終戦70年・日本敗戦史(149)『15年戦争での新聞各紙の戦争責任論①―朝日新聞の場合>社説『自らを罪するの弁』●「社説『新聞の戦争責任清算』●<社告>『戦争責任明確化―民主主義体制を確立、 社長、会長以下重役総辞職』●<宣言>『国民と共に立たん』
終戦70年・日本敗戦史(149)
『15年戦争での新聞各紙の戦争責任論①―朝日新聞の場合>
1945年8月23日 <社説>(岩手日報もこの社説を掲載)
社 説『自らを罪するの弁』
詔に曰く「独り至尊をして社禝(しょく)を憂えしむ」と。今日かくの如きことが断じてあるを許されないのである。
否、いつの世にあっても、我国に関する限り、断々平としてかくの如きことがあろうはずはないのである。
過ぐる一五日の正午、一億国民の耳朶(じだ)を激しく打ち、国民の胸奥を強く揺すぶった玉音は何人も終生忘れ得ないところであり、必ずや子々孫々言い伝え、語り継いで永遠の戒めとするに相違ない。
越えて一七日、大元帥として陸海軍人に腸わった勅語によっても、新なる時局に関する御信念の深さのほど拝察に余りあることが知られるのである。誠にこの末曽有の難局を洞開すべきの秋、断じて古語の憂を新にするが如きことがあってはならない。
思うに事志と違って邦家が今日の悲運に立なく、一億国民の共に皆に負うべきものであらねばならぬ。さりながら、その責任には自ら厚薄があり、深浅がある。特に国民の帰すう、世論、民意などの取扱に対して最も密接な関係をもつ言論機関の責任は極めて重いものがあるといわねばなるまい。
この意味において、吾人は決して過去における自らの落度を曖昧にし終ろうとは思っていないのである。いわゆる「己れを罪する」の覚悟は十分に決めているのである。過去における周囲の情勢と、その間に処し来った吾人自身の態度とについては、多くの場合、止むを得ない事情もあり、それぞれ一定の理由も説明せられないでもない。
しかし今となって見れば、吾人の為すべき道は外になかったかどうか、仮に外になかったとしても足の運び方には今一工夫あって然るべきではなかったかどうかを虚心坦懐に省る必要があるのである。
個人としての吾人は必ずしも全部が優柔不断であったとは信じられない。しかし組織の一部にあることを思う時、この組織を守り通す必要を余りに強く感じたが故に、十分に本心を吐露するに至らなかった場合もないではない。言論人として必要な率直、忠実、勇気、それらを吾人の総てが取り忘れていたわけではない。
もちろん当時における施策と吾人の属する組織との要請に従うべきは当然の話ではあるが、しかもその結果として今日の重大責任を招来しなかったかどうか。吾人の懸念は実にこの一点にかかっている。
吾人自ら如何なる責任も如何なる罪もこれを看過し、これを回避せんとするものではない。わが親愛なる同胞諸君に対しては如何なる贖罪(しょくざい)もこれをなすに吝(やぶさ)かなものではない。しかしながら、やがて連
合国から来るべき苛烈な制約の下に、我が同胞の意志を如何に伸暢せしめ、その利益を如何に代表すべきか、これこそ今後の我国言論界に課せられた新なる重大任務である。
邦家を此(この)難局に立到らしめた責任は同胞全体の賦(わか)つべきものであり、特に吾人言論人の罪たるや容易ならぬものがある。吾人は一面過去における吾人の責任を痛感し、如何にかしてこれを贖(あがな)はんと苦慮しっつ、他面、明日の言論界の雄健なる発展を望んで止まないものである。新首相の宮殿下が一七日朝の御放送において「活発なる言論と公正なる世論に期待」せられた御趣旨にも副(そ) い奉るべき我が言論界に希望を繋ぎつつ玄(ここ)に先ず己を罪せんとする所以(ゆえん) である。
1945年10月24日 社説『新聞の戦争責任清算』(中国新聞もこの社説を掲載)
終戦の大詔を拝してより未だ旬日を出でざるの時、吾人が「自らを罪するの弁」と題する一文を本欄に草してよりここに満二か月、今しも吾人はこの弁を徐(おもむ)ろに行動に移すこととなったのである。この満二か月こそは新生日本にとって未曽有の苦難の二か月であったが、吾人にとってもまた無限の激動(?) の二か月であった。如何なる形において吾人の過去を清算すべきか。
如何にすれば光輝あるわが朝日新聞の伝統を保持しっつ、しかも新生日本の新生新聞紙たるにふさわしき建生をなし遂げ得るか。そこに吾人従業員五千余名に共通の憂慮と苦心とが懸けられていたといってよい。
世上に流行する小手先の擬装の如きは吾人のともに齢せざるところ、新装は速度を尊ぶが、さればとて功を急ぎ焦慮するの余りそれが徹底を缺(か)くならば遂に天下の期待に副(そ)い得ないのである。
かくて昼夜難行、情理を尽す折衝が重ねられた結果、全社員の盛上る総意は結晶して、ここに全社一致の円満なる脱皮の段階に到達することが出来たのである。
ファッショ的空気に包まれた事実と、これを阻止せんとする外力との痛ましき正面衝突に由るものといって差支えない。しからば謂うところのファッショ的空気そのものは、果していつごろからわが国に浸潤するにいたったものであろうか。
軍事的に見れば満洲皇姑屯における張作霧爆死事件に発し三月事件、満洲事変、十月事件から支那事変への途を通ったものといってよかるべく、政治的にいえば防共協定、新体制運動、三国同盟の順(?)を遂うて進み、また経済的には内閣調査局の設置に始り、総動員法に拍車せられた統制経済運動の強化を踏切台として飛躍した感があるが、これに附随する各般の文化運動を加えて遂に悠久三千載、かって敗戦の汚れを知らぬわが大和島演を悲痛なる大東亜戦争の渦中に引摺り込んでしまったのである。
その間、吾人は当初は敢然、顕然と、中ごろは隠微の裡にかかる傾向への批判および抗争の態度を捨てなかったことは今日なお断言して憚らぬところである。
回顧すれば支那事変の勃発に先立つ一年有余、かの歴史的な二・二六事件に遭遇していよいよわが朝日新聞の存在を中外に誇示した結果として、米国ミズーリ大学より栄誉ある反軍閥紙としての表彰を受けた吾人も、近衛新体制運動以後、政府と一々歩調を共にするのやむなきにいたり、大戦直接の原因の一つをなす三国同盟の成立に際してすら、一言の批判、一襞(ぴ)の反対をも試み得なかった事実は、もとより承詔必護の精神にもとづくものであったとはいえ、顧みて忸怩(じくじ)たるものあり、痛恨まさに骨に徹するものありといっても過言ではない。
それのみならず、終戦以後、滑々として軍部、官僚、財閥への弾劾の火の手のあげられつつある世風に対して、吾人またこれに同じてひたすら人後に落ちざらんことを努めているといわれても一言もない。
もとより新生日本の出現のために、この種の過去一切への仮借なき批判と清算とが必要なる第一歩をなすことは確かに否めない。されば吾人は同胞各方面に残存する誤れる旧殷(きゅういん) に対しては断然切開のメスを揮(ふる)うを躊躇すべきでないが、しかしながら他を裁かんとすればまず自らを裁かねばならぬ。他を浄めんとするならばまず自らを浄めなければならぬ。
ことに新聞にとってはこのことが不可欠(けつ)の前提をなす。吾人が今にして決然起って自らの旧殻を破砕するは、同胞の間になお遺存する数多くの残淳の破砕への序曲をなすものである。吾人は顧みて他をいう前に、まず自らが生れ変って同胞の前に、そしてまた世界の前に新なる姿を示さんとするのに外ならない。
天下の公器としての朝日新聞が新生日本と歩調を合せて民主的日本の実現に雄々しく精進するためには、これこそまずなさるべき最小限の要請である。
光輝あるわが朝日新聞の伝統を新時代に即応して躍動せしめ発展せしめんために吾人は謙虚なる反省とささやかなる衿拝をもって、これだけを先ず敢て天下有識の士に告げんとするものである。
1945年10月24日 <社告>『戦争責任明確化―民主主義体制を確立―
社長、会長以下重役総辞職』
新聞の戦争責任については終戦後より朝日新聞社内に於て論議されて来たが今般、村山社長、上野取締役会長ら本社最高首脳部側も慎重協議の結果、二十二日夜にいたり朝日新聞の戦争責任を明確ならしめるため社長、会長は自発的に社主の地位に退き、全重役は辞任することに方針を決定した。
これとともに社内の民主主義体制を確立するため全従業員の総意を反映する機関を設置することとなり、ここに朝日新聞は完全なる脱皮を遂げて新しき日本の建設過程にあって言論機関か果すべき重大使命の達成に邁進することとなった。
大東亜戦争か敗戦をもって終結した直後から各新聞社内に新聞の戦時中に果した役割に鑑みその責任を明確にすべしとの論が台頭しっつあり、朝日新聞社内にあってもこの論議が行われて来た。
この間、軍閥、官僚、政治家、財閥などの戦争責任を明確にすべしとの世論は澎湃(ほうはい)として起り、これとともに新聞自体の責任論も最近に至って朝日新聞社内の全般的な意見として表面化した。東京、大阪、西部三本社編集局全員の意向として朝日新聞の戦争責任の明確化と社内民主主義体制確立の二点につき具体的に意見の一致をみ、これを村山社長に具申した。
一方、社長、会長ら首脳部側においてもすでに戦争責任措置にかねて考慮をめぐらしていたが、全社にみなぎる以上の空気に徹してさらに協議を重ねた結果、自発的に社長、会長は社主の地位に退き、全重役、編集総長、東京、大阪、西部三編集局長、論説二主幹は辞職して朝日新聞の戦争責任を明確にすると共に社内の民主主義化を実現するためその機構、運営などについては従業員の総意を反映せしめる体制を準えることに決定した。この決定は従業員側の意向と全く一致するものでぁり、ここに朝日新聞社は面目を一新して進歩的かつ民主的な新聞を作製して新日本建設へたゆみなき挺身をつづけることになった。
1945年10月24日 <宣言>『国民と共に立たん』-本社、新陣容で「建設」 へ
支那事変勃発以来、大東亜戦争終結にいたるまで、朝日新聞の果したる重要なる役割にかんがみ、我等ここに責任を国民の前に明らかにするとともに、新たなる機構と陣容とをもって、新日本建設に全力を傾倒せんことを期すものである。
今回村山社長、上野取締役会長以下全重役および編集総長、同局長、論説両主幹が絵辞職するに至ったのは、開戦より戦時中を通じ、幾多の制約があったとはいえ、事実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果し得ず、またこの制約打破に微力、ついに敗戦にいたり、国民をして事態の進展に無知なるまま今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せんかためである。
今後の朝日新聞は、全従業員の総意を基調として運営さるべく、常に国民とともに立ち、その声を声とするであろう。いまや狂瀾怒涛の秋、日本民主主義の確立途上来るべき諸々の困難に対し、朝日新聞はあくまで国民の機関たることをここに宣言するものである。
朝日新聞社
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