『オンライン/明治外交軍事史/読書講座』★『森部真由美・同顕彰会著「威風凛々(りんりん)烈士鐘崎三郎」(花乱社』 を読む②』 ★『川上操六陸軍参謀次長と荒尾精はなぜ日清貿易研究所を設立したのか』★『鐘崎三郎は荒尾精に懇願して日清貿易研究所に入ったが、その「日清貿易研究所」の設立趣旨は欧米の侵攻を防ぐためには「日中友好により清国経済の発展しかない」という理由だった』
2021/06/04
日本リーダ―パワー史(978)
今、米中覇権争いで、台湾や尖閣諸島、南シナ海をめぐる米・中・日3国の対立がエスカレートし軍事的緊張が高まっている。本書はこの150年間の日中韓友好・対立・戦争史のルーツを知るための絶好の書といえる。森部真由美さんら同顕彰会著「「威風凛々(りんりん) 烈士鐘崎三郎」(花乱社、(A5判/並製本/414ぺージ/本体3000円+税)
http://karansha.com/
が5月3日に出版された。
内容は1891年(明治24),運命に抗うように上海に渡り,時代に翻弄され,26歳で落命する鐘崎三郎の人物像と,彼を見守った多彩な人士たちの記録です。
明治の近代精神に燃えて大陸に渡った若き鐘崎三郎(福岡県出身,1869-94)。日清貿易研究所で学び,商店経営を実践,各地を旅して経済交流の最前線に立つも,1894年,日清戦争が勃発。陸軍に通訳官として派遣されて捕縛,刑場に散った鐘崎三郎の生涯を子孫の森部真由美さん(67)=福岡市=らが自費出版したもの。
鐘崎の足跡を丹念に追跡し、明治に自由民権運動としてスタートした「玄洋社」(ブラックドラゴン)は昭和戦後(1945年)にGHQによって「超国家主義」のレッテルを張られて歴史から抹殺されたが、その玄洋社の人脈や、大陸を志向した九州人たちの人脈を地道にたどっている歴史ドキュメントになっている。
同時に、『烈士の面影』(大正13年刊)・『烈士 鐘崎三郎』(昭和12年刊)の両書は現代人、地元の子供たちにも読みやすい現代文に改め、その後の記録を加え増補再刊している。
さらには、同書に登場する明治維新からのそうそう人物や玄洋社の面々の人物史約50人のメモも別冊子でつくり、各図書館に配布。
地元の抹殺された歴史、人物を掘り起こして歴史認識をバージョンアップしており、大変丁寧な本づくりであるのにも感心しました。(文・前坂俊之)
② 鐘崎三郎が荒尾精に懇願して日清貿易研究所に入ったが、その「日清貿易研究所」の設立趣旨は欧米の侵攻を防ぐためには「日中友好により清国経済の発展しかない」という理湯だった。以下で荒尾精の設立趣意書を見ていく。
2015/12/31/日本リーダーパワー史(631)
日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(24)
『川上操六参謀次長と日清貿易研究所を設立した荒尾精「五百年に一人しか出ない男」【頭山満評)②日清貿易商会、日清貿易研究所設立の動機は「中原正に鹿を逐ふ、惟に高材疾足の者之を獲る」
前坂俊之(ジャーナリスト)
荒尾精が日清貿易研究所の設立を提言
1889年(明治22)4月、荒尾は漢口での3年間の諜報活動を終えて帰国し、参謀本部に2万6千字にものぼる復命書を提出した。この復命書には「貿易富国」(支那改造、東亜建設の基礎を樹立せんと欲せば、日支提携の策をこうじ、両国の貿易を振興するにしかない)の構想を記し、貿易振興は日中間の急務であり、中国に日清貿易商会を設立して、日清貿易研究所を付属機関として設立し、貿易業務人材の育成を行なうことを提案していた。
ちょうどこの時、川上が参謀次長の職に就いた時であった。
貿易商会設立案は却下されたが、川上参謀本部次長が研究所設立を支持し、4万円の援助金を松方蔵相とかけあって獲得した。明治23(1890)年9月、荒尾は日本全国から集った150人の学生と研究所員数十人と共に横浜から横浜丸に乗り込み、長崎を経由し、9月9日、上海に再び降り立った。
この日清貿易研究所の創立では、首相山原有朋、蔵相松方正義、農相岩村通俊、農商務次官前田正名、陸軍次官桂太郎ら政府当局者の援助も少なくなかったが、荒尾の最大の支援者が川上であった。
上海での日清貿易研究所の設立総会には、参謀総長有栖川宮とともに川上も列席した。日清戦争約1年前の26年6月、日清貿易研究所学生の第1回卒業式には、89名の卒業生を送り出したが、当時、支那偵察旅行中の川上は随員とともに参列しその前途と祝福した。
「明治二七年七月、かつて日清貿易研究所の所長を務めたことがある根津一陸軍大尉が、参謀本部から中国に派遣されてきた。参謀本部からの密令を受けて上海に到着した根津は、日清貿易研究所の「卒業生」を「特別任務班」として編成して、華北、東北各地に派遣した。これらの 「卒業生」は、戦争中において非常に精力的な活動を行なった。中国官憲に捕えられて極刑に処せられたことが記録にはっきりと残されている者の数だけでも六人に上ったという。
本庄繁陸軍大将も『日清貿易研は専ら日清戦争のため設立する感あり』と語っている」 (馮正宝著「評伝宗方小太郎」(熊本出版文化会館、1997年)
荒尾は1889年(明治22年)4月、日清貿易商会、日清貿易研究所設立の提案をもって帰国し、参謀本部に復命したが、この時提出した「復命書」(明治22年五月10日) 中で日清貿易研究所設立のネライを次のように書いている。(現代文に直す)
- この計画を実行するにあたって、清国人、外国人の疑いをさける方法は、貿易商業を盛にし、身を商人に扮して常にその仕事をしながら、人から怪しまれずに、ず、清国国内を運動する必要がある
- 支部を置いて情報蒐集、分析をおこない、情報提供者を求めるには、充分なる資金が必要である。その資金の幾分かを商売の利益によってまかなうこと。
- わが国の清国に対する貿易を伸張して、商権を回復、拡大すること。
- 日清貿易商会を設立するのは実に清国に対する第一手段にして、今日の緊急事である。 ヨーロッパ列強が清国に対して手を下す方法を見ると、大体このような手段である。
- わが国は近来、商店を清国各地に開き、士官が商売人に扮して探偵(情報部員)に従事させており、その最大のものは、福州、九江、漢口の3ヵ所において茶製造所を設け、その生産高は多く、これをもって探偵の便に供し、北清地方の商権を獲得することを図っている。
⑦ 今日、上海に日清貿易商会を興す事ができれば、漸次これを拡張し、鎮江、広東、天津に幹部を設けて同じく商業に従事させ、その力に応じてその管轄内の要地に支部を設け、有為にして才幹あるもの1,2人を、支那人の資格に装ふて分派し、土地の便宜により、茶館、宿屋、工業、牧畜耕作などを開設し、これによって巡回探偵に従事させる。
⑧ 幹部においては各支部を通じ、上海幹部は各幹部の連絡を保ち、諸報告類を上海でとりまとめ、本部に送れば、連絡をより緊密にとることができる。
⑨ これを着実に進めていけば、10年後には、実力、地理の探偵は用意周到に準備できて、有能な人材も集めることもできる。
⑩ ことわざにいわく、『中原正に鹿を逐ふ、惟に高材疾足の者之を獲る』と。今やヨーロッパ諸強国が清国を手に入れて、その事業も日々進んでいる。我れこれをもって先んじてヨーロッパ列強を制せんと欲す。しかし、またこれは容易の業にあらず・・と。
つまり日清貿易商会と日清貿易研究所設立の動機は「中原正に鹿を逐ふ、惟に高材疾足の者之を獲る」ことにあった。中国分割をめぐる欧州諸国との争いにおいて「高材疾足」の養成することである。1888年(明治21年)、漢口楽尊堂において定められた活動方針と一致している。(以上は馮正宝著「評伝宗方小太郎」(熊本出版文化会館、1997年)
荒尾・根津の知己たる小山秋作は次のように語っている。
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%A7%8B%E4%BD%9C-1076090
http://tksosa.dijtokyo.org/?page=collection_detail.php&p_id=298&lang=ja
根津君は己を虚うして荒尾君の事業を助けた。荒尾君の眞正の相談相手は根津君であった。根津君は常に表面に立っことなく、陰にありて荒尾君の短慮を補い、その間に在りて寸毫も自ら功名を博せんとするが如きことがなかった。兎角、事業が苦境に陥ったときには、双方とも紛争の起り勝ちのものであるが、終始一貫、荒尾君を助けたことはつとに感服の外は無い。是れは大に謝せねばならぬと思う。ひとり根津君のみではない。荒尾君の同志は一心同体、互いに激論することはかつてなかった。
すべての同志が自己を忘れて専心一意、国家のために事に従ったからであった。
川上大将は非常に荒尾君を信任し、終始、君を尊重した。君が陸軍少尉、中尉時代においても、大将が他の将官連と談話中、荒尾君がくれば、席を避けて君と面談し、又、大将が君と対談中に他の将軍が来れば、君との談話の終わるまでる面会しなかった程であった。
明治24年の末、日清貿易研究所の財政の窮迫がひどくなった時には、予は君の依頼を受け、大将を訪問して援助を交渉したことがあった。
大将はあいにく急を救うための金の持ち合わせがない、と告げられた。、非常に絶望して大将の邸む辞せんとするや、大将は予を呼び止めていわく『明日さらに来るべし」と。予は「御融通の道がなければ、再訪問の必要はない』と辞し去った。ところが、翌日になって、大将から使者があり、来訪を促がして来た。予は直に大将邸に至ったが、大将は『邸宅を担保として金4000円を調達した。この金を以て荒尾君の急を救え」とて、その金を渡された。
これを見ると、如何に大将が君を信じ、その事業を助けられたかの一端をうかがうことが出来る。
頭山満いわく「川上はすくなくとも東亜先覚者の第一人者といつても、だれl人異論をはさむものはあるまい」。
(徳富蘇峰『陸軍大将川上操六伝』東京第一公論社,1942年刊 108-109P)
つづく
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