片野勧の衝撃レポート(39)太平洋戦争とフクシマ⑫≪悲劇はなぜ繰り返されるのか 「シベリア抑留と原発」
2015/01/01
太平洋戦争とフクシマ⑫
≪悲劇はなぜ繰り返されるのかー
★「シベリア抑留と原発」⑫
片野勧(ジャーナリスト)
体制寄りのマスコミ
シベリア。ウラル山脈から太平洋岸まで直線距離で東西7000キロ、面積1千万平方キロ。日本の27倍の広さ。厚生労働省は、ここに約57万5000人の日本人捕虜がばらまかれ、約5万5000人が抑留中に死んだと推定している。もっと多かったのではないのか、という人もいるが、全体像ははっきりしない。
私は南相馬市にシベリア抑留の体験者がいるというので、車で南相馬市へ向かった。暮れも迫った2013年12月24日。夕ご飯を食べ終えたところだったが、快く迎えてくれた。相良利信さん(90)、ミネ子さん(84)夫妻である。
「ようこそ、いらっしゃい。よく新聞記者がこられますが、なかなか本当のことを書いてくれなくてね。時代状況に流されやすいのでしょうね。その点、フリーの方は信用できますよ」
私に対するいたわりの言葉なのか、本当にマスコミに対する怒りの言葉なのか、わからない。しかし、開口一番、相良さんはこう言って話し始めた。
「住民がまだいるのに、マスコミはみんないなくなってしまいました。逃げてしまったんです」
事実を伝えるべきマスコミが市民より先に撤退したと聞いて、私は驚いた。こういう大事件のときこそ、報道のチャンスではないのか、と。相良さんはフリーのジャーナリストが書いた本を何冊か読んでみたが、新聞報道と真実味が違うと言う。
「体制寄りというか、御用機関のようなマスコミもあって、どんどん言論が抑制されているように感じられます」
そう言い終えたところで、妻のミネ子さんが「楽にしてください」と言ってお茶を出してくれた。
山形、新潟、京都へ転々と
――3・11のときはどこにおられましたか。ミネ子さんは、「14日まで家にいました。15日の朝になったら、妹から電話があって、『おねいちゃん、ここ危ないから逃げなければ』と言うの。それで山形の旅館に3泊、新潟のホテルに5泊してから京都にいる甥っ子のところへ行きました」。
京都の市営団地。3万人が住んでいるマンモス団地だ。病院もあれば、郵便局、図書館、高島屋(スーパー)など何でもありの団地である。
「暮しにはいいところですよ。でも、私、6キロ痩せました」
――親戚の家でも気を遣いますからね。
「そうなの、気を遣いました。でも、大変良くしてくれました。75日間、お世話になりました」
大阪空港から仙台空港へ。仙台に住んでいる息子さんが迎えに来てくれた。会った瞬間、息子さんは「お母さん、なんで痩せたの?」と言った。その言葉にミネ子さんはハッと我に返った。
「自分はこんなにも痩せていたのか、と初めて気がつきました。ストレスから来たのでしょうか、今も気分はすぐれません。浮き沈みがあって、いい日もあれば、悪い日もあります、ホントに」
原発事故さえなければ、体調を崩すこともなかったのに、とミネ子さんは悔しがる。それをいたわるように夫の利信さんが口をはさむ。
「相当、緊張していましたね。でも、今はずいぶん、落ち着いています」
共有できていない原発の怖さ
「ところで」と利信さんは言葉を継いだ。
「京都で原発のことを話しても、『それは大変でしたね』で終わってしまうんです。共有できていないんですよ」
利信さんは、「それじゃ、だめだ」と思って、話の切り口を変えてみたという。
「福井県の原発と京都は12キロしか離れていない。もし、福島のような原発事故が起こったら、京都も吹っ飛んでしまいますよ」
こう切り出したら、初めて原発の話と向き合うようになったという。それでもまだ原発の本当の怖さを知らないと利信さんは思う。
――他人事のように思っているんでしょうね。利信さんは、「福島だけの問題として片づけようとしているんですよ。そうじゃないんです。福島を除いて全国に50基の原子炉があります。これがだんだん古くなっていくことを考えると、ゾッとします。1つは使用済み核燃料がどんどん増えていくことです。福島第1原発にも何千本とあります。今回、これが爆発したら、東京も危なかったです。福島の比じゃないですよ」と言う。
言葉に力が入っていく。
「そういう恐ろしい魔物を再稼働させて、どうするんですか。原発は絶対安全と言ってきたのに、それが嘘だったことが分かったわけですから、原発は再稼働させてはなりません。もし、原発が再び、事故を起こしたら、日本はおしまいですよ」
国を守るにはどうしたらよいのか。守る、守らないは結局、日本人自身の心の問題だと相良さんは言う。相良さんは「原町憲法を守る会」の元事務局長で、現在は「はらまち九条の会」会員。
「国は我々を守ってくれません。戦前、戦中もそうでした。国のために戦ったのに、挙げ句の果ては棄民にされたのですから」
苦役に耐え、九死に一生を得た
相良さんは昭和20年(1945)1月から22年10月まで衛生兵として、現在の北朝鮮に出征。ソ連軍と戦い、さらに酷寒のシベリアで2年間、苦役に耐え、九死に一生を得た辛い経験を持つ。(以下、会報誌「はらまち九条の会」No.21を参照)
8・15「終戦」。しかし、そんなことも知らずに相良さんは北朝鮮の馬乳山でソ連軍と死闘を繰り返していた。この日は陣地づくり。灼熱の太陽が照りつける暑い日だった。相良さんは衛生兵のため、陣地づくりには参加しなかったが、幕舎(テント張りの営舎)にいて、兵隊のけがの治療や体調の聞き取りをしていた。しかし、そのころ、薬がないために高熱にあえぎ、亡くなっていく兵隊も多くいた。
中には太ももにそっと触れてみると、骨に皮がはりついている兵隊もいた。また酷寒の中で埃にまみれ、虱の大群に苦しめられ、発疹チフスで亡くなっていった人もいた。死は悲しく、辛い。しかし、帰国を心待ちしながら酷寒の異郷に果てた人々の無念は、いかばかりであったろう。多くの戦友の死を看取った衛生兵・相良さんは語っている。
「毎日、そばで誰かしら死んでいきました。薄暗い中、黒パンをくわえたまま死んでいる兵隊もいました。私だってガタガタに痩せていました」
弱った体に、乏しい食事
当時の作業は森林伐採や鉄道建設工事。それに対して食事は朝が黒パンと塩汁。夜もまた一切れの黒パンと塩汁。弱った体に、乏しい食事。相良さんの証言。
「これで栄養失調にならなかったらウソになりますよ」
さて、8・15。この日の朝のメニューは牛肉の煮つけ。ご馳走だった。しかし、牛は前日、現地人が弾薬を運んできた茶色の大きな老牛で煮ても柔らかくならず、何とか食べられるようになったのは正午近くだった。その時である。
ピュッ、ピュッ、ピュッ。弾丸が炊事場のほうに飛んできた。ソ連軍の攻撃だった。一人の兵隊が青い顔をして、中隊長からの伝令を読み上げた。「直ちに幕舎を燃やして大隊本部に集合せよ」と。
相良さんは衛生兵のため兵器は一切、与えられていない。急いで幕舎に戻り、衛生用具入れカバンを肩にかけ大隊本部へ。途中、関東軍から来た工兵隊と合流。何人かの兵隊はソ連軍の攻撃によって死亡した。
相良さんの身にも危険が迫っていた。無我夢中で後退していると、間近に自動小銃の音が聞こえた。そっと岩の間から見ると、すぐ近くでソ連兵が後退する日本兵を攻撃していた。
「私は震えながら、川添いにある大きな岩の陰に隠れてソ連兵が去るのを待っていました」
不名誉な扱いを受けるなんて……
やがて夕刻となり、うす暗くなった頃、ソ連軍の姿はなくなった。相良さんは急いで大隊本部へ。着くと、中隊の生き残り47名が大隊長に「敗残兵」と罵られ、きつい仕打ちを受けていた。
「命令で後退したのに、不名誉な扱いを受けるなんて……」
相良さんは当時を振り返る。それから数時間経って、馬に乗った下士官が白旗を掲げている姿が見えた。下士官は、「もう、戦争は終わった」と通告した。
「私たちはこれで生き延びられると喜び、腰も砕けそうになり、幕舎で安心してその夜を過ごしました」
「しかし…」。馬乳山の戦死者の70名の遺体を1か所に集めているとき、今度は「満州の図們(ツーメン)に集結せよ」との命令がきた。ソ連軍の命令だった。
「武装解除を受け、誰もが日本に帰国できるものと思っていたのに……」
ソ連軍の命令に従い、北朝鮮から歩いてソ連国境を越え、海の見える丘に約2週間、野営した。さらに貨車に10日間、乗せられ、国境から1500キロのコムソモリスクというシベリアの奥地の町に着いた。9月初旬だった。
すべてが凍る極寒の中で
それから2年余。零下数10度というすべてが凍る極寒の中で生活。地獄をはい回るような飢え。木材の伐採や穴掘りなどの過酷な重労働。食べ物はコーリャン、大豆、えん麦で10日間も20日間も同じものが続いた。
1日のうち1食だけは黒パンだった。水はなく、うがいも手洗いも顔も洗えず、頭から足まで虱に襲われたこともたびたび。発疹チフスや栄養失調、疲労のために多くの戦友が死んでいった。
そんな中の昭和22年(1947)10月。突然、帰国命令が出て、ナホトカからの引き揚げ船で舞鶴港に復員帰国することができたのである。
再び、相良さんの証言。
「私は極寒のシベリアで生き残り、死んでいった多くの戦友に申し訳ない気持ちで戦後を生きてきました。戦争は日本人のだれにとっても、かけがえのないものを失わせました」
今、安倍首相は集団的自衛権の行使容認に意欲を見せ、自衛隊を国防軍にしようとしている。戦争のできる恐ろしい時代に戻りつつある。だからこそ、戦争を再び招くような法律には絶対反対だと相良さんはこう言う。
「私は若い人たちのために、残りわずかな命を戦争反対のために捧げます」
つづく
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