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『Z世代のための日韓国交正常化60年(2025)前史の研究講座②』★『井上角五郎は勇躍、韓国にむかったが、清国が韓国宮廷を完全に牛耳っており、開国派(朝鮮独立党)は手も足も出ず、孤立無援の中でハングル新聞発行にまい進した>②』

      2024/07/06

 日本リーダーパワー史(696)記事再録

                 前坂俊之(ジャーナリスト)

 

<以下は「井上角五郎先生伝」(同伝記刊行編纂会、昭和18年12月刊 、非売品)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%A7%92%E4%BA%94%E9%83%8E

の『第2章、韓国顧問時代』(31Pより)から、転載する>」

井上の感激はその極に達し、「自記年譜」には「その義理も情誼も私をして死生何かあらんの念を生ぜしめたのであって、初めて世間に出でんとする私には血湧き、肉踊るの意気を起したのであった。」とある。

やがて洋服も新調されたが、井上はまだその着方を知らなかったので、上京した加藤政之助が着方を伝授したという逸話もある。こうして謝罪使一行の出立より少し遅れて、井上はは牛場ら4名と共に出立した。当時の状況は井上の「懐旧録」にはこう載っている。

「京城(ソウル)へ到着したのは1883年(明治16)1月になったが、この頃は朝鮮半島との交通が全く不便で、汽船なども小型で速力が出す、途中、下関・長崎・対馬・釜山に寄港し、それからしばらく仁川に達したような始末である。

その頃は内地(日本)・京城間に電信なく、汽車は朝鮮半島に全くなかつたから、仁川より京城まではもちろん朝鮮駕籠(かご)に乗って行ったのである。

韓国政府の顧問となる

明治16年1月、24歳となった井上らの一行は朝鮮に着いて、直ちに京城南部の苧洞(ちょどう)の邸宅に落ち着いた。これはもと王宮の御用邸であったのを、金玉均・朴泳孝の計らいで朝鮮政府から一行に提供したものである。

井上らは早速その一部をさいて印刷工場にあて、新聞発行の準備をしていると、そこへ朴泳孝が遅れて日本から帰って来たが、その時の朝鮮の政情はまた既に一変していて、もはや朴らの活躍の余地がなかった。

その時の朝鮮政府は、閔家の人々の勢力が再び強大になり、要路はことごとく閔台鎬 ・閔泳穆・閔應植らの人々、及びその与党で占められ、しかもこれらの人々は事大主義で、支那(中国)の勢力の前に属伏していたから、大小の政務はことごとく清国北洋大臣李鴻章の命を仰ぎ、その上、内衛門(内務省)にはドイツ人のモルレンドルフといって、多年李鴻章の幕下に重用せられた男が目付役として顧問となって居り、外衛門には清国人・馬健常が顧問となって共に政権を握り、清国兵が多勢に京城内外に駐屯して、まるで清国の属国のような有様であった。

そこで金・朴両氏のような進歩主義で、しかも親日党である者は手も足も出す事が出来ず、朴氏が今度帰って来ても誰一人公然とこれを助ける者もなく、却ってますます身辺に危険が迫って来るのであった。

朴泳孝は前国王・哲宗の三女の婿であって、家柄も高いので、囚へて獄に投ずる事も出来ず、一旦、漢城府判尹役に任せられて、その手で新聞を発行させる事になり、軍隊調練も行っていたが、間もなく閔家の人々の策で、慶州留守という地方長官に転任させられて、田舎へ追いやられてしまった。

苧洞の一邸に陣とった牛場らの所へは、一ヵ月たっても二ヵ月たっても誰一人訪ねて来る者もなく、此方から訪ねて行けば居留守をつかって玄関払いをくうだけであって、何とも手のつけようがない。

のみならず、ますます身迫に危険が迫ってくるので、4人はついに耐へ切れず、「この上は最早、長居は無用である。直ちに帰国する外はない。」と早くも帰国の準備にとりかかつた。

井上はこの時も決して無駄には過さなかった。朝鮮の言葉を覚えたり、人情風俗を研究したり、密かに政情を探ったりして寸暇もなかった。随って帰国説に絶対反対であった。

「何という馬鹿な事だ。朝鮮の国がこういう有様であって、金玉均や朴泳孝でもカが十分でないことを知ったればこそ、我々はこれを助けると言って出て来たのではないか。

来して彼等の力が弱かつたというので直ちに引返すならば我カの来た意味はどこにあるか。困難を見て退くは男児の本領でない。到着以来の見聞をみると、近き将来において新たに活路が開けると信すべき理由がある。ともかく一応、東京に通信して、その返事を待って進退を決してはどうか。」と極力阻止したけれども、4人は耳をかさない。

「東京へ手紙を出して返事が来るには1ヶ月かかる。昨今のような危険では最早一日も耐えられぬ。」という。

こうなってはもはやかれこれいう必要はない。出発前に福沢先生から「万事、牛場らの指図に従ってやれ。」とはいわれたけれども、この事ばかりは従うわけに行かない。

「それでは僕が独りでやる。諸君が東京へ着かない前に、この印刷機械は立派に運転させて見せる。」と不抜の自信と決心を示すと共に、内心ではこれからは自分独りで何でも思うように出来るのだと愉快でたまらない。

まことに大敵を目前にひかえて激浪怒涛を乗切りるのは男子の本懐である。まさに井上角五郎が存分に腕をふるう時機を天が与えてくれたのだと若い血潮はわきかへつて、「天徳を予に生せり、桓魅(かんたい)私を迫害しようとすること)それ予を如何せんや」という感慨であった。

幸いに、連れて来た職工の中で監督の三輪・眞田の商人が井上に同情したので、三人で新聞発行準備の局舎に起臥することにして、牛場らの帰国を見送った。これが到着後四ヶ月目で、明治十六年四月であった。

この時、もし井上が他の諸氏と行動を共にしたならば、福沢翁の委嘱は果してどうなったであらうか。井上はそれを心配したのである。

「私は、朝鮮での新聞発行の企図が世間の注意を惹き、福沢先生が時事新報の社説で発表されたのに、万一にも慶應義塾以外のものの手に成るような事があったら、私としては生きて居られぬ心地がしたのであった。(「福沢先生の朝鮮御経営」)とは後年、井上の告白である。

そこでいよいよ、井上は独力を以て局面を打開せねばならぬ場合に直画した。先ず渾身の知と勇とをふるって捨身になって現下の政情の調査を始めた。

調べて見ると昨年、乱を起した大院君の一派は攘夷主義で、現在努力をたくましくしている閔族は事大主義で、主義は違っているが施政は何れも旧式で、この連中にはちっとも世界の大勢に注意を払うような者はいない。

ところが、国王は非常な「開化主義」で、朝鮮も日本のように着々と新文明をとり入れて開明に進ませたい意見だという事が判った。

それ故に国王は、その生父の大院君が政治を執つても喜ばない。閔家は王妃の里方であるけれどもその一族の政治も気に入らないという情勢であった。

先生は国王が決して尋常一様の君主でないことを知ると共に、そこに一縲(る)の活路が発見されそうに思われて、なお色々と探索して見ると、国王は外国の事情を聞くのが非常に好きだという事がわかった。

さればこそ金玉均・朴泳孝が日本政府から金を借りて新聞をおこし、軍隆調練を始めようと云った時に、多数の反対があつたにも拘らす、国王が独りこれに同意して、ともかくも金・朴両氏が京城に帰る事ができたのである。

そういうことで、宮中に出入する者の中でも、海外の事情に通じた者が最も国王のお気に入るという事であった。

そねから井上は、力めて宮中に出入する者に近づいて様子を聞くと、国王は現に牛場氏らの帰国を惜しんでいるという事であった。

そこで先生は、海外の書籍を選んで国王に献上した。それも欧文が読めるのではないから、美しい景色や外国の市街の有様などを写した絵画写真などの多いものを選び、また海外事情を翻訳して幾度も献上した。そうしているうちに、ついに謁見を許された。それは牛場氏らが帰国してからまだ幾らも経たない時のことであった。

こうして井上は既に国王に拝謁したけれども、日本人は容易に政府に対して勢力を得るわけに行かない。誰か一人協力者を得たいものと物色しているときに丁度、金允植という人物があった。

井上角五郎は韓国王から信頼され外衛門 (外務省)顧問に任命された

金允植氏は当時時外街門の協弁(次官)に過ぎなかったけれども、学識・才徳共に当代一流と称せられ、大院君もこれを畏れ、国家の人々もこれを敬い、支邦人側にもまた信用を得ていた。

大院君の乱(壬午事変)前にかって福沢翁を訪問した人々の多くは氏の仲間であって、政治上では中立派と呼ばれていた。日本へ来た謝罪副使・金晩植は氏の従兄弟であって、金玉均や朴泳孝とは行動を共にしなかったけれども、井上とは交際を重ねていたので、井上はこの人の紹介によって金允植を訪問する事にした。

金氏は喜んで井上を迎えた。井上はまだ朝鮮語が自由でなかったから筆談であったが、金氏は先づ福沢翁の安否を問い、色々筆談をかわした後、「福沢先生が近東の大勢から推して朝鮮の現状に及び、何とかして日本と同じくこの朝鮮を開化に導こうとされるのを伝え聞いて感謝にたえない。いま君に会って先生の謦咳(けいがい)に接する思いがする。願わくばよく教えてもらいたい。実に一見旧知の感がある。」

と言い、その後は殆ど毎日のように互に往来した。

交際して見るとその人物がますますよく判る。氏は朱子学を主としているけれども、あわせて陽明学をも修め、しかもその師は劉大致といって金玉均や朴泳孝の師と同じ人であるので、その思想の傾向も大概、察することができた。

井上がある時の筆談に支那の将来を論じて、「果して如何に成り行くであろうか。欧米がこれを分割領有することにもならうか。さなくとも国内は群雄が割拠して四分五裂するに至るであろう。」と書いて示したのに、金氏は驚きもせず、かえって「我が意を得たり。」という態度であったので、井上はいい人に会えたことに独り満足したのであった。

その後、井上が度々国王に謁見したついでに、「金允植は中々見上げた人物である。」と言上したので、国王の金氏を信任する度合いも一層強め、いつしか国王と金允植と先生との三角同盟が出来上ったのである。

この時、ちょうど都合のよいことには、外衛門顧問の馬建常が急に故あって支那へ帰った。その後任として内衛門顧問のモルレンドルフを外衛門へ連れてきたけれども、この男がまた非常に人気が悪く、本人も一寸ドイツへ帰りたいと言って去ったので、外衛門には外国から手紙が来ても読む者もいないことになった。

すると金允植が国王に言上して、井上を用いるようにという事になり、外衛門督弁(大臣)閔泳穆もまたこれに賛成して、ついに井上は国王から任命せられて外衛門顧問となったのは明治十六年六月であった。

牛場・松尾らに別れてわずか三ヵ月目に井上はこの地位をかち得たのである。金氏との交際が始まってからは、その友人や近親の人力が井上を訪ね、閔泳穆氏とも往来し、殊に宮中から内宮もしばしば来る事になって、井上の住居も次第ににぎわってきた。

閔泳穆は一日井上に向かって、「君に号がないので友人が君を呼ぶに迷惑している。」といった。朝鮮では対談でも書簡でも人の本名を呼んだり書いたりするのを礼儀でないとする習慣があった。そこで井上は「何か相当の号があらばつけてもらいたい。」と云うと、数日を経て金允植から「琢園序」という一第の文を大書して、それを掛軸に表装して贈って来た。

その後、井上は「琢園」の号を用い、友人たちからは井琢園とか、井上琢園とか、琢園先生とか呼ばれることになった。

その頃、清国から来ていた将校の袁世凱は李鴻章の信任も最も厚く威望、隆々たるものであったが、これが先生と同年齢であった。
また閔泳穆は閔台鎬の一子で王妃閔氏の生家を嗣いだもので、清廷を圧する勢力があったが、これも井上と同年であったので3人の交際は次第に親密を加へ、たとえ政治上では氷炭相容れない意見を抱いていても、なお時々往来して時務を論じたり、詩文を闘わしたりしていた。井上が朝鮮政府に立って仕事をすることができたのには、この一事も与ってカがあった事と思はれる。

つづく

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究, IT・マスコミ論

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