『オンライン講座/太平洋戦争の研究』★「生きて虜囚になることなかれ」の戦陣訓こそ日本軍の本質』★『「戦陣訓」をたてに、脱走事件を起こした「カウラ事件」もあまり知られていない。』
2015/07/16
終戦70年・日本敗戦史(90)
「生きて虜囚になることなかれ、死して罪過、汚名を残すことなかれ」
の戦陣訓こそ日本軍の本質であり、死ぬまで戦い、玉砕、最後は
自決して、捕虜には絶対にならない、他国の捕虜も同じように扱い
「虐殺」「飢死」させた。
http://www.maesaka-toshiyuki.com/history/7385.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%AB%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2
驚くべき「サンダカン捕虜収容所の死の行進」〔生存率0,24%)
この「サンダカン捕虜収容所の死の行進」はほとんど知られていないが、オーストラリアの戦争史上、最も残虐な事件、悲劇といわれる。
そして「戦陣訓」をたてに、脱走事件を起こした「カウラ事件」もあまり知られていない。
一九四四(昭和一九)年八月五日未明、 オーストラリア南東部ニューサウスウェールズ州のカウラの捕虜収容所で日本人捕虜の下士官・兵二〇四名が一斉に金網を乗り越えて集団脱走を計り、二三四名が死亡、オーストラリア軍にも四名の死者が出た事件である。日本人捕虜の死者の中には自殺者もかなりいた。なぜこうした集団脱走を企てたのか。
捕虜の証言でも米・肉・魚・野菜など食糧はふんだんに支給され、強制労働どころか軽い労働も課せられることはなかったという。問題があったのは、日本人捕虜自らの捕虜観だった。 このとき捕虜の数が増えたので、オーストラリア側は一般兵士の捕虜を別の収容所に移すことを通告してきた。収容所の中で班長会議が開かれ、移動を拒否して決起するかどうか議論がたたかわされた。その結果投票になり、八〇%の賛成で集団脱走が決定された。賛成すること
が死を意味することはみなわかっていた。脱走に際して、ある班長は「いよいよわれわれは全員出撃に跨み切った。目的は死することである」と班員に語ったという。「生きて虜囚の唇を受けず」の「戦陣訓」の一節が捕虜たちの心を縛りつけていた。「捕虜であること自体が恥であり、そこから逃れるためには死しかない」と思い込まされていた。 捕虜たちはラッパの音を合図にナイフ、包丁、棍棒などを持って歓声をあげて鉄条網を突破しょぅとしたが、警備隊の機関銃で撃ち殺された。集団自殺としか言いようのない行為だった。
捕虜を恥とする考え方は、一方で連合軍描虜を虐待することになったが、同時にそのことが日本兵の意識をも拘束し、自ら死を選ばせることになった。兵士たちを加害者にしていったものが逆に兵士たち自身の命を奪っていったのである。(小田部雄次・林 博史・山田 朗共著『キーワード日本の戦争犯罪』(雄山閣出版、平成7年刊)
降伏の禁止と玉砕の強制―捕虜政策の転換
兵士に「自死」を強制した「生きて虜囚になることなかれ」とした戦陣訓こそ日本軍の本質であり、死ぬまで戦い、最後は自決して、捕虜には絶対にならないならない、他国の捕虜も同じように取り扱ったのである。
ヨーロッパでは中世以来たえず国家間の戦争が繰り返され、その悲惨な戦争体験から戦争の悲劇を少くするために、戦争のルール、捕虜の取り扱いと人権の尊重を認めるハーグ陸戦条約が1899 (明治32)年に成立した。捕虜の人権を尊重し、虐待を禁じた戦時国際法だが、1911(同42)年には日本でも批准、公布した。
これを、さらに拡充したジュネーヴ条約(傷病者、捕虜の待遇改善に関する条約)が1929(昭和4)年に締結されたが、日本はこれは批准しなかった。
米英側から大東亜戦争開戦後にジュネーブ条約の適用をするかどうかの照会があったが、これには「準用する」と回答した。
しかし,1941年(昭和16)年1月8日に東條陸相が示達した「戦陣訓」では捕虜を認めず日本兵には降伏、捕虜になることを禁止し、自決を命じた。これ戦争中の「バンザイ突撃」や「玉砕」(全滅)、民間人の自決強制、降伏禁止、敵国の捕虜虐待、虐殺につながった。
「戦陣訓}の「本訓その二」の「第八 名を惜しむ」の一部「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過汚の汚名を残すこと勿れ」とほんの短い文であるが、これが絶対的な「死の掟」となった。
もともと戦陣訓がなぜつくられたのかというと 1937 年(昭和12)に支那事変(日中戦争)がはじまってから、日清・日露の戦争ではみられなかった戦場での軍規、風紀の乱れがめだち、「非違犯行」(上官暴行、戦場離脱、強姦、放火、略奪など)がかつてないほど増大した。頭を痛めた陸軍教育総監部は、軍規、風紀粛正のためにこれを作ったのである。
ところが、冒頭にも書いたが、昭和十七年四月十八日のドゥリットル攻撃隊で捕まった米国人飛行士8人に対しては極刑に処して、死刑が宣告だし、
その後終身刑とした。ハーグ、ジュネーブ条約違反だが、もともと捕虜になることを禁じた日本としては当然の帰結であった。
終戦70年・日本敗戦史(87)
敗戦直後の1946年に「敗因を衝くー軍閥専横の実相』「敗戦秘話・裁かれた歴史」で陸軍を糾弾、東京裁判でも検事側の証人に立った反逆児・田中隆吉の証言⑧
http://www.maesaka-toshiyuki.com/war/7335.html
昭和十七年四月二十九日、東条英機首相(兼陸相)は「捕虜の取り扱い」について次のように厳命した。
「大東亜戦争は過去における日清、日露戦争とはその性質を異にする。亜細亜の解放戦争である、人種戦争である。故に白人捕虜の取り扱いは国際条約の規定に捉われることなく、次の原則に従って処断すべきである。
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①アジアの諸民族に対し日本民族の優秀性を示すために、現地のみならず、満洲、中国、朝鮮、台湾などに収容所を設置すること。
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②戦争遂行上に必要なる労力の不足を補うため、働らかざるものを食うべからずとの原則に基き、下士官のみならず、将校も総てその有する特技に応じて労働に服させること」
この結果どうなったのか。緒戦の予期せぬ大勝で、これまた予期せぬ多数の捕虜を抱えることになった日本軍はその処置に困った。しかし、「戦陣訓」に基づき、東條首相(陸相兼務)の指示通りに実行したのである。ただし、このあたりは、東條命令と「ハーグ・ジュネーブ条約」との間の解釈が現地軍トップの間でも混乱していたのは事実である。
つまり捕虜というものについて国際的にも認められていた権利についての知識が欠如していたのである。そこから悲劇や怨念が生まれている。[日本の軍隊では、国際条約にもとづいた捕虜の扱いや捕虜となったときの権利について、まったく教育も訓練もおこなっていなかったのだ。
こうして、「捕虜は虐殺」、「帆量になる前に万歳突撃」で玉砕、自決、自死の戦いとなった。
シンガポール・マレー半島の華僑虐殺
1942(昭和17)年2月15日に山下奉文司令官の第二五軍はシンガポールを占領した直後に〝華僑粛清命令〟を出した。一八歳から五〇歳までの華僑・華人男子を何カ所かの指定場所に集合させ、簡単な尋問をして「抗日分子」とみなされた者はトラックに乗せられて海岸などに運ばれ、機関銃で集団射殺されたのである。ちなみに、「建国の父」とも呼ばれたリー・クァンユー前首相も、この虐殺からの危うく″生き残った一人だった。
虐殺は一九四二年二月二一日から三月末まで続けられ、戦後のシンガポール側の調査によると四万~五万人(日本軍によると約五〇〇〇人)が殺された。
華僑虐殺は、シンガポールからマレー半島全域び犠牲者は五万人から一〇万人にのぼるとされている。
バターン死の行進
フィリピンのマニラを攻めた日本軍は、バターン半島に立てこもったマッカーサーの米・フィリピン混成軍と激しい戦闘を繰り広げた結果、1942年4月九日、に占領して米・比軍は降伏。マッカーサーはオーストラリアに脱出した。約七万六千人(米軍一万二千、フィリピン軍六万四千)が捕虜になった。
日本軍は大勢の捕虜をバターン半島南端マリべレスからサンフェルナンドまで炎天下を110キロオドネル収容所までさらに十数キロを歩かせた。行進中は、食糧はもとより水さえわずかしか与えられず、収容所にたどり着くまでにフィリピン人捕虜約一万六千人、米人捕虜約千二百人が死んだとされる「バターン死の行進」事件である。
東京裁判での(オーストラリア代表)検察官によれば、「第二次世界大戦中、ドイツ、イタリアで一四万二三一九名のイギリス兵が捕虜となり、そのうち五・一%の捕虜が死亡、殺害された。これに対し極東では、五万〇〇一六名の英国兵が日本軍の捕虜となったが、実に二四・八%が死亡、殺害されたという(『極東国際軍事裁判速記録』第132号)。
ヴェトナムの大量餓死
一九四〇年から仏印(フランス領インドシナ)に進駐していた日本軍は四五年三月、フランス軍を武装解除してヴェトナムを単独支配した。
その前年にヴェトナム北部で大凶作が発生し、極度の米不足に陥っていたが日本軍はフランス統治府に圧力をかけて米の強制供出をさせた。市民たちの備蓄米は大量に奪われて大飢饉が起き、人々は次々に餓死していった。タイビン省では一〇〇万余りの人口の三分の一近くが死に、ハノイにも餓死者があふれたという。
こうした惨状のなかで、ヴエトミン(ヴェトナム独立同盟)は日本軍の倉庫を襲い、人々に米を分け与えた。このヴェトミンのリーダーだったホー・チミンが終戦直後の四五年九月に独立を宣言したのだが、「二〇〇万人以上の同胞が飢死にした」と述べている。(根津清ら共著「アジアの新聞で50年目の8月15日」(ダイヤモンド社、1995年)
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