<イラク戦争とメディア>『グローバルメディアとしてのアラブ衛星放送の影響』―アルジャジーラを中心にー(上)
静岡県立大学国際関係学部紀要「国際関係・比較文化研究第2巻第2号」〈2004年3月〉
『グローバルメディアとしてのアラブ衛星放送の影響』―アルジャジーラを中心に(上)
静岡県立大学国際関係学部教授 前坂 俊之
第1章 アラブ各国の情報統制とメディア前史
第2章 アルジャジーラ登場とその番組編成と内容
第3章 アラブ各国へ衝撃、周辺国との対立、エスカレート
第4章 9・11同時多発テロからアフガン戦争へ
第5章 イラク戦争突入へー攻撃されるアルジャジーラ
第6章 おわりに
第一章 アラブ各国の情報統制とメディア前史
(1) 中東の政治、社会状況
アラブ諸国の政治体制を見てみると、おおむね王政、君主制、大統領制などであり、共和制、民主議会制をとっているところでも、一皮はぐと独裁体制の国がほとんどである。本当の王様による支配か、王様のようにふるまう終身大統領制の国が多いのが実情である。
例えば、アラブの大国・エジプトは大統領制で、表向きは自由選挙だが、公正な選挙は おこなわれておらず、民主化は体制を維持するための限定的なもので、言論の自由は厳しく制限されている。フセイン元大統領の独裁体制が続いたイラクを引き合いに出すまでもなく、他のアラブ各国も似たり寄ったりである。[1]
歴史的にみて、イギリスの植民地から独立したアラブ諸国の大半は、当初、「反英国」のスローガンで共通してアラブ民族主義者と共産主義者が手を携えて革命には成功したものの、共通の敵がなくなると、その後は一転して国内で両者が対立、血みどろの闘争を始めた。『互いに監視し、密告し、国民が日常的に連行されるという恐怖の状況が生まれ、国民は鉄格子の中に入れられた。』という恐怖政治が長く続いた。[2]多くの国では言論の自由を事実上制限してきた。「長い情報統制の歴史がアラブ社会を覆ってきた」[3]と新谷は次のように指摘している。
その結果、大部分のアラブ諸国では政治的な野党や反体政党の存在を許さず、メディアの自由を奪い、
その結果、大部分のアラブ諸国では政治的な野党や反体政党の存在を許さず、メディアの自由を奪い、
「『知らしむべからず、寄らしむべし』の原則で統治していると言い換えていい。彼らは国民に対して重要な情報を隠すと同時に、美しいスローガンや実現困難なビジョン、政策があたかも明日実現するかのごとく宣伝することに長けている。この『隠蔽と宣伝』が国家による情報統制の特色である。もちろん王様、王族のプライバシーは、固い扉の奥に閉ざされている」のである。
西欧的な民主主義体制は「報道の自由」によって強固に支えられているが、これとは相反するイスラム的な政治体制、社会で形成されているアラブ各国の「報道の自由」がどのようなものであるかは、ある程度推察できるだろう。世界各国の「報道の自由度」(139ヵ国中)を比較すると、アラブ諸国は50位内に1国も入っていない。
最高はレバノンで56位、バーレーン56、クウェート78、パレスティナ82などの順で、最低の部類に、シリア126、チュニジア128、リビア129、イラク130などが位置しており、アフリカと並んで、最も「報道の自由」の少ない地域なのである。[4]
「イラク(130位)とシリア(126位)では、国家があらゆる手段を用いてメディアを支配し、すべての反対意見を抑圧。サッダーム・フサインイラク大統領は特に、自身の政権のプロパガンダという役割しかメディアに与えていない。129位リビアと128位チュニジアでは、(それぞれの指導者である)ムアンマル・カッザーフィー氏とベン・アリー大統領の批判は、いかなるものも容赦されない」と、このレポートで指摘されている。[5]
「イラク(130位)とシリア(126位)では、国家があらゆる手段を用いてメディアを支配し、すべての反対意見を抑圧。サッダーム・フサインイラク大統領は特に、自身の政権のプロパガンダという役割しかメディアに与えていない。129位リビアと128位チュニジアでは、(それぞれの指導者である)ムアンマル・カッザーフィー氏とベン・アリー大統領の批判は、いかなるものも容赦されない」と、このレポートで指摘されている。[5]
アルジェリアでは新しい立法で選挙が始まろうとした矢先に陸軍が選挙をキャンセルし、その後続いた内戦では、武装したイスラム原理主義者によって約60人のジャーナリストが殺され、10万人以上の市民が犠牲になった。この結果、アルジェリアの民主主義は崩壊したが、こうした事態はアラブの世界では決して珍しくない。「多くの国で、ジャーナリストが刑務所に入れられるか、あるいは拷問にかけられ続けている。15人以上のジャーナリストがシリア、チュニジア、クウェートあるいはイラクで刑務所で苦しみ続けている」[6]
このような政治状況の中で、現在のアラブ諸国では、メディアの多くは「政府・与党メディア」である。「政治や経済の状況に異議を唱え、オープンに論議する社会のメカニズムに乏しい。その結果、若者を中心に様々な不満が膨れあがり、非合法活動の形で過激化する傾向も見られる」とも指摘されている。[7]
2 中東のテレビ・衛星メディア、新聞の置かれた状況
以上のような政治、メディア状況を反映して、アラブ各国のテレビ局は大半が国営であり、与党的テレビメディア一色で、政府の広報窓口と化している。[8]
国営テレビのニュースでは、まずトップにその日の王様や大統領の行動がくわしく紹介され、政治指導者の序列に従って無批判な国内ニュースが続く。国によって検閲と監視をされており、娯楽番組も規制されているためで、ニュース度の高い国際関係や事件は最後の方に回されるか、放送されないケースが多い。宣伝放送の域をこえず、視聴者のニーズや興味を引くニュース、番組は後回しにされ面白くもないテレビが大半であった。
「国営放送は、国民に対する「健全な娯楽」番組を提供すると同時に、ニュースでは徹底的に当たり障りのないニュース、しかし、いかにも為政者が国民のために日々努力しているか、ということを印象づけるようなニュースを流し続けてきたし、それは今もまったく変わっていない。[9]
こうした状況を一変させたのが91年の湾岸戦争時のCNN放送の開戦報道であった。多国籍軍がバクダッドを攻撃する生々しい映像を目の当たりにし、アラブ諸国の人々はこれまで自分達が得ていたテレビ報道、ニュースの貧しさを痛感した。情報が命に直結するだけに人々は衛星放送に飛びついた。[10]
視聴者の欲求に応えられない国営テレビに変わって、国境を超えて電波を届ける国際的な衛星テレビ放送が登場してくる。
湾岸諸国は、CNNの国際的影響に衝撃を受け、衛星放送テレビの戦略上の重要性を認識した。
サウジアラビアや各国政府は金持ちの同国人にヨーロッパで衛星放送テレビの設置に投資するよう奨励した。サウジ資本によるMBC,ART,ORBIT,エジプトのESNなど各国が相次いで中東や海外在住のアラブ系住民に対して衛星放送を開始した。[11]
ファハド・サウジ国王の夫人の一人の実家がオーナーであるMBC(本社をロンドンからドバイに移転)と、サウジの王族が出資しているORBIT(本社ローマ)が、「政府公認アラブ系衛星テレビ」の代表格で、MBCもORBITも、アラブ諸国の現在の政権への批判を避けるのが特徴だ。アラブのすべての国の政権の〝与党テレビ局〟という性格だから、各国政府とも国内での受信を許容した。[12]
当初、西側文化の急激な流入に警戒感を抱いたアラブ諸国やイランはイスラム教の規律を盾に、禁止や規制を試みた。だが、衛星放送機器の流入は止めようがなく、99年、極めて限定的な許可制を導入したイラクを除き、中東全域で普及していった。
湾岸戦争後の1990年代以降,中東地域では相次いで衛星放送が開始され,新たな情報の流通が始まることで,硬直したマスメディアをめぐる状況にも変化がみえてきた。[13]
一方、新聞もテレビと同じ状況下に置かれている。アラブ各国で発行されている新聞の大半は政府系であり、どの国も言論の自由は制限されており、新聞発行は免許制であったり、報道内容は検閲制度によって、政冶体制を批判した記事や、政府に都合の悪い記事はきびしくチェック、削除されて、読者の目にふれない。
「行き過ぎた記事のために記者や編集長が刑務所行きになることは、アラブ世界では普通のこと。だから、実際に検閲が記事を差し止めるという場合もあるが、それ以前に記者と新聞社が自己検閲する、という傾向」[14]が強い。[15]
国営テレビと同じく、政府発表の機関紙のような新聞、自国の政治権力者の動向を無批判に伝えるような新聞は、見向きもされなくなっていった。
衛星放送時代を迎えて、90年代以降、アラブを代表する新聞として強い影響力を与えてきたのは、国境を超えて、ロンドン、欧州各地などで発行された国際アラビア語紙「アル・ハヤート」、「アッシャルクルアウサト」などである。アラブ各国の特派員から送られた記事は民主主義の国、検閲のない英国ロンドンなら自由に書け、編集できる。ロンドンで印刷された新聞は飛行機でその日のうちに各国に空輸されて街頭で売られている。しかし、アラブ各国に送られた段階で、検閲され内容によっては差し押さえられてしまった。[16]
アラブ各国の読者、視聴者は、世界の動きや地域全体のニュースを知ろうとしも、国内のメディアでは満足することが出来ず、不満が高まっていた。より面白く政治的な規制が少ないメディアを待望していていたのである。そこに登場したのがアルジャジーラであった。[17]
第2章 アルジャジーラの登場、その番組編成と内容、
「アルジャジーラ」(アラビア語で半島の意味)は1996年に誕生した。当初、サウジアラビアの衛星放送会社「オービット」(ORBIT)がイギリスBBCのアラビア語放送部門のスタッフを引き抜いて合弁によるアラビア語放送スタートさせる計画があった。
ところが、サウジアラビアの批判的なニュースを掲載するかどうか、編集権をめぐる問題で対立し、合弁事業はうまくいかず頓挫した。
動員されたアラブ人ジャーナリストやスタッフが宙に浮いていた時、政権をとったばかりのカタールの若き元首のシェイク ハマド ビン カリフアサーニ首長がこの事業をそっくり引き継いだ。[18]
カタール政府は運営資金として年間1億カタールリアル(日本円で30億円)を5年間、合計150億円の補助金を出すことを決め、中東初のアラビア語によるニュース専門チャンネル『アルジャジーラ』は、カタール首長国の政令に基づく独立公共財団として設立された。
カタール政府は同時に、『アルジャジーラ』をアラブで初めての自由なメディアとして発足させるため、それまで検閲を行っていた情報省を廃止するなど、「報道の自由」への強固な意志を示して、国をあげて環境を整備した。1996年11月1日から放送を開始した。[19]発足当時は、1日6時間、徐々に放送時間を拡大し1999年2月から24時間サービスとなった。
設立当時のアルジャジーラの概要は次の通りである。[20]
1. アルジャジーラの本部はカタールの首都・ドーハに置く。ハマド ビンサマールアルサーニ王子を会長とする取締役会が運営。
2. カタール政府の予算から、5年間の運営資金として5億カタールリヤル(約150億円)を支給。5年経過後は、広告収入と番組収入で運営する。
3. アラブサットA2とユーテルサットW2の衛星を通じて、最新技術のデジタル機器を使用しており、中東、北アフリカ、ヨーロッパ、南北アメリカ、オーストラリア地域などのカバーエリアに放送している。
4. スタッフは約600人。このうち100人がニュース編集業務、35人がリポーター。
スタッフはほぼ全員がエジプト、シリア、レバノン、パレスチナなどアラブ地域の出身者で、その中の約70人はイギリスのBBCのアラビア語放送での経験がある。
5 支局、オフィスは、ワシントン、ロンドン、バグダッド、カイロ、テヘラン、アンマン、モスクワ、ブリュッセル、パリ、クウェート、サヌア(イエメン)など世界に35。[21]
番組内容ではメインニュース65分ものから、一番短いものは、3分。このほか「This Morning」「AIJazeera Midday」「Today’s Harvest」などのニュース。ここで流されるニュースは主に、世界各国に配置された支局記者からのニュースが中心だが、ロイター、APTNなどの配信ニュースもある。ジャーナリストや専門家のコメントを求めるほか、多角的な意見をとりあげるため、電話や衛星を使っての関係者のインタビューもおこなう。
ニュース番組や特集には「Week File」「Reports」「Between lines」[Reporters」[Under the scope」「Top secret」「Press mirror」などがある。
また、ディスカッション、討論番組もセールスポイントにしており、「More than one opinion」「Opposite direction」(反対方向)「No borders」「Religion And life」「Discussion about sport」「Todays interview」「Time witness」などがあり、アラブの国際問題、時事問題について、公開討論で、視聴者が直接参加できる番組を放送した。これらはCNNの「Crossfire」のフォーマットをまねたものなどで、番組はニュース、討論番組、インタビューが中心だ。[22]
報道スタイルは、『アルジャジーラ』のロゴにもあるように『ONE OPINION・THE OTHER OPINION』(一つの意見があれば、別の意見もある)で、反対意見、少数意見も幅広く伝える、多面的な視点を前面に押し出してた。討論番組では反体制派、これまで国営放送には登場できなかった野党的な論客、知識人、学者も登場させ。男女差別、貧困、人権や差別問題やアラブのかかえる政治問題など、多くの異なった主張や意見を視聴者に伝えた。国営や与党的メディアほぼ一色のアラブ世界で、ジャーナリズムの中立性・公平性・公正性にのっとってあえてタブーに挑戦し、野党色を大胆煮打ち出した放送を実現した。
第3章 アラブ各国への衝撃、周辺国との対立
放送と同時に、『アルジャジーラ』は中東地域に旋風を巻き起こした。
ニュース番組や特集で、タブーとされていたアラブ各国の非民主的な王制や政治体制、男女不平等や社会問題を真正面から取り上げ、サウジアラビアやヨルダンの王制を容赦なく批判したり、敵であるイスラエルの閣僚もアラブのメディアでは初めて登場させ、自由に発言させるなど、欧米並みの自由な論調を売り物にした。
「反対方向」(人気アンカーマンはファイサル・アルカシム=シリア人=が司会)というライブの討論番組では体制批判派を出演させ一対一や複数で徹底して意見を戦わさせ、インターネットや電話での視聴者の意見も即座にテレビの画面の下にながすなど視聴者参加番組を作った。[23]
米英がイラク空爆を実行すると、バグダッドからサダム・フセイン政権の主張を盛んに伝える。98年12月のイラク空爆の際には、アラブ各国の現在の政権を打倒するよう叫ぶフセイン大統領の演説を、イラク国内よりも早く報道し、「イラク寄りすぎる」と他のアラブ諸国政府が一斉に反発した。
また、2000年11月、イスラエル・パレスチナの衝突に関してアルカシム氏はライブ番組の中で、イスラエルに思い切った政策をとらないエジプトを弱腰と批判し、エジプト政府は同国内で活動する弟のマグドゥ氏を国外退去処分にした。[24]
これまでアラブのテレビではタブーだった反体制派を番組で生出演させることも多く、リビア、モロッコ、チュニジアなどが同局の姿勢を批判し、カタール駐在の自国大使を召還したり、クウェートは2回にわたって自国内の同支局を閉鎖。バーレーン、サウジアラビアはスタッフの入国を拒否するなど、アラブ隣国とのトラブが続出。
「カタールの外相はアラブ各国大使からの批判への対応に忙しい」(同国外務省筋)という状況で、この五年間で、外務省が他国から受けたアルジャジーラがらみの抗議は「二百件は超える」 というほどで、テレビ局の報道が外交問題にまで発展している。[25]
「SPAC EDAILY YOUR POTAL TO SPACE」は次のように書いている。
「中東で多くの人々にとって『アラブのCNN』となった『アルジャジーラ』はアラブ各国にとって『慢性頭痛』のタネと化した。
ヨルダンを『米国、イスラエルの操り人形』と放送したことで、ヨルダン側が『治安妨害』と激怒、自国大使を本国に召還した。『ヨルダンタイムズ』はカタールが『イスラエルとの貿易関係とアメリカとの軍事協定を隠すため、アルジャジーラを通してアラブの国を中傷していた』と報道。サウジアラビアとカタールの関係が、サウジアラビアの王室を侮辱した見られた番組によって最悪のものになった。
アルジャジーラが放送したトークショーで、サウジアラビアの反体制派分子が王室を厳しく批判した。また、リヤドが侮辱されたと感じたサウジアラビアの創設者、死亡したアブドラ国王についてドキュメンタリーをテレビ放送した。湾岸協力委員会(GCC)は国境を越えたメディアの攻撃を禁止するGCC行動規制に違反しているとしてアルジャジーラの放送に不満を述べた」[26]
また、政治問題だけではなく、文化のデリケートな問題も遠虜なく取り上げた。『反対方向』では、こんな場面があった。一夫多妻制について2人の女性が討論。左翼的なヨルダンの議会のメンバーの女性が『多くのアラブの女性が戦争によって未亡人となったために一夫多妻制が始まり、7世紀に預言者モハンマドによって公認された。現在、すでにその妥当性がないのにもかかわらず生き残っている』と主張し、「我々はなぜ今もこの古い制度に我慢するのか?」とディスカッションの口火を切った。
すると、保守的な意見を持った一方の女性は、「この冒涜を大目に見るつもりはありません」と激怒して、相手に襲いかかってマイクロホンちぎり取って大混乱した。[27]
2001年12月のGCC首脳会議で、サウジのアブドッラー皇太子が「アルジャジーラは湾岸アラブ諸国の信用をおとしめ、テロ組織「アル・カーイダ」に演説の場を提供している」と非難した。[28]翌年10月に開かれたGCC会議の情報大臣会議でも、引き続いてアルジャジーラTVの放送を禁止すべきとの声明を出した。
98年、「アルジャジーラ」を批判して サウジアラビア新聞は次のような記事を掲げたが、アラブの新聞の論調もほぼ似たようなものであった。
「このテレビ局は、『自由』『表現の自由』の名の下に、アラブの価値観、原理、信仰を踏みにじっている。人に話をするには十分な教育も経験もない人をゲストに招き、宗教を毒し、偉大なる神に疑問を投げかける・・。表現の自由のもとに、イスラムを攻撃する無神論者を招くのをどうして許せようか。アラブの子どもたち、若者たち、教育や知識の限られた人たちへの影響はいかばかりか」[29]
こうした数百件のトラブル、非難が外交問題まで発展し、カタール政府には厳重な抗議が押し寄せてきたが、「アルジャジーラは独立したテレビなので、政府は関係ない」として、同政府は一切拒否した。「アルジャジーラ」の会長を務めるハマド首長も「言論の自由には介入できない」と同TVの放送には一切口を挟まなかった。
中東の大国サウジアラビアに寄り添う形の小国・カタールのハマド首長は、アルジャジーラを使ってアラブ外交、アラブ世論のリーダーシップを握り、中東での影響力の強化するネライで、この衛星メディアを巧妙に利用したのである。
自由にモノが言えなかったアラブの民衆はズバズバ批判、発言し、少数意見も取り上げるアルジャジーラの登場に熱狂した。競ってパラボナアンテナを買って『アルジャジーラ』を見るようになり、視聴者は世界中で約三千五百万人にまで拡大した。アラブの視聴者間でのアルジャジーラの人気の高さは、今までのような国単位の情報統制、言論の規制が、ボーダレスでグローバルな衛星メディア、IT(インターネットなど)の登場によって崩れ始めた証拠であった。
第4章 9・11同時多発テロからアフガン戦争へ
① アルジャジーラのビンラディン映像のスクープとその批判
「アラブメディアの革命児」「アラブのお騒がせメディア」となったアルジャジーラも、2001年9月11日の米国の同時多発テロの発生、その後のオサマ・ビンラディンのビデオのスクープがなかったなら,世界に数多いローカル衛星チャンネルの一つでしかなかったであろう。
『ビンラディン』のビデオ報道で一躍、「中東のCNN」から世界的なメディアにのし上がった。米英軍がアフガン空爆からは,湾岸戦争時のCNNさながらに現地からの生中継映像を独占配信し,世界の映像メディアが無視できない存在となりイラク戦争では米、ヨーロッパなどで約四百万人以上も視聴者が激増し、戦争の真実を知るのに欠かせないグローバルメディアへと発展する。
2001年9月11日朝、ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機2機が突っ込み、相次いでワシントン国防総省にも航空機が突入する同時多発テロ発生。ブッシュ大統領は同15日にテロの主要容疑者をビンラディンと断定。10月7日には米英はアフガンでの軍事行動を開始した。10日にはブッシュ大統領がビンラデインら22人のテロリスト名を公表した。
アルジャジーラはすでに1999年に、カブールに支局を開設し2人の記者を配置していた。タリバンはCNNにも支局開設を働きかけたが、CNNは断っていた。アルジャジーラは、その後、タリバンの本拠地・カンダハルにも記者1人を常駐させていた。世界中のアラブに取材網を引くという同局の先見性が見事に成功したのである。
アフガンではタリバンが9月19日、外国人ジャーナリストを国外退去させた後は、アルジャジーラが、オサマ・ビンラディン氏やアルカイダと接触できる唯一のテレビメディアとなり、米英軍の空爆と前後して数々の独占映像を世界に送り続けた。[30]
10月6日、米英軍によるアフガン空爆の数時間後、アルジャジーラは、事前に収録されていたビンラデインのビデオメッセージを放送した。岩山を背に座って「アッラーはアメリカの急所を一撃し、最も大きな建物を破壊なされた。アッラーに賞賛あれ」と殉教を讃えるような声明を出している姿で、世界中の人が初めてビンラディンの映像を見た世紀のスクープであった。[31]
空爆前にも、9月24日、ビンラディンのアッピールを放送し、26 日には、カブール市民が反アメリカデモを行い、元アメリカ大使館の建物に火をつける映像をスクープ、10月3日には、タリバン指導者オマル師からサイン入りのファックスの内容を伝えるなど、独占的な特ダネを次々に報道を続けた。
これに対して米政府は「アルジャジーラの報道内容がタリバン寄りである」とカタール政府に放送の規制を求める一方、10月10日、ライス米大統領補佐官が「ビンラディンの声明にはテロリストへのメッセージが隠されている恐れがある」との安全保障上の理由で、その映像放送自粛を米テレビネットワーク5社幹部に要請。
フライシャ一大統領報道官も新聞各紙にビンラディンの声明を全文掲載しないように要請し、「これはお願いで検閲ではない。表現の自由は保障されており、判断は各メディアにまかせる」と述べるなど、『アルジャジーラ』を中心としたメディア戦争の様相を見せた。
これを受けてCNNは、今後はビンラディンの率いるテロ組織「アルカイダ」の声明などについてはアルジャジーラと同時放送は行わず、内容を事前に検討し放送する方針を示し、ABC、NBC、CBS、FOXは生放送を中止したり,英訳した要旨だけを放送するなどの自粛措置を取った。[32]
パウエル米国務長官は、10月4日、訪米中のカタールのシェイク ハマド首長と会談し、アルジャジーラに影響力を行使し、オサマ・ビンラディン氏やアルカイダ幹部らのインタビューには慎重に対処するようにという異例の要請をした。これに対し、シェイク ハマド首長は「アメリカの気持ちはわかるが、アルジャジーラの放送は決して扇情的な内容ではない」と反論した。
一方、英首相府も15日、BBC、ITN、スカイーニーズのテレビ局3局の幹部を首相官邸に呼び、ビンラディン氏とアルカイダのビデオ声明の報道自粛を要請。首相府は、「検閲ではない」としている。
テレビ局側は、「何を放送するのかを決定する最適任者は放送会社自身である。我々は放送内容とその影響について細心の注意を払っている」との共同声明を発表した。
イギリスとフランスも、アメリカ政府に呼応するかたちで、11月にはアルジャジーラが編集なしで放送したビンラディン氏のインタビューは宗教、人種への憎しみを煽るもので放送基準に触れる可能性があり、場合によっては、EU域内での放送免許取消もあると警告した。
イギリスをはじめ米国、ヨーロッパの新聞各紙はアルジャジーラの報道姿勢に対し、「アルジャジーラのスクープは、ビンラディンやアルカイダとの危険をはらむ濃密な関係によるもの」「「ビンラディン・テレビ」(デイリーテレグラフ紙)「オサマ・ビンラディン氏やアルカイダの『代弁者』(mouth piece)」「扇動的な言辞」「全く事実でないニュース」など批判の論調が目立った。[33]
10月9日にはイギリスのブレア首相が同TV」に出演し、攻撃しているのはテロリストであり、アラブの人ではないことを訴え、米国のブッシュ大統領も出演依頼があれば出ることを表明した。
10月22日にはアフガンで初めて米軍ヘリが撃墜され、米兵約20名が死傷したことをアルジャジーラは特報し、ヘリの残骸を公開した。米国同時多発テロから世界中でもっとも注目される放送局になったアルジャジーラのサイトは毎日200万以上のアクセスを記録した。
11月13日、首都カブールが米英ロシアなどに支援された反タリバーン勢力「北部同盟」によって陥落したが、アルジャジーラのカブール支局は、米軍の爆撃を受け、放送が途絶えた。アルジャジーラの報道局長イプラヒムヘラルは、「米政府に何度も支局の位置を伝えてあった。われわれは北部同盟と交渉しているが、アラブ系テレビは許可されない」と語った。[34]
②アルジャジーラの反発
反米的で、テロリストの宣伝機関との欧米の高まる批判、報道制限の動きに対してアルジャジーラは強く反発して、報道の前線を仕切る32歳のイプラヒム・ヒラル報道局長は、「今後もタリバンやビンラディン氏の声明を伝えるという報道姿勢を変えるつもりはない」と語り、カタールのハマド首長はパウエル米国務長官から報道自粛の要請があったことを明らかにし「我々が(報道の)自由を学んだのは米国からだ。助言と受け止めている」と述べ、同局の報道姿勢に介入しない考えを明らかにした。
またワシントンポストの取材に対して、ヒラル氏は、「我々はニュースをビジネスとしており、編集方針は、あらゆる見方を放送するということである。我々がやらなくてだれがやるというのか。ブッシュ大統領の演説について、彼のすべての言葉、すべての動作を放送したが、これで我々はアメリカ寄りだとか、イスラエル寄りだとさえいわれた。それなのにアメリカからは、タリバン寄りだといわれる。ビンラディンとその仲間が、放送を通じて暗号を送っているとする指摘については、疑問には思うが自分たちも心配している。したがって我々はすべてを放送するとか、なんでも言うことをとりあげるとは言っていない。」
また別のインタビューで彼は、「我々は、アメリカから報道の自由を学んだ。そのアメリカが、それをやめろと言えるのだろうか。もし情報と視聴者の間に作為を行うのなら、それは終わりの始まりだ」と反論する。[35]
アルジャジーラの幹部たちは、世界のメディアのインタビューに答え、反論している。ワシントン支局長のハフェスーアルミラジが、欧米メディアの出席者との座談会でも
(1)ビンラディンのビデオ声明をなぜ放映したか?両者の言い分を伝えるのが報道の
原則である。一方に肩入れしたものではない。われわれはアメリカの言い分も十分に
伝えている。
(2)アメリカの情報独占は崩れた。湾岸戦争では米軍の情報だけが報じられ、間違っ
た戦争のイメージが作られた。
(3)アメリカのメディアは、アメリカの悲劇ばかりを報道している。アフガン誤爆で多くの民間人が犠牲になっているが、そのことについ、アメリカのメデオアは政府に厳しく質問しただろうか。なぜ軍事行動をとるかについても、きちんと問い質していない。感情に流され、メディアの役割を忘れていないか。
(4)アメリカはこれまで他国に軍事干渉してきたが、そのことをどこまで伝えたか。英BBC放送やカナダCBC放送の出席者は、これらの発言に対して一定の理解を示していたが、米メディアの出席者は、答弁に苦しんでいたように見えた。[36]
アルジャジーラへの別の見かたもある。同じ24時間ニュースチャンネルのCNNを真似たものであり、「中東のCNN」とたたえられているが、両者を比較して中東問題の専門家であるワシントン在住のジャーナリストのラミス・アドニは,アメリカの非営利団体「独立メディア研究所(Independ Medhia Insstitu」が発行するオンライン・マガジンAlterNetのインタビューに対して,アルジャジーラをCNNと比較して,次のように述べている。[37]
第5章-イラク戦争突入へー攻撃されるアルジャジーラ
2003年3月24日アルジャジーラはWebサイトの英語版が登場した。アラビア語版の時で、1日1000万から1300万にのぼる膨大アクセスがあったのに、さらに英語版を公開したためハッカーの攻撃を受けるようになった。
英語版では米国捕虜や米国の戦死者、イラク政府の会見などを無修正で公開していることから、米国政府にとっては不利な情報も多く報道しているが、出征している米国兵の家族にとっては、戦場のリアル情報であり、家族の安否を知ることができる重要なニュース・ソースとなり、アクセスはさらに急増した。
3月25日にアルジャジーラのスタッフ2人がニューヨーク証券取引所の出入りを断られた。その背景には、米国捕虜や米国の戦死者、イラク政府の会見などを無修正で公開し、アルカイダのリーダーであるビンラディンなどの映像を公開したことがあげられている。しかし、それらの映像を利用した米国のマスコミは出入りを禁止されていない。
「Europemedia.net」は2003年3月26日に、イラクの開戦以前は同TVの登録者が3500万であったが、開戦と同時にヨーロッパだけで400万の新規登録申し込みがあったと報道した。
2003年3月27日、「自由サイバー義勇軍」を名乗るハッカーたちによって、アルジャジーラがクラッキングされたと報道し、さらに28日には再三に渡ってクラッキングされコンテンツが米国国旗と「自由の鐘を鳴らそう(Let Freedom Ring)」というメッセージに置きかえられたたと報道された。
「Editor & Publisher Online」は2003年4月2日に、「Pew Internet & American Life Project」の調査から、10%がWebで外国のニュースを読み、米国のオンライン・ニュースでは、約32%がアルジャジーラからのニュースを採用し、「すでにアルジャジーラは米国でポピュラーなニュースになっている」と報道した。[38]
① イラク戦争を米メディアはどう報道したか
ところで、米メディアのイラク戦争報道はどうだったのか。これまでのジャーナリズムのスタイルをかなぐり捨て「戦争支持の愛国的な放送を続けた」ニュース専門ケーブル局「FOXニュース」が、ライバルのCNNを視聴者数で大きく引き離して圧勝した。[39]
FOXニュースの戦争報道のタイトルは『イラクの自由』で、ロゴには星条旗をあしら
い全面的に愛国心を掲げ、開戦第一声は『イラク解放の戦いが始まりました』であった。「エンベット(埋め込み)取材」によって各部隊に同行する従軍取材して、生々しい戦場からの24時間ライブ中継を流し続けた。
戦車に同乗して「この巨大な軍隊がさっそうとわたっていく姿を見てください」「イラク兵
は皆殺し!」とのジョークをまじえたトークで、砂填を舞い上げて戦車が疾走する臨場
感あふれる映像。感情を抑えたCNNとまるで違って、従軍リポーターもアナも声を張
り上げ絶叫調で、激しいロックミュージックを流しこれが若者や視聴者に大受けした。「善玉」が「悪玉」をやっつけるハリウッドのB級の娯楽戦争映画そのものの放送と化した。[40]
FOXなどはバクダットがほぼ陥落し、フセインの銅像が引きずりおろされた際、『暴君
は今や倒され、パウダットは解放されました』と米国のプロパガンダ(宣伝)映像を流し
続けたが、イラク側の爆撃され、殺され、傷ついた犠牲者や遺体、女性や子供の映像
は一切流さず、戦争の悲惨さ、血の匂いは画面から消し去られた。
FOXニュースの問題点は戦争支持よりも、イラク側の情報、被害、主張をプロパガン
ダとして切り捨てて,従来のジャーナリズムの客観性、中立性、公平・公正性の報道姿勢を捨て去ったことである。これでは放送は単なるプロパガンダの道具と化してしま
う。
FOXの成功は、他局にも大きな影響を与え、メディアにおける愛国心の競争を一層過熱させた。中立・客観報道の立場にたつCNNや3大ネットワークもブッシュ政権批判の論調を控えさせ、報道姿勢もより愛国的なものに変えていった。「ニューヨーク・タイムズ」は政府と報道が一体化した現象を「FOX効果」と評した。[41]
② アラブ衛星メディアの報道―アルジャジーラの場合
一方、『アルジャジーラ』はイラク戦争をどう報道したのか。今回のイラク戦争では,アルジャジージーラの独壇場だったアフガン攻撃とは違って、アラブの衛星各局も取材体制を大幅に強化した。
『アルジャジーラ』はイラク国内にバグダッドに12人、バスラ、モスル、クルド人自治区などに計約30人もの記者を配して、さらにクウェートから記者1人が米軍の従軍取材にも参加して、イラク側から戦争の実態を複眼的に放送した。アルアラビアは開戦1か月前に開局したばかりだったが,それでも,記者9人,スタッフ12人をイラクに配置した。またアブダビテレビは記者7人,スタッフ20人を派遣した。
アルジャジーラ、アルアラビア、アプダビTVなど中東の衛星メディアは英米メディア一辺倒の視線から、逆の視線、反対の情報、多角的な視点を提供した。米英軍の発表や情報のウソを、現場からの中継や当事者へのインタビューという形でたびたび覆してみせ、戦争の実態を世界に知らせたのである。
アルジャジーラは米英軍が「ウムカスル制圧」と発表するや、そのウムカスルから生中継で「制圧された様子はない」と町の様子を伝えた。「イラクの第51連隊の司令官が降伏し、捕虜になった」という英軍の情報にも、捕虜になっているはずの司令官本人をインタビューして、「今も戦闘は続いている。これからも血の一滴まで徹底的に戦う」と言わせて情報のウソを暴いた。
「バスラでシーア派が反フセインの反乱を起こした」という英軍の発表にも、駐在していた記者を街中に走らせてライブ中継で、「ごく小さな混乱はあったものの、今、町は平穏だ」とリポートして、英米軍の情報操作を覆した。[42]
画面の下には常時、イラク市民の死傷者数が表示され、米側の会見の際は画面を2分割して、イラクの病院内のけが人の映像を流した。
『アルジャジーラ』はバクダッドの市民の被害、子供や女性が傷ついたり、死体の映像もそのまま流して戦争の悲惨さを伝えたが、3月23日、イラク国営テレビが流した米英軍捕虜たちへの映像を世界に伝えたところ、『ジュネーブ条約違反』として米英などから厳しい反発を招いた。
米国以外のメディアは『アルジャジーラ』の映像を大きく流したが、米国内では放映を自粛する動きが相次いだ。28日には死亡した英兵二人の映像も放送するなど捕虜、戦死者の放送をめぐって批判を浴び、ラムズフエルド国防長官は「捕虜の撮影は違反だ。イラクの宣伝だ」と激しく攻撃。アルジャジーラのヒラール編集局長は「われわれは米英軍の一点ではないし、もちろんイラク政府の一部でもない。双方に起きていることを伝えるのがわれわれの使命だ」と一歩も引かなかった。[43]
バクダッドが陥落寸前の4月8日には 米軍戦車が外国メディアの陣取っていたパ
レスチナホテルを砲撃し、ロイター通信のカメラマンら2人が死亡、3人が負傷。米軍
は「カメラを銃口と見誤ったのではないか」と弁明した。
同じ日、バクダッド中心部の「アルジャジーラ」支局もミサイル攻撃を受け、タレク・アユーブ記者が死亡し、この日1日で3人のジャーナリストが犠牲となった。
また同日、アラブ首長国連邦の「アブダビテレビ」の支局も米戦車の砲撃で破壊され、「アルジャジーラ」は南部のバスラでも支局の入ったホテルに爆弾を落とされており、アフガニスタン攻撃の際にも支局が米軍から爆撃されたことなどから「意図的に狙われた可能性がある」と強く反発した。
「アルジャジーラ」のイラク戦争報道については、昨年8月末に、カタールの同本社訪れアドナン・シャリフ(ADNAN・SHARIF)編集長(GENERAL MANAGER)にインタビューしたが、次のように答えた。[44]
(質) 「イラク戦争報道で最も力を入れたのはどの点ですか?いろいろな記事を書 いてきましたが・・」
(答) 「いや、私たちは記事は書きません。そこで起こっているありのままの姿、真の姿を撮影していたんです。どれがスクープというわけでなく、撮ったものが全てスクープです。戦争では次に何が起きるか予測できないし、私たちの記者も危険だった。事実、特派員の一人が亡くなっています。公平性や中立性を保とうと追求し続けて、『ONE OPINIONとTHE OTHER OPINION』を報道していたので、イラクの旧政権からもアメリカ政府からも同様に脅されました。編集方針や批判精神にこだわり続けたからなんです。私たちは映像を通して信頼性を追及しているのです」
(質) 「そうやってアルジャジーラは成功したんですね」
(答) 「そうです。自分たちの一つの意見があれば、他の意見もあるというやり方がメディア界で成功する方法だと思います。真実を隠そうとしても、過去には隠すことが出来たが、今ではインターネットなど自分たち以外の媒体から情報を得ることが出来てしまう。
報道の狙いは全てのことについて正しい答えを出すこと、世界で起こっていることに関して確実なイメージを与えることです」
(質)「アルジャジーラの報道で一番大きかったものは何ですか?」
(答)「戦争報道で自ら危険を冒したこと、それが民衆に起こっていることを伝える第一人者であったこと、起こっていないことは伝えなかったこと、を誇りに思っています。私たちはニュースにはすぐには飛びつきませんでした。
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