「Z世代への遺言」「日本を救った奇跡の男ー鈴木貫太郎首相②』★『ルーズヴエルト米大統領(68)死去に丁重なる追悼文をささげた』★『鈴木首相とグルー米国務省次官のパイプが復活』★『ポツダム宣言の受諾をめぐる攻防』★『鈴木首相の肚は聖断で一挙にまとめる「玄黙」戦略を実行 』
2024/08/19
ルーズヴエルト米大統領(68)死去に丁重なる追悼文をささげた。
鈴木首相の就任1週間後の4月14日に米ルーズヴエルト大統領(68)が突然、死去した。これに対して敗北寸前のドイツの新聞は一斉に「戦争を仕掛けてきた張本人」と悪しざまにののしり、ヒトラーは「運命が史上最大の戦争犯罪人、ルーズヴェルトを地上から取り除いたこの時点で、戦争は決定的な転機を迎えるだろう」と述べた。
これに対して鈴木首相は、大統領の人身攻撃は一切せず、戦時の同大統領の不屈の闘志をたたえる追悼文を同盟通信から発信した。この鈴木談話は日本の新聞には載っていないが、「ニューヨーク・タイムズ」(4月15日付け)が大きく報道した。
「日本の同盟通信社の報道によると、ルーズヴェルト大統領の指導力は実に効果的だったので、米国の優勢な地位をもたらしたことを私は認める。彼の死去が米国民に大きな損失であることもよく理解できるので哀悼の意を表する。しかし、同氏の死去で日本に対する戦争努力に変化するとは考えていない。日本の英米の武力政策と世界支配に対する戦争継続の決意にはいささかの動揺もない」。
この鈴木首相の追悼発言に衝撃を受けた人物がいた。ヒトラー政権が誕生した1933(昭和8)年に米国へ亡命した世界的作家のトーマス・マン(1929年ノーベル文学賞受賞)です。トーマス・マンはBBCラジオで米国から亡命通信放送していたが、ル大統領死去について、鈴木首相が故人を偉大な指導者と呼び、米国民に哀悼の意を表明したことに驚き、「ドイツと違って日本人には、騎士道精神と人間の品位、死者への畏敬の念が存在する」と絶賛した。
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鈴木首相とグルー米国務省次官のパイプが復活
はこの鈴木の追悼発言を歓迎したことを自らのプロパガンダ放送で伝え、ここに鈴木首相と親日派のグルー米大使(当時は国務省次官)らとのコミュニケーションが復活、両国で一体となって終戦工作と国体護持に協力するパイプができた。
すでに、開戦後、帰国船で帰っていたグルー米大使は44年12月に国務次官に就任しており、過去10年にわたる日本大使の経験を通じて、日本の天皇制の特殊性を十分理解し、日本陸軍の満州事変以降の満州国建国などの軍拡暴走主義は日米戦争に発展する可能性が大きいことを予測し、最終的には日米戦争に破滅するまで止まらないと、「グルー日記」の中で、書いているほどのインテリジェンス(先見性、情報分析力)のある外交官。
10年間の在任中に幅広い人脈と親米派を築いており、和平派の昭和天皇との交友や、その取り巻きの海軍の斎藤実、鈴木貫太郎、松平恒雄(宮内大臣)、広田弘毅(首相)、幣原喜重郎(首相)、吉田茂、牧野伸顕(外相、内大臣、吉田の義父)、樺山愛輔(伯爵、日米協会会長、白洲正子の父)らと交友を深めて情報交換していた親日派のトップです。
2・26事件から10年後、奇跡的にトップに立った鈴木首相とグルー米国務次官のパイプが復活、鈴木首相の発した丁重なルーズベルト大統領への追悼発言は、グルーに対しての和平、終戦のシグナルを発したもので、鈴木首相のインテリジェンスの高さを示している。
一九四五年二月、クリミヤ半島のヤルタで米英ソ首脳会談があり、日本の戦後処理も議題になった。この時、グルー次官は、海軍のニミッツ元帥や心理作戦担当者ザカライアス大佐と会い、「日本軍を無条件降伏させるには、天皇が必要である。日本人と日本軍が喜んで従う唯一の声は、天皇の声である。いいかえれば、天皇は数万人の米国人の生命を救う源泉である」と献策し、これが米国務省の天皇にたいする基本姿勢になった。
ザカライアス大佐(1890―1961)は海軍士官で、米海軍情報部員。1920年(大正9)に米海軍の語学研究生として来日、日本語に堪能になり、以来1945年まで日本の海軍暗号の解読と日本情報分析の専門将校として活躍し、「フリードマン(日本の暗号(マジック)を解読した人物)とともに「米海軍史上軍最高の情報部員」といわれた海軍諜報部員です。
約40年間の情報活動で、日本人脈は豊富で鈴木首相は軍令部長時代から知っており、日本海軍の主要メンバーはもちろん、天皇関係の行事、パーティーに数多く招待されており、特に高松宮と親しく、1929年(昭和4)には高松宮が新婚旅行で米国を訪れた際には通訳として米国内を案内している。
1945年4月、海軍情報部から戦争情報局(OCI)次長に転任、日本の和平派をバックアップして終戦に導くための心理作戦ラジオ放送「ザカライアス放送」(短波放送、15分間)
を自ら日本語で放送した。ドイツが降伏した直後の1945年5月8日に第一回目を放送。ポツダム宣言公表後の8月2日までの計14回続けた。
5月12日の第2回目の放送では、「軍隊の無条件降伏」はあくまで「軍事指導者の排除で「日本人のせん滅や奴隷化を意味しない」と述べ、この考えを毎回放送して、早期の降伏を勧めていました。
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天罰発言事件の騒動
鈴木首相は6月9日に「戦時緊急臨時法案」を審議する臨時議会を開催した。日本はナチス・ヒトラーのような専制独裁国家ではなく、法治国家・立憲君主国であることをアピールするためで、世界から注目された。
鈴木首相は施政方針演説で
① 本土決戦の準備はできており、兵士も国民の士気も非常に高い。
② 米軍の日本本土上陸には50万人にのぼる米兵が犠牲者になる。
➂ 昭和天皇は平和主義者であり、国体護持が終戦の条件であること―
などの明確な終戦の条件を発信した。
さらにこの中で、大正7年の米国遠征時のサンフランシスコでの「日米戦わず、戦えば両国に天罰がくだる」というスピーチをそのまま引用した。当初の文面は「両国に天罰が下る」とあったが、閣僚たちが問題発言として「日本を省き、米国にのみに天譴(てんけん、天罰と同じ意味)が下る」に書き直した。鈴木首相はこれをみて怒り「私の意図とは違う」と反対し、「両国に天罰が下る」と元に戻して演説した。
「太平洋は平和の海で日米貿易のために天の与えた恩恵で、もしこれを軍隊搬送(戦争の海)のために用いれば、必ずや両国ともに天罰を受ける。米国は我が国に無条件降伏を揚言し、わが国体を破壊し、わが民族を滅亡に導こうするもので、断固、戦い抜く決意である」
予想通り、護国同志会(陸軍系の右翼会派)から天罰発言に質問がでた。耳の遠い鈴木首相は天罰を天佑と聞き違えて失言答弁をしたため「口では本土決戦を怒号しながら、本音は米国への終戦の合図ではないのか」、「不敬罪だ、大逆不逞(たいぎゃくふてい)の輩だ」と激しく攻撃し、議場は怒号とヤジで大混乱となり、いったん休憩に入った。
控室で閣僚たちは「内閣総辞職か?」と震え上がっていると、帰ってきた鈴木首相は「先ほどの議会で、首相が壇上で笑ったのは怪しからんと、顔面攻撃がありましたが、笑い顔は私の地顔でね。2・26事件の時もそういわれましたよ」と大笑いし、議会の大混乱なぞどこ吹く風で、葉巻をプカプカふかしながら新聞をひろげて一人悠然としていた。
閣僚たちはその態度に度肝を抜かれ、日清、日露の大海戦の最中に艦橋に泰然として立っていた鈴木提督の姿を見た思いだった」と語っている。「
鈴木演説は「国民の士気と軍の士気」を最後まで温存しつつ、国体護持(天皇制の維持)こそが日本の終戦条件であるという明確なメッセージを発信したのです。これに対して、ザカライアス放送は早速反応し無条件降伏は軍隊に対してのもので、決して日本国民の奴隷化、絶滅を意味するものではないことを再度、強調した放送を流して和平に導いていった。
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ポツダム宣言の受諾をめぐる攻防
ポツダム宣言発令(7月26日)後は、黙殺発言(同28日)、広島原爆投下(8月6日)、長崎原爆投下、ソ連参戦(9日)と続いた。しかし、土壇場ギリギリに追い込まれた陸、海軍は敗北を絶対に認めず、「一億一心」「一億玉砕」「神州不滅」「本土決戦」「死中に活を求む」などの戦時高揚スローガンを怒号し、国民義勇隊を創設し老人、女性や子供まで交えての竹やり戦術(約500年前の戦国時代の農民の落武者狩り)などのファナティック(狂信的)な「アナクロニズム」(時代錯誤)に陥った。これは「皇道派」の荒木貞夫陸相が提唱した竹やり300万本をもって日本の防衛を行うという「三百万本論」からきている。
この狂暴化した陸海軍、軍部が当時国内の最大戦争集団であり、反対、平和などを口にすると抹殺される極限的状況下で、この暴れ馬を綱をつけておとなしく厩舎に連れてゆくのは、至難中の至難だった。
8月6日の広島の新型爆弾が原爆であると確認した鈴木首相は9日朝「玄黙」の「動は不意をつき、謀は他人に知らしめず」を実践します。「閣議で、自分から終戦に関する意見をはっきり述べるので準備をせよ」と迫水久常書記官長に指示した。
鈴木首相は、平常の閣議では、ほとんど一言も発することはない。ただ黙々と閣僚の発言を聞いていた。閣議の進行は迫水に一切任せていた。スピーチの作成も任せ、原稿はチェックせずそのまま無造作に読んだ。
鈴木首相は9日午前10時半に最高戦争指導会議(首相、外相、陸、海相、参謀総長、軍令部長6人)を招集し、ポツダム宣言の受諾と受諾条件の条件についての御前会議を開催した。
会議の冒頭、鈴木首相が「ポツダム宣言を受諾せざるを得ない状況になったので、皆の意見を聞きたい」と切り出し、宣言につける保留条件として「天皇の地位の保障(国体護持)」、「占領軍上陸」、「武装解除」、「戦犯裁判」などの論点をあげて論議を促した。
阿南陸相と陸海軍の両総長の3人は、天皇の地位の保障以外の三条件にも固執して反対意見を述べた。一方は東郷外相が「天皇の地位の保障」1点にしぼって即時、受諾論を展開した。米内海相もそれに賛同、鈴木首相は受諾に賛成だが意見は述べなかった。
対立は延々と続き、午後1時に3対2のままいったん休憩となった。
このあと、午後二時半から同じ議題で臨時閣議が開催された。これは最高戦争指導会議で宣言受諾となった場合には休戦條約(国際條約)の締結となるので閣議の決定と、枢密院の承認も必要となるための緊急措置だった。
鈴木首相はいつもと違って閣議を決然とリードして、東郷外相から「国体護持(天皇制の存続)の1条件をつけての即時受諾論」と陸相・両総長の「4條件付加論」の対立状況を説明させ、全閣僚1人1人に対して思う存分、意見をのべるように促した。これは国家最大の危機に当たって、あとで不平、不満、悔(くい)が残らないように腹蔵なく意見を開陳させたもので、鈴木首相の用意周到な戦略です。
米内海相が「日本はすでに敗北している」と述べると、阿南陸相は「戦局は五分五分で、局地戦では負けているが、戦争はまだ負けていない。敗北とはけしからん」と怒りを爆発させ喧嘩口論となった。太田耕造文相は対ソ交渉の失敗と閣内意見不一致により、内閣総辞職を提議した。
これを鈴木首相はきっぱりと拒絶「総辞職は考えていない。この内閣で決着をつける!」と断固たる決意を示し、全閣僚の気持ちを奮い立たせた。結局、「国体護持」の一点にしぼって宣言受諾する意見が大勢をしめ、阿南陸相らに賛同したのは2閣僚のみだった。
議論は休憩をはさみながら延々と午後11時まで続きました。鈴木首相は宣言受諾には枢密院の承認が必要なため、太田耕造文相(平沼内閣時の書記官長)を伝令役に平沼騏一郎枢密院議長をその邸宅まで迎えに行かせ宮中に招請した。
鈴木首相の肚はすでに決まっていた。最後の決は聖断によって一挙にまとめる「玄黙」の「動は不意をつき、謀は他人に知らしめず」の戦略を実行した。
時計が10日午前零時を回ったころ、昭和天皇臨席のもとに御前会議が開催された。最高戦争指導会議メンバーの鈴木首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長の6人に平沼枢密院議長が加わり、陪席として迫水書記長らが参列した。
議案は
1 甲案(国体護持<天皇の地位の保障>のみを条件に受諾する東郷外相案)
2 乙案(国体護持のほかに三条件を付けた上での阿南陸相案)の2者択一となった。
東郷外相、米内海相ら和平派2人、阿南陸相3人が従来通りの主張を繰り返した。「国本社」を主宰し、日本主義を先導してきた平沼騏一郎は賛否は言わず各閣僚、総長に対してなんと約二時間にわたり日本主義の持論の質問、意見を重箱の隅をほじくるようにねちねちとくり返し、参列者をへきへきさせたが結局、甲案に賛成したとみられた。
結局、三対三のまま議論は平行線でまとまらず、翌10日午前2時を過ぎた。鈴木首相はすでに23時間ぶっとうしで、日本丸の劈頭に立ち、国難台風から日本丸の沈没をくい止めようと、必死で戦っていた。かつての嵐の中で、連合艦隊司令長官として、全艦隊無事に帰港させることをめざしたように。
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「勝負は最後の5分間で決まる」
ついに「勝負の時来る!」―鈴木首相はゆっくりと立ちあがり、前代未聞の挙に出た。「議を尽すことすでに数時間に及びますが、なお議決はせず、かくなる上は畏れ多いことながら、御前の思し召しをいただき、本会議を決定したいとおもいます」と宣言し、腰をかがめて玉座の前に進み出てお願いした。
昭和天皇は了解し、耳が遠い鈴木に下がるようにいい、「それならばわたしが意見を言おう。私は外務大臣の申し出に同意である。四条件付加をやめ、直ちにポツダム宣言を受諾せよ。これ以上、戦争を継続しても、わが国の立場が有利になる保証はない。ただ死と悲惨とが増大するばかりだ」と明確に「終戦」を宣言した。
さらに、「大東亜戦争が始まって以来、陸海軍のしてきたことは、予定と結果が大変に違う場合が多い。九十九里浜も防備ができていない状態で、本土決戦に突入したら日本民族は皆死んでしまう。自分の任務は祖先から受け継いだこの日本を子孫に伝えることである。忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰について実に忍び難いものがある。しかし、今日はその忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。」と涙ながらに訴えた。
ここに、「聖断」が下ったのは10日午前2時半。鈴木首相は即座に待機させたせていた閣員を全員招集して閣議を再開、指導会議の議決承認を経て正式の国政方針となったのは午前4時。午前7時にはポツダム宣言の条件付受諾の電信を海外に向けて発信した。
大命降下以来、約4ヵ月間、77歳の鈴木首相にとって1日も休むヒマもなく国家滅亡の危機に長年戦場で鍛え上げたその「平常心」とインテリジェンス(叡智、国際的見識、用意周到、先見力)と日本海海戦での東郷大将の艦橋での毅然とした姿を思い浮かべながらに「最後の5分間」に勝負をかけけ胆力、勇猛心を静かに示した。これこそ禅の境地(無)そのものといって過言でない。
後年、昭和天皇は「聖断」についてこうふり返っている。
「あのときは同宣言の諾否で両論対立して、いくら論争しても一本にまとまる見込みはなかった。ついに御前会議で鈴木は私に両論のいずれを採るべきやと聞いてきた。ここで私は今や何人の権限を犯すこともなく、自由に私の意見を発表し得る機会を初めて与えられた。この場合、私の裁決がなければ結末はつかない。私は胸の張り裂ける思いで、戦争を終止すべしと裁断を下した。そして戦争は終わった。このことは私と肝胆相許した鈴木であったからこそ、できたのであった」と藤田尚徳侍従長に語っている。
つづく
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