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終戦70年・日本敗戦史(131) 日本を滅ぼしたキーワード「満蒙はわが国の生命線」関東軍の下剋上、 謀略によって再び満州事変を起こした

      2015/08/13

終戦70年・日本敗戦史(131)

<世田谷市民大学2015> 戦後70年  7月24日  前坂俊之 

◎『太平洋戦争と新聞報道を考える』

<日本はなぜ無謀な戦争をしたのか、

どこに問題があったのか、

500年の世界戦争史の中で考える>⑪

 日本を滅ぼすキーワードとなった「満蒙はわが国の生命線」ー関東軍の下剋上、

謀略によって再び満州事変を起こした①

前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

 日本を滅ぼすキーワードとなった「満蒙はわが国の生命線」

①この言葉を最初に使ったのは松岡洋右で1931(昭和6)年1月の第五十九議会本会議で政友会(当時の野党)を代表して

「満蒙問題は、わが国の存亡に係わる問題である、わが国民の生命線で

ある」と幣原喜重郎外相に質問、幣原外交を批判した。これが一躍、流行語となる。

②松岡は約2年後に満州国建国が国際連盟総会で否決されると、脱退宣言をして退場する。

③中国の民族解放闘争の盛り上がりで、満鉄や日本の満蒙の権益は風前の灯となり、関東軍、軍部は強い危機感を抱いた。

④石原莞爾、板垣征四郎らの関東軍が謀略によって、満州事変をおこした

  のは、日清、日露戦争で「十万の英霊と二十億の国帑(こくど、国家の 

   )」をつぎ込んだ満蒙特殊権益の獲得した歴史があった

⑤これを死守する姿勢が15年戦争の発火点となった。

関東軍の下剋上ー謀略によって再び満州事変を起こした①

①日露戦争で得た「満州の特殊権益」を守るため、1931年(昭和6)9月18日夜、奉天郊外の柳条湖村で満鉄線路を爆破、これを張学良軍の仕業と称して軍事行動を起こした。板垣征四郎主任参謀、石原莞爾作戦参謀が中心で計画した。

②この事件の約3年前には関東軍・河上大作参謀による「張作霖爆殺事件」があったばかりで、すぐばれる幼稚な同一手口の謀略事件であり、日本軍のインテリジェンスのレベルの低さを物語っている。

③この背景には張学良が蒋介石の国民政府に合流、易幟して以来、満州でも帝国主義的利権の回収運動や日本商品排斥運動が激化した。

また大恐慌によって、満鉄の営業成績が悪化した。国民政府や張学良政権による満鉄包囲線(並行線)の建設計画が満鉄に脅威を与えた。31年7月の万宝山事件や8月に公表された中村大尉事件をきっかけに関東軍は侵攻の機会をうかがっていた。
④9月21日には朝鮮軍・司令官林銑十郎中将(後の首相)によって独断越境、戦火は南満州全体に拡大した。

事件勃発直後、不拡大方針をとった若槻礼次郎内閣も22日の閣議では、独断越境という統帥権干犯を追及せず、他の軍事行動とともに既成事実を追認、予算支出を承認した。24日には日本軍の軍事行動の正当性と今後の不拡大方針の声明を発表し、政府は事件を公認した。

関東軍の下剋上謀略によって再び満州事変を起こし傀儡国家満州5族協和)を建国

①関東軍は1931年10月の錦州爆撃、11月チチハルの占領、32年2月にはハルビンを占領、以後北満の主要都市を占領した。10月には「満蒙共和国統治大綱案」を作成、11月には天津に亡命中の清朝最後の皇帝溥儀を脱出させ、新国家の元首にする準備を進めた。

②32年3月1日、満洲国に在住する主な民族による「五族協和」(漢民族・朝鮮民族、満州民族、日本民族、蒙古民族)を掲げた満洲国建国宣言が行われ、9日溥儀が執政に就任したが、あくまで関東軍がその実権を握った傀儡国家である。

③中国によって、満州事変と満州国建国は国際連盟に提訴され、リットン調査団が派遣されていたが、日本はいずれも既成事実を次々につくって調査団に対抗したのであり、国際世論への挑戦でもあった。

④一方、中国では国民党と共産党が内戦中であり、一致して民族的危機に立ち向かえなかった。満州と国境を接していたソ連も国内建設を優先してお大恐慌の荒れ狂う英米も日本の侵略に宥和的であった。

 

『兵は凶器なり』 ⑧ 15年戦争と新聞メディア  -1926-1935-

謀略で起こされた満州事変とメディア①

前坂 俊之  (静岡県立大学国際関係学部名誉教授)

 

満州事変は1931(昭和六)年9月18日、中国の奉天北郊の柳条湖付近で満鉄の線 路の一部が爆破されたことに始まる。

当時、政府や軍部は中国側が仕掛けたといち早く公表したが、戦後になって東京裁判で関東軍の謀略であったことが明らかにされた。

関東軍の石原莞爾中佐が中心となって、板垣征四郎大佐と石原のコンビで強引に 進め、武力による「満州国」独立を計画、満州事変をその突破口としたのであった。

当時の関東軍参謀の花谷正少佐の証言『満州事変はこうして計画された(1)』による と――。

板垣、石原、花谷の三人で満蒙問題についての研究会を何度か持ち、昭和6年春 ごろ、柳条湖事件の計画を作成した。 同年6月には陸軍中央部の支那班長・根本博中佐、ロシア班長・橋本欣五郎中佐ら にも相談した。

 

関東軍部内でも秘密を厳守し、同志を選んで計画を打ち明け、爆破班などの実行分 担を決めて、着々と準備した。  満鉄爆破は9月28日に予定していた。

ところが、現地で金で買収した大陸浪人が酔 って大言壮語し、計画をしゃべり、弾薬や軍需品を集めているという情報がもれた。

・秘密計画がバレる。  

9月15日、現地の林久治郎奉天総領事は幣原外相に「関東軍が近く軍事行動を起こす」という機密電報を送った。

幣原外相は驚いて南次郎陸相に「若槻内閣の外交政 策を覆すもの。断じて黙過できない」と抗議した。

このため、軍中央は同日付で参謀本 部第一作戦部長の建川美次少将を満州に派遣した。 橋本はこの件を暗号電報に託して板垣へ急報した。

あわてた板垣、石原、花谷らは 急きょ16日夜に集まり、対策を協議し、結局18日夜に決行をくり上げた。

一方、建川は18日午後に奉天に到着した。その夜は料亭菊文で板垣、花谷らが接待した。

建川は「君らの事は半分バレた。中央は止めよという。自分の意見はうまくやるならやれ、駄目なら止めた方がよかろうというものだ」と話し、酔いつぶれて寝込んでしまった。

建川の口ぶりに板垣、花谷は軍中央は本気で止めようとしていない意向を察知し、 計画通りに実行した。建川自身はまさか、その夜やるとは思っていなかった、と回想 する。 河本末広中尉と部下数人が鉄道爆破に当たった。

爆破は満鉄のレールを列車が 通過不能にならないよう、あらかじめ計算し、被害を最小限度にとどめるため小型爆 薬を仕掛けた。

午前10時過ぎ、「ドーン」と大きな爆発音とともに満州事変は関東軍の謀略によっ て開始された。 以上が花谷証言である。

・・政府もすぐ関東軍の謀略と知る

幣原外相は19日朝、駒込の自宅で朝刊 を読んで初めて事変を知った。すぐ首相官 邸にかけつけ、若槻首相に外務省電報に より概要を報告、臨時閣議を召集するよう 申し出た。

林奉天総領事からも「支那側に破壊せられたりと伝へられる鉄道個所修理の為、 満鉄より線路工夫を派遣せるも、軍は現場に近寄らしめざる趣にて、今次の事件は 軍部の計画的行動に出てたるものと想像せらる」との極秘電報が届いた。

こうして「関東軍の謀略か!」という情報はすでに政府の知る所となった。 西園寺公の秘書の原田熊雄も19日朝、新聞で事実を知った瞬間、直感的に「いよ いよ、やったな」と思った。

原田はすぐ調査し「要するに、関東軍司令官が建川が持っていった陸軍大臣の親展を見ない内にかねての計画を実行させようということ(2)」らしいという真相を突き 止めた。

このように、事変勃発直後に真相の一部はすでに判明していた。新聞も一触即発の 危機にあることは事前につかんでいた。

十九日の臨時閣議で若槻首相は南陸相にただした。 「原因は支那兵がレールを破壊した正当防御であるか。もしそうではなく、日本軍の 陰謀的行為ならば我が国の世界における立場はどうするか(3)」

とクギを刺し、これ以 上、事件を拡大しないよう指示した。 幣原外相からの情報で軍部の暴走にブレーキをかけたのである。

しかし、関東軍は戦線を拡大

しかし、関東軍は奉天を占領し、戦線を次々に拡大していった。意を通じていた朝鮮軍は増援要請により、19日には飛行隊を出動させ、部隊を国境に向け派遣した。21 日、林銑十郎司令官は閣議の了承、天皇の命令を得ることなく、独断で部隊を越境させてしまった。

軍中央は「やむを得ない」と事後の大命降下を迫り、若槻首相も断固として「不拡大方針」を堅持せず、優柔不断で越境の経費支出を閣議で承認してしまった。

このような事態の推移の中で、新聞はどう報道したのか、みてみよう。

満州事変が勃発したのは正確には1931(昭和六)年9月18日午後 10 時 25 分で あった。

第一報の『電通報』が『大阪朝日』の本社に入電したのは約 4 時間後の 19 日 午前 2 時 20 分であった。 事変勃発は『電通(日本電報通信社)』の大スクープとなったが、現地から最も早く発信したのは『新聞 れんごう 聯合社』だった。

これが現地の軍部検閲に引っかかりストップしている間に『電通』の第 2 報が京城 をへて東京へ打電するという,う回作戦で『新聞聯合』から 2 時間後に打電しながら、 完全スクープとなった。

勃発の瞬間、現地の『朝日』奉天通信局長の武内文彬は入浴していた。

「ドーン」とガラス戸が破れ、家を揺るがす大音響がとどろき、次々に重砲の爆音、機関銃の銃声が響いた。電話のベルが鳴り、妻の「アナタ、電話です。国家の一大事だそうです。お風呂どころの騒ぎじゃないです」とのかけ声に、武内は裸のまま、飛び出し第一報を本社に打電した。 徹夜で勃発後 8 時間の間に計 118 通の至急電報を打ち、『朝日新聞』 開闢以来の記録を作った。

すぐ奉天通信局員の K 君が自動車でかけつけてきた。「イヨイヨやりよったネ」と話 しかけると、「とうとうやりましたネ」と K 君も顔を真っ赤にして興奮していた(4)。

一方、『東京朝日』の編集局に第一報が入ったのは整理部がちょうど市内版の大組 みを終って工場から編集局へ上がってきたばかりの時だった。

「奉天で日支軍衝突!」「原因は支那正規兵の満鉄線爆破……」「深夜の奉天市内は 今や砲声轟く戦火の巷となった……」という電報がいずれも至急電で飛び込んできた。

「編集局員は総立ちとなった。……この総立ちこそ国民総立ちの第一であった相違な い。はり出しのため主要地方通信局への速報、号外準備の動員など編集局の神経 は高圧電気を通した電線の如くになった(5)」という。

『東京朝日』の活動はこうした事件の速報だけではなかった。

「十九日には早くも編集局の論説委員会が開かれて、事件に対する正しい見解と態 度が決定された。 日露戦争以来の日本の建て前と正当な権益の擁護、新聞編集には単に日本国内の 読者のみを対象とせず、世界の世論を考慮に入れること――これが事変を中心とし ての我々の新聞製作の標識であった」 と当時の『東京朝日』社会部長・鈴木文史朗は書いている(6)。

さて、『大阪朝日』では第一報が入ると、すぐ同社航空部から、手配が発せられた。 午前八時四十分には、大阪城東練兵場にある格納庫から、コメット磯、プス・モス機2 機が特派記者と写真班を乗せて現地へ飛び立った。

『朝日』は当時、航空部に力を入れていた。社内に飛行機班を常設しており、コメット 機、プス・モス機(2機)、サルムソン機、義勇号の計5機を有しており、他社を圧倒し ていた。

この飛行班が文字通り〝空の新聞記者″として大活躍した。 20日にはコメット機が現地の生々しい写真を、京城から広島まで空輸し、その足で再 び京城に引っ返すなどピストン空輸。飛行機班の航空時間は計157時間13分にの ぼり、航空距離は2万3600キロにも及んだ。

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満州事変の謀略は現地を取材した大阪毎日の記者は直ちに見抜いた。

関東軍の謀略で起きた満州事変を新聞は当初、中国側から仕掛けられたもの

と報道した。確かに、戦後の東京裁判で初めて満州事変は関東軍によって引き起こされた真相が明らかにされた。新聞社(記者)は当時、事変の真相は知らなかったといわれるが、実際は、把握していたという証言がいくつかある。 たとえば、毎日の陸軍省担当・石橋恒喜記者の回想録「昭和の反乱」(高木書房、1975年)などでも1 週間後に陸軍幹部から関東軍が仕掛けたという情報を得ていたというし、現地に取材に行った毎日新聞門司支局員も真相を知って、バカバカしいので帰国した、とも書いている。

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池田一之著「記者たちの満州事変-日本ジャーナリズムの転回点」(人間の科学新社 2000年刊)によると、

『「大阪毎日」の門司支局野中成童記者が、九月二十二日満州に特派されて十月二日帰国し、友人にむかって、鉄道破壊は日本軍がみずから爆破して中国側の行為としたものらしく「其の真相を知るに及び馬鹿らしく、到底真面目に勤務すること能はざるを以て社命をまたず帰来」したと語った』(同書40P)

この出典は一九三一年十月九日の「憲兵情報」である。

憲高秘第612号

満州事変二特派セラレタル大阪毎日新聞記者ノ言動二関スル件 報告(通牒)

昭和6年10月9日憲兵司令官 参謀次長 二宮治重殿 外山豊造

主題ノ件左記報告(通牒) ス

門司市元清流瀧町一丁目

大阪毎日新聞門司支局

記者 野中成童

右者満州事変勃発ト共二大阪毎日新聞門司支局ヨリ特派セラレ九月二十二日門司発奉天、鉄嶺、鞍山、其他事件ノ中心地ニ勤務シ、十月二日帰門シタルカ満州事変二就キ友人等二対シ左ノ如キ言動ヲナシタル聞込ミアルヲ以テ注意中ナリ

  • 、満州事変二依り現地二派遣セラレ其ノ真相ヲ知ル二及ビ 馬鹿ラシク到底真面目二勤務スルコト能ハサリ以テ社命ヲマタス帰来セリ
  • 満州軍(関東軍=筆者注) ハ新聞班ノ外二 宣伝班ヲ組織シ極力日本新聞ヲ利用 有利ナル宣伝ヲ為スベク努メタリ
  • 鉄道破壊ノ如キハ日本軍力爆弾ヲ以テ 自ラ爆破シ支那側ノ行為ナリトシテ支那兵営ヲ占領シタルモノノ如シ
  • 要スルニ今回ノ満州事変ハ結局満州二於ケル支那人ノ邦人二対スル圧迫ハ事実ナルカ故二 之ヲ排撃スル意味二於テハ、日本軍ノ処置モ亦 己ムヲ得サル所ナリ云々 終
  • 陸軍大臣、陸軍次官、軍務局長、法務局長、軍事課長、新聞班長、参謀次長教育総監部本部長45-46P)
  • このように、現場に行った記者の何人かは知っていた。もちろん政府首脳も知っていた。ただ、どちらが先に攻撃したかという問題以前に、国民の意識の中に排外熱が高まり、『反中国』「中国を撃て」というムードが強くなっていた。これ自体は新聞が作り上げてきたものだが、それによって国民全体が戦争へと流されていった。<筆者(池田氏)の調査では 野中成童記者は「野中盛隆」であった。(同書)>

・大々的な取材網で戦争熱をあおる  

こうした強力な輸送手段によって、中国各地へ記者、カメラマンの特派員が次々に 送り込まれていった。その数は事変を通じて計22人に達した。内訳は、記者14人、 カメラマンは8人。記者の中には戦後、「天声人語」を担当、一躍名文家として有名に なる荒垣秀雄も入っていた。

『朝日』の圧倒的な資本力と機械力で、日支交戦の写真や記事の号外が次々に発行 されていった。号外は、2頁から多い時は4頁の付録となって発行され、事変が一段 落するまでに計11回に及んだのである。

これに加えて大付録も出した。9月22日の本紙には「満蒙早わかり」と題して地図 入りの一頁の平易な解説を添付した。

国際連盟に問題が持ち込まれてからは、国際連盟の本質や機構を説明した「国際関 係早わかり」(2頁)を9月27日に添付した。

映画上映、写真展もフルに動員された。事変と同時に、活動写真班が現地に派遣さ れ、奉天、長春、吉林その他の方面での軍の奮闘ぶりがフィルムにおさめられ、22 日には本社に空輸された。

早速、大阪朝日会館で、第2報、3報が到着のたびごとに大阪中之島公園などで封 切られた。事変のニュースもこれと前後して、大阪、神戸、京都、広島、名古屋、金沢、 高松、岡山、門司などで公開、大好評を博した。

このように一大取材体制を敷いて、刻一刻と事変の進展を速報し、号外を出しまくっ た。  満州事変について、『朝日』がどう報道したか、を知る貴重なデータが1932(昭和 6 七)年1月25日から、東京朝日新聞社5階で開かれた「東西朝日満州事変新聞展」で 展示された。

それによると、事変を扱った社説は54回。特電の回数もケタ外れにのぼった。普通 は一ヶ月50通から100通なのだが、事変発生の当日(9月19日)は162通で9月中 は360通、11月は525通で、事変発生から12月未までに何と3785通にのぼっ た。

これらの電報は奉天、北平(北京)、天津、山海関、錦州、営口、大連、新民屯、チチ ハル、昂々渓、兆南、四天街、ハルビン、長春、吉林などの十六ヶ所に配置された総 勢60人という特派員から打電された。60人 中、じつに43人は『大阪朝日』の特派員であった。

 

号外も連日、日によって朝夕刊で発行されており、9月11日より翌32年1月10日 までの間に、じつに131回、その大部分は一頁大の号外であった。

 

慰問金の総額は 38万円余。特派員の満州事変報告演説会は東日本で70回開かれ、60万人の聴衆 が詰めかけた。

満州事変のニュース映画を各地で上映する映画班の活動もすさまじく、公開個所1 501ヶ所、公開回数4002回、観衆は1000万人を記録した。  戦争という最大のニュースに対して、新聞が全精力を挙げて取材することは当然の ことである。

ただ、その大々的な報道が軍部の謀略によって次々に作り出した既成事 実を、結果的に追認していき、国民の軍国熱、戦争熱、中国への排外熱を大きくあお ったこともまた事実である。

 問題は社説である。

事変を自衛権の発動として全面擁護  事変後初の『大阪朝日』の社説は、20日の「日支兵の衝突、事態極めて重大」であ る。

この社説は高原の執筆で異例の2段組みで、関東軍の行動を自衛権の発動だとし て、全面的に擁護した。事態の推移がよくわからない段階なので、これはある程度や むを得ない。

「曲は彼れ(中国側)にあり、しかも数百名兵士の一団となっての所業なれば計画的 破壊行為とせねばならぬ。断じて許すべきでない。(中略) 7そもそも満鉄はわが半官半民の経営幹線なりといえども我国の利益のためのみに 存するものでない。世界交通路の幹線である。万国民の公益擁護のうえから、これが 破壊を企つものは寸尺の微といへども容赦はできない。 わが守備隊が直ちにこれを排撃手段に出たことは当然の緊急処置といわねばなら ぬ」

中国政府は21日に、事変を国際連盟へ提訴、アメリカにも不戦条約違反行為とし て訴えた。 これに対して、26日の社説「断じて他の容喙は無用、帝国政府の満州事変声明、 正当なる我権益擁護のみ」と題して、再び事変の正当性を強調した。

「その後、事態の急に応ずるため、満鉄沿線各地の支那兵営を占領し或は沿線を離 れた現地に兵を進めたけれども、これらはもとより在留民保護のため一時の急に備 えたものであって、己に一部は引揚げを了り……。

またこの事態に応じて朝鮮より数千名の増援隊を派遣したけれども、これも条約上 の規定守備の兵員補充であって、決して必要以上の増兵はやっていないのである」 「さらば帝国軍隊の行動は全く『正常なる権利の擁護のため』であって、決して局外者 よりかれこれ非難さるべきではないのである。……吾人の見解では連盟がもしこれ以 上に容喙するようのことあれば、それこそ必要以上に日本の国論を刺激し、却って実 際上益なき結果となるであろうことを断言して憚らない」

この中で独断専行の〝越境将軍〟林司令官の行動まであっさりと容認したのである。

9月29日の「連盟と満州事件」と題する社説では次のように書いている。

「そもそも今回の事変は、支那兵が満鉄を破壊し危害を我に加へたるに端を発し、我 軍は己むを得ざる緊急処置として自衛権の行使をなしたるものと解釈する以上、第二 の事態拡大防止も、第三の領土的野心のためでは絶対にないとも自ら証明されるの である。この三点が帝国政府の声明中に明記されてあることが国際連盟は勿論、外国の世論をして日本の行動を正当なりと諒解せしめるに至った所以である」

事変前とは断然異なり、強硬論に一転しており、軍事行動即支持のニュアンスが強 い。これが一挙にエスカレートする。

 ・大阪朝日・高原局長が180度転換し「満蒙の独立」を支持

『大阪朝日』10月1日の「満蒙の独立、成功せば極東平和の新保障」はそれまでの 『朝日』の主張を180度転換するものであった。

これは高原の論説であったが、事変前の軍部の満蒙独立論をはげしく批判していた 主張とは同じ人物かと思うほどの転向ぶりであった。

「されば東三省人民の現在の苦境を効うために各省に新政権をおこし、これを打って 一丸となし、一新独立国を建設することは、更に国際戦争の惨禍を逸れるゆえんであって、極東平和の基礎を一層強固にするものでなければならぬ。

吾人はこの意味に おいて、満州に独立国の生れ出ることについては歓迎こそすれ反対すべき理由はな いと信ずるものである」

「木に竹をついだ」ように満州事変前後で高原の論説は軍部批判から満州国独立の 容認へと百八十度急転回したのであった(7)。

10月16日の『大阪朝日』は第一面に大きな社告を掲載した。

「満州に駐屯の我軍将士を慰問、本社より一万円、慰問袋二万個を調製して贈る」と 題して次のように書いた。 「満州事変突発以来、満蒙における我が権益擁護と治安維持のため、重大任務に服しつつある満州駐屯軍の労苦は容易ならず、殊に秩序なき敗残兵、匪賊など随所に 出没して、在留同胞の生命財産を脅かし、甚しきは虐殺を行い、住家を焼毀する等暴 戻言語に絶す。我が軍はこれを厳戒排撃に努め、その犠牲はまた少からず……将士の労苦一層加 わるものあり、よって我が社は慰問の微意を表すため、金一万円を支出して2万個の 慰問袋を調製し、直ちにこれを現地に送る」

これと合わせて広く一般から慰問金を募集した。

これは爆発的な反響を呼び、当初締切日の11月5日までに3万円、11月17日、5 万円を突破、同29日には11万5千円、12月10日には25万円、23日には何と30 万円を超えた。 9 『大阪朝日』では、寄付者の名前、住所、金額を紙面に掲載したが、連日、大きなスペ ースを割き、ついには一頁の全面埋めるほどの寄付が殺到、国民の排外熱は大きく 盛り上がり、事変への熱狂的な共感、支持となってハネ返った。

新聞報道の過熱が国民へと伝播していったのである。 10月24日に、原田棟一郎取締役ら慰問班3人が慰問金、慰問袋を持って現地へ出 発した。

・関東軍司令官から村山龍平社長に感謝状  

こうした『朝日』の協力ぶりに、関東軍は感謝して、10月27日に、本庄繁関東軍司 令官から村山龍平大阪朝日社長に感謝状が贈られた。

「謹啓、今次の事変については終始熱誠なる御後援を辱う致居候のみならず、今回 また特に慰問使を御差遣下され、かつ出動将卒一同に対し、慰問品を御寄贈なし下 され候段、感謝に堪えず、ここに一同を代表して、厚く御礼申述べ候」

大々的に報道して既成事実を追認し、社説でも軍の行動を容認した上に、さらには 慰問金や、慰問袋まで贈るという、三位一体の協力ぶりが、関東軍からの感謝状となって現われたのである。

 

『大阪朝日』は事変約二ヵ月後の11月15日に「満蒙の正しい知識」(53頁)と題する 小冊子(非売品)を読者に配布した。

この小冊子の目的は「満州事変の本質、経過およびその反響を明かにし、満蒙問 題に対する正しい知識を与える」というもの。

興味深いのは、この小冊子の中で、「満州事変と大阪朝日新聞」と題して、同社の 事変への姿勢、報道ぶりを次のように書いていることだ。

「一朝国家有事の際に、わが大阪朝日新聞が巨然たる全社の総機関を動員して、そ の信ずるところの使命に向かって邁進するは、もとより当然のことでありますが、今回 の満州事変に際して、この信念のもとにまさに不断の努力をいたしつつあります。(中 略)  満州事変に対する大阪朝日新聞の態度は、あくまで国際正義の旗幟のもとに、邪 悪と非道とを排撃するにあるのはもちろんですが、新聞そのものとしては現代の新聞 機構をその頂点にまで働かせて、いかに迅速に、いかに完全に、いかに正確に報道 の任務を果すかにあります。 満州事変勃発以来、大阪朝日新聞が近代新聞史上に描きつつある条線、すなわち その業績はまたもって記録的なものであり得ると信じます」

事変勃発後の目ざましい報道ぶりは、近代新聞史上の記録であった。

以上の内容 を分析すると、

  • まず、記事としての大々的な報道である。連日の号外、写真ニュース、映画の上 映といった 大々的な報道で既成事実を次々に追認していき、結果として抜きさ しならない状況をつくる。
  • 次いで報道と並んで事業でも満州駐留軍への慰問金や朝鮮同胞救済のキャンペ ーンなどを多角的に行い、国民の事変への関心をいっそう盛り上げて、熱狂的 な世論づくりを行い、関東軍と国民とのパイプ役を果たす。
  • 報道ばかりでなく、客観的、冷静であるべき社説でも軍の行動を無条件に容認 し、政府を苦境に陥し入れる。  こうした三位一体の協力ぶりで、逆に言論統制への道を開き、自らの首をしめる結 果を招いたのである。

荒木貞夫陸軍大臣はそれまでと打って変わった新聞の絶大な 協力ぶりに感謝して、こう述べた。

「今次の満州事変を観るに、各新聞が満蒙の重大性を経とし、皇道の精神を緯とし、 能く、国民的世論を内に統制し外に顕揚したることは、日露戦争以来稀に見る壮観で あって我が国の新聞及び新聞人の芳勲偉功は洵に特筆に値すものがある」

 さて、ここで問題になるのは『大阪朝日』の高原社説は満州事変を契機になぜ「木に 竹をついだ」ような転換が行われたのかということである。

もともと『大阪朝日』は伝統 的に自由主義の色彩が強く、軍部批判は他紙以上にきびしかった。それがなぜ、唐 突に転換したのか。 11 その裏には驚くべき事実が隠されていた。

(つづく)

<引用文献>

  • 「別冊知性」1956 年 12 月号
  • 『西園寺公と政局』第2巻原田熊雄述 岩波書店1950年11月 62P
  • 「同上』 同 P
  • 『満州・上海事変全記』朝日新聞社編 朝日新聞社1932年4月 365-368頁
  • 『同上』 1-2P
  • 『同上』 2-3P
  • 『辛亥革命から満州事変へ一大阪朝日新聞と近代中国』後藤孝夫 みすず書房1987 年9月 376-380頁
  • 『新聞及新聞記者』1932年2月号

http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/maesaka.html

 

 

 - 戦争報道

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    2013/04/03 &nbsp …

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『リーダーシップの日本近現代史』(311)★『中国紙『申報』からみた『日中韓150年戦争史』㉞ 『自立』したのは『中国』か、小国「日本」か」<1889(明治22)4月6日の『申報』☆『日本は東洋の一小国で.その大きさは中国の省の1っほど。明治維新以後、過去の政府の腐敗を正し.西洋と通商し.西洋の制度で衣服から制度に至るまですべてを西洋化した。この日本のやり方を,笑う者はいても気にかける者はいなかった』

    2014/08/11 /中国紙『申報』から …

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村田久芳の文芸評論『安岡章太郎論」③ 「海辺の光景へ、海辺の光景から』

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『リーダーシップの日本近現代史』(9)記事再録/ 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』 ⑫『福島安正のインテリジェンスが日清,日露戦争の勝利の主因①わが国初の国防書「隣邦兵備略」を刊行、清国の新海軍建設情報 を入手、朝鮮を属国化し大院君を強引に連れ去った

    2015/12/03 &nbsp …

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『中国紙『申報』からみた『日中韓150年戦争史』 ㊾ 「日清戦争開戦10日前)『中国が朝鮮問題のため日本と一戦交えざるを得ないことを諭ず』

    『中国紙『申報』からみた『日中韓150年戦争史』 日中韓のパーセプション …

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『リーダーシップの日本近現代史』(153)再録/『昭和戦前の大アジア主義団体/玄洋社総帥・頭山満を研究せずして日本の近代史のナゾは解けないよ』の日本リーダーパワー史(71) 『インド独立運動を助けた頭山満 運動翁<ジャパン・タイムス(頭山翁号特集記事)>

日本リーダーパワー史(71) 辛亥革命百年⑫インド独立を助けた頭山満 &nbsp …

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「日中韓150年戦争史」(69)ー「日清戦争の展開」新たな世界的強国(日本)の出現に深い危惧」(ロシア紙)

『「申報」『外紙」からみた「日中韓150年戦争史」 日中韓のパーセプションギャッ …

『Z世代のための 欧州連合(EU)誕生のルーツ研究』 欧州連合(EU)の生みの親の親は明治の日本女性、クーデンホーフ光子①』★『「EUの父」といわれるのが一九二三年、「汎ヨーロッパ構想」(EUの前身)を提唱したリヒアルト・クーデンホーフ・カレルギーで、クーデンホーフ光子の二男である』

和史電子図書館(著作権フリー) 2015/11/25   『 …

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「国難日本史の歴史復習問題」ー「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、インテリジェンス⑥」◎「ロシアの無法に対し開戦準備を始めた陸軍参謀本部の対応』★『決心が一日おくれれば、一日の不利になる』

  「国難日本史の復習問題」 「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリー …

『オンライン講座/日本興亡史の研究 ⑳』★『上海でロシア情報を収集し、日本海海戦でバルチック艦隊を偵察・発見させた三井物産上海支店長、その後、政治家となった山本条太郎の活躍②』★『山本条太郎の日露戦争時代の活躍―上海の重要性』 

2011/12/17  日本リーダーパワー史(225)<坂の上の雲・日 …