前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『ウクライナ戦争に見る ロシアの恫喝・陰謀外交の研究➄』★『日露300年戦争(1)-『徳川時代の日露関係 /日露交渉の発端の真相』★『こうしてロシアは千島列島と樺太を侵攻した』』★『徳川時代の日露関係日露交渉の発端(ロシアの千島進出と樺太)』

   

 2017/11/16/徳川時代の日露関係日露交渉の発端(ロシアの千島進出と樺太)

以下は『日本外交史―幕末外交⑴』鹿島守之助著、1970年刊より。

 前坂 俊之(ジャーナリスト)

 16世紀末、ヴォルガ沿岸の首長エルマグは、コザック隊を率いてシベリアに連出したが、これがロシアの東進の発端となった。その後、ロシアは

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2

https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2-74957

から南下をも試みたが、1689年、清国とネルチンスク条約

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9D%A1%E7%B4%84

https://kotobank.jp/word/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9D%A1%E7%B4%84-111619

を締結し、黒竜江流域を失った。それ以後は北東に向って勢力を伸ばし、17世紀末カムチャッカに至り、太平洋岸に出て、さらに南下し、千島諸島の北端に達した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E5%88%97%E5%B3%B6

 そのころ1724年、ビョートル一世は、デンマーク生まれのロシア海軍軍人ベーリング大佐

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0

にアジアとアメリカとが陸続きであるかどうか調査を命じた。探検隊が組織され、両大陸の間に海峡のあることが確認され、この海峡は彼にちなんでベーリング海峡と名付けられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%B5%B7%E5%B3%A1

 その後、1732年、ベーリングの率いる探検隊は、カムチャッカを基地として、その北方並びに東方を調査したが、さらに同じくデンマーク生まれの海軍中佐スパンベルグ

https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B0-1134345

を隊長とする一隊が追加され、千島列島を過ぎて日本内地に至る水路の調査を行った。

 

1739年(元文四)5月21日、スパンベルグは四隻の船隊を率いて千島に向い進航したが、6月14日、彼の乗船「アルバンゲル・ミパイル号」は僚船と別れて、本州の陸岸を望見しながら南下。

6月23日、奥州(秋田県)牡鹿郡三石崎沖に停泊、スパンベルグが陸上より検分に来た田代村駐在仙台藩吏・千葉勘七郎と会見したのち引き返した。

このとき海軍大尉ワルトンを船長とする僚船「聖ガウリイル」号も、

6月20日、房州(千葉)長狭郡天津村に現われ、乗員が上陸して飲料水を求めている。これはわが国に来航した最初のロシア船であり、この報に接した江戸幕府の老中松平左近将監は、勘定奉行神尾若狭守

https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E5%B0%BE%E6%98%A5%E5%A4%AE-760592

に命じて、北辺の海防を厳重にするよう布告を出させた。

 その後ロシア人は千島諸島に頻繁に往来し、これに「クリル」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%AB

というロシア名を与え、先住民に獣皮の貢納を命じたが、1764年から71年(明和元年から八年)までに、

得撫島https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%97%E6%92%AB%E5%B3%B6

以北の諸島を征服し、各島に酋長を置き、「一男一狐皮」貢約の制を定めた。

これらの諸島は主としてクリムセ人種(アイヌ同系の先住民族)の居住地域であったのでわが国にとっても対岸の火事と眺めていたが、その後、ロシア人がさらに進んで得撫(うるつぶ)島に侵攻してきて、そうはいかなくなってきた。               

得撫島は無人島だが、択捉島(えとろふ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%9E%E6%8D%89%E5%B3%B6

の住民の漁業地区となっていたので、ロシア人との間に漁場をめぐって、1770年(明和7年)から数年にわたり、凄惨な争奪戦が展開された。

択捉島、得撫島は1710年代の享保年間から松前藩の所領となっていたが、なんら実質的な支配も行なわれず、これに乗じてロシア人はその後、得撫島を越えて択捉島にまで進出、まさに千島全島を侵略・占領にする勢いを示したのである。

 

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

終戦70年・日本敗戦史(137)1932年(昭和7)のロㇲ五輪の馬術で優勝した国際人・西竹一は陸軍内では左遷に次ぐ左遷で『戦車隊長」で硫黄島に配属、玉砕した。

終戦70年・日本敗戦史(137) <世田谷市民大学2015> 戦後70年  7月 …

no image
速報(163)『日本のメルトダウン』ー『ギリシャをデフォルトさせろ』★『ユーロ圏の危機、応急手当は治療ではない』

速報(163)『日本のメルトダウン』   『ギリシャをデフォルトさせろ …

no image
片野勧の衝撃レポート(60)戦後70年-原発と国家<1952~53> 封印された核の真実ー原爆報道が一気に噴出①

片野勧の衝撃レポート(60)  戦後70年-原発と国家<1952~53> 封印さ …

no image
★➉外国人観光客へのおすすめベスト第1位ー「世界文化遺産.醍醐寺」のすべて―『 慶長3(1598)年の春、豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」を契機に 秀吉と秀頼によって金堂や三宝院、山上では開山堂や如意輪堂などが再建された。』●『三宝院の秀吉が設計した庭園。天下の名石『藤戸石』がある。』

★➉外国人観光客へのおすすめベスト第1位ー「世界文化遺産.醍醐寺」のすべて➀   …

no image
片野勧の衝撃レポート⑧『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』―サハリン引き揚げと福島原発<上>―

片野勧の衝撃レポート   太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑧ &n …

鎌倉/稲村ヶ崎サーフィン(2020 /4/19/730)-ブルースカイ、クリーンな白雪富士山を眺めながら春の大嵐の後の大波にチャレンジするサーファー約20人➀
『Z世代のための大谷イズムの研究』★『ドジャース地区優勝決定翌日のロッキーズ戦』『大谷は特大54号3ランで「54-57」を達成』★『地元TV局は「タイタニックな一発」と驚嘆』★『大谷の父親は「真美子さんがいなければ、今の翔平はない」』

ドジャースが地区優勝を果たした翌日の一戦で、大谷翔平投手は27日、敵地・ロッキー …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(94)記事再録/『本物のリーダーとは、この人をみよ』★『大津波を予想して私財を投じて大堤防を築いて見事に防いだ濱口悟陵のインテリジェンス

    2012/09/11 &nbsp …

no image
最高に面白い人物史⑨人気記事再録『日本風狂人伝(28)』 大預言者(?)で巨人の大本教の開祖・出口王仁三郎のジョーク

日本風狂人伝(28) 大預言者(?)で巨人の大本教の開祖・出口王仁三郎のジョーク …

no image
日本リーダーパワー史(69) 辛亥革命百年⑨孫文の神戸上陸と頭山満②

  日本リーダーパワー史(69) 辛亥革命百年⑨孫文の神戸上陸と頭山満 …