『オンライン現代史講座/日本最大のク―デター2・26事件はなぜ起こったのか』★『2・26事件(1936年/昭和11年)は東北大凶作(昭和6ー9年と連続、100万人が飢餓に苦しむ)が引き金となった』(谷川健一(民俗学者)』
『2・26事件(1936年/昭和11年)は東北大凶作(昭和6ー9年と連続、100万人が飢餓に苦しむ)が引き金となった』(谷川健一(民俗学者)
昭和11年に起きた日本最大のクーデター2・26事件の原因には東北大凶作①
前坂 俊之(ジャーナリスト)
2・26事件の原因について谷川健一(民俗学者)は次のように書いている。
「昭和9年(1934)には東北地方を中心にして日本列島社会を深刻な飢饉が見舞った。この東北凶作は昭和6年・8年、9年と連続して発生しており、この最後の9年のものが最大であり、二・二六事件をよびよせたとさえいえるからである。
反乱軍に参加し蹶起した将校や兵士たちは、東北大凶作に烈しい衝撃を受けた。そこには飢える百万人の農民があり、一家の借金をかえし、またロベらしのために凶作地から都会へと流出するおびただしい娘(10円、20円で公娼として身売りされた女性たちも)たちがいた。
一方、政界と財界の腐敗は眼にあまるものがあり、純真な正義心に燃えた若者(5・15事件、2・26事件の陸海軍の若手軍人たち)の憤激の種となった。彼らが国家改造、昭和維新に立ち上がったのは、社会の巨大な格差に目まいを感じたからだということができる。」(谷川健一「凶作の果て、人身売買」、「ものいわぬ群れ、東国編、 新人物往来社刊、1971年78-79P)
谷川は「この地獄絵の実態をいまの、昭和戦後の食糧危機のなくなった世代、食べものに不自由しない飽食の世代には全く理解できないであろう」とも書いている。谷川がこの原稿を書いたのは1971年なので、今から半世紀前のことである。コンビニ、自動販売機が近くにある、「便利で快適な生活」が当たり前と思っている現在の日本人にとっては「東北大凶作」の実態など一層理解を絶したものであろう。日本でも凶作、飢饉にょり餓死者が続出、人身売買、女性の身売りが横行した、今から85年前にあった事実を知るためには当時の新聞報道をみればよくわかる。
世界大恐慌の余波、昭和恐慌の影響と東北大凶作が発生、軍国主義が高まる。
未曽有の凶作 〔昭和6年10月31日 東京朝日〕
最近農林省に達した報告にょって、青森、北海道地方は稲作をはじめ全農作物が近年希有の不作で、ほとんど飢饉に瀕している惨状が判明した。同省では直ちに数日前、現地へ技術官を特派し目下詳細に実状調査中であるが、佐上北海道長官並びに守屋青森県知事はこれが救済方につき目下政府当局へしきりに陳情を行っており、農林、内務両省もその惨状に驚き救済案につき協議を重ねている。
東北地方では青森県を中心に山形、宮城、岩手各県、中部地方で富山県も相当不作であるが、青森県下はまことにはなはだしく、下北郡一帯は全然、稲の立ち枯れで収穫なく、全県下は半作以下、北海道もまた全道を通じて半作以下で惨憺たるものがある。
わらびを掘る農民〔青森電話〕
青森県下の今年の大凶作は実に惨憺たる有様で、はなはだしい地方では収穫時に入ったばかりの今日、早くも農民は飢餓の恐怖に襲われ、近づいた降雪期を前に野山のわらびの根をはり、馬鈴薯(ジャガイモ)とくずもみを混ぜて常食とし、辛うじてて生命をつなぐという悲惨な状態を現出している。
同県の調査によると、県下全耕地六万八千八百町歩のうち約三千町歩は収穫皆無、一万二千町歩はようやく三分作、他は五分作というところで、昨年の県下産米百三十万石に比べ今年はたった六十万八千石、すなわち四割六分という収穫予想ぶりである。
もっともはなはだしい地方は三戸、上北、下北の南部地方、および東津軽郡の東半並びに北津軽郡の北半で、冷雨続きの中に農民の吐息の声があふれ、欠食児童は続出するが、都会地のそれのようにあまり世間に知れず、従って世間の同情による給与等もない有様である。目下始まっている取り入れによって、たとい一時は飢えをしのぐことが出来るとしても、来年の二月頃になってから、もはや農民の食糧は全く欠乏を釆たすものと見られ、不安の冒がひしひしと迫っている。
『北海道はあし原のごとき水田』 〔札幌電話〕
春先以来七月下旬まで全く不順な気候にたたられた北海道は、水田、畑作とも過去四十年間において大正二年に次ぐ大凶作、殊に水田(十七万七千町歩)平均して半作以下、昨年二百四十万石獲れた米は百万石にも達せぬ見込み、畑作はややよいがそれもやっと六分作である。水田作のもっともひどいのは宗谷、網代、留萌等の東北部、中部で北海道は桧山地方、また函館近在を除く道南一体で来年のもみに窮する農家が実に一万五、六千戸に上っている。
上川支庁の美深町のごときは、水田二千町歩は実りの秋というのに、穂はツンと立って一面のあし原のごとく収穫は皆無、村民は既に食糧に窮して小学児童中に昼食の弁当を持しないものが一学級少なくも十数名はある。また根室のある新開地の村の小学校では、弁当に馬鈴薯に南瓜(ナンキン)をまぜたものを団子としてくる児童が全校の三分の一に及び、最近になって南瓜や馬鈴薯もなくなったか、豆を煮て弁当にしてくる者が殖えて来たという。
(町田忠治農相談) 青森県下や北海道地方は末曽有の飢饉で、各農村は非常に困っているという報告が相次いであるので、目下その対策を考究中である(略)救済基金は青森は百四、五十万円、北海道は五、六百万円の予算があればよく、大体これだけの資金をもってやることにほぼ決まっている。救済方法は低利資金の貸し付け、土木、耕地整理等の事業を起こすなど順次事業を実施することになっている。
娘売る山形の寒村を行く
〔昭和6年11月12日 東京朝日〕
〔山形にて特派員発〕 山形県の奥地、最上郡の山村に娘を一種の財産として身売りさせる慣習がある。最近の暗澹(あんたん)たる窮乏はこの風習を刺激して、ついに「娘地獄」を現出するに至った。
同村は十五歳より二十四歳までの女四百六十七名中、二百五十名の多数が大部分窮乏のため芸娼妓として村を出ているところだ。暗澹たるこの「青春のない村」を取材した。
奥羽本線を新庄で乗りかえて山間の湯の町瀬見に降りる。ここから自動車で三十分を走ると、問題の西小国村だ。最上郡は百五十方里余、人口わずか九万四千人で、その全面積の八割五分は国有林だ。一問余の道路の両側にはこの美麗な国有林が、あらゆる法律的威厳において紅葉している。この国有林の見事さに比較して、あらゆる惨めさを示しているのがそのあたりの田畑だ。
早い寒さで稲は満足にはとても育たぬ。殊年は不作だ。米粒らしいものを穂さきにつけた稲を、それでもこくめいに稲かけに干してある。
この地方は第四紀古層で耕作には不向きだ。うら枯れた丘陵と原野と荒涼たる北国の風景の内に、西小国村七百六十八戸が散在している。この民家たるや、都会人の「家」の概念を去るや遠い。たしかに屋根はある。しかしそれだけだ。壁よりも隙間の方が多そうなここいらの農家の防寒方法を、村民は事もなげにこう説明した。つまり屋根より高く積む雪が風を防ぐ壁を造ってくれるのだと。しかしてこの地方を訪れる都会人の心を打つものは、これらの農家をつつむ死のようなさびしさだ。
どこにも賑やかな声がせぬ。この村の総人口4714人、女2332人、この内妙齢の女250人が売笑婦として他郷へ出ているのである。
その理由を簡単にみるならば-、
明治初年、地籍台帳による官民有地決定の際、村民は租税を免れるため祖父伝来町田畑を出来るだけ狭少に届け出た。 いくらお上が偉くても、山を持っては行けないから。これが当時村の有力者が、村民一同に説得して歩いた論理であったそうだ。
かくして大正十五年、「国有財産法」 による荒廃地払い下げが大蔵省の督励の下に税務署の手によって行われはじめた。法律が村民の前にその恐るべき力を見せはじめた。極端に届け出面積を少なくした結果は、薪(マキ)一本はおろか稲くい一本をとるにも、裏の木は農林省管下の国有林だ。田のあぜから田のくろは無論のこと、「祖父伝来」の田畑のあるものまで税務署の管下にある。
かくして村民は地方税務署が半強制的に行うところに従って、自分が耕して来た田畑を法律上の荒蕪地として払い下げてもらわざるを得なくなった。
当時の最高価格は田反当り三百円、畑地百五十円、山林三十円、かくして「その後に釆たるもの」は ーいうまでもなくあらゆる方面における窮乏だった。
最上郡全体が払い下げをうけた件数四万筆、面積千町歩、価格約百万円、西中国の寒村だけが負担した払い下げ資金だけでも十五万円に及んでいる。そして予算三万円に足らぬこの村の村税の滞納が二万円だ。
小学校教員の俸給はもう三カ月も滞っている。村民の五十が専業とし、百六十が兼業としている炭焼きも一日の収入三、四十銭、営林署へ納める木代百三十円くらいをかせぎだすのがやっとの事だ。村民一人の飯代はひどいのは一日九銭、刑務所以下だ。こうして娘を売らねばならぬ「客観的情勢」は次第に作られて来たのである。
村の人と連れ立って歩く。方言による説明を翻訳すると、『ここの娘は新潟へ行っている。隣は東京の新宿、ここのは横浜のハイカラなところへ行っているそうだ。別墳でもないのだが、みる人がみたらいいのかもしれぬ。この村で一番よく売れたのは八百円になった。その隣は -。
博覧会の地方物産館を見物するような気がせぬでもない。一昨年県の調査では、新宿の娼妓十名中七名の割で山形の女がいるそうだ。前借は三百円くらいから、千円を越すのは近頃は少しもないそうだ。
娘を売った家を三、四軒訪ねてみた。「何故に」という問いに対して、その人々が東北人らしい朴的さと農民らしい宿命的あきらめのうちに答えたことはどれも、「ほかに仕方がない故に」ということだった。若干の慣習はあるかもしれぬ。しかしその慣習を鞭撻(べんたつ)するものは絶望的な困窮なのだ。村役場には去年、巡査部長のサーベルを捨てた老村長と三人の男がぽつねんと秋雨の音の中に座っていた。窓枠にともかくガラスが入っているという点で、村役場は小学校とともに村の尖端的建築物である。
娘を売った前借金に、特別戸数割を賦課したとかせぬとかいう話がありますね。と聞いてみた。『馬鹿らしい。それは政友派の宣伝だ』村長はなた豆煙管を左の掌(てのひら)にたたいて吐きだすようにこういった。
困窮農家四万六千戸、北海道の窮状
〔昭和6年11月14日 東京朝日〕
『弁当にいり豆持参』- 凶作飢饉に悩む北海道農家四万戸は、今や降雪期を前にして餓死線上をさまよう惨状を呈しているが、右被害状況につき十三日、佐上長官より内務、大蔵両大臣あてに送られた報告によると、困窮農家の数は四万六千七百八十八戸に及び、うち一万六百十五戸は種もみへ肥料等の資金を貸し付けても到底これが償還能力のなき農家であり、更に農作物が七割以上の減収であって、近く実施を見る道庁の救済工事の開始まで生活を維持することの出来ない農家が、五千五百八十二戸の多数に及んでいるとの事実を詳細に報告して来ている。なお凶作農家の窮状については、左のごとく報告している。
本道凶作農民の窮状は筆紙に表現しがたきものあり。元来本道農民は資力乏しき小作者と新来移住者多数を占めるを以って、毎年出来秋を待ち兼ねて新作物を生活の資料となすを常とする状態なるに、本年のごとき凶作に遭遇しては不熟不良の青米、燕麦、とうもろこし、南瓜、そば等を食料とするは上の部に属し、わらびの根、ふき等の野生植物により辛うじて飢えを凌ぎつつあるもの少なからざる有様にして、凶作によりわずかに収穫したる米のごとき、ほとんど
販売品としての価値なきを以って金銭収入の途なく、せめて塩を購う金あらばと歎く者あるの窮状なり。
「そのはなはだしき地方にありては、小学校児童の弁当にそば団子、
とうもろこし等を持参するはむしろ可なる方にて、いり豆を持って来る者すら少なからず。短時間にては消化不良となるおそれあるを以って、昼食休憩時問を延長したる学校を見るに至れるのみならず、そのはなはだしさものに至りては、美深町のごとく小学児童の欠席者とみに増加するの事実につき、学校長自ら家庭を訪問してその原因を調査せしに、児童に与うる昼食弁当なきため通学を中止せしむるのやむなきに至れるものなりしというがごとき事例は、全道到る所に少なからず。胆振支庁管内弁辺村、網走支庁管内斜里村、小清水村、河西支庁管内士幌村、根室支庁管内標津村のごとき、いずれも同様の窮状にあり。(後略)
不足郵便料払えず息子の出征通知届かず
〔昭和6年11月25日 東京日日〕
凶作地を見る ー 青森県(特派員菊池武雄) 凶作催災民のわらび根を食うことはまず上の郡である。明治三十五年以来未だかつて見ざる大凶作であるといわれている上北郡浦野館村では、わらび根どころか、馬や豚さえも顔をそむけようとする得体の知れぬものを常食としている。ある一家では、腐敗馬鈴薯を澱粉にし、それに蕎麦粉及び麦粉を混合し餅にして食っているなどはまずいい方、乾燥蓬、もち草、澱粉粕、馬鈴薯の生摺りなどを残飯に混入して食うなどもまず結構な部類である。
また別の一家では、乾燥した蕪を汁に煮、ささげ、魂豆、蕎麦粉を混ぜてかゆにしてすすっている。おやじが凶作のため樺太に出稼ぎに行ったという別人の女房など、八つを頭に五人の子供をかかえ、蕪と稗を混入しどろどろにしたものを日に三度食っている。勿論粒だって米が入っているわけではない。食物というべくあまりに悲惨なものがある。籾(もみ)一斗から米が一升五台出ればまずいい方であるというから無理もない。
しかもその米たるや、精白しようとすれば、ポロポロになって粉になってしまうという粗悪さ、仕方なく粗をいったん煮て、それを乾燥した上叩いて籾殻を吹き、初めて米らしくなったのを食う有様で、ほとんど五分作、三分作以下というから、この間の想像もつこう。
こういう哀話もあった ー。ある家のの枠の青森連隊に入官し、今度の満洲事変で派遣されることになり、この喜びを父に伝うべく手紙を書いた。家の後事や何かにと別れの手紙だっただけに、少々長かったので六銭不足の通知状が配達されたが、不幸にもその家では懐ろにはそれがなかった。勿論これが永久の別れになるかもしれぬという出征を通知した手紙とは露知らず、そのまま郵便夫に返さざるを得なかった。間もなく村長から戦死の知らせが来たが、もとより青森に出る一銭の貯えとてもなかったが、村のなさけでやっと出征する倅(せがれ)と別れを告げた。
浦野館村には今、頻々とコソ泥が出没している。盗難予防組合員が活動してるが、その警戒は深夜にせずに夕暮れの五時頃から六時頃までに行う。野良帰りと見せかけて男女、子供達が大根一本、二本、蕪を小脇に抱えて来るもの、ジャガイモをこっそりしのばせて来るものなどを目当てに、「オイコラ」と呼びかける。だがそうした野菜類だって、未曽有の不作で年内にはもう村から影を消してしまうであろう。「何かまだあるうちは望みもあろうけれど、なくなったらどうなりますか。よくある娘地獄も出ましょうよ」と村の駐在巡査も顔を曇らせていた。
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