『Z世代のためのオープン経済人講座』★『歴代最高の経済人とは一体誰れか』①『100年前に欲望利益追求資本主義を超克し、21世紀の、社会貢献、公益資本主義を実践した大原孫三郎(クラレ創業者)から学ぶ③』
2019/01/15
『単に金もうけだけしか考えない人間が多すぎる、そんな拝金亡者が世界中で地球の有限な資源を食い尽し、地球環境は瀕死の状況だ。三井、三菱、その他の実業家より偉大な財界人・社会貢献の偉大な父・大原孫三郎から学ぶ③
『偉大なる財界人』・大原孫三郎の生涯
http://book.maesaka-toshiyuki.com/book/detail?book_id=23&article_id=452
大内兵衛の講演をさらに話を続ける。
その上に大原さんは他に三つも四つも研究所をもっておった、それが実業家大原の大きい負担であったことは申すまでもありません。大原さんのこういう事業は、多くは第一次大戦後の好景気で大原氏の事業の利益が多かったときに計画されたものでありましたから、いかに大原氏といえども、昭和5{1930},6年の恐慌のときには、完全に無配当でありましたから、そのうちから、年々こういう大金をしぼり出して寄付するということは、彼の資本家としての身をけずることであり、それに関係しておる重役諸君の内から猛然たる反対が出たのも当然でありました。
しかし、大原孫三郎氏は、高野岩三郎先生に対しても、「俺はこの出資はこまる」ということを一言もいわなかったのであります。
昭和十三年これらの研究所は研究所の方から大原氏の出資を断り、それぞれ大原氏から財政的に独立いたしました。これは大原氏の苦境を見るにしのびず、多年の恩誼に対しては、自分たちがいかなる運命になろうとも、この上、大原氏に迷惑をかけては相すまぬと思ったからであります。
たとえば大原研究所がいまもなおその名を改めず、「法政大学大原社会問題研究所」と長い名でよんでいるのは、大原氏の人道主義と高野先生の実証主義とをいつまでも守って行きたいためであります。
大原孫三郎は右にのべた労働科学研究所や大原社会問題研究所のほかに、なお倉敷の郊外に大原農業研究所というのを作りました。これは昔、大原奨農業会と称したもので、主として小作人の子弟に実際の農業のやり方を教える実習場として考えられていました。
そこでは指導者と生徒とが生活をともにして学問と勤労とを通じて農業経営の方法を体得するという目的でありました。しかしこれをやっているうちに、大原氏は農業技術の改良もやってみたいということを考えるようになった。そして彼は、自己の所有地二百町歩をこの会に寄付して、有名な近藤万太郎博士を迎えて、その研究を託しました。これが日本の民間における最初の、そして最大の農業研究所であります。
今日、岡山県の農業が、日本でもっとも進んだ技術をもっているということ、今日、倉敷地方が日本でいちばんりっぱな桃やブドウの産地となっていること、これは諸君も認められるところであり、汽車の窓からでもわかることであるが、こうなったことについてこの研究所は少なからぬ力となったと思います。この研究所と、そのたくさんの農業関係の書物、そしてそこで成長した学者とは、今日岡山大学にうけつがれてその誇りとなっています。
またこのほかにも大原氏の教育事業、ことに育英事業、民芸運動についても多大の資金を出して有名な人物を作った話なども、数えればつきませんが、
『金を使うことで、実業とデモクラシーを確立した人物で、日本の財界人で大原ほど成功した人はない』
総括して申しますと、大原孫三郎は、大正・昭和を通じて大阪以西の関西において最大の事業家であったが、彼は、その作りえた富を散じて公共の事業をしたとい�点では、三井も、三菱も、その他いかなる実業家よりも、なお偉大な結果を生んだ財界人であったといっていいと思います。もう一度申します。金を儲けることにおいては大原孫三郎よりも偉大な財界人はたくさんいました。
しかし『金を散ずることにおいて、高く自己の目標をかかげてそれに成功し実業の確立とデモクラシーを実現した人物として、日本の財界人でこのくらい成功した人はなかったといっていいでしょう。
さきほど申し上げました大原氏の有力な補助者であった柿原政一郎氏は、戦後私にこう語りました。
「大内君、終戦後、財産税を納めたときは大原の財産は一文も残っていなかっね。大原さんはその青年の時、自分に対する誓いを実現したよ」と。
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●二宮尊徳の『報徳記』と『聖書』を「金使い」に実践した大原孫三郎
川添登、山岡義典編著『日本の企業家と社会文化事業―大正期のフィランソロピー』(東洋経済新報社、昭和62年)の第5章『大原孫三郎と大原三研究書所』(寺出浩司執筆)によると、大原孫三郎のこうした思想的な遍歴とその愛読書について次のように書いている。
「一八九七(明治三〇)年、孫三郎はかねてからの希望がかない東京へ遊学し、東京専門学校へ入学を果たす。しかし、一九〇一(明治三四)年に同校を退学して、倉敷へ帰郷するまでの五年間の東京での生活は、学校へもほとんど出ず、花柳界へ入りびたるという、まことに放蕩無頼のものであったようである。ところで、東京での放蕩無頼の生活に疲れて、倉敷へ帰郷した一九〇一年(孫三郎二〇歳)は、彼の生涯にとって一大転機の時期とでもいうべき年であった。この年、三つのできごとが重なる。東京専門学校を退校、石井十次の岡山孤児院の基本金管理者に就任、そしていま一つは結婚であった。(同書100頁)
放蕩無頼の生活から一転して、実業家としての公的、社会的な責任の自覚に目覚めるきっかけとなったのは、『報徳記』、『二宮翁夜話』を読んで二宮尊徳の報徳思想に深い感銘し、石井十次によってキリスト教への関心を深め、『聖書』を精読したためであった。
孫三郎が愛読した言葉は次のようなものであった。(同書101頁)
一、節倹を以って冗費を省き、百余を生じて他の難苦を救うべし(『報徳記』)
一、書を読みて、これを行はざるものは 鍬を買うて耕さざるに同じ(『語録』)
一、他に譲ることは人道なり、鳥獣には譲るの道なし、一石身代の者は五斗にて暮らし、残り五斗を他に譲るべし、雇われ人は給金の半分にて生活し、残り半分は今後のために譲るべし、譲る相手は、子孫、親族、朋友なり。
その上は里と国のために譲るべし。これ富者の道なり(『夜話』)
一、 富者には富者の務めあり、勤倹して余財を他に譲り、郷里を富まし、土地を美しくし、国恩に報ずることを心得るべし(『夜話』)
そして『聖書』からは、
一、 木は巣によりて知らるるなり。善き人は、書き倉より善き物を出し、悪しき人は悪しき倉より悪しき物を出す。人の虚しき言は審判の目に正さるべし(マタイ伝)
一、 富める者の神の国に入るよりは、ラクダの針の穴を通るは反って易し(ルカ伝)
一、汝この世の富める者に命ぜよ、高ぶりたる思を持たず、定めなき富をたのまず、善きことを行ない、よき業に富み、惜しみなく施し、分け与ふることを喜ぶべし(第一テモテ)
こうした思想の基盤にたって,大原孫三郎は一直線に実践したのである。
以下は1991年に月刊誌「サンサーラ」(徳間書店)に発表した拙稿『黎明を駆け抜けた企業メッセ王』(大原孫三郎の生涯)です。1991年当時の経済状況、企業の社会的責任についての論考で、デ―タも当時の数字もそのまま直していないので、そのあたりを了解の上、読んでいただければさいわいです。
倉敷といえば、大原美術館といわれるほど有名な同館を孫三郎が作ったのは昭和五年(一九三〇)であり、ちょうど昨年は六〇年(1990年)を迎えた。企業美術館といえばサントリー美術館やブリヂストン美術館などあるが、これまた大原がトップである。
孫三郎の最も信頼した友人に画家の児島虎次郎がいた。大原は第一次大戦後に児島に外遊をすすめ、児島はフランス近代絵画の収集に旅立った。欧州はインフレと円高で絵画も比較的安く手に入れることができた。
モネの「睡蓮(すいれん)」、マチスの「マチス嬢の肖像」、グレコの「受胎告知」やベナール、モロー、ゴーギャン、ロートレックなど数々の名品を入手した。
●大原美術館の絵画購入に、児島の要求の倍額の二十万円を送る
児島が購入資金をヨーロッパから十万円送れと電報を打ったところ、孫三郎は自らの書画骨とうを手放して資金をつくり、要求の倍額の二十万円を送り、児島を感激させた。見事なパトロンぶりである。児島が1929年(昭和四)に四十八歳で急逝したのを惜しんで、ギリシャ風の美術鋸をも私財を出して建設したのである。
開館当初は一日一人の入館者もなく、孫三郎は「美術館が一番重荷となる」と嘆いていたが、今では年間120万人(1990年の時点)にものぼり、倉敷のシンボルと化している。
遅れた日本の企業のメセナ、社会貢献
さて、二十一世紀の企業哲学として「美しい企業」が標ぼうされている。具体的には「社徳が社格を決める」、「会社人と社会人(市民)の調和」が重要なキーワードとなっている。
今、注目の「コーポレット・シチズンシップ」とは「会社の一員として、企業の営業活動とは別に、その会社をよりよいものとすべく応分の貢献をすること」といわれている。「メセナ」はフランス語だが、ほぼ同じ意味である。
米国の企業は特に、社会的貢献に熱心に取組んでいる。証券会社の「メルル・リンチ」は高齢者を対象に世界各地の友人、家族に電話をかけて、楽しんでもらう計画を実行、全米で5500万人の老人が利用した。
米国のセントポール商工会繊所では保育所の充実に取組み、約五百カ所の増設、二百カ所のファミリー保育所を開設した。エイズ対策にチャレンジした企業や、米国最大の電話電信会社「AT&T」では少数民族出身の技術者の育成に取組んでいる。利益追求以上に社会的な貢献を企業活動の中心にすえているのである。
日本ではオムロン(旧立石電機)が身障者福祉工場を設置したり、日本たばこ産業JT)が経営利益の七・一%(約七十億円)を文化、芸術、スポーツ、地域貢献などのメセナ活動にあてている。
日本アイ・ビー・エムは一九九〇年に企業の社会貢献の専任取締役を置き、社員個人のボランティア活動参加を支援するため原則一年間の有給休職制度やボランティア団体に一件百万円の資金援助を実施することになった。
富士ゼロックスは年間五人を対象にボランティアの有給休戦を最高二年間まで認めるなど、従来にない企業活動が生まれつつある。
これとて、ほんの1握りであり、大部分は欧米の企業活動のモノマネであり、海外進出による海外摩擦によって急きょ右にならえしただけである。
いわば企業への風当たりを避けるための隠れミノといえなくもない。
バブル経済での過剰融資や地上げ、土地融資の現象と同じく、一なだれ現象の反動としての流行であり、自ら.考え出した企業哲学でないところに問題がある。
大原のキリスト教による人道主義、人格主義という確固とした哲学に基づくフィランソロピーに比ぶべきもない。
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