『Z世代のための 欧州連合(EU)誕生のルーツ研究」①』★『EUの生みの親・クーデンホーフ・カレルギーの日本訪問記「美の国」①』★『600年も前に京都と鎌倉が文化の中心で栄えていた。それと比べるとパリ、ローマ、ロンドンは汚ない村落に過ぎなかったと、父は私たちに語ってくれた。』
2024/05/13
日本リーダーパワー史(274)
『ユーロ危機を考える日本の視点』②
欧州連合(EU)の生みの親・クーデンホーフ・カレルギー
の日本訪問記「美の国」―日本人は世界で最も勇敢
で清潔で礼儀正しい民族である②
前坂俊之(ジャーナリスト)
① 明治初期にオーストリア・ハンガリー帝国の駐日代理公使と結婚した光子は、ヨーロッパの貴族夫人となった最初の日本女性であり、EUの「生みの親の親」であり、「EUを生んだ母」なのである。
② この「EUの父」といわれるのが一九二三年、「汎ヨーロッパ構想」を提唱したリヒアルト・クーデンホーフ・カレルギーであり、その母は日本人のクーデンホーフ光子である。
③ リヒアルトは一九二三年、平和運動の一環として、「ヨーロッパは一つ」「ヨーロッパ合衆国」を提唱した「汎ヨーロッパ運動」の本を出版して、運動を広げ、「ヨーロッパ議員連盟」「ヨーロッパ共同体」「鉄鋼連盟」「欧州連合」の先駆けとなった。
④ リヒアルトは『美の国』(日本思い出)の中で、「私の父は、三年間の日本滞在中に、日本民族の讃美者となっていた。父は日本人が世界の一流国民であり、日本人は世界でもっとも勇敢な民族であり、もっとも清潔な、もっとも礼儀正しい、かつ、もっとも信実のある民族であると、常々子供たちに話していた。そのため、私たちの素姓の半分が日本人であることから来る劣等感を防ぐ上においても役立ったのである。
⑤「ニューズウイーク日本版」(7月4日号)「世界経済を飲み込むユーロ恐慌」で、ビル・エモットは「ユーロ崩壊なら戦争も」として、
「ユーロが崩壊すれば、真に大恐慌の再来を招くだろう。最も深刻な影響を受けるのはヨーロッパだ。過激な政党へ人々の支持が集まる。民主主義そのものが危機にさらされる。
要するに、ヨーロッパには「失われた数十年」が待っているのだ。ユーロ崩壊と大恐慌を免れても、1991年後の日本のようにユーロ圏の成長は止まり、おそらくデフレに陥る。
日本が「失われた10年」も「失われた20年」も耐えてこられたのは、社会に強い連帯意識と団結力があり、しかも隣に急成長する中国市場があって輸出ができたからだ。ヨーロッパは予測のつかない深刻な政治危機を抱え込むことになる」と書いている。
「美の国」(リヒアルト・クーデンホーフ・カレルギー著、1968年)
「日本生まれの私」
一八九四(明治27)年十一月十七日早朝、私は日本人を母として東京に生まれた。
その時刻には、日本ではまだ夜が明けていなかった。ハヮイではすでに太陽が出ていたが、アジアの全域は真夜中であった。ヨーロッパでは夕方であった。ただし十一月十七日の夕方ではなくて、十一月十六日の夕方であった。
この十一月十六日が、ヨーロッパでは、私の誕生日としていつも祝われていたのである。現実には、私は二つの誕生日を持っていることになるが、その一つはアジアにおける誕生日であり、他の一つはヨーロッパにおける誕生日である。このことは二つの人種、すなわち、日本人とヨーロッパ人の間に生まれて来たからである。
私の父は、東京駐在のオーストリア六ンガリー国公使館の三十五歳の書記官ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵であった。当時、公使は本国へ召還されており、かつ公使館参事官が駐在していなかったので、私の父が代理公使として、ドナウ王国オーストリアハンガリー公使館の館長であった。
当時の東京には大使は一人も駐在しておらず、公使だけが派遣されていたのである。当時の日本はまだ強国ではなくて、シナの向うにある、少しばかり名の知れた蒙古族系の島国であって、国際的には大した意義を持っていなかった。
この若いオーストリア人の外交官は、絵に描いたように美しい日本人の少女青山光子を熱愛するに至ったのである。彼女は、私が生まれたときには二十歳であった。そのころの彼女はまだ仏教信者であったが、クリスチャンになろうと決心した。
このような決心は、当時私の父と交際していて、はなはだしい貧困と禁欲のうちに聖者の生活を送っていた幾人かのキリスト教布教師からの感化によるものであった。
私の母は、私の生まれる以前の幾ヵ月間が、生涯のうち最も幸福なときであったと、後年しばしば述懐していた。
そのころ、彼女はキリスト教信者となった。その後は死ぬまで、キリスト教を信仰していたのである。
私の父としては、私がイギリス人として生まれることを望んでいた。そのため、父は私が生まれるに先立って、妻の光子を連れて香港へ旅行するつもりであった。
というのはイギリス領である香港で生まれた子供は、すべて自動的にビクトリア女王の臣下となっていたからである。父のこの計画は、日清戦争の勃発によって挫折した。小さな日本が1900年近くもつづいた平和時代のあとで、大国シナに対して宣戦したのである。当然のこととして、オーストリアハンガリー国公使館の館長は東京に残らねばならなかった。
この館長である父は、早くから、日本の勝利を本国の外務省あて予報していた。このときと同様に、父は後年になって彼の報告書の中で、日英同盟、日露戦争、そして日本側の対露勝利を予測していた。
日本側の連戦連勝の結果として、清国(中国)は和を講じなければならなくなった。下関における講和により、台湾と旅順が日本へ割譲された。ドイツ、ロシアおよびフランスは、日本側が旅順の併合を固執するならば、日本に対して開戦する旨を通告して脅かしてきた。
これらの三国は、シナ大陸に日本の基地ができることを許さなかったのである。
このような脅迫の結果、日本としては旅順を放棄しなければならなかった。それから一〇年後には、その間においてロシアが占領してさらに強固な軍港に築き上げていたこの旅順港を、日本が再び占領した。さらにそれから四〇年後の1945年には、広島へ原爆が投下された結果として、日本は再び旅順を失うに至ったのである。
このような戦勝国日本に対するヨーロッパ側の反感の結果として、日本では反ヨーロッパ的な国家主義の波が高くなってきた。
このような反日政策の点では、オーストリアハンガリー国としては関係なかったのであるにもかかわらずー私の父としては、この間蓮についてはオーストリアハンガリー国の盟邦であるドイツ側に加わらないように、おそらくウィーンの本国政府に警告していたものと思われるーそれでも、日本人の熱狂者の誰かが、ヨーロッパの外交官の子供たちを暗殺するかも知れない危険があった。私たちの乳母が、私たちを乳母車に乗せて外出するたびに、私たちには一人の刑事が随行していた。私が政治に触れたのは、これが最初であった。
私は七カ月の早生児であったので、数日間は、私が生き長らえるか否かが問題であった。三日間にわたり、私は母乳を受け付けなかったのである。私の母のところへ、親しい某日本夫人が訪ねて来たが、この人は外交官夫人であって、第六感があるので有名であった。
この夫人は、母の腕に抱かれている私の顔を見て、「この子供さんの命は助かるでしょう。そして、いつか有名な人になるでしょうね」と言ったのである。
こういった渡辺男爵夫人の言葉は、おそらく愛想に過ぎなかったかも知れない。しかしながら、この言葉が私の生涯を決定するーにおいて関わりがあったことは十分にあり得る。すなわち、この言葉が、私の少年時代に、すでに一つの使命を天から与えられていることを信じる力を私に与えたこと、この言葉から二八年後には、政治的、または財政的援助を全然受けることなしに、私はパン・ヨーロッパ運動を創唱する上に寄与していたことは、十分に考えられるのである。
この運動はカロリンガー王家の没落以来、すなわち一〇〇〇年の昔から、多くの偉大な皇帝、法王、国王および哲学者たちが、また最後にはナポレオン・ボナパルトが実現しょうと努めながらも成功しなかった思想である。
私はフランス人の布教師ビグロー神父から急場の洗礼を受けた。私の名前リヒァルトは、私の父の兄弟の一人の名前から来ているが、これは私よりも十四カ月だけ年長の兄が、父の兄弟の別の一人の名前ヨハネスを付けられたのと似ている。私の兄の日本名前は光太郎であり、私自身の日本名前は英次郎であった。
私の生まれた家は二棟に分れていた。一棟は日本風であり、他の棟はヨーロッパ風であった。日本風の棟には、畳と障子があって、そこには、母、子供たち、乳母および傭い人たちが住んでいた。
ヨーロッパ風の棟では、私たちの父がヨーロッパ人や日本人の友達を迎えていた。父のもっとも親しい友人の中の一人が、近代日本の創建者の一人であり、のち公爵となった伊藤博文である。
このような和洋両風の家庭の執事は、私の父の従者であり、かつ狩猟係であるバビク・カリギアンであった。アルメニア人であるこの男は、父と話すときはトルコ語を、母と話すときは日本語を使っていた。
残忍なトルコ王アブズル・ハミッドが、コンスタンチノープルの全アルメニア人をトルコ人による殺害に委せていたときに、この町にあるオーストリアーハンガリー国大使館に逃げ込んで来たのであって、私の父は外交官として、バビクを保護した。そのとき以来、バビクは父のすべての旅行、すなわち、日本、タイ国、ロシアおよびアルゼンチンへの旅行に、もっとも忠実な影法師として随行したのである。
私の父が死んだときには、バビクはまだ生きていた。バビクは父と同じ墓地の父の量の近くに葬られることを願っていたが、彼の臨終の際に、コプト派のキリスト教徒藷帽馴相川琵琶である彼を、カトリック派の墓地には葬ることのできない旨を間かされたのである。そこでバビクは、彼の念願をかなえてもらうため、死ぬる間際にカトリック教に改宗した。
新任のオーストリアハンガリー国公使が東京に着任してから、私の父は若い妻と二人の子供・ならびに日本人の乳母たちとバビクを連れてヨーロッパに向って旅立った。横浜から出港して、インド、紅海を経てトリエストに向った。スエズで、両親は私たちと別れたが、これは、エジプトとパレスチナを見物し、かつ、法王レオ十三世に謁見するためであった。その間に・バビクが、ボヘミアの森にある私たちの新しい郷里ロンスペルク城に向って乳母たちといっしょに私たちを連れて行ってくれた。
私の父は、若さにもかかわらず、バンコク駐在のオーストリアーハンガリー国公使に任命されていたのであるが、ロンスペルクに帰った後で、外交官生活から退いて、ボヘミアとハンガリーにある彼の地所の管理と、子供たちの教育ならびに彼自身の勉強と作家活動に専心する決意を固めた。父は若いときに法学博士の学位を取っていた。
私たちの両親は、ヨーロッパに留まるべく決心したのに伴って、私たちをヨーロッパ人として教育するつもりになった。ドイツ語、英語、そしてフランス語をもって教育する決心を固めたのである。私たちはヨーロッパ人になるべきであって、ユーラシア人になることを許されなかった。私たちの乳母は日本へ帰って行った。私が、この乳母たちに語った最初の言葉は、おそらく日本語であったものと思われる。
私たちの両親は、お互いの間では、いつも日本語を話していた。
私たち子供は、父と話すときは大抵ドイツ語を、母と話すときは英語を使っていた。私の父は、三年間の日本滞在中に、日本民族の讃美者となっていた。
父は仏教の感化を受けてからは、彼のもっとも好きなものの一つである狩猟を放棄していた。これまで射止められたアメリカ豹の中でももっとも強い豹の幾頭かを、ブラジルの原始林の中で倒したことのある父が、このような心境になったのである。父の机には十字架像は置いてなく、
鎌倉の大仏の模像が一個だけ置いてあった。
父は、どんな天気のときでも母、年長の息子たちを散歩に連れて行った。この散歩のときに、私たちは父に向って、あらゆる質問を出すことができた。これに対する父の答えは、私の教育の基礎となったのである。しかも、私が後日、高等学校で学ぶことになったいっさいのことよりも遥かに多く、私の教育の基盤となったのである。
父はヨーロッパ人であるというよりも、むしろコスモポリタンであった。
父はアジアが好きであった。特に、アラビア文化とインド文化を好んでいた。父はアラビア語とヒンドスタン語を読み、かつ流暢に話していた。私たちが十字軍について父に質問したところ、彼は自分の信じていることを隠すことなく、十字軍とは、文化の高いアラビア人の国であるシリアに対する盗賊的なヨーロッパ人の襲撃であり侵略者側の完全な敗北に終わった襲撃であると答えた。
父にとっては、リチャード獅子王よりもサラディンが身近く感じられていたのである。父が讃美したのは、刀に血塗らずして失地エルサレムを奪回したフリートリヒ二世のみであった。父は中世のヨーロッパ文化を好んでいなかった。父の眼から見ると、当時のシナ人や日本人に比べると、大部分の騎士は汚ない輩であった。
600年も前に京都と鎌倉が文化の中心として栄えていたこと、また、これに比べるとパリ、ローマ、ロンドンが汚ない村落に過ぎなかったことについて、私たちに語ってくれたのである。
日本に関する私たちの質問に対する父の答えは、父の信じていることの表現であったのみならず、その後になって、私たちの素姓の半分が日本人であることから来る劣等感を防ぐ上においても役立ったのである。
なんとなれば、当時の教養のないヨーロッパ人の大部分の者から見ると、日本人はシナ人とは違って、ヨーロッパの風習や制度を模倣することによって、優れた西欧文化に同化しようと努めている奇妙な、半開化の一国民として映っていたからである。
このような考え方とは反対に、父としては日本人が世界の一流国民の1つであり、多くの点でヨーロッパ人よりも優秀であることを確信していた。父の眼から見ると、日本人は世界でもっとも勇敢な民族であるのみならず、もっとも清潔な、もっとも礼儀正しい、かつ、もっとも信実のある民族であった。
大部分のヨーロッパ人と違って、貧富の別なしに、ほとんどすべての日本人が毎日温浴することを、父は語ってくれた。
また、敬語を無視しては日本語の習得が不可能であること、また、ヨーロッパのどの言葉とも違って、日本語には罵言(ののしる言葉)がほとんどなく、呪いの言葉もないことについて父は私たちに話してくれた。
父は日清戦争のときの日本人の勇敢な働きについて話してくれたが、これらの物語のため、私たちの胸は高鳴り、誇りでいっぱいになった。世界におけるすべての民族のうち、幾百年にもわたりーおそらく幾千年にもわたりー王朝に対する忠誠を守りつづけたのは日本人のみであるという歴史上の事実を、父は特に強調していた。
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