題を一気に解決しょうと挙国一致内閣を樹立せよ」と宣伝し、倒閣運動をはじめていた。

この内幕をズバリと暴露したもので、「秋風を立てられたこのごろの若槻内閣」(上)、「百鬼昼行の顔ぶれ、無力優柔不断の野党」(下)で、内容は次のようなものだった。

「陸軍に引きずられているような外交ではだめだ。陸軍を制し切れない首相の無能ぶりが外国の新聞辺りから笑われはじめた。政府もだらしないが、野党の政友会も無力というか、無能というかまるで仮死状態だ。そうしたところに挙国一致内閣説が出てきたのだ。ところがこの挙国一致内閣の実体はどうかというと軍閥が中心となって、これに政党が参加せよというのだ。事変以来軍閥は気をよくしている。見給え、三宅坂(陸軍のこと)が日本の国家を代表しているではないか。名は政党内閣でも実質は軍閥内閣である……」

この記事に軍部は激怒、仙台連隊司令官が県特高課員と憲兵を連れて河北新報本社に乗り込み、一力次郎社長に「軍を誹誘するものだ」とねじこんだ。筆者を明らかにするように迫り、『河北新報』 の不買運動を行うと脅した。

一力社長は「新聞記事は編集局長である私の全責任である」と要求を拒絶、南陸軍大臣あてに次のような確認書を出した。

「社屋は貧弱であるが、言論機関の城廓である。もし外部から暴力あらば、四百の社員一丸となって言論の自由を死守するであろう。しかも、大元帥陛下のご命令とあれば、いつ砲撃さるるも一向苦しからず。軍人軍属の不買同盟は読者の自由意思であるから絶対に配達するようなことはしない」

この気迫のこもった確認書に軍部も圧迫を止め、不買同盟も成立しなかった。

満蒙問題で正論を吐いた唯一の言論人・石橋湛山

『東洋経済新報』で一貫して「個人主義」「小日本主義」を唱えていた石橋湛山は満州事変勃発に際して、「近来の世相ただならず」と国の運命を危惧、満蒙放棄論の自説を勇気を持って主張し続けた。『朝日』『毎日』の態度や、満州事変直前まで軍縮を堅持していた『大阪朝日』の編集局長高原操と比べても、石橋の先見性と勇気、その一貫したブレない主張はひときわ光っている。

浜口首相が1930(昭和5年)11月に東京駅でテロにあい、幣原外相が首相代理となったが、翌年2月3日の衆院予算総会でロンドン軍縮条約の責任を天皇に帰したような発言を行い、大問題となり、議会では与野党の乱闘事件が起こる騒ぎとなった。

この時、石橋は「国を挙げて非合法化せんとす」(昭和6年2月14日号)を掲げ、議会だけではなく、社会全体が非合法化の傾向が著しい、と指摘。「過去の歴史にこれを観るに、総て社会の制度を固定し、柔軟性を失いたる時には、極って非合法暴力行為が盛行する」と「万機公論に決す」デモクラシーの必要性を強調した。

浜口内閣が倒れ、4月14日に第二次若槻内閣が発足したが、「近来の世相ただ事ならず」(同年4月18日号)では「世相はほとんど乱世に等しい」といい、「国はますます暴力的無道に陥る外はない。
世の中に道義を無視するほど怖いものはない。国民が理性に信頼を失えば何をなすか分らぬ。記者は、近来の世相を諦視して、誠に深憂に堪えない」と警告した。

石橋の時代への鋭い洞察力は「指導階級の陥れる絶大の危険思想」(同年5月2日号)にもあらわれている。

指導階級の無責任と勇気のなさを真正面から批判して、「我国の治者階級、指導階級の人々が、殆んど挙って、直面せる経済困難、社会不安に引きずられ『何うにかなるだろう』の頼なきイジけた慰めにかくれ、これを克服する積極的の計画と実行に従う勇気及熱誠を欠くことである。……この困難不安に対し『何とかなるさ』で、時運の回転を待つ態度を改めないならば、記者は深く恐れる。その結果は、必ず近き将来に、今より幾倍の大難を我国に招くに相違ないことを」とその後の運命を予言している。

「軍閥と血戦の覚悟」(同年7月4日号)では、若槻首相の軍縮路線を支持、「軍閥が男の信ずる国策に従順ならざる場合は、断然進退を賭して血戦せられんことを切望する。世論は必ず沸騰して若槻首相を支援するに相違ない」と言い切った。

そして、石橋の不安が的中して、満州事変が起きるや、「内閣の欲せざる事変の拡大。政府の責任頗る重大」(同年9月26日号)では、政府と軍部の不一致ぶりを「内閣が軍部の方針に屈し、其の引き回すままに従ったということだ。……内閣は亡びたに等しい」と批判した。

高原操が事変勃発によって主張を百八十度転換したのに対して、石橋は態度を変えず「満州問題解決の根本方針如何」(同年9月26日、10月10日号)で二回にわたり満蒙放棄論を展開した。
石橋はわが国の満蒙の特殊権益の確立は力で無理押ししても、中国民衆のナショナリズムによって不可能であることを事実に基づいて論証し、説得力があった。

満蒙問題の解決方法は中国の統一国家建設の要求をどう見るかにかかっているとし、中国の統一国家運動を力で破壊しても、再び悪い形で運動が起らないか。

自力を持ってたたきつぶすと旧ドイツ帝国の二の舞に陥らないか。
満蒙を放棄すれば果たしてわ国は亡ぶのか。そうではない。人口増は領土を広げても解決しないし、鉄、石炭の原料供給基地の確保という面も、平和の貿易で目的を達せられる。力づくの必要はない。
「満蒙は生命線」という国防上の主張はあたかも英国が国防上、対岸の大陸に領土が必要であるというのと、似ており、日本海で十分である。

―と当時、満蒙特殊権益の擁護一色にそめぬかれた国内世論で、これだけ堂々と説得力のある反対論を展開したものはなかった。石橋の驚くべき卓見であった。

「末曽有の外交失敗」(同年10月31日号)では、国際連盟理事会における対応の誤りを指摘、「非合法傾向、ますます深刻化せんとす」(同日号)では、

再び世の中の非合法的傾向に強い憂慮を示し、「今の我国は有史以来、稀に見る危機に立てることを断言する。しかもそれはに内政に於てのみならず、外交に於てまた然り。が、この外交の危機なるものも、其因って来る所を尋ぬれば、ひっきょう内政に対する国民の希望の喪失に根底する」と鋭く洞察していた。

勇気なきジャーナリストを叱る

こうした有史以来の危機に対して、新聞や学者、評論家らのジャーナーリズムが軍部を恐れ、時代になびく姿勢を批判、「真に国を愛する道―言論の自由を作興せよ」(同年11月14日号)では

日蓮上人が困難に対して、「我れ日本の柱とならん」と誓い、如何なる権力も恐れなかったことを引き合いに出して、警世の大社説を書いた。思わず身が引き締まる内容である。

「ある部分に対しては法規に依る言論圧迫もある。が記者は今日のわが国がかくも無残に言論の自由を失った最も大なる理由は、わが学者、評論家、識者に、あるいは新聞その他の言論機関の経営者に、自己の信ずる所をはばかる所なく述べ、国に尽すという勇気が六百五十年前の日蓮の有していた、それの百分の一もないことにあると考える。

それどころか、中には、わが国が、現在表面的世論に迎合さえして、心にもなき言論をなしつつある者も絶無ではないかに察せられる。……最近のわが国は、実に恐るべき非合法運動に、一歩を誤らば飛んでもない事態に立ち至らんとする危機に臨んでおる。

この狂潤を既倒にまわす方法は、若しありとせば、ただ自由なる言論の力のみだ。しかるにその自由なる言論が或力に圧伏せられて全く屏息したのでは国家の前途を如何せんである」

石橋の透徹した批判は十五年戦争の敗北と言論の屈服を見抜いていたのです。

(つづく)

 

 - 戦争報道

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