『Z世代のための日本興亡史研究①』★『聖将・東郷平八郎元帥の栄光と悲劇」★『ネルソンに匹敵する日本海海戦で完勝した東郷平八郎の戦略が約40年後の太平洋戦争の大敗北につながった』
<2009、04,020>日本興亡学入門⑦記事再編集
歴史の逆転=<栄枯盛衰・奢る平家は久しからず、ただ春の夜の夢のごとし[平家物語]>は歴史のサイクル。日露戦争の大勝利が太平洋戦争の大敗北につながった。
前坂 俊之(静岡県立大名誉教授)
「武田信玄」戦勝訓よりー「およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は五分は励を生じ、七分は怠を生じ、十分は驕を生じる。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗れるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」(『甲陽軍鑑』)
1・・『タイム』の表紙に掲載された最初の日本人・東郷平八郎
東郷平八郎連合艦隊司令長官は世界的週刊誌『タイム』誌の表紙を飾った最初の日本人である。
明治三八年(一九〇五)五月、日本海海戦で東郷の率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅したことで、日露戦争に勝利した極東アジアの小国・日本は一挙に西欧列強の仲間入りを果たした。「アドミラル・トーゴー」の名は「東洋のネルソン」として世界に響き渡った。
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慶応三年(一八六七)六月、東郷は分家して一家を興した。戊辰戦争では春日艦に乗組んで、東北や函館に出征して功を上げ、明治四年から七年間、英国に留学し海事を治めて近代海軍の姿を学んだ。明治十一年(一八七八)帰国後に中尉に任官し、海江田テツと結婚する。この時、東郷三二歳でテツは十七歳。
日清戦争では浪速艦長として豊島沖海戦に参加。「高隆号」撃沈事件で一躍、世界的にその名を知られた。戦争末期に少将に進んで常備艦隊司令官となり、台湾にも出動した。三八歳から四十歳にかけては一時体調を崩し、病気療養が続いた。
2・・予備役寸前を山本権兵衛に救われ、大抜擢
その後、海軍大学校長、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府の各司令長官を歴任するなどして明治三十七年、五十六歳で大将に昇進した。海軍内ではどちらかといえば、傍流を歩み、特に病気勝ちで目立たない地味な存在といってよかった。
海軍が大整理を行った際、予備役となる寸前を「東郷はもう少し様子をみましょう」との海軍大臣・山本権兵衛が一言で、あやうく救われたのは有名な話である。
日露開戦四カ月前に連合艦隊司令長官に、当時の常備艦隊司令長官の日高壮之丞ではなく、大方の予想をくつがえして舞鶴司令長官だった東郷が大抜擢された時、周囲に大きな驚きを持って迎えられた。
日露戦争の開戦四ヵ月前、連合艦隊司令長官には当時の常備艦隊司令長官の日高壮之丞ではなく、予想をくつがえして退役寸前で注目されなかった舞鶴鎮守府長官の東郷平八郎を抜擢した。
誰もがこの人事には驚いたが、明治天皇からの御下問に対して、山本は抜擢の理由について「東郷は運の強い男ですから」と答えた。
舞鶴鎮守府司令長官に格下げされた日高中将はカンカンに怒って、刺し違える覚悟で短剣をもって山本海軍大臣の官舎を訪れた。
「貴様は我が輩を侮辱するのか、なぜわしをさしおいて後輩の東郷を連合艦隊司令長官にしたのか。理由によっては貴様を刺し殺す」と息巻いた。
山本は落ちついて「日清戦争でも貴公は数多くの武勲をたてたが、海軍軍令部の命令を無視する行動が多かった。今度の戦争はそうはいかない。軍令部と緊密一体となった作戦行動には東郷が一番じゃ。これまでの東郷のやり方を見るとわかるじゃろう」と東郷の長所をじゅんじゅんと挙げた。日高は納得して引き下がった。
3明治天皇に彼は『運が強い男だから』
心配した明治天皇に対して山本権兵衛は「彼は運が強い男ですから」と答えた。日高の健康が優れなかったこと、東郷の「高陸号」撃沈事件で見せた的確で周到な行動力、英国で身につけた国際海洋法の秀でた知識、独断専行型の日高と違い海軍軍令部との緊密一体となった作戦行動には東郷がうってつけであることなどが抜擢の理由であった。
東郷は日本海海戦でカリスマ的な指揮能力を発揮して、バルチック艦隊の通過コースを対馬海峡であると的確に予測して迎撃し、海戦では敵前での決死的な丁字戦法(敵前大回頭、東郷ターン)によって日本側の損害は最小に抑えてバルチック艦隊を全滅させた。
4 日本海海戦で完勝!
日本艦艇の損失は水雷艇三隻に対して、バルチック艦隊は撃沈された戦艦、巡洋艦十六隻、撃破自沈五隻、捕獲六隻など、ウラジオストックに入港できたものは合計五〇隻からなるバルチック艦隊で巡洋艦などわずか三隻しかなかった。ロシア側の戦死者約五千人、捕虜約六千人に対して日本側戦死者百十人という世界の海戦史上にもない空前絶後の勝利をおさめた。この結果・東郷は「海戦の神様」、「聖将・東郷」「強運の提督」としてあがめられ『東郷神話』が生まれる。
国民的英雄となった東郷は以後軍令部長(四年間)を歴任、日露戦争の偉勲により功一級金璃勲章、大勲位菊花大褒章を受け四十年九月には「男爵』「子爵」を飛ばして一挙に伯爵を授けられた。
軍人出身で大臣、総理大臣などを歴任した山県有朋・大山巌らは公爵、侯爵を授けられたが、政治経験のない軍人一筋では最高位であった。
大正二年(一九一三)四月に元帥に列せられ、翌三年、東宮御学問所総裁となり以後、
七年間にわたって皇太子(昭和天皇)の教育の担当となった。皇室の藩屏となる華族制度そのものからみても象徴的な地位についたのである。
5「軍神・東郷神話」を作る
この学問所で幹事を務めていたのが小笠原長生(海軍大佐、その後子爵)で、小笠
原は「東郷の副官」として東郷の「偉勲」のみを強調した伝記を何冊も書き続けて東郷
の英雄、神格化を熱心に進めていった。
日本海海戦の稀に見る勝利は世界にも日本にも計り知れない影響を与えた。以後の世界の海軍戦略を一新させ、戦艦の巨砲同士の打ち合いで勝敗が決まる「大艦巨砲主義の時代の幕を開き、世界的な軍艦建造競争が始まった。
「勝って、カブトの緒を締めよ」とは連合艦隊解散式での東郷の自戒の訓示だが、結局、この完勝に東郷も海軍も眼がくらみ、以後の海軍戦略が航空母艦や航空機が中心へと移っていく中で、あくまで日本海海戦を金科玉条として、艦隊決戦で勝負をつける時代遅れの戦法に固執していく。東郷神話の成功のワナに陥り、その後の海軍戦略の変化の見通しを誤り、日本を敗北に導くタネとなった。
6 海軍内で絶対、神格化
日露戦争後の東郷は神様扱いであった0元帥として君臨し、長生きして昭和に入ると、元老は西園寺公望ただ一人となるが、東郷も海軍の最長老、元老役として海軍・軍部内でも絶対的な権威と化して、誰も反対できない雰囲気を作った。
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日本の方針は「補助艦全体の総トン数、大型巡洋艦ともに対米比率を七割とする」というものだったが、艦隊派の加藤寛治軍令部長らが猛反対、政府が米比率を「六割九分七厘五毛」で妥協したのにも、東郷は「七割が受け入れられなければ、断固引揚げるのみ」との強硬な指示を出した。
7 ロンドン軍縮会議で統帥権干犯、老害の極みに
東郷を頂点とした艦隊派のグループは条約調印に強硬な反対論を並べて加藤軍令部長が、いわゆる「統帥権干犯問題」を引き起した。
昭和九年(一九三四)五月、東郷は八十六歳で亡くなるが,それに先だって侯爵を隆爵した。大艦巨砲時代のシンボルとして無用の長物となった巨大戦艦「大和」の建設着工が始まったのはそれから三年後のことである。
日露戦争の成功と、太平洋戦争の失敗は東郷の功罪にぴったりと重なる。東郷の輝かしき日本海海戦の前半生の勝利と比べ、その晩年は艦隊派に担ぎ出されて頑迷固随となり誤った判断をしてしまう、まさに老害といってよい存在と化した。ところで、最新の研究では日本海海戦での輝かしい『東郷神話』も事実とは異なることが次々に明るみに出ている。
8 東郷神話の真実が明かになる
最近明らかになった『極秘明治三十七八年海戦史』や、それに基づく野村実著『日本海海戦の真実』講談社新書(一九九九年刊)、田中宏己著『東郷平八郎』筑摩新書(一九九九年刊)などの研究によると、バルチック艦隊のコースを対馬海峡ではなく一時、東郷も迷よいに迷って津軽海峡と予測して艦隊を北進する寸前であったこと。
丁字戦法そのものが東郷の決断や秋山真之作戦参謀の考案したものでもなく、山屋他人大佐(日本海海戦では『笠置』艦長)の発案を採用し、何度もリハーサルを重ねて失敗し四度目の実戦で成功したことなど、東郷神話のベールがはがされている。
「海軍の神様」、伯爵として頂点を極めた東郷の晩年は政治の世界を離れると、「足るを知る」を信条として貫いており、若い時とは違ってカネに不自由はなかったが、生活は質素そのものだった。
佐藤国雄著『東郷平八郎・元帥の晩年』(朝日新聞社、九〇年三月刊)によると、麹町
の自宅は古い昔のままで、板塀はボロボロで壁には紙が張って継ぎばぎしてあった。
昭和四年冬、カゼで東郷が寝込んだ時、家族が電気ヒーターを入れようとしたら「炭火でたくさんだ」と一喝した。
9 晩年の東郷の生活は質素そのもの
電気スタンドの笠も古くてポロポロになると、菓子折りの包装リボンを代用して巻いてそのまま使っていた。趣味は碁で、妻テツと碁を打って時間をつぶすことが多く、「フラジスの老農夫」そのもので、庭木いじりも大好きだった。
長男・彪著『吾が父を語る』によると、亡くなった平八郎の部屋を整理していたら、机の引出Lから小さい箱が出てきた。開けてみると、糸と針が二、三本入っていた。長い艦上生活で衣服は自ら裁縫する習慣が続いたのである。
また、東郷の艦上生活で留守中に妻が、時間を持て余しマッチの箱張りの内職をして収入を得ていたという美談調の記事が新聞に掲載されたが、東郷はその記事をみて『自分は、お上から十分な俸給を頂いて、家族を困らせるようなことはしたことがない。内職をさせたとは侮辱するもの』と激怒した、という。彪は「五十年間で父の怒った顔をみたのは、この時だけだ」と回想している。
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