前坂俊之オフィシャルウェブサイト

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『Z世代のための日清戦争原因講座』★『中国行動学のルーツ③』-150年前の明治維新後の「日中外交交渉」での異文化コミュニケーションギャップ <中華思想対日本主義=エスノセントリズム(自民族中心主義)のすれ違いが日清戦争に発展した。』

      2024/07/07

逗子なぎさ橋通信、24/0704/am700]梅雨の合間の晴天なり。富士山うっすらと見える。

2016/03/16/日本リーダーパワー史(688)記事再録

前坂 俊之(ジャーナリスト)
中華思想のエスノセントイズム

古代支那(中国)で発達した高い文化、宗教、思想、技術は、朝鮮半島を経由して日本に伝えられたことは誰でも知っている。日本にとって、いわば支那は師父の国であり、朝鮮は文化の先輩に当たる。江戸時代に信者が朝鮮を高く評価していたのはそのためである。

その古代支那人の問で芽生えたのが中華思想である。「中」とは世界の中心、「華」とはずば抜けて高い文化をさす。周辺の文化の低い未閑人を東夷(とうい)、北狄(ほくてき)、西戍(せいじゅう)、南蛮(なんばん)とし、我のみ中華の民なりと自負した。日本はさしずめ東夷 つまり東方の未開人できわめて文化は低とみられていた。

こうした文化的優越感は数千年の年月を経ても、明治時代の支那人(中国人)の間に脈うっていた。

清王朝は満洲人の帝国であるが漢文化に同化し、漢民族の高い文化的衿特をもって欧米人に対していた。アへン戦争で敗れた清国は条約を結んで外国使臣の北京駐在を認めたが、

各国を清国と対等の国として取り扱わず、皇帝に謁見するのに三跪九叩頭(さんき、きゅうこうとう)の礼(三度床にひれ伏し九度床に頭をつける最敬の礼)を各国の外交官にも強いた。

これは清国王に対する臣礼であるから、外交官たちは怒ってこれを拒否したため紛糾が絶えなかった。

1873年(明治6)3月、外務卿・副島種臣は日清修好条約の批准書交換と同治帝に大婚慶祝のため、自ら特命全権大使となり北京に赴いた。批准書の交換も終わり、さて同治帝に謁見し、祝文を奏することになった。

従来の三跪九叩頭の礼を固執する廷臣たちに対して、副島は豊かな漢学の素養をもって、その非を論破し、西欧間の外交慣習について説得したため、頑迷な廷臣たちもついに副島の説に服した。

以来、清国では各国の外交官に対して態度を改め、対等に扱い、各国から副島は感謝された。

といって清国宮廷の上下が日本を対等の国として認めたわけではない。

翌七年、日清修好条約により、柳原前光が駐清国特命公使として北京に赴任したが、清国から日本へは公使を派遣して来なかった。国交が回復して四年目の明治10年末になって、ようやく何如璋(か じょしょう)が初代駐日公使として赴任した。

この間、日清問に種々の問題も発生し、多数の華僑が神戸や横浜に移住していたのに、清国は公使を派遣して来なかった。日本を小国として軽視していた証拠である。以来、明治27年8月(日清戦争勃発)まで約17年間に6人の公使が着任した。

これらの駐日公使はほとんど学者で儒学の素養がふかく、また随員にも沢山の学者、文人がいて、日本の漢学者、漢詩人と親しく交わり尊敬されていた。しかし、第二代公使の黎庶昌の外は、ほとんどが帰国して後、反日、攻日論を唱えている。

清国からみた反日、攻日論の理由はーーー

  • 日本は取るに足らない小さな島国で、人口も少なく体格も劣り、軍備も不充分である。
  • さらに国内は不安定で、議会では政府と民党が激しく抗争をくり返し、政治は混乱して叛乱事件も起きている。
  • 文物制度すべて上国(自国の尊称、清国のこと)の模倣で、いわば文化的従属国にすぎない。
  • 使用する文字はもとより、風俗習慣に至るまで一つとして上国(中国)に起源を有しないものはない。
  • このように数千年来上国(中国)に学びながら、現在の政府に至り急に洋夷(西洋化)の風を尊び中国の恩に背こうとしている。
  • よろしく事に托して師(戦争)を起こし、一挙に征(征服)してその罪を懲すべきである。わがままな子供に罰を与えることは慈父の務めである、
  • これらの攻日論、東征論は清国宮廷の上下、一般の風潮であった。

このため、清国は1874年の日本による台湾出兵以来、日本を仮装敵国と認定して、海を隔てた日本に対するには、海軍の増強こそ不可欠であるとして、北洋海軍の強化に着手した。

李鴻章評伝』(上海古出版社、190-191)『中国の対日政戦略』

(深堀道義著、原書房、1997年、5-7P)には次のように書かれている。

「李鴻章は1987年の日本の台湾侵犯以来、西方各国の中国に対する野心が、更に顕著になったのを認めた。西方各国の侵略は性と成っているが、その国は遠方に在る、然(しか)し、日本は近く、何時でも侵略してくる可能性がある、日本は中国にとっては永遠の患いになると、李鴻章は信じるようになった。

彼は北洋の海防は、日本の朝鮮に対する進出を目標とした。李鴻章の見方は、西方の強国は海軍の強大な実力を持っており、中国がそれに追いつくには長い時間を要する、日本は最近、西方に学んでいるから、日本と競争すれば、容易に比較ができるというものであった。

李鴻章が日本の政策に対抗する中国海軍の創建をおこなったのは大きな歴史的意義がある。(中略)李鴻章が鉄甲艦による強大な海軍を持とうとしたのは、南は西貢(サイゴン)、印度を略し、東は日本・朝鮮に臨もうとしたという観念によるものであったが、その主要目的は防禦にあり、進攻ではなかった」。

この方針によって李鴻章は『威海衛』の軍港を築き、名前の通り「制海権」を握るために築いて、日本をけん制した。ここにドイツで建造した世界新鋭衛の巨大装甲艦『鎮遠』『定遠』(7314トン)を配備して、日本をはじめ遠くの国々ににらみを利かして、威嚇してくるのである。

しかし、当時の日本は『中国文化』を尊敬しており、中国敵視の雰囲気は全くなく、親中派で占められていたことは、のちほどに紹介する。一方、清国の宮廷、政府が反日に傾斜し、日本敵視したいたことは次の新聞をみてもはっきりわかる。

1882年の朝鮮での壬午の変が起きた際、清国紙の代表的新聞『申報』は『朝鮮対策(上)朝鮮が中国の属国であり、一朝事あるときに中国が朝鮮のために計る』と題する論説を掲げた。
中華思想「華夷秩序」の中での朝鮮の位置関係を明確に『属国』と書いている。

『朝鮮が中国の属国であることは,もとより天下万民の知るところだ。したがって.朝鮮に一朝事あるときに中国が朝鮮のために計ってやらなければ,いったいだれが計るだろうか?

このたびの朝鮮の軍乱≪壬午の変≫は実は大院君が後ろで糸を引き.朝鮮の国政を乱し.王妃や大臣を殺害したのだ。(実際は王妃は殺害されていなかった)この軍乱に際して朝鮮人は日本公使館を攻撃し.使節に危害を加え随員らを殺した。

勝敗の帰趨はおのずから予見できる。しかしながら,朝鮮は本来中国の属邦であり.朝鮮が日本に対して罪を犯したからにはその過失は全く自ら招いたものではあるが,日本がこの機に乗じて急きょ戦端を開き併呑の非望をとげようとするのは,かつて琉球が打ち滅ぼされたことの再演であり,これを中国がどうして手をこまねいて見過ごすことができようか?」

「中国と朝鮮との関係は父子の関係以上のものだ。たとえば子供が他人に被害を与えたため殴られそうになれば,父としてはこれを手をこまねいて傍観するには忍びないものだ。

そこでこっぴどく子供をしかって相手を慰めるよりほかなく.礼を尽くして罪を償えばまずは円満に一件落着するだろう。現在日本は朝鮮の罪について問責しているが,日本側の主張は理にかない.朝鮮は理に欠けるとはいえ,中国はなんとしても日本軍の侵寇を阻止しなければならない」

今の北朝鮮問題に対する中国の政策と全く似ている。

 

さて、日本の「親中派」が多くを占めていた事実は(須山幸雄著『天皇と軍隊 明治篇 』「大帝」への道・日清日露戦争」芙蓉書房、1985年」)で以下のように紹介されている。

 

その中にあって、第二代公使・黎庶昌は通算約6年間、前後2回公使として来日している。黎は学者で大政治家曽国藩の高弟で儒学の造詣深く、書に長じ、詩文もまた巧みであった。人となり高尚温雅で、日本の朝野と広く交わり心を開いて語ったので、黎の詩文の会には皆競うて参会した。

彼は年一回、後年は二回、公使の公館や料亭で日清の文人墨客を招いて詩文の会を催し、日支の親善を図り、その相唱和する詩文集を刊行して知人に分かった。その数、十数巻に及んだ。

実藤恵秀著『明治日支文化交渉』によると、清国公使館が開設されて、かなり教養の高い学者、文化人が公使または随員として来日し、日本の漢学者、文人墨客と親交を重ねたことが、詳細に述べられている。

著者は早大で漢文学を専攻し、第二高等学院(旧制高校)教授として、漢文学を講じていた鴬学者で、数多くの著述を残している。この中に第二代公使として来日し二、度にわたって長い間駐在した学者公使黎庶畠が、日支詩人の親睦会を定期的に開いて、親交を重ねたことがくわしく述べられている。

その頃の日本の漢学者、文人は本場から来た学者、文化人を尊敬すること篤く、その「断簡零」墨すら宝物のように珍重した。したがって清国公使館から招かれることを無上の光栄とし、競って参会し、その墨蹟を請うたのである。

黎公使の主催する親睦会には実に数多くの日本の知名人が参会しており、漢学者では三島毅、重野安樺、副島種臣、中村正直、政界、官界からは三条実美、勝海舟、谷干城(陸軍中将、初代農商務大臣)、柳原前光(外務大丞、元老院議長)、軍人として川村純義(参議、海軍卿)、中牟田倉之助(海軍軍令部長)の名もある

そのうち特に私が注目したのは、明治天皇侍講の元田 永孚(もとだ ながさね)がしばしばこの会合に出席し、詩や連句を作っている。1890年(明治23)末には黎庶昌は任期満ちて帰国することになった。

別れを惜しんだ日本の漢学者や文人たちは9月から12月まで、各グループごとに料亭に黎庶昌を招き惜別の宴を張った。その回数も7回に及んでいる。

10月26日の送別宴には元田 永孚も出ているが、他に副島種臣、谷干城、宮島菓香、勝海舟等の名がある。この日はこれらの人々が黎を招待したのである。黎はこの日「友を求むるの嚶鳴(おうめい)争ひて谷を出で」(嚶鳴とは烏が仲良く鳴き交すこと)と、日清両国の詩人が相唱和している状を賦している。

明治24年2月、黎が任満ちて帰国するのを聞かれた明治天皇は、日清親善に尽した功績を嘉せられ、勲一等旭日大綬章を賜い、記念に御写真一葉と宋代の書家賀知章の法帖(名筆の石拓を石摺にした拓本)を贈り、長年にわたるその功を賞された。
黎は日本を深く知り、日本の文化や伝統をよく理解している稀有の外交官であった。帰国して重慶府の道台(知事)になった。しかし、日清の関係がしだいに険悪となり、清宮延の上下に東征論が高くなったのを見て、日本人の愛国心をよく理解し、日本の実力、底力を知悉している黎は、憂慮の未、日本を小国として侮るの誤りを論じ、日本と戦うべからずと二度にわたって熱烈な上奏文を上った。
しかし、清廷は一顧だにしなかったので、黎は心痛の極み、ついに発狂してしまった。部下は黎を故郷の貴州に伴い療養せしめたが、二年後、失意のうちに没した。遺著に『拙尊園叢稿』六巻がある(実藤恵秀著「明治日支文化交渉」106頁)。
さて、この黎庶昌のような非戦論者が清廷の上下に多数居れば、清宮廷の風向きも変わったであろうが、残念ながら活眼の士は少なく、上下滔々としてこの際、小国日本を懲すべしの声が圧倒的でとなったのである。

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究, IT・マスコミ論

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