片野勧の衝撃レポート(56)戦後70年-原発と国家<1941-45>封印された核の真実①幻に終わった「日の丸原爆」(上)
2015/06/17
片野勧の衝撃レポート(56)
戦後70年-原発と国家<1941~45>
封印された核の真実①
幻に終わった「日の丸原爆」(上)
片野勧(ジャーナリスト)
原爆投下で広島約14万人、長崎約10万人が死亡
1945年8月6日午前8時15分。米軍のB29「エノラ・ゲイ」が広島にウラニウム原爆を投下し、市街地が焼き尽くされた。次いで3日後の8月9日、長崎上空でプルトニウム原爆がさく裂した。この2発の原爆投下で広島約14万人、長崎約10万人が死亡した。
米軍による2発の爆弾は歴史を大きく変えた。広島の「リトルボーイ(ちびっこ)」と長崎の「ファットマン(太っちょ)」――。その蛮行は人類史に刻印されなければならない。かたや大日本帝国も原爆開発を進めていた。陸軍は理化学研究所に、海軍は京都帝国大学に委嘱して、魔の殺戮兵器を開発していたのだ。
仁科芳雄博士の「ニ号研究」
日本の原爆開発のスタートは陸軍の航空技術研究所長、安田武雄中将が理化学研究所長、大河内正敏に「原爆の研究」(ウランによる核エネルギー研究)を依頼した時と言われている。昭和16年(1941)4月である。大河内所長は、この研究を理研の仁科芳雄博士に担当させた。航技研と理研の橋渡し役は鈴木辰三郎中佐だった。
しかし、日本の原爆開発が本格化したのは昭和18年(1943)7月に発足した「物理懇話会」からである。委員長に仁科博士が就任。この原爆研究は仁科博士の「ニシナ」の頭文字(カタカナの「ニ」)をとって「ニ号研究」の暗号名で呼ばれた。
仁科は1918年、東京帝国大学を首席で卒業した後、理研に入所。1921年から7年間、ヨーロッパに留学した。留学中、イギリスのケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所で原子核物理学の創始者ラザフォードの下で短期間過ごした後、量子力学の中心人物だったデンマークのニールス・ボーアの研究所で長く研究生活を送った。
帰国後は京都帝国大学などで日本初の量子力学の講義を行い、当時、京都帝大の学生だった湯川秀樹や朝永振一郎などに大きな影響を与えた。ボーアやハイゼンベルク、ディラックなど世界的な量子力学の立役者たちを日本に招いたのも仁科だった。
当時、日本の総発電量の10分の1を注ぎ込まなければ必要量のウラン235を取り出すことはできないと言われていた。しかし、陸軍はウランの兵器化の可能性大と認定し、東京・国分寺市にあった陸軍第八技術研究所(所長・田村宣武少将)に対し、兵器行政本部令として本格的にウラン鉱石の獲得に乗り出した。
進まないウラン235の分離・濃縮作業
仁科研究グループは大雑把に分けると、A、サイクロトロンの原子核グループ。B、宇宙線グループ。C、理論のグループ。D、放射線の生物に与える影響グループだ。Aグループには矢崎為一や山崎文男、田島英三らがいた。Bグループには嵯峨根遼吉や竹内柾ら。Cグループには朝永振一郎や坂田昌一、玉木英彦、武谷三男ら。Dグループには武見太郎らがいた。仁科研の総員は110人で、わが国原子核物理の一つの中心メッカだった。
仁科研は非常に自由で伸びのびしていたという。仁科博士の秘書だった横山すみさんの証言。
「仁科先生の人の使い方というか研究組織は全く自由。どこへ遊びにいってもかまわない。なにをしてもいい。こんなふうにいうと先生は、いつもニコニコしておられるようだが、結構よくおこられる。研究所員の方々は、たいてい一度はカミナリを落とされた記憶がおありになるのではないかしら」(読売新聞社編『昭和史の天皇―原爆投下』角川文庫)
日本の原爆製造のニ号研究は、これら仁科研の若き学者群からスタートした。彼らは週1回のゼミを開き、新しい外国文献を読んで、どうすれば原爆ができるかを研究していた。
皆、理屈は分かっていた。天然ウランの中の0・7%しか含まれていないウラン235の核分裂物質の原子核に中性子をあてると、原子核が分裂し、2億電子ボルトという巨大なエネルギーが出ると同時に、平均2個半の中性子が飛び出す。そしてこの中性子が隣の2個の原子核を割ると、次は中性子が4個になり、その次が8個――ネズミ算式に倍、倍とふえていく、という理屈は誰でも知っていた。
しかし、問題は理屈ではない。どうしたら、核分裂反応を爆発的に起こさせることができるか。それにはウラン235と238を分離・濃縮する必要がある。原爆開発はその技術にかかっていたのである。その方法として電磁法、気体拡散法、遠心分離法、熱拡散法が知られていたが、急場に間に合わせるには熱拡散法が一番手っ取り早いことから、これでいこうとなった。
しかし、戦争も落ち目で設備も資金もない。それに使う材料や資材、電力量もない。その上、分離・濃縮作業そのものの技術が、日本では進んでいなかった。
原子爆弾の完成を急げ!
当時、軍はマリアナ海戦に敗れ、切羽詰まった戦況にあえいでいた。そして、ついに1944年7月、マリアナ諸島のサイパン、テニアンがアメリカに占領された。ここは戦略上、重要な拠点だった。なかでもサイパンは重要な航空基地。ここを失って、日本は南方の資源地帯を結ぶ海上交通路が遮断されてしまった。
それだけではない。アメリカ軍がここの基地を押さえれば、日本本土は容易に爆撃圏内に入ってしまう。日本の軍部はサイパンを失ったことで、原爆開発を急いだのである。戦況の悪化に東條英機の焦りは深くなる。それは国策にそのまま反映した。
「戦況を一変する兵器はないか」「軍の言うとおりに早くつくれ」……。東條英機は檄を飛ばした。また航空本部総務課長の川嶋虎之輔を呼んで、ウラン鉱石を探すよう命じた。原爆開発には膨大なカネと技術が不可欠である。川嶋は大蔵省の陸軍担当の主計官・福田赳夫(元首相)に4000万円を出すよう交渉した。
石川中学3年生約150人が駆り出された
福島県石川町。東京電力福島第一原子力発電所から南西約60キロ。人口約1万8000人の小さな町である。この町は昔から希少な鉱物資源の産地として知られ、今も山間部にペグマタイト(巨晶花崗岩)の白い岩肌があちこちに見られる。陸軍はペグマタイトに含まれるわずかな天然ウランに目をつけた。(以下、拙著『8・15戦災と3・11震災』を参照)
昭和45年(1945)4月から旧制私立石川中学校(現、私立石川高校)の3年生約150人が原爆の原料となるウラン鉱石の採掘に約4カ月間、動員された。いずれも14、15歳の少年たちだった。婦人会も駆り出され、官民一体となって原爆開発が進められた。
その中の一人、元小学校校長の有賀究(きわむ)さん(84)はわらじ履きでシャベルやツルハシで汗まみれになりながら、石を取り出し、2人1組でモッコ(持ち籠)で運んだ。爪先を切り、血がにじんだ。朝8時から夕方4時まで毎日、休みなく働いた。それは終戦の8月15日まで続いた。
「放射能を出す石を掘るのに、わらじ履きとは」――。今、思えば、あまりにも無謀だった、と有賀さんは振り返る。また自分が掘っている石が何なのか、何に使われるのかも説明されていない。あるとき、陸軍技術将校が見本の石を見せながら話し始めた。
「君たちに掘ってもらいたいのは、希元素を含んでいるこの石だ。この石を原料にして爆弾を製造すれば、マッチ箱1つの大きさで、アメリカの大都市を一瞬にして破壊することができる。日本は必ず勝つ。だから頑張れ」
有賀さんは半信半疑だったが、ツルハシを持つ手に力が入った。しかし、採れる鉱石の種類は豊富だったが、量はわずかで原爆をつくれる量のウラン鉱石はほとんど採れなかった。原爆をつくるにはウラン235が10キロ必要とされた。そのために天然ウランを約1・5トン、集めなければならない。それは日本の国力をはるかに超えていた。
このウラン集めの中心者は飯盛里安博士だった。「幻の原爆開発」の発掘調査に最初に取り組んだ元小学校教諭の三森たか子さん(93歳、石川町在住)は飯盛博士に問い合わせた。それに対して飯盛博士は手紙をよこした。
「私が石川でやっておりました仕事は、原子力の基礎になる鉱物即ちウラン・トリウム鉱物の探査ならびにその化学処理がおもな仕事でした。昭和57年9月8日 飯盛里安 数え98歳」
核は多くの人を滅ぼす「もろ刃の剣」
核エネルギーの平和利用と軍事利用は常に背中合わせ。原発は機械文明が鍛造したもろ刃の剣と三森さんは次のように語った。
「原発は核の平和利用とか二酸化炭素を出さないといわれますが、使い方を誤れば核兵器と同じです。多くの人を滅ぼす『もろ刃の剣』にもなりかねません」
石川町で第2次世界大戦の末期、原爆製造を目的にウラン鉱石を採掘していた歴史はあまり知られていない。ヒロシマ・ナガサキ(原爆)からフクシマ(原発)へ――。必ず勝てるといわれながら迎えた敗戦。絶対に安全といわれながらチェルノブイリ以上の最悪の事故を起こした福島原発。
日本は「絶対勝てる」と「絶対安全」という二つの“神話”の崩壊から何を学ぶのか。今、大きな岐路に立たされていると三森さんは言う。
東京大空襲で理研49号館は焼失
東京・駒込にあった理化学研究所の49号館。ウランを濃縮する分離筒が据えつけられ、それを入れる六フッ化ウランもつくられた。しかし、1945年4月13日の山手方面の東京大空襲で熱拡散分離筒のある理研49号館は建物もろとも焼けた。
この空襲で焼け出された木村一治の証言。彼は仁科研で中性子研究をしていた科学者。後に東北大学教授を歴任した。
「理研の大半と我が家が焼失。どうやって理研まで行ったか定かでないが、構内の大小のコンクリート造や木造の建物は大半焼けているか煙を出している。私の大切な中性子測定装置はどうなった!……(中略)完全に焼けてしまっているではないか。ああこれでおしまい」(木村一治『核と共に50年』築地書館)
測定装置は一切焼けてしまった。しかし、データだけは研究室に残っていた。これが、ただ一つの救いだったと木村は言う。
5月15日。理研では原爆研究中止を決定。「目下、ウランの分離は不可能になった。敵国でも当分、完成は難しいと思われるので中止する」と報告した。技術将校の鈴木辰三郎に対しても、「もう原子爆弾の開発は無理だ。とても出来る状態ではない」と伝えた。原爆の中止宣言である。
当時、濃縮実験を担当していた理研の検出班、山崎文男は日記にこう記している。
――午后「ニ」号の話あり。大体中止を決議したが大阪の鈴木少佐等の意見を聞く必要あり(1945年5月15日付)。
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