●「日本の新聞ジャーナリズム発展史」(上)『 日本での新聞の誕生・明治期』『 大新聞と小新聞の発展』★『日露戦争と新聞 』★『大正デモクラシーの担い手となった新聞』★『関東大震災と新聞』
「日本の新聞ジャーナリズム発展史」(上)
2009/02/10
静岡県立大学国際関係学部教授
前坂 俊之
1 世界の新聞の始まり
新聞の始まりは紀元前59 年,ローマ帝国のジュリアス・シーザーによる「アクタ・ディウルナ」や,中国・唐時代の「邸報」に求められるが,近代の新聞は17 世紀のヨーロッパで生まれた。
ヨーロッパでは16 世紀になると,地中海貿易が繁栄し,その中心地・ベニスに世界各地から情報が集まり,それを手書きにした「ガゼット」という新聞が誕生し,王侯,貴族,商人らの間で情報を交換する手紙の形をとった『書簡新聞』が生まれた。
技術的には1450 年ごろ,ドイツ・マインツでグーテンベルクによって活版印刷が発明され,それまでの手書きによる1 枚1 枚の新聞から,大量印刷による近代新聞が誕生する。これがマスメディアとしての新聞のスタートである。
ドイツ人・ケーニッヒが1811 年に蒸気機関によるシリンダー印刷機(1 時間両面同時印刷で5,000 枚)を発明し,それまでの手動式の印刷から,文字通り「機械印刷によるマス・コミュニケーション」としての新聞が誕生した。
近代新聞が成立する条件は「情報の需要」の創出であり,重商主義の時代から産業革命によって工業社会が勃興してくると,情報,ニュースが商品価値をもつ時代となり,その具体的な商品として新聞が生まれてくる。
社会の需要によって生まれた新聞はそのマスメディアのもつ威力によって,社会的,政治的な大きな影響力を持つことになる。
ヨーロッパで生まれた近代新聞はブルジョアや商人を中心とした新しい市民階級の言論機関として誕生したが,絶対主義的な政治体制からの弾圧,検閲,圧迫との激しい政治闘争や市民革命を経て,新聞は新興市民階級の武器となり,ジャーナリズムとして自立、発展していく。
この結果、近代市民社会の成立に新聞は重要な役割を果たし,デモクラシーの担い手として,言論・表現の自由の実現,政治の監視役の機能をもっことになった。
2 日本での新聞の誕生・明治期
近代化に遅れた日本では,新聞の誕生は西欧より200 年以上遅れて,幕末の動乱期に黒船来航という外圧で生まれた。
もともと,豊臣時代から存在していたニュース・メディアの原型としての「よみうり瓦版」の伝統に,オランダ人によって伝えられた新聞製作の技術,これに黒船来航による鎖国を打ち破る外圧が加わり,「マスメディアとしての新聞」が誕生する。鎖国を廃止した幕府は西欧文明の道具としての新聞を輸入したのである。
新聞を意味する言葉が初めて日本の文献に登場するのは新井白石『西洋紀聞』(1708 年刊)の中で,「ヨーロッパにクラント(courant)あり」と紹介されており,クラントとはオランダ語で新聞のことであった。
ペリーが来航によって、鎖国の眠りを覚まされた幕府は,危機感を募らせ海外や西洋の情報収集に必死となった。
幕府は1855(安政2)年に洋学所を建て,翌年に蕃書調所と改称し,さらに1860(万延元)年にはオランダ語のはか,英語,フランス語も加えて,海外の新聞を翻訳する書記方,印刷出版する活字方を設けた。
1862(文久2)年2 月にジャワのオランダ語新聞を翻訳した「官板バタヒヤ新聞」を発行したが,これが日本での初めての新聞であった。これは今のような新聞ではなく,和紙を綴じて書物の形をしたもので,新聞という名の書物といったものであった。
新聞の創成期にはこうした翻訳新聞の「官板海外新聞」「官板中外新報」などや,「ナガサキ・シッビングリスト・アンド・アドバタイザー」「ジャパン・ヘラルド」などの在留外国人らによる英字新聞が発行された。1865(元治2)年4 月には横浜でジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)によって邦字紙第1 号である「海外新聞」が出された。
1870(明治3)年12 月には日本で最初の日刊紙である「横浜毎日新聞」が横浜で生まれ,1872(明治5)年には「東京日日新聞」(現在の毎日新聞の前身)や「日新異事誌」「郵便報知新聞」が一斉に生まれるなど,新聞時代の幕開けを迎えた。
3 大新聞と小新聞の発展
1874(明治7)年の「民撰議院設立建白」以後,自由民権運動の高揚を通じて,まず政論新聞が次々に生まれ,その後,政党の誕生にあわせて機関紙化していった。
自由党系では「自由新聞」「朝野新聞」など,改進党系では「郵便報知新聞」「東京横浜毎日新聞」,帝政党系は「東京日日新聞」などだが,新聞は政争の武器と化してしまった。
政府は批判的言論を封じるため「讒謗律」(1875・明治8 年)をはじめ,後には新聞紙条例,出版条例,集会条例,保安条例の言論抑圧4 法を制定して,検閲制度と発行許可制度によって厳重に取り締まった。自由民権連動下では数多くの新聞記者が苛酷な弾圧を受け,獄に繋がれた。
この間,政論新聞の流れをくんだ,政治評論が中心の硬派の新聞で,士族や官僚,インテリを読者層にした漢文調の「大新聞」(おおしんぶん)が幅をきかせたのに対して,通俗的な社会ダネを中心に平易で,一般庶民や婦女子でも簡単に読めるマンガ,平仮名や,漢字にも読み仮名をふった「小新聞」(こしんぶん)が生まれてくる。
その1 つが「読売新聞」(1874・明治7 年創刊)であり,大阪で生まれた「朝日新聞」(1879・明治12 年創刊)も最初,小新聞としてスタートした。その後,「朝日新聞」は1888(明治21)年に東京に進出し,「東京朝日新聞」を創刊,それとともに「大阪朝日新聞」と改称,報道,ニュース中心の中立的な新聞へ脱皮して,大きく発展していった。
明治初期から中期にかけては,大新聞,小新聞の2 つの系譜のほかに,政治色を排して「独立不満」「不偏不党」を掲げた福沢諭吉の「時事新報」(1882・明治15 年創刊)が第三の中立新聞として歩み,明治期を代表する高級紙に成長していった。
このほか、独立系の新聞も生まれてくる。急速な西欧文明の流入に対して,その反動として「日本の伝統に帰れ」と「国粋主義」を唱えた陸羯南(くがかつなん)の新聞「日本」(1889・明治22 年創刊)や,「平民主義」を打ち出した徳富蘇峰の「国民新聞」(1890・明治23 年創刊)などである。
4 日露戦争と新聞
1895(明治28)年の日清戦争の勝利によって,日本は産業資本が確立するとともに,貧富の差が一層拡大し,社会問題の矛盾が顕在化してくる。
そうした中で,「日本のペニー・ペーパー」(廉価新聞)として登場したのが,黒岩涙香の「萬朝報」(1892・明治25 年創刊)と秋山定輔の「二六新報」(1893・明治26 年創刊)である。
両紙は社会問題の矛盾に光をあて,各界名士の「蓄妾の実例」調査などでスキャンダルを暴露したり,「三井財閥攻撃」「廟娼」などのキャンペーンを大々的に行ったり,あるいは労働者懇親会を開くなど・大衆紙としてセンセーショナリズムで人気を高めていった。
20 世紀(明治30 年代)に入ると,新聞はより近代化して今日の新聞の基礎を固めていった。発行部数は大幅に増え,販売競争が激化して,美人コンテストなど営業政策的なイベントや企画が行われ,印刷面でも輪転機が普及し,写真用の多色刷り印刷技術が導入され,出版,薬などの広告も増加していく。
電通の前身である日本広告株式会社と電報通信社が設立されたのも1901(明治34)年であった。
編集面では国際通信綱が整備され、「大阪朝日」はロイターと契約し,「大阪毎日」も海外通信員を配置するなど海外ニュースに力を入れた。
1904(明治37)年の日露戦争は日本の浮沈を賭けた戦いだったが,新聞界はほぼ一致して主戦論を展開し,開戦を唱えた。唯一,非戦論を唱えていた「萬朝報」も最後に開戦論に転換して,幸徳秋水,内村鑑三らが退社する。その後、堺枯川や幸徳らは日本で最初の社会主義的新聞「平民新聞」を創刊して,非戦論,平和論を貫いていった。
日露戦争後の新聞は商業化、企業化が本格的に進んだ。「新聞は戦争で発展する」といわれるが,「大阪朝日」「大阪毎日」は大きく飛躍して全国紙に発展する土台を作った。
「大阪朝日」は日露戦争前には20 万部だったのが,明治末期には35 万部に,「大阪毎日」も20 万部から32 万部に急増したのに対して,「東京朝日」「東京日日」「読売」「時事」は低迷し,強弱をはっきり分けた。
5 大正期・大正デモクラシーの担い手
大正時代の新聞は民衆の運動と歩みを共にしたといってよい。
大正デモクラシーの高まりは「憲政擁護」「閥族打破」「言論の自由の擁護」の運動となって現れるが,その中心的な役割を担ったのは新聞であった。
新聞は藩閥政治の矛盾を追及して,その打倒キャンペーンを行い,「第一次憲政擁護運動」では1913(大正2)年に桂太郎内閣を倒し,翌年起きたシーメンス事件では山本権兵衛内閣を退陣に追い込んだ。
明治以来,内閣が民衆や新聞の世論の高まりによって退陣した例はなかっただけに,民衆は言論機関としての新聞を見直し,新聞の地位は高まった。
力をつけた新聞への巻き返しとして起こったのが「大阪朝日」への言論弾圧事件「白虹事件」であった。1918(大正7)年,「超然内閣」といわれた寺内正毅内閣は世論の反対を押し切ってシベリア出兵を強行,続けて起きた米騒動では,関係記事の掲載を禁止した。
度重なる寺内内閣の強権的な態度に怒った新聞界は記者大会を開いて抗議した。この記者大会の模様を報じた「大阪朝日」の記事の中にあった「白虹日を貫く」(国内に内乱が起こる兆しの意味)の文言があったが、これが「国民に不安,動揺を与える」として執筆した記者と編集発行人の2 人が,新聞紙法違反(安寧秩序素乱)として起訴された。
「大阪朝日」は存亡の危機に立った。村山龍平社長は辞任し,編集局長・鳥居素川のほか,長谷川如是閑,大山郁夫,丸山幹治,花田大五郎ら大正デモクラシーの先頭に立った記者たちが一斉に退社に追い込まれるという,日本の言論史上,最大の筆禍事件となった。
発行禁止をかろうじて免れた「大阪朝日」は,「不偏不党」を編集方針とすることを宣言して,軌道を修正した。この事件をきっかけに,以後,新聞社が一丸となって,反政府キャンペーンを行うことはなくなった。そして新聞の批判精神は低下していき,この年に「大阪毎日」が,翌1919(大正8)年には「大阪朝日」が株式会社となり,企業化が一層進んでいった。
「大阪朝日」と「大阪毎日」が夕刊の発行を始めたのは1915(大正4)年10 月で,大正天皇の即位式(御大典)がきっかけだったが,「萬朝報」など各社が追随した。
組織面でも,明治のころ,社会ダネをとっていた探報員は姿を消して社会部記者となり,それまで紙面も取材もダブっていた政治部,社会部が分離し,国際報道も活発になった。
第一次世界大戦のころからは海外特派員を出す新聞社が増えた。パリ講和会議(1919・大正8 年)やワシントン軍縮会議(1921・大正10 年)では多数の特派員が派遣された。そうした中で,ワシントン軍縮会議では「時事新報」の「日英同盟破棄,四国協定成立」という世界的スクープが生まれた。
6・関東大震災と新聞
1923(大正12)年9 月1 日の関東大震災で,東京では「東京日日」「報知」「都」の3 社を残して,他のすべての新聞社が被災して大打撃を受けた。中でも「時事」「読売」「国民」「やまと」「萬朝報」「二六新報」の各紙は致命的な打撃を被った。被害の大きさと同時に,再建のためにも莫大な資金を必要としたため,各社の資本力の差がその後の生き残りを分けることになった。
「寓朝報」「国民」「時事」など,東京の有力紙が復興に手間取っている間に,「東京朝日」「東京日日」はその資本力にものをいわせ,販売力ルテルを結び,東京の販売界を制覇して,他の新聞を駆逐した。そうした中で「中外商業新報」(日本経済新聞の前身)や「読売」などがやっと生き残った。
1924(大正13)年,「大阪朝日」「大阪毎日」の両紙はともに100 万部を突破し,全国紙としての基盤を固め、大衆新聞の時代に入ろうとしていた。
他のほとんどが衰退していった東京紙の中で,唯一「読売」は正力松太郎が1924(大正13)年に経営に乗り出し,「ラジオ面」の創設やイベント,企画,センセーショナルな紙面づくりなどで、うなぎのぼりに部数を増やし,昭和10 年代には「東京朝日」「東京日日」と肩を並べるまでに発展していった。
大正時代を通してみると,新聞経営の企業化が一層進み,それまで個人経営が多かったのが,資本力の増大による株式会社へ移行する新聞社が増えた。また,言論面でも主義や主張を売り物にする政論新聞から,ニュースや速報主体の報道主義へと変容し,経営的にも編集面でも現代の新聞スタイルが確立された。
つづく
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