終戦70年・日本敗戦史(133) なぜ国際連盟を脱退し「世界の孤児」と化したのかー「満蒙の特殊権益」を死守するためで、 新聞は一致して脱退を支持した(1)
2015/08/13
終戦70年・日本敗戦史(133)
<世田谷市民大学2015> 戦後70年 7月24日 前坂俊之
◎『太平洋戦争と新聞報道を考える』
<日本はなぜ無謀な戦争をしたのか、
どこに問題があったのか、
500年の世界戦争史の中で考える>⑬
なぜ国際連盟を脱退し「世界の孤児」と化したのかー
日露戦争で「十万の生霊、二十億の国帑」を費やし獲得した
「満蒙の特殊権益」を死守するためで、
新聞は一致して脱退を支持した(1)
前坂 俊之(ジャーナリスト)
国際連盟脱退=新聞は一致して脱退を支持した(1)
国際連盟は第一次大戦後、戦勝国とドイツとの間で結ばれたべルサイユ講和条約(1919=大正八年)によって創設された。
国際連盟の目的はベルサイユ体制を維持することであり、戦勝国の決めた国境を守るのが最大の使命であった。この現状が維持されるかぎり、世界は平和であるが、破られると連盟の存在基盤が大きく揺らぐ。
国際連盟にとって、現状破壊はいわば死活問題でもあった。 そうしたなかで、日本は連盟創設時から、イギリス、フランス、イタリアと並んで常任理事国として大役を果たし、世界の平和に貢献していた。
ただし、連盟がどのような機関で、どのような役割を果たしているかについては肝心の外務省さえ、余り知らなかった。いわんや、市民レベルでは、どこか遠いところの自分たちには全く関係ない機関というぐらいの受け止め方であった。
1・・満州事変が国際連盟を直撃
満州事変が起きたのは、年に一回開かれる連盟の総会の真っ最中のことであった。
常任理事国である日本が国際平和、戦争を紛争解決の手段にしないという連盟の精神を土足で踏みにじったわけで、各国は寝耳に水と驚き一斉に非難した。
当時、『大阪毎日』ロンドン特派員の楠山義太郎は「平和を謳歌していた時、突然満州で暗雲がたちこめイナズマが起こり、ジュネーブに落雷したという感じです。ヨーロッパの人々は驚き、日本に対して非難ゴウゴウで現地の新聞を見るのがイヤになった」と回想する。
中国側は豊富な資料で日本側の謀略を暴き、各国の理解を得たのに対し、日本側は政府の対応が後手後手に回り、「不拡大方針」が関東軍の独走で次々に破られ、日本代表団の説明が結果的にはウソになったため、各国からますます非難が集中。「日本は信用できない。国際信義を守らない」と連盟内や現地での日本への空気は険悪の一途となった。「四面楚歌どころか五面六面楚歌」となり、日本は「非道畜生視」さえされたのであった。
これに対して日本の態度はどうだったのか。「満蒙の特殊権益」「わが国の生命線」の一点ばり。中国側の暴虐な態度に我慢をかさねてきたが、中国側の一発で満州事変がはじまったのだから、「正当防衛」であり、あくまで「自衛権の行使」だという論理であった。
しかし、満州事変が関東軍の仕掛けた謀略によって始められたことは、日本国内では強く秘匿されたが、連盟では中国側が証拠をあげて追及、日本は有効な反論ができず結局、「頭かくして尻かくさず」の状態だった。
結局、謀略による事変の発端、次々とエスカレートさせる軍事行動は国際連盟によって侵略行為と判定され、満州国も承認されなかったのはいわば当然であった。国際連盟脱退といえば一見勇ましいが、本質は連盟加盟国の全員一致した意見で、国際社会から日本は〝追放〟されたのである。当時、連盟理事会の日本代表になった佐藤尚武は両者のスレ違いぶりをこう指摘している。
2・・日本を滅ぼしたキーワード「満蒙はわが国の生命線」
「日本人の目には、国際連盟なるものは何か遠いジュネーブの辺地にあるヨーロッパ向きの機関であって、極東などにはとんと関係ないものと……。連盟はまた連盟で極東の問題などに全く無知識で、満州という特殊の地域における紛糾せる事情を研究したこともない連中が、単に規約一点ばりで、あたかも欧州の一地にでも起こった問題のごとく、取り扱わんとしたところに非常な無理を生じてきた」
国際社会から全員一致に近い状態で追放され、日本を滅ぼすキーワードとなったのが「満蒙はわが国の生命線」-という言葉である。
この言葉を最初に使ったのは松岡洋右である。松岡は1931(昭和六)年1月22日、第五十九議会本会議で政友会(当時の野党)を代表して幣原喜重郎外相に質問した。
そのなかで「満蒙問題は、私はこれは我国の存亡に係わる問題である、我が国民の生命線である」と述べ、幣原外交を批判した。これは一躍、流行語となった。その松岡が約二年後に国際連盟総会で脱退宣言をして退場するとは、何とも歴史の皮肉である。
中国での民族解放闘争の盛り上がりで、満鉄をはじめ、日本の満蒙の権益は風前の灯となり、関東軍、軍部は強い危機感を抱いた。
石原莞爾、板垣征四郎らの関東軍が謀略によって、満州事変を引き起こし、満州国を一挙に建国した背景には、こうした日清、日露戦争で列強と戦い「10万の生霊と20億のこくど国帑(国家財産)」をつぎ込んだ満蒙権益の歴史があった。
しかし、事変前には一般民衆には満蒙への認識などまるでなかったといっていい。新聞が軍部と一体となって、『満蒙生命線論』をキャンペーンした結果、認識が広まったのであり、出征の軍隊を鼓舞し、愛国心、排外熱を燃え上がらせたのも新聞メディアであった。
日本新聞協会は事変から二ヵ月後の11月14日に国際連盟や各国に対して「(満州事変は)単に日本の自衛権行使に関するもので、日本帝国の死活問題である。国運を賭しても、この死活問題に邁進せねばならぬ」との勇ましい声明書を送った。『朝日』も『毎日』も行動をともにした。『朝日』は11月17日の「連盟理事会へ要望」と題する社説で「連盟の日本撤兵要求は絶対に不可」と強硬論を展開、この社説を『ロンドンタイムス』『ニューヨークタイムス』にも打電した。
一方、『毎日』の本山彦一社長は米国、ハワード系紙のロイ・ハワードの要請により、満州事変の正当性をアメリカの25の新聞に発表し、愛国的精神を発拝、満州国建国、国際連盟脱退の先導役を務めた。
3・・〝新聞の帝国主義化″が鮮明化
この間の軍部、新聞、政府の関係をみると、軍部と新聞が一体となり、軍部は着々と既成事実をつくり、新聞は世論をあおり、軍部におもねながら二人三脚ですすみ、慎重論を唱えていた政府も既成事実の追認に追われニッチもサッチもゆかなくなるという構図が浮き彫りになる。
満州事変勃発から国際連盟脱退へ至る新聞と軍部の〝関係″について、『日本新聞年鑑』(一九三三年版)ではこう説明している。 「国家非常時における新聞の威力を最も痛切に感得したのは軍部である。満州事変前にはとかく新聞から毛嫌いされ、殊に自由主義の大新聞からはミリタリズムの時代逆行を嗤嘲されていた軍部も、一朝有事の秋に会するや、かつて満州放棄論を公唱した新聞をしてたちまち国粋主義の鼓吹者たらしめるだけの圧力を示した。
日本人の経営する新聞である以上、国民の愛国的熱情が高ぶればぶるほど、読者の要求、周囲の事情に引かれて、言論も報道も国家主義化し、帝国主義化するのが当然である」 メディアコントロール、情報操作の重要性に気づきアメとムチで新聞を支配して、世論誘導に成功した軍部が一枚上手であった。
陸軍には日露戦争の桜井忠温以来の「新聞班」があったが、これにならって海軍も「軍事普及部」を設置。総勢30人というスタッフで、世論指導に全力をあげたのである。国防思想の普及、非常時が声高に叫ばれ、〝新聞の帝国主義化″が鮮明となる。
いずれにしても、軍部と新聞の〝二人三脚″ぶりはいっそうすすみ、『新聞及新聞記者』(新聞研究所発行)1932(昭和七)年11月号の「軍部は言論界に斯く希望す」という特集で本間雅晴陸軍新聞班長はこう新聞に感謝した。
4・・新聞の絶大な協力ぶりに軍部は百点満点
「国際連盟総会が開かれることを予期せられる今日、国民は最悪の場合も予想して、十分腹をきめねばならぬ。(ただ、報道機関との関係)これ以上、よりよ美き情態を望まれない点まで到達して居るからである。全国民は言論機関の仲介により完全に政府を諒解し、特に軍部の誠意と努力とに対しては満幅の理解を持つに至った」軍部から、新聞の絶大な協力ぶりに百点満点を与えられたのである。
では、軍部がお墨つきを与えた新聞の報道とはいったいどんなものであったのか、具体的にみてみよう。満州事変後、中国側の提訴により、国際連盟理事会がリットン調査団を現地や日本に派遣したのは1932年2月のことである。イギリスのリットン卿を団長とする米、伊、仏、独の各国委員からなる調査団で約五ヵ月にわたって中国、満州、日本で調査を続けた。
リットン卿はインド・ベンガル州総督などを務めた経験があり、『朝日』は、「卿はインド統治に深い経験を有する人であるから東洋に関する識見も高いものと思われる。調査委員長として最も相応しい人であろう」と評した。 米代表はアメリカ陸軍きっての東洋通であるマッコイ将軍、仏代表はクローデル将軍、独はシュネ一博士らであった。
調査団は事務職員を合わせて総勢約40人で2月29日に東京に到着した。一行は芳沢謙吉外相、荒木貞夫陸相、大角岑生海相らと会い、満蒙に対するわが国の見解をただした。また、民間人では、3月5日に暗殺された三井合名理事長、団琢磨も歓迎主催者の一人であった。
5・・リットン調査団を無視して満州国の建設をいそぐ
リットン調査団は約3ヵ月半にわたって支那、満州を調査して再び7月3日、下関に海路到着、汽車で上京した。東京には約3週間滞在して、報告書の起草をいそいだ。この間、軍部はリットン調査団に対しても激しい敵意をもち、七三一部隊の生体実験に参加した高級軍医の証言では、リットン調査団の一行にコレラ菌をつけた果物を差し出して、密かに病気にして殺そうという恐るべき謀略を実行したが、失敗に終わったという。
軍部は満州国創設の既成事実作りを着々と実行した。その国際世論を無視した強引なやり方に批判が集中した。まず、リットン調査団の到着に合わせたように3月1日、清朝最後の皇帝薄儀を執政にして満州を中国から分離した。さらに、熱河作戦によって、当初の東北三省に熱河省も加えて満州国とした。五・一五事件で倒れた犬養首相の後継として斎藤実(海軍大将)が首班になったが、斎藤首相はこの段階で犬養内閣の方針を受け継ぎ、満州国を承認しなかった。
業を煮やした関東軍は6月8日、政府に「満州国」の即時承認を要求、政友会、民政会両党による「満州国」即時承認決議が衆議院本会議で同14日に可決された。リットン調査団や国際世論をあざ笑うかのように満州国建設が推し進められていった。
1932年7月、外務大臣には満鉄総裁だった内田康哉が就任した。内田は外交界の長老で、それまでに四度も外務大臣を務めていた。満州事変以来、軍部との一体化を強め、対満蒙強硬論者の筆頭でもあった。内田の主客転倒した〝焦土外交論もう一人の満蒙強硬論者の政友会、森格との間で、有名な〝焦土外交″問答が交わされた。8月25日の衆議院本会議で森烙が満州国承認論をぶち上げたのに対して、内田外相はさらに強い調子で、満蒙の権益を死守すると述べ、森格を驚かせた。
6・・内田外相の〝焦土外交論
内田外相はこう演説した。「満蒙の事件というものは、我が帝国にとってはいわゆる自衛権の発動に基づくものであります。……この間題のためにはいわゆる挙国一致、国を焦土にしても、この主張を徹することにおいては、一歩も譲らないという決心を持っておると言わねばならぬ」内田外相の決意の通り、満蒙を死守した結果、わが国は十五年戦争に突入、破滅し、焦土と化したが、内田の主客転倒した〝焦土外交論″にはさすがの森恰もびっくりして、次のようにクギを刺した。
「焦土にするような結末をもつにあらざれば、その目的を達することができないというような左様な事態を惹起させないように、事前において国民の目的とする所の手を講ずる所に外交の妙用があるのであります」
9月15目にわが国は「満州国」を承認し、日満議定書に調印した。内容は従来の日中間の条約、協定などによる日本の権益の尊重、日満共同防衛のための日本軍隊の駐屯を認める二ヵ条が柱であった。
この調印は明らかに、リットン報告書が公表される前の「満州国」承認の既成事実づくりに他ならなかった。国際連盟の態度を無視したこのようなガムシャラな手段は西欧に大きなショックを与え、連盟に対する挑戦としてますます激しい非難を浴びた。だが、国際的孤立化が一層深まる中で、関東軍の暴走はとどまることを知らなかった。一九三三年二月、熱河作戦が展開され、関東軍は支部での戦線を拡大していった。
7・・『毎日』は強力に連盟脱退キャンペーンを展開
『東日』『大毎』は軍部と一体となって強力に連盟脱退キャンペーンを推進した。『東京日日』は1932年3月29、30日に早々と「連盟脱退論」の社説を上、下二回にわたって掲げた。
「われ等は国際的団体からのゆえなき離脱を好まない。けれども、国家の盛衰、国民死活に関する問題において、付合のための付合に累せられることを最大の不幸とする。認識不足の小国を大多数とする19ヵ国連盟委員会の審議の如き、われ等はこれに小児の火遊びの如き不安を覚える。わが国は今や国家生存のために、世界の大道を直往まい進せねばならぬ境地に立たされている」
閣議でも、軍部のきびしい言論統制やこうした新聞の先走った『国際連盟脱退』キャンペーンが問題となった。1933(昭和八)年1月13日の閣議で高橋是清蔵相が荒木陸相を難詰した。荒木陸相が「世論、国論が云々……」と言ったのに対して高橋は「世論も国論も今日は全くありはしないじゃないか。何とか一つ軍部に不利益なことを言えば、直ぐ憲兵が来て剣をガチャガチャやったり、拳銃を向けたりして威嚇する。世論も国論も今日絶対にないじゃないか。言論の圧迫今日より酷いことはない」ときびしくやり合った。
また、2月1日の閣議でも高橋が「一体、近来まるで日本の外交を陸軍が引ずっていて新聞なんかにも、何とか言へぼ直ぐ脱退だとか、すぐ事々に外交に対して陸軍が声明したりなんかするが、一体なぜあんなことをするのか」と難詰したところ、荒木は「陸軍が宣伝するのじゃない」「新聞社が書くのであるからやむを得ない」と弁解した。
高橋はさらに「新聞社が書くのなら、なぜ止めないか、今日の陸軍の力を以てすれば訳けなく止め得る。要するに止めないことがけしからん」と陸相を責め、荒木は閉口した様子だったという。
この間答にあるように、陸軍の世論指導も巧妙を極めた。陸軍省調査班は1932年9月30日に「国内世論指導ニ関スル件」(秘密文書)を各軍、師団参謀長あてに通達した。国際連盟総会に向けての国内世論の指導で、リットン報告書が発表される10月2日から初旬、10月中旬、11月14日以後の理事会と3つの時期に分けて事細かく指示していた。
例えばリットン報告書発表直後は「感情宣伝のみに流れず、理論宣伝を主体とし、世論は国家行動より一歩先んじる必要があるので、従来の対満政策の遂行に向かって、世論が自然に湧出すように指導する」 10月中旬以降は「謀略時期」と定めて「総会に臨む各国の態度を決定する暗中模索、謀略陰謀掛引時機で、国民の決意を示し、国際政局に反映させることは最も必要なり」としていた。
さらに、「全期を通し言論機関の利用に努む」と指示していた。 このように連盟脱退の対外強硬姿勢の世論操作を新聞を通じて巧妙に行ったのである。各師団はこの方針に沿って講演会や展覧会を各地で行い、宣伝、決議を行い、大会の模様は新聞でニュースとして報道するように発表した。国際連盟脱退への世論づくりは見事に成功した。
「軍部ノ指導ナルコトハ極秘トシテ自然ニ此気運醸シタル如クス」との指導要領がついているものもあった。 その焦点のリットン報告書が日本政府で翻訳され正式に発表されたのは1932年10月2日午後9時のこと。
8・・毎日がリットン報告書を大スクープ
それに先立って1日午後。外務省が英語に堪能な書記官を一斉に動員して、必死で翻訳し出来上がった和文をタイプ印刷していた時、突然、街中に新聞号外の鈴が鳴り響いた。『東京日日』の大スクープであった。
タブロイド版の号外には「リットン報告の重要点。列国保障の下に満州を自治体とす。日支は新条約を締結し、ボイコットは禁止すべし」と大見出しが躍っていた。 驚いたのは外務省である。しかも、勧告の内容をほぼ正確にキャッチしており、非の打ちどころのない内容で歴史に残る大特ダネとなった。
このスクープをした、ロンドン特派員の楠山義太郎記者は同社から感謝状とともに金一封として1万円をもらった。当時、大学出の初任給が50円である。今の金額に直してみると、何と約3千万円というケタ外れの特ダネ賞であった。
そのリットン報告書の英文の原本は389頁にのぼる膨大なもので、邦訳は18万語。四百五十字詰め原稿にして420枚であった。この中で「満州国政権の出現は自発的運動の結果と認め得ぬ」と結論した。
第6章「満州国」に対して政府は猛烈に反発した。そこには、関東軍の暴走から満州国成立のカラクリがそのものズバリと指摘されていた。
9・・報告書に図星をさされて猛反発
「九月十八日より新国家建設にいたるまでの間、日本軍部がとり来りたる各種行政上の措置は、単に一時の軍事占領以外永久的の目的を抱けることを示せり。……独立運動はかくして日本軍隊の存在によってはじめて可能となれることは疑うの余地なし、その独立運動は本国における新政治運動と密接の連絡ある若干の日本軍人、及び文官の手によって事変後の満州問題解決方法として考案せられ組織せられ遂行せられたるものなり。
しかして、この目的のため彼等は若干の支那人の名を用い、また政権に不満を抱ける少数民族を利用せるものなり、また、日本参謀本部が当初より或は間もなくかかる独立運動の利用すべき所以を覚りたるべきことも明瞭にして……これなくしては新国家は不可能なりしと断ずべきものは日本軍の存在にして他は日本文武官憲の活動なり、かかるが故に満州における現政権は純一にして自発的なる独立運動の結果と見るを得ず」(『大阪朝日』7年10月3日号外)
正しく図星を指されて、政府は狼狽した。ただし、満州国がカイライ政権であり、満州事変を日本の侵略だとしたが、日本の満州における権益は認めて、日中間に満州に関する新しい条約を締結するよう勧告、妥協的結論となっていた。日本にとって決して一方的に不利な内容ではなかった。
しかし、政府は「徹頭徹尾偏見なり、無責任な断言黙視できぬ」と憤慨し「日本の正義的立場を曲解し、満州国の建国過程に対し日本の策謀あるが如き、不用意な言辞を弄し満州国の独立的存在を否定せんとする先入主をもって認識不足の叙述を行っている」と非難した。
(つづく)
<引用資料・参考文献>
(1)『回顧八十年』 佐藤尚武著 時事通信社 1963年4月刊 222P
(2)『現代日本外交史論』 内山正熊著 慶応通信 1971 年刊 145P
(3) 佐藤前掲書 265-266P
(4)『昭和の歴史④ 15 年戦争の開幕』江口圭一著 小学館 1982年 21P
(5)『古代オリエント史と私』 三笠宮崇仁著 学生社 1984年刊 16-17P
(6) 『太平洋戦争2 日中戦争1』歴史学研究会編 青木書店 1971 年 51P
(7)『西園寺公と政局』第二巻 原田熊雄述 岩波書店 1950年 429P
(8) 前掲3 巻 14P
(9)『資料日本現代史⑧満州事変と国民動員』功刀俊洋・藤原彰編 大月書店 1983年 218-219P
(10)前掲書
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