終戦70年・日本敗戦史(93)『大東亜戦争とメディアー戦争で最初の犠牲者はメディア(検閲)である』
2015/06/21
終戦70年・日本敗戦史(93)
『大東亜戦争とメディアー戦争での最初の犠牲者は
メディア(検閲)である』①
市民、メディアの言論・表現・出版・発言の自由
と権利がない国はGDPがいくら大きくても、
衰退、滅亡していくのが興亡の歴史
法則である。戦前の大日本帝国、現在の中国、
北朝鮮の将来もこの法則から逃れ
ることはできない。
前坂俊之(ジャーナリスト)
近代民主社会での市民の基本的人権は自由で平等な生存権、言論・表現の自由、政治参加の選挙権などである。
明治以来約150年たつが、明治から大正、昭和戦前、大東亜戦争敗戦(1945年)までの約80年間は国民と新聞、メディアの「言論・表現の自由」は厳しく制限し政府は新聞、出版物の検閲、発売禁止措置を行っていた。
15年戦争になると新聞記事は20近い言論統制法規でがんじがらめにされて自由な記事は書くことができなり「メディア死んだ日」となった。
戦争に負けた結果、「言論・表現・メディアの自由な国」(アメリカ合衆国憲法第一条は「言論の自由である)によって、今のような「完全な言論・表現の自由」が与えられたのである。このことを忘れてはならない。
われわれは今、「言論の自由」を、ごく当たり前のことと思っている。 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(憲法21 条1項)、「検閲は、これをしてはならない」(同2項)という日本国憲法の条文を、わざ わざ引き合いに出すまでもなく、当然と受け止めている。
しかし、1945(昭和20)年8月の敗戦まではそうではなかった。それ以後の連合軍 による占領期間中も、言論の自由は制限されていた。 明治以来、メディアに対する検閲制度は昭和の敗戦まで約80年間続いた。現行憲 法でわざわざ検閲禁止の規定が盛り込まれているのは、この検閲の歴史の反省が 込められている点を忘れてはならない。
検閲は表現の自由への公権力の規制の形式的、方法的問題であり、たんに文章や 表現をチェック、削除する狭い範囲で考察するのではなく、広く言論統制、情報操作 の一側面としてとらえることが必要である。 この「メディアと検閲」 の章では、そうした観点から、主に日本でのメディアと検閲の 歴史的な関係について触れたい。
1 言論の自由と検閲制度・ミルトンらで言論の自由の確立へ
秦の始皇帝(紀元前259-210年)の「焚書坑儒」を引き合いに出すまでもなく、歴 史のなかであらゆる政治権力は、自らと対立する都合の悪い言論、思想を抑圧、弾 圧の対象としてきた。 ギリシャ、ローマ時代はいうにおよばず、中世キリスト教の異端審問など、言論の抑 圧が続いた。一五世紀の活版印刷の発明がエポックとなって、大量印刷や伝達が可 能となり、マスメディアが生まれ、これを抑圧する手段としての検閲も一層、組織化、 制度化され、近代検閲が生まれた。
大量に、スピーディに、安く印刷できる革命的な活版印刷の発明は、異端の広がりに 厳重に目を光らせていたローマ教皇庁に衝撃を与えた。 2 グーテンベルクが活版印刷を発明したドイツ・マインツで、大僧正ベルトルドが1486 年に出版物を取り締まるため検問所を設けたが、これがいわゆる「検閲制度」のはじ まりである。 活版印刷の発明は中世ヨーロッパの宗教社会の内部から宗教対立を激化させる要 因となり、宗教改革を生み、ついには市民社会の誕生の契機となったのである。 1501年には、ローマ教皇アレキサンダー六世が出版の許可主義をとった。さらに1542 年には、ローマ教皇パウロ三世がカトリックに反対する出版物に対して、異端審問 所の許可をとっていないものについては発行、流布を禁止した。
言論、出版の自由の歴史はこうした検閲制度との不断の戦いの歴史であり、その上 に勝ちとられたものであった。 イギリスでは1586年に星室庁(当時の最高司法機関)が印刷条例をつくり、検閲を 実施したが、これは後に長期議会に引き継がれて、1643年に検閲条例が定められ た。
封建主義、絶対主義社会の象徴としての検閲に対して、言論、出版の自由の要求が 生まれてくるが、その先駆者がミルトン(1608―74年)である。 ミルトンは『アレオパジテイカ』(許可なくして印刷する自由のためにイギリス議会に訴 えるパンフレット)で
「……真理と虚偽とを組打ちさせよ。自由な公開の勝負で真理が負けたためしを誰が 知るか」、「他のすべての自由以上に、知り、発表し、良心に従って自由に論議する自 由を我にあたえよ」と書き、言論の自由を強く訴えた。(内川芳美「新聞の自由の歴 史」稲葉三千男・新井直之編著『新版新聞学』日本評論社、1988年、40頁)。
ミルトンは検閲条例をきびしく批判し、思想は抑圧されず自由に公開、競争される「思 想の自由市場理論」と、そうすれば人間の正邪を判断できる理性によって、真理が必 ず勝ち残るという「真理の自働調整作用」を唱えた。 こうしたミルトンらによって、イギリスで特許検閲法が廃止されたのは名誉革命後の1 695年のことであり、新聞、出版の自由が制度的に確立されていった。
2 徳川時代の検閲制度
一方、日本ではどうであったのだろうか。徳川時代中期から出版業が盛んになってく るが、幕府は1630(寛永7)年にキリシタン関係書の売買、閲読の禁止に乗り出した。 1649(慶安2)年には、大坂の書店・西村伝兵衛が出版した『古状揃』のなかに「家 康表裏之侍太閤忘厚恩」という徳川家康を誹語する文句があったことから、幕府はこ の書物を没収、絶版の処分にし、伝兵衛は斬首の刑となった。 新開の前身である「読売瓦版」に対しては貞享、元禄年間の禁令をみると、検閲がおこなわれていた事実がみられる。
1722(享保7)年には、出版に関するはじめての成文法といってよい『町触れ』(現在 の法律)が出された。 内容は猥褒や異説を唱えるもの、徳川家の事蹟に関する記事について禁止したほ か、板本の奥づけに作者と板元名を記すことを定めたものであった。 このように、すでに江戸時代からはじまった出版物取り締まりの基本的な考え方は、 明治になっても踏襲された。
3 明治の新聞の誕生と言論恐怖時代の幕開け
ところで、日本での新聞の始まりは幕末の翻訳新聞、外字新聞である。 幕府の洋書調所にいた洋学者たちの翻訳によって新聞づくりがはじまった。当時は 新聞、雑誌の区別はなく、この洋書調所から雑誌も翻訳雑誌として生まれた。
当初、このように幕臣による新聞が多かったため、鳥羽伏見の戦い(1868年)、江 戸への薩長軍の進軍に対しては佐幕派の新聞が多数発行され、官軍を攻撃する記 事や虚偽の報道、風説を流し、幕府の味方をした。 柳河春三「中外新聞」、福地源一郎「江湖新聞」、岸田吟香「もしほ草」など多くの〝 佐幕派新聞″に対して、明治政府は、はじめて言論弾圧に乗り出した。 1869(明治2)年2月、政府はわが国で最初の新聞紙法である「新聞紙印行条例」を 発布した。
発行を許可制にし、編集者の責任を定め、政治評論を禁止するなどの内容であった。 1874(明治7)年1月、江藤新平、板垣退助、後藤象二郎らが『民撰議院設立建白 書』を提出したことから、自由民権運動がまたたく間に全国に広がった。 新聞はこれを支持する民権派が多数を占め、そのなかで急進派と漸進派に分かれ、 これに反対の立場の官権派が入り乱れて激しい論戦を展開し、〝言論の黄金時代〟 を迎えた。
言論界では急進的民権派が圧倒的多数を占め、反政府運動と化したため、政府は1 875(明治8)年6月に「新聞紙印行条例」を大改定した「新聞紙条例」と、新たに「讒 謗律」をセットで公布した。
4 讒謗律は名誉毀損罪と政治的誹謗罪
が一緒になったような法律で、天皇、皇族、官 吏に対する誹謗を防ぐというねらいだが、実際は反体制的言論を規制し、弾圧するの が目的であった。
言論界にとってこの両法は正に青天の霹靂であり、一大ショックを与えた。 まず「曙新聞」の末広鉄腸が、これに触れて罰金20円、禁獄 3 ヵ月に処せられたのを はじめ、各社の記者が続々と処罰され、獄中は新聞記者や編集者であふれかえる事 態となった。 宮武外骨の調査によると、5年間でこの両法によって記者、編集者約200人が禁獄 されるという〝一大言論恐怖時代″を現出した。
しかし、これでも自由民権連動の大きなうねりを止めることはできず、逆に高まる一方 であった。 このため、翌76(明治9)年に政府は「国安ヲ妨害スト認メラルル者ハ、内務省二於 テ、ソノ発行ヲ禁止又ハ停止スヘシ」という太政官布告を出した。
この規定が「安寧秩序ヲ妨害」したものに対して「発売頒布禁止権」を行使するという 出版警察の中核的な行政処分権となり、敗戦までの約七〇年間にわたり言論の自由 の生殺与奪となったのである。[奥平、一九八三、137-138頁]。
さらに、明治政府は帝国憲法の発布(1889年2月)に照準を合わせ、1887(明治2 0)年に「新聞紙条例」、「出版条例」を改定し、取締法規を整備、強化した。
新聞紙条例では内務大臣の発行禁停止権、保証金制度、陸海軍両大臣の記事差止 権、その他掲載禁止事項などが定められ、一方、出版条例では発行10日前に製本3 部を内務省に届け出ることが義務づけられた。
5 1889(明治22)年2月発布の帝国憲法では、
「言論の自由」については「法律ノ範 囲内ニ於テ言論、著作、印行、集会、及結社ノ自由ヲ有ス」(第29条)とされ、「新聞紙 条例」、「出版条例」、「保安条例」、「集会条例」の4つの言論統制法の範囲内での制 限つきの言論の自由しか認められなかった。
労働運動、社会主義運動が高まった1900(明治33)年2月、片山潜、安部磯雄らに よって「社会主義研究会」が発足した。政府は集会、結社の取締法の集大成である 「治安警察法」を制定して、きびしい取り締まりに当たり、翌年5月に片山、安部、幸徳 秋水ら6人で結成された「社会民主党」は、即日解散となった。
1903(明治33)年2月、日本で初の社会主義新聞「平民新聞」(週刊)が幸徳、堺利 彦、西川光二郎らによって創刊された。日露戦争に対して非戦論を主張した同紙は 官憲によってきびしい弾圧を受けた。同20号の幸徳の「鳴呼増税」が新聞紙条例に 違反、発禁が相次ぎ、創刊一周年記念号に『共産党宣言』が翻訳掲載され、再び発禁となり、3人は起訴され、有罪となり1905(明治38)年1月に64号で廃刊に追い込まれた。
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