『オープン講座/ウクライナ戦争と日露戦争⓶』★『ロシア黒海艦隊の旗艦「モスクワ」がウクライナ軍の対艦ミサイル「ネプチューン」によって撃沈された事件は「日露戦争以来の大衝撃」をプーチン政権に与えた』★『巡洋艦「日進」「春日」の回航、護衛など英国のサポートがいろいろな形であった』』★『ドッガーバンク事件を起こしたバルチック艦隊の右往左往の大混乱』
前坂 俊之(ジャーナリスト)
日英軍事協商の目に見えない情報交換、サポートがいろいろな形であった。
巡洋艦「日進」、「春日」の回航
明治三六年十二月「英国のギブス社がイタリア・ジェノバで建造中のアルゼンチン巡洋艦二隻を百五十三万ポンドで買わないか」という話が舞い込んだが、海軍省は予算がないのを理由に断った。この二隻の巡洋艦は世界最性能で、特に装備砲は最大射程距離二万メートルもあり日本、ロシアの主力艦を凌駕していた。
両国の軍艦比率は、日本側は主力戦艦六隻、装甲巡洋艦六隻など総排水量は二十六万トンに対してロシアは戦艦十二隻、寄進洋艦十隻など五十二万トンで、日本の二倍にのぼっていた。
ロシア側が購入を計画している情報が海軍省に伝わると、その態度は一変した。ロシアにわたれば海軍力の差は決定的に開いてしまう。
小村外相は二十三日、林駐英公使に対して「百五十三万ポンドの言い値で購入せよ」と訓電し、三十日に林公使がロンドンで、アルゼンチン側との契約書にスピードサインした。あやうくロシアの手に落ちるのを防いだのである。
百五十三万ポンドといえば当時の日本円で千五百万円になる。当時の日本の国家予算は二億六千万円、海軍予算が二千九百万円なので、思い切った高い買い物を決断した。両艦の所有権は日本側に移り「日進」、「春日」と命名された。
ところで、問題は日本までに両艦どうやって無事、回航するかである。
地中海にはロシア艦がウヨウヨし、いつ攻撃してくるかもしれない。ジェノバから日本までの回航は、英国のアームストロング社と契約、英国人が船長となり二隻の乗組員四百人はイギリス人、イタリア人で編成された。英国軍艦と同じ色に外舷に塗り変えて偽装して出発した。
日露開戦が秒読みになっており、東京からは一刻も早く帰ってこいの矢の催促で、両艦は弾薬の積み込みも完了しないまま、一月九日、ジェノバ港を出港した。ジェノバから日本まで、どのコースを取るか、ロシア軍艦のなるべくいないところと、帰る時間を計算して海軍省は「スエズ運河経由して、地中海のロシア水雷艇に十分注意せよ。危険な状況になれば、最寄のイギリス領の港に入れ」と打電があった。
一月十三日、十四日にスエズ運河の地中海側の港ポートサイドに着いた。ここにはロシア巡洋艦、駆逐艦がいたが、英国政府の好意で「春日」にさきに石炭を積み込んでくれた。地中海からインド洋までイギリスの新鋭一等巡洋艦が「キング・アルフレッド」が、「日進」「春日」に寄り添うようについて、追跡してきたロシア艦隊の後ろにピタリとついて、護衛してくれたのである。
このため、ロシア艦隊は手も足もでなかった。
アデン、コロンボと英国植民地の港には寄港したが英国艦船がおり、「日進」「春日」はシンガポールを出た直後の明治三十七年二月六日、日本はロシアに最後通牒を出し、両国は戦争に突入した。二月十六日、「日進」、「春日」は無事に横須賀港に入った。横須賀の町民は日英両国旗を掲げて、歓迎し、明治天皇は英国人艦長二人に勲章を授けた。
「日進」「春日」は整備した後、ただちに聯合艦隊に組み込まれた。
日本海海戦では「日進」は、「三笠」を旗艦とする第一艦隊の最後尾の殿艦として活躍した。聯合艦隊の作戦参謀の秋山真之中佐は「日本が主力艦十二隻を全部を戦線に出すことができなかったら、勝敗はどうなっていたか分からない。「日進」と「春日」この二隻がいなかったらと思うと私は今でも戦慄せざるを得ない」と述べている。(『日本海海戦から一〇〇年』
この背後に英国側の並々ならぬ協力があったことがうかがえる。同盟初期イギリスが日本に対して行った最大の貢献であった。
ドッガーバンク事件を起こしたバルチック艦隊
もう1つ、日英軍事協商の影響と思われるバルチック艦隊のドッガーバンク事件である。ロシア海軍は、陸軍の敗北をばん回するため、バルト海に駐留していたロジェストジェストヴェンススキー提督率いるバルチック艦隊(ロシア第二太平洋艦隊、戦艦七隻を主力とした計五〇隻、三〇万トンの大艦隊)を五月二十日、日本攻撃にむけて出撃させるとを発表した。
しかし、バルチック艦隊の出航準備は大幅に遅れて兵力も減り戦艦5隻を含む15隻の艦隊で半年後の10月15日にやっと地球半周一万八千カイリの大航海にスタートした。
この間、日本艦隊の勇敢さ、神出鬼没ぶり、その弾丸の猛烈な破壊力などに尾ひれがついて伝わり同艦隊の将兵は不安を募らせた。そこへ途中の海で日本艦隊が奇襲攻撃をしかけてくるのではないか、など真偽取り交ぜたウワサ、デマ、謀略情報が乱れ飛んで出航前から同艦隊の将兵たちは疑心暗鬼になった。
このため、ロシアはルートの要所要所にエージェントを雇い入れて、日本艦隊の動向を監視させた。そうしたエージェントからも日本の水雷艇が暗躍しているとの情報も寄せられ、また日本側もニセ情報を流して撹乱した。バルチック艦隊は恐怖心を乗せてバルト海を出て、イギリスが制海権を握る北海に入った。
10月21日夕、バルチック艦隊は濃霧の中を北海のドッガーバンク付近にさしかかった。ドッガーバンクとは古いオランダ語で釣り舟を意味するところで、英国の東方100キロ沖合の水深15メートルの広大な浅瀬である。タラやニシンなどの絶好の漁場で、英国の漁師の小型トロール漁船4,50隻が毎日のように操業していた。
ここでバルチック艦隊の工作船が操業中の英国漁船の闇に浮かぶ無数の灯火を日本軍水雷艇の野襲とかん違いして「水雷艇に追跡されている」との無線を発信した。戦艦「アレクサンドル3世」、「スワロフ」は「戦闘配置につけ」「魚雷攻撃だ」と命令を発し、漁船に向けて500発以上を発砲して、英国漁船1隻が沈没、四隻が大破、3人が死亡し、5人が負傷する事件が発生した。ところが、バルチック艦隊は英漁船の犠牲者も救助せずそのまま立ち去ってしまった。
この事件に対してイギリス世論は激高し、ごうごうたる非難がまき起きた。新聞はバルチック艦隊を「海賊」「狂犬」と一斉に非難し、「ロンドン・タイムズ」は「海軍軍人がいかに恐怖心に駆られたとはいえ射撃目標を確かめもせず、二十分間にわたって漁船に砲撃を加えるとは、とうてい想像し難いがたい。
大艦隊の大砲で憐れな漁民たちを撃ち殺し、犠牲者を救助もせず立ち去るとは想像も出来ないことである」と断定し、国王エドワード7世も「最も卑怯な暴行事件である」と批判した。ロンドン・トラファルガー広場で「ロシアの野蛮な行為に断固たる措置をとれ」と大規模なデモ行進があり、反ロシアと親日ムードが一挙に盛り上がった。
バ艦隊はそのままドーバー海峡をこえてスペインに向かったが、英政府は賠償問題解決までバルチック艦隊をスペインのビィゴ湾に5日間ストップさせた。石炭、水の供給は中立違反になるとスペインに警告し、以後、バルチック艦隊に無法者艦隊のラベルをはり、その航海を監視し、英国の植民地への「バルチック艦隊」の入港を拒否した。
当時、船の主力燃料はほとんどが英国産の「カーディフ石炭」(無煙炭)だったが、この供給もストップした。さらに、フランス政府に圧力をかけ、フランス植民地の港を使用させないように強要した。バルチック艦隊はアフリカ西海岸沿いに喜望峰をまわり、ジエゴシアレス港で石炭積み込みと休養のため二週間の碇泊を予定していた。
ところが、イギリスの圧力により、フランスは同港の使用を禁止した。このため、同艦隊はマダガスカルの小さな漁港のノシベ港へ回った。
ドイツは、ロシアに味方しており、ここでカージフ炭を補給する予定だったが、ここでもイギリスが再び待ったをかけたので二ヵ月間も足止めされた。
そのあと、ようやくフランス領インドシナのカムラン湾にたどりついたが、ここでも湾内の停泊は禁止された。給炭のための巡洋艦や運送船以外の艦艇は、国際法の規約により二四時間で出港を強要された。バルチック艦隊は後続のロシア太平洋第三艦隊の到着までの二週間を湾外の外洋で停泊した。こうしたび重なる混乱と停泊で艦隊内の士気は最低までに落ち込んだ。カージフ炭の不足で艦隊のスピードは落ちる一方で、日本海海戦の前からすでに敗色濃厚だったのである。
このドッガーバンク事件の影で活躍したのが滝川具和(海軍少将)と言われている。滝川は明治35年、ドイツ公使館付海軍武官となりベルリンに赴任、日露戦争時には明石と共にヨーロッパで特別任務にあたった。「対支回顧録」下巻 列伝』(東亜同文会内対支功労者伝記編纂会、1936年)では、「陸の明石大佐とならんで裏面の勲功をたてた。
ロシアの革命派を操縦して各地に小規模の反乱を起させ、海軍にはオデツサの黒海艦隊の内乱あり。バルチック艦隊の東航予定(三十七年六月出発の予定)を延期させ、十月にようやく出航するや抜錨するや、日本水雷艇が北海方面にあるとのニセ宣伝をながしたり、漁船をやとってバルチック艦隊の襲撃を試みるとのデマもとばして、ロシア側を動揺させて、ロシア陸海軍の極東派遣を阻止した」と記されている。
つづく
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