『ガラパゴス国家・日本敗戦史』⑪毎日新聞の言論抵抗・竹ヤリ事件の真相④―極度の近視で兵役免除の37歳新名記者は懲罰召集された
2015/01/01
長期連載中『ガラパゴス国家・日本敗戦史』⑪
『挙国の体当たり―戦時社説150本を書き通した
新聞人の独白』森正蔵著 毎日ワンズ』2014)の出版。
大東亜戦争下の毎日新聞の言論抵抗・竹ヤリ事件の真相④
―極度の近視で徴兵検査で兵役免除になっていた
37歳の新名記者は懲罰召集され丸亀連隊へー
森正蔵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%AD%A3%E8%94%B5
『挙国の体当たり―戦時社説150本を書き通した新聞人の独白』森正蔵著 毎日ワンズ』2014)の出版された。
森正蔵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%AD%A3%E8%94%B5
森正蔵の経歴は、
1900年、滋賀県生まれ。東京外国語学校(現東京外大)卒業後、毎日新聞社に入社。ハルビン、奉天、モスクワなどの特派員をつとめ、1940年、屈指のロシア通であることが買われ外信部ロシア課長となる。日米開戦時は論説委員。開戦後いち早く最前線に従軍し、帰還後はその体験を基に健筆を揮い、立て続けに社説で論陣を張った。社会部長で終戦を迎え、その後出版局長、論説委員長、取締役などの要職を歴任、その間に発表した『旋風二十年』(鱒書房)は空前のベストセラーとなった。
1945年(昭和20年)終戦後に東京本社社会部長・出版局長等を歴任し、1950年(昭和25年)取締役に就任し論説委員長となった。1953年(昭和28年)1月11日52歳の若さで、過労がたたったのか病死した。
森氏はたくさんの記事、社説も精力的に書いている稀代の新聞人だが、モスクワ特派員時代から、亡くなる寸前までの17年間にわたって毎日克明に書きとめた四十二冊の日記を残している。
『挙国の体当たり』を出版された森の長男・桂氏のまえがきによると「日記は森がモスクワ特派員の二年目、昭11年12月29日からはじまっている。ドイツからわざわざ取り寄せた大学ノートの書きには、「日記は他人に見せるものではないようだが、誰に見られても恥ずかしくないような日記を書きたいものだ。つまりそういう生活がしたいものである」と記されている。
それからというもの、亡くなる前年(昭和二十七年) の九月まで、仕事で遅くなったときも、酒を過ごしたときも、その後南方の戦線に従軍したときも、病に倒れ入院したときも、絶えず日記帳を携え毎日欠かさず書き続けたのである。さらに、生来の画才を活かして、余白に、折々の世相をイラストで描いている」
というものである。この日記現物を9月30日に日本記者クラブで桂氏から拝見したが、ペン書きの楷書で、誤字訂正、書き直しなどもほとんどなく、しかも従軍日記などのところどころに画家顔負けのイラスト、画が入っており、そのままコピーして出版しても読める素晴らしい日記である。感銘した。
昭和20年までのジャーナリストの日記はあるようであまりない。書くのが仕事、もとものジャーナリズムの語源は日記であるのに、日々の取材、出来事、見聞、体験をきちんと書き残した記者があまり多くないことに、日本のジャーナリストの意識低さが反映されている。
100年続く記者クラブの大弊害―同じネタを記者クラブにいて、各社記者がよってたかって、同じ中身の薄い役所発表の広報文をヨコをタテにして書き写しだけのルーティンをしただけで、『●×新聞記者でござい』と威張っているだけの、高給を食んで、政府、役所PR記者がほとんどであると、私の記者経験から言わせてもらう。
つまり、新聞、出版、テレビその他のジャーナリスト、記者は名刺の肩書き通りの会社、組織サラリーマン完全従属記者で、ジャーナリストとは何をなすべきかという職務意識がまるでないのが大半なのである。
森の戦時下の日記は日本のジャーナリストの記念塔と思う。正木ひろし「近きより」桐生悠々の「他山の石」清沢洌(きよさわ きよし)の『暗黒日記』などはすでに、広く知られているが、森日記に緒ついては、来年戦後70年を前に全文を出版もしくは電子公開する価値があると思う。
特に、昨今の「朝日新聞の従軍慰安婦問題」をめぐる日本の大新聞(朝日、読売,産経、毎日、日経,共同、地方紙もすべての新聞、週刊誌(週刊文春,新潮、ポストなどなど)にみられる歴史健忘症、歴史認識の低レベル、木を見て森を見ない、視野狭窄症、空気に支配される、国際感覚、認識の恐ろしい欠如)は清沢洌が指摘している<ガラパゴス死に至る日本病>の再発で「大東亜戦争当時」とあまり変わっていないと思う。
私は7年前に「太平洋戦争と新聞」(講談社学術文庫)なる本を書いたが、当時の新聞内ジャーナリストに新聞法、出版法で言論の自由はほぼ100%奪われていた中で、日記に戦争の真実をかいて、発表できる時期が来れば発表する<真実追及、記録するジャーナリスト>が皆無であったことこそが、日本のジャーナリストの敗北「日本に本物のジャーナリストは皆無」であり、新聞の書くべきことを書かなかったより、そのジャーナリストの本分果たさなかったということの恐ろしい証明なのである。
森はその中で、例外的なジャーナリストとして、「旋風20年」で昭和20年12月の敢然とそれを実行しているが、彼の残した日記に「勇敢なる、持続するジャーナリズム精神」が現れているとおもう。
これから、森日記を引用しながら、シリーズ『15年戦争の真実』に迫りたいとおもう
大東亜戦争下の毎日新聞の言論抵抗・竹ヤリ事件③
新名は海軍省からかけつけた一軍務局員に見送られて、たった一人、丸亀連隊に入隊した。前代未聞の一人入隊であった。
この新名の家庭事情、社内でのやりとりについては森日記ではこう書いている。
三月一日 晴れ
心ばかりの品々を持って、松沢の新名の家を訪ねてゆく。案外簡単に家のありかはわかったが、行ってみると小さい子供が四人もいて、そのうちの一人は重い病気にかかっているという。
これを残して行くのかと思うといいようのない気持ちが湧く。彼の家の酒も飲み干してないので、そういうこともあろうかと用意していったウイスキーで、南の日当たりのよい縁側で別盃を飲み交わし、一緒に社に出かける。八幡山の駅までは、彼の家族と隣組の人たちのさやかな見送りがあった。彼は今夜の汽車で四国の丸亀に向かい、そこの連隊に入るはずである。
三月二日 曇り、晴れ、やや風強し
新名が召集解除になったという報あり。よくもそういう運びになったものだと驚く。他の場合とは違って、今度の入営は決してめでたくはなかったのである。帰ることができてよかった。
三月三日 曇り、風やや強し
新名の召集解除命令が取り消された。丸亀の連隊区司令部で入営には及ばぬといったものを、今度は陸軍省から、そんな命令は効果なしといってきたのである。問題はいよいよ紛糾してきた。昨日社でも今度の問題と関連するごとく、せざるがごとく、編集人に異動を加えた。吉岡、加茂が退き、阿部賢一(その後、早大総長)が主幹と編集局長を兼ねることとなった。しかしこんなことでは及ぶまい。押してくる手が只事ではない。こちらももっと根底から対策を立てなければならぬ。
以下は
新名記者が自ら語る『竹槍事件』(「沈黙の提督、井上成美 真実を語る」新名丈夫著 新人物文庫(2009年)によると、新名の独白である。
特別扱いの二等兵
身体検査で、衛生兵が軍医に報告した。
「この眼ではダメです」、だが、軍医将校は私にささやいた。
「ご苦労だが、つとめて下さい」
すぐ重機関銃中隊に配属され、中隊長滝川大尉が私をよんで、身上調査となった。
連隊では表面でこそ事件のことは口にせず、素知らぬ顔をしていたが、私を特別扱いの二等兵にした。ひそかに内命が出ていたにちがいない。士官、下士官、古兵(一等兵)がことごとく、私に親切にした。
どこでも新兵は殴られるものにきまっていた。ところが丸亀連隊では、厳重な私的制裁禁止の命令が出ていた。幹部がくりかえし、そのことを口にした。たまたま一人の下士官が部下を殴って、営倉に入れられたりしていた。
重機関銃隊の練兵はつらいものである。垂機関銃の分解搬送は、一人八貫(三〇キロ)、弾薬箱も同じ重さだ。
毎日、練兵場から出発して付近の山へ演習に出かける。見習士官が命令を出す。「これより前進開始!」といって、つづけるのであった。
「新名はこの場にのこって、付近の情況偵察!」
やがて伝令がやってくる。「適当な時間がきたら、兵舎に帰って休んでおれ、という命令だ」一
練兵場で銃剣術がある。私には「見学」の命令が出る。しかも、「木陰の涼しいところへ行って休んでおれ!」というのだ。
内務斑で辛いのは、毎朝の厩(便所)掃除である。軍曹が大声で中隊に呼出しをかける。
「各班から七名、厩掃除!」
みんな、おっくうがって二の足をふむ。古兵がどなりたてる。それを見かねて私が飛び出そうとしたら、古兵が、「おっと、新名は機関銃手入れ!」
機関銃手入れが、一番簡単なのである。
私は艦隊従軍中、湿気の多い艦内生活がたたって、坐骨神経痛にかかっていた。入隊後、それがひどくなった。
滝川中隊長がそれを知って、「灸をすえてやろう」といった。「中隊長室へ来い」というのを遠慮していたら、「俺を信用しないのか」といって、灸の本を二冊持ってきて、
「こんなに勉強しているのだ」と納得させようとした。それでも、新兵が尻をまくって中隊長に灸をさせるわけにはいかないと辞退したら、
「古兵をつけてやるから、町の灸師のところへ通え」
と、いってくれるのであった。
とうとう、ある日、全員集合のとき、中隊長は壇上から私に、
「帰るまでに一度、俺の灸をうけろ!」
とまでいった。除隊になるということを、私に知らせたのである。
つづく
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