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『オンライン講義/日本での最高の天才(創造力の最大値)は誰でしょか、クイズ』★『柳田国男いわく『日本の知の極限値』は南方熊楠ーエコロジーの世界の先駆者』★『「鎖につながれた知の巨人」南方熊楠の全貌がやっと明らかに。 地球環境危機の今こそエコロジー学の先駆者・南方熊楠に学ぼう』

      2020/07/27

 

   /日本リーダーパワー史 (22)記事転載
『世界の知の極限値』ーエコロジーの先駆者・南方熊楠(上)
 

前坂 俊之
                            (静岡県立大学名誉教授)
 
・日本人の知の極限値・南方熊楠
 
柳田国男は南方熊楠を「日本人の可能性の極限」と評したが、南方は知られざる近代日本の独創的な思想家であり、世界的に見ても20世紀最大の「知の巨人」といってよい。              

百年以上前に活躍した熊楠の活動は、今でいうインターネットWebそのものと言っていい存在であった              

世界中を歩き回って、英国・ロンドンで英語やラテン語など十数カ国後を駆使して知識、情報を集め、英語で多数の論文を発信し、故郷・和歌山に帰国した後も、生涯田舎(和歌山県・田辺市)に住んで、学会などには一切属さず、個人として、自由人として世界を相手に質の高い情報を発信し続けたことは正にインターネットそのものである。

 
・暗記の天才
 
熊楠はすでに小学生の時から天才の片鱗を示していた。7歳で小学校に入ったが難解な漢籍を読みこなし、10歳にして当時、わが国の百科全書として広く使われていた『和漢三才図会』(105巻、81冊)の筆写に取り組み本文から挿絵、イラストも一つ残らずすべてを、わずか5年で完成した。              

12歳の時、和歌山市内の古本屋で和装本『太平記』を見て、買いたくなったが、3円の値段だったので、子供には手が出ない。やむを得ず、小学校の帰りに3枚、5枚と『太平記』を立ち読みして帰り、暗記したものをすぐ書き写して、わずか半年で全54巻を写し終えた。              

このことが、市内で大評判となり、「人間業ではない、奇跡だ。」と絶賛され、学問嫌いの父親も「熊楠がそんなに好きなら、本を読むのもよい」と和歌山中学への入学を認めた。

 
学校をさぼって野山をフィールドワーク
 
熊楠は子供の時から勉強大好き人間だったが、学校は嫌いだった。先生の言うことなど間違いが多いとして聞かなかった。熊野三山や御坊山などへ登って、実地に植物を観察したり、採集に夢中になって行方不明となり、2,3日学校に出てこないことがたびたびあった。              

「天狗に連れて行かれた」というウワサがたち『てんぎゃん』(天狗やん)というニックネームまでつけられた。植物、粘菌類の研究や収集で山野をフィールドワークしていく原点がすでにみられた。
 
彼は不思議の胃袋の持ち主でもあった。吐きたいと思うと、いつでも吐けた。小学校の頃、ケンカをした相手に胃の中のものをパッと吐きつけた。自分で食べてきたものを、中学校の時、机の上に吐いてみせるかくし芸を演じ、仲間から『反芻(ハンスウ)』とのあだ名をつけられた。
 
・異能の天才―1度聴いたことは決して忘れない地獄耳
 
抜群の記憶力を備えていた。過ぎ去った43日間の日記を、記憶を呼び覚まして天候はもちろん、合った人物、時間まで正確に再現して少しも間違わなかった。「わが輩は地獄耳で1度聴いたことは決して忘れない。また、忘れてしまいたいと思う時は奥歯をキューとかんで舌打ちすると、すぐ忘れる」と豪語していた。              

自らの超能力について友人・宮武省三に送った手紙の中で熊楠はこう書いている。              

「小生は牛と同じはんすうで、物を食べれば、何度でも口に出すことができ、これが大変うまい。脳が異常に発達し、1人でありながら、2人、3人の働きをできる超能力がある。このため、小生にうらまれて、死亡したり全滅したものもある。また、人の思うことがわかる―など、とにかく自分の脳はよほどかわっているので、小生の死骸は大学に売るか、寄贈して解剖し、学問上役立てほしい」(大正13年3月29日付)
 
・こうした狂気を意志と工夫によって学問に集中することで克服したのである。
 
超人的な勉強、研究ぶり、膨大な執筆量、写本、博物コレクションの謎、その動機について「小生は元来、カンシャク持ちで、狂人になると回りの人が心配した。              

自分もこの病質を直そうといろんな遊びをしたが上手いかず、遊び同様のおもしろき学問より始めようと思い、博物標本の収集を始めた。これがなかなか面白く、カンシャクなど少しも起こらず、今日まで狂人にならず、これを克服した」(明治44年12月25日付)と柳田国男への手紙の中で明かしている。

 
熊楠はこのような天才だったが、学校の成績は悪かった。              

和歌山中学を卒業、東京大学予備門(東大教養学部の前身)に入学、同期に夏目漱石、正岡子規、秋山真之らがいたが、熊楠は授業などを気にもとめず,学校をさぼり、上野図書館に通っては万巻の書を読んでいた。特に、体操が大嫌いで、体操無用論を唱えていた。

 
・東大では夏目漱石、正岡子規と同じ、成績は最低
 
「体操は都会人の腹をすかせるための道楽。学者は体操はいらぬ」と体育の授業には一度もでず、オール欠席。このため、成績はふるわず生徒116人の中で、夏目漱石は27番であったが、熊楠は下から8番目という最低に近い成績であった。              

「教師の言うことなど間違いが多い、私は実証主義でいく」と熊楠は友人への手紙にかい書いており、自分で本を読み、モノを集めて、考え、確かめる実証的な方法で独創的な研究の道を切り開いていった。
 
・19歳で世界一周、アメリカへ、サーカス団でラブレターの代筆
 
 
1886年(明治19)12月、熊楠は19歳でアメリカに渡り、ミシガン州立農校に留学したが、ここでも学校は欠席して,林野を歩き,実物を採取、観察して図書館にこもって図書を筆写する生活で退学となり、その後はフロリダ、ニューヨークでさら洗い、雑貨店手伝いなど職業を転々として、イタリア人曲馬団(サーカス団)の書記をした。              

このサーカス団には3ヵ月ほどいて中南米、キューバ、西インド諸島などを興行して回った。

この間に博物学者のゲスナーの伝記を読み感激して「願わくは日本のゲスナーになりたい」と日記に書くなど、植物採集、粘菌の標本づくりなどに熱中した。

 
 
サーカス団書記とは一体何の仕事かというとファンレターの代筆であった。団員に各国のフアンから次々にファンレターが届く。これに返事を書くのが熊楠の仕事であった。熊楠は十数カ国語に通じるようになったのも、世界の民族、民俗に知識を深めたのもこうした仕事がきっかけであった。
 
・大英博物館でマルクス以上に猛勉強
 
1892年(明治25)9月、南方は米国から英国に渡った。ロンドンに住んで大英博物館にこもって猛勉強する。              

博物館の真ん中に巨大なドーム型をした天井の高い図書館閲覧室があるが、ここを勉強部屋にして通いつめた。

世界中の学者や研究者がここを研究の場としており、カール・マルクスが有名な『資本論』を書くために日参したのは約30年前のことであった。

熊楠はここに日参して世界中の図書、稀稿本、古書などをマスターした十数カ国語を駆使して詳細なノートをとった。
そのうち博物館の主のように知られた存在となり、博物館の人類学部、宗教学部にも出入りして、南方の博覧強記を知った友人の紹介で同博物館のウオラストン・フランクス館長と知り合った。
 
・世界の科学誌「ネイチャー」に投稿、一躍有名に
 
世界で最も権威のある自然系科学週刊誌「ネイチャー」の投稿欄に「中国、インドなど諸民族は固有の星座をもっているか」など5つの天文学の論文質問が掲載された。              

熊楠は下宿の老婆から半分破れて欠けた英語の辞書を借りて、2週間で回答を記して送った。『東洋の星座』という論文がそれで、1893年9月号「ネイチャー」に掲載され、「タイムス」などの新聞でも賞賛され、熊楠は一躍有名になった。それまでは誰も見向きもしなかったのに、急に英国大使からも招待がかかったが、これは断ってしまう。


フランクス館長からも招かれ,乞食よりもひどい垢まみれのフロックコートを着て訪れたが、70歳近い大学者の館長は得たいの知れない弱冠26歳の日本人青年を心から歓待してくれた。回答文のていねいな校正を手伝ってくれた。
1894年(明治27)年から翌年にかけて熊楠は「ネイチャー」や雑誌『ノート&キリーズ』など精力的に寄稿した。研究者として広く知られるようになり、各国の学者との交流や文通が一挙に広がった。
熊楠の雑誌への寄稿はすべて英語論文であり、「世界の学者を相手にしたもので日本人は誰も読まないものかもしれない」と書いている。
 
フランクス館長は熊楠に特別待遇を与え、前例のない大英博物館の出入り自由となり、学問上の便宜を図ってくれた。約6年間、同博物館にいたが、その間、館員になるように何度も勧められたが、「自由にできなくなる」と断り、館員外の参考人にとどまっていた。              

閲覧禁止のものも持ち出しが許され、同博物館の日本書籍目録の作成に貢献した。

この間、熊楠は猛勉強をして、日本でも容易にみることができない十数ヶ国語の珍本500冊、世界中の文献から1万800頁もの全文筆写や、抜書き、抄録して53冊の皮製大型ノートを日本に持ち帰った。
 
・「人種差別されて」大英博物館で大ゲンカ
 
東洋にも西洋に匹敵する科学があったこと知らせようと努力し、度々「ネイチャー」に寄稿したが、これを通じて知り合ったロンドン大学総長のフレデリック・ヴィクトル・ジキンスは日本通でロンドンに日本協会が出来た時はその理事になった人物である。
ジキンスは南方に心酔して英国第一流の人物を数多く紹介した。ジキンスの『万葉集』、『枕草子』、『竹取物語』などを熊楠が協力して翻訳した。              

ドイツがこう洲湾を攻撃、占領した時、ロンドンでも東洋人への差別が強くなってきた。大英博物館で南方を東洋人とみて侮辱した人があり、激怒した熊楠は五百人ほどが静かに読書している閲覧室内でその人物の鼻を殴り大喧嘩となり、熊楠は出入り禁止処分を受けた。              

この事件は「タイムス」でニュースとして掲載されたが、南方は文章だけではなく、行動でも不当な差別には断固戦ったのである。

 
・馬小屋のようなアパートで勉強一筋
 
熊楠は父親が見た通り、金銭には元から縁のない男であり、金があれば書物を買い求めた。              

ジャーナリスト・福本日南がロンドンを訪ねて、熊楠の陋屋を訪ねた際、「部屋は馬小屋の2階をかりたもので、なんとも乞食小屋のような部屋に寝床と尿壷とゴミの山だが、書籍と標本だけは一糸乱れず整理されていた」と感心している。

この馬小屋には、ロンドンを訪ねてきた日本からの名士が多数訪れてきた。その一人の木村俊吉(数学者)は文無しの状態でここにきた。熊楠も一銭もなく、なけなしの金をはたいてトマト数個を買い、パンにバターぬって食べていたが、そのうちに討ち死に覚悟で、すべての金をはたいてビールを買って飲んだ。
 
・ビールを18本飲む
 
ますます酔って話が盛り上がり、小便に行きたくなって2階に下りると、そこで寝ている労働者がうるさい。              

仕方がないので小便を尿壷からバケツ、洗面器にまでして、そのうち小便をしたバケツをもって捨てに行こうとして、酔っ払って手元が狂ってカーペットにどっとひっくり返してしまった。それが、階下の労働者の頭にポタリポタリと落ちこぼれて、大騒ぎとなり、翌朝この家の主婦から大目玉をくった。

酒を飲みまわり、1度にビール18本を飲んだり、友人と飲んで2人ともぶっ倒れたあと、友人が翌朝起きると、熊楠は一睡もせず頼まれた仕事のラテン語論文の翻訳60頁をすませてケロリとしていたなどのエピソードもある。昼間はこの馬小屋から大英博物館に通ってまじめな研究生活を続けていた。
 
・ケンブリッジ大の助教授の話もパーに
 
そんな生活を続けているうちに、またまた熊楠は博物館内で人を殴ってしまった。              

2度目のことなので、ついに同館には出入り完全禁止になってしまった。この時もアーサー・モリソン(高名な小説家)が英国皇太子、ロンドン市長、カンタベリー大僧正ら同博物館の評議員たちに直訴して、同館東洋図書部長のダグラスの部屋に南方の特別の席を設けて、他の閲覧者と区別してトラブルを避ける措置を講じたが、これに腹を立てた熊楠は永久に同博物館と決別することになった。

 
これ以降もバサー博士(英国学士会員)の保証で、大英博物館の分館の自然歴史館や南ケンジントン美術館で熊楠は美術調査の仕事などをやって2年ばかりはいた。              

ロンドン大学総長ジキンスの意向でケンブリッジ大学に日本学講座を開設して、南方を助教授で採用して長く英国にとどめて置こうという計画もあったが、結局、ボーア戦争などの影響で立ち消えになってしまった。

 
・ロンドンでノイローゼになった夏目漱石とは大違い
 
1900年(明治33)9月に熊楠はロンドンを発って約14年ぶりに神戸港に帰国するが、すれ違いで文部省留学生・漱石は1週間遅れで神戸からロンドンに向かった。興味深いのは熊楠と夏目漱石という明治を代表する知識人の海外体験であり、2人の異文化に対する態度である。              

2人は同じ年で大学予備門でも同期生であったが、ロンドンでの生活ぶりは正反対であり、性格、行動、研究態度は対照的であった。
漱石はロンドン西洋文明にカルチャーショックを受けて神経衰弱になり、部屋に閉じこもった。コンプレックスを持って英国人の教養のなさを軽蔑して、周囲の英国人とのコミュニケーションもほとんどないという惨憺たるものであった。南方の勉強の場となった大英博物館図書館にも漱石は滞在中に一度も行かなかった。              

しかし、帰国後は東大英文学の教授に就任して、陽のあたる道を歩むようになる。

 
・東洋人は西洋人を放り出せと孫文に豪語
 
一方、熊楠はといえば、漱石ら当時の日本人が陥った西欧文明へのコンプレックスとは全く無縁で、逆に東洋人でありながら世界を見聞して西欧にも通じていた優越感を持っており,ロンドンの知識人たちにも一目も2目も置かれていた。              

意気軒昂で、酔っては暴れまくり、大英博物館で初めて会った孫文に「あなたの一生の目的は」と聞かれて、「東洋人は一度西洋人をことごとく国境の外に放逐することだ」と同席していたダグラス部長の前で豪語して驚かせたほど、自信とプライドにあふれていた。

       

日本リーダーパワー史 (23) 『ノーベル賞を超えた』ーエコロジーの先駆者・南方熊楠はすごいぞ・・尊敬!(中)

   

日本リーダーパワー史 (23)
『ノーベル賞を超えた』ーエコロジーの先駆者・南方熊楠(中)
 
前坂 俊之
                                    (静岡県立大学名誉教授)
 
 
・一文なしで、大型ノート53冊もの膨大な抜書き、標本をもって帰国
 
33歳で熊楠は帰国したが、弟の常楠は山のような書籍と標本を持ち帰り、一文無しで乞食のような身なりの熊楠に驚き、14年間も海外で勉強しながら何の学位も持たずに帰ってきたことに失望、落胆した。父の死後、家業は一時傾いたが、常楠が家督を継いで酒造業をおこして、何とか切り盛りしていた。
 
熊楠と常楠夫妻とは折り合いがわるく、ことあるごとにぶつかり1年ほどで今度は南方酒造の紀伊勝浦店に行って1人で住むことになった。
これからほぼ3年間、英国から持ちかえった革表紙の分厚い大型ノート53冊もの膨大な抜書き、研究ノートやおびただしい標本を分類、整理するとともに、那智の山深くに何度も分け入り、隠花植物、粘菌類、菌類のフィールドワーク、採集、観察、研究を一人で続けて、熊楠の生涯のうち思想の最重要部分を作ることになる。
 
・40歳で結婚、田辺に死んで研究に没頭
 
それから、熊楠は田辺に移り、40歳で結婚、50歳で田辺に1200平方㍍の土地を購入し、ここをついの住みかとして研究に没頭する体制ができあがった。フィールドワークで粘菌の研究に熱中して新種の発見を重ねるとともに,時代に先駆けてエコロジーの立場から自然保護運動に取組んだ。一方、比較民俗学の分野でも精力的な執筆活動を展開して、「ネイチャー」に投稿して50編の英語論文を発表、同時にロンドンで発行の週刊文学兼考古学雑誌「ノーツ・エンド・クィアリーズ」にも合計323編の英語論文を発表するなど、日本の学会など相手にせず世界の舞台で活躍したのである。    

 
 
・シャイな性格、柳田国男との面会の笑い話
 
熊楠は男性的で豪放磊落な面とシャイな性格とを合わせ持っていた。1913年(大正2)12月、柳田国男が初めて南方を訪ねて田辺までやってきた。自宅を訪れると、宿屋まで後で伺うと夫人を通じて返事があり、柳田は宿屋で待っていた。ところが、一向に現れない。
 
実は南方は宿屋までは来たのだが、会うのが恥ずかしいと言って、下で飲んで酔っ払った勢いで、部屋に現れたが、すでに泥酔しており、学問とかまともな話にはならなかった。
やむを得ず翌日、柳田がお宅を訪ねると、熊楠は「俺は飲むと目が見えなくなるから、顔を出しても仕方がない。話ができればいい」といっては襟巻を頭からかぶって、袖口からのぞきながら話を始めた。
南方の奇行については聞き知っていた柳田もこれにはさすがに開いた口がふさがれなかった、という。
 
・熊楠の超天才的勉強法・東大なんか目じゃないよ
 
熊楠の『超勉強法』はどのようなものであったのか。その知のノーハウは「書物はただ読むだけではダメ。読んだら、必ずこれを写して、覚えねばならぬ」というのが熊楠のやりかたであった。熊楠は読んだ本を片っ端から、ノートに細字で全部写して暗記しており、こうしたノートが何百冊も蔵の中にあった。子供の頃から博覧強記であったが、こうした読書と筆写によって暗記するという勉強法を74歳の亡くなるまで、続けたのである。    

 
・1日4時間以上眠らず・ホントかな
 
それに深夜に集中して勉強するのである。熊楠は1日4時間以上眠らなかった。研究はだいたい家族が寝静まった夜中に行い、昼間は寝る習慣となっていた。熊楠の書斎は奥の8畳間、書庫は別棟の離れの土蔵にあり、夜中に仕事をするため、チョウチンを持って行き、ガラガラと重い土蔵の鉄トビラを開け閉めしながら、皆が寝静まった中で、長い間、書庫に入っていた。    

 
 仕事に入る前に家族に「メシを言ってくるな」と断って、書斎には一切食事の連絡はさせずに没頭していた。仕事が一段落すると、出てきて家族に「わしはメシを食うたのか」と確認するほどで、自分でも食事をしたかどうか忘れるほどの超人的な集中ぶりであった。
夏には寝室にカヤをつって熊楠が休むための準備をしていたが、ほとんど徹夜で2,3時間もこの中で寝た形跡はなかった。ぶっ続けて仕事をする時は必ず「こうの実で汁を作っておけ」と指示していた。
 
南方の家に泊まった人たちは夜中に熊楠が母屋から離れの土蔵にある書庫に何度も出たり入ったりするので、そのたびに大きな開閉の音に、一晩中眠れなかった、という。
もう1つ、熊楠独自の知的生産術は風呂にあった。風呂が大好きで、毎日入っていた。特に、ぬるい湯が好きで、2時間近くも入っており、中でアイディアを練ったり、考えごとをしていた。途中で人がくると、湯船に入たまま、相手を外の風呂場の横に座らせて長時間、雑談していた。
 
・アイディアは長風呂から
 
風呂場は竹やぶの側にあり、やぶ蚊がひどくて相手は話どころではなく、閉口した。熊楠はそんなことには一向にお構いなく「しっかり聞いておけ」と話し続けた。
やった風呂から出ても、タオルで身体をふこうとせず濡れたままで、浴衣も着ず相変わらず素っ裸のままであった。寒い時も変わりはなかった。
普段は髪は伸びるにまかせて、散髪もめったにせず、身なりには全くかまわなかった。ところが、色街に行くときなど、ロンドン仕込みの山高帽で、ハイカラな服をパリと決めて見違える姿でさっそうと出かけた。
 
・真っ裸で暮らす、
 
1年中裸で暮らしているかのように誤って伝えられているが、実際は6月から9月半ばの暑い盛りだけであった。熊楠は多汗症の体質があり、洗濯物を少なくするためにも裸で過ごしていた。腰巻(ふんどしではなく、腰巻を常用していた)もつけないフリチンのままの素っ裸であった。
家族が一番弱ったのは、新しい女中さんが決まるときで、前もって「母屋には決して素っ裸ではきてはいけませんよ」ときつく言われていたが、書斎で丸裸で仕事をしていて、ついその約束を忘れて、女たちの笑い声のする茶の間に入ることがあった。
初めてきた女中さんは素っ裸の大入道のチン入に「キャー」と驚いて逃げ出すことがよくあった、と娘の岡本文枝は証言している。
逆に冬でも肌着1枚で裸に近い状態で過ごし、火鉢などは一切用いなかった。右手はものを書くので、そのままだが、左手には手袋をはめ、フトコロにはカイロを入れて、時々右手を入れて,暖をとりながら研究していた。
アンパンが大好きな熊楠は腰の左脇にアンパンを入れた紙袋をおいており、人と話しながら、アンパンをちぎっては食べていた。粗衣粗食主義であり、麦を主食としてアワ、ヒエを混ぜたものを常食にしていた。風呂には身体を温めるために、2時間以上も入っていた。
 
 
・鼻たれ小僧の熊楠先生、トホホ・・
 
大阪毎日新聞主筆・下田将美が南方とインタビューした時のこと。
「先生が話しっぱなしで、私が口をはさむ余地がない。感心して聞いていると、先生の鼻から青っぱなが2本垂れ下がった。奥さんが『エラそうな話ばかりしているくせに、鼻水が出ましたよ。こちらを向きなさい』というと、先生はまるで幼稚園の生徒のようにおとなしく顔を奥さんのほうに向けると、鼻紙をたもとから出した奥さんはチンと先生の鼻をかんだ。先生はまた元気にしゃべり出した」
熊楠の天真爛漫、天衣無縫ぶりがその態度に示されている。
 
・10ヵ国語に通ず、語学の天才はホント
 
熊楠の語学の天才ぶりについて、「18ヵ国語」ができるとか、いや「19ヵ国語」だとか諸説あるが、柳田国男は「(先生)は驚くべき記憶力と統合力の持ち主で、決して同じことを重複させたことがない。言葉も6,7ヵ国語ができて、各国の本を読み、ことに珍本をよく読んで憶えていた。英語が主であって、ときどき手紙の中にイタリア語のたくさんでていた」と書いている。    

 
実際は何ヵ国語に通じていたのか。熊楠について報じた新聞では「英、独、仏、伊、露、ギリシャ、中国、ラテン、スペイン、サンスクリット語」など7ヵ国語、13ヵ国語などと書いたものがあるが、18,9ヵ国語もない。ひいきの引き倒しで、いつのまにか数が増えたのだろうが、本当のところは10ヵ国語程度ではなかろうか。    

 
・超人的な記憶力
 
熊楠が超人的な記憶力の持ち主であることは数々のエピソードでよく知られている。
1938年(昭和13)、書道の大家で中村不折が中国の漢代の文字の拓本とその日本伝来についてある雑誌に発表した。「昭和3年ごろ、北京大学の考古学者が発掘したものの一部を、拓本にしたものが日本での最初のもの」と記述されていた。
これを読んだ当時71歳の熊楠は疑問に思い、早速、高野山の高僧に手紙を出した。16歳の時、熊楠は父母とともに、高野山の宝物展に行ったが、弘法大師が持ち帰った漢代の拓本があったのを見た記憶があった。
この時の拓本の大きさ、文字の寸法、寺僧の説明の言葉まで照会の手紙にかいたが、ピッタリと一致しており、改めて熊楠の記憶力が衰えていないのに驚いた、という。
その記憶力抜群の熊楠も晩年、自分の記憶力の減退を気にして書庫の中でも、外に聞こえるような大声で「こんなことが覚えられないのか、バカ野郎」と自分を叱りつける、一人ごとをいつもつぶやいていた。
また、家族には郵便物の到着の時間を覚えさせており、自分の記憶が正確かどうかを夜、寝る前に家族に確認してチェックして、当たれば安心して休んでいた、という。
 
・講演会は大嫌い、酒を飲んでべろべろ
 
シャイな性格の熊楠は講演も大嫌いだった。1919年(大正8)8月、熊楠が高野山にお参りにきたことを真言宗管長・土宣法竜が聞いて講演を依頼、しぶる熊楠をムリヤリ承諾させた。講演場所は大師教会堂で、5,600人の人々が集まったが、時間になっても講師が現れない。
あちこち探して、やっと居酒屋で酔っ払っていた熊楠を発見、抱き抱えるようにして会場に連れてきて、やっと聴衆に紹介したが、壇上に上らない。
冷水を飲んだりして1時間ほど酔いをさましてやっと登壇した熊楠は「諸君は知るまいが、わが輩の家の酒はうまいぞ」と話し始め聴衆は呆然。
その後、急に泣き出したかと思うと、今度は前のテーブルを押しのけて、どっかり座り「恒河のほとりに住居して、沙羅双樹の下で涅槃する」と口三味線でチンチンと歌いだした。アッケにとられた会場からは笑い声がおこり、気の早い聴衆は帰りだした。真っ先に会場から逃げ出したのは土宣管長であった。    

熊楠が国学院大学に講演に出かけた時も同じことに。最初、15、6人の集まりなら話をするという約束だったが、行ってみると大講堂に案内され、300人以上の聴衆が詰めかけていた。熊楠はすっかりツムジを曲げて「酒をもってこい」といい、酒をがぶ飲みして、酔ってしまい何も言わずにさっさと降壇してしまった。    

 

 

  

日本リーダーパワー史 (24)
「鎖につながれた知の巨人」熊楠の全貌がやっと明らかに。
今こそエコロジー思想の元祖・南方熊楠に学ぼう(下)
前坂 俊之
                                    (静岡県立大学名誉教授)
 
 
奇人2人の裸の交際!
 
熊楠はあの奇人代表格の宮武外骨とも親友だった。過激な性格で、わい雑なものを好む2人は似たもの同士であった。
夏の間、熊楠はフンドシもつけずに、真っ裸でくらしていたが、外骨がくると、2人で素っ裸となり縁側で日光浴をして、互いにペニスをいじくりながら、民俗学や男色の話に興じていた。
熊楠のところに納税通知が届いたことがあったが、「日本の税務署に納税の義務はない。日本では金を使うばかりでもうけたことがない」として断った。
 
・下半身裸で、ペニスや睾丸に砂糖をまぶして、アリにかませる
 
ある時、妻松枝は熊楠が庭にしゃがんでいる姿を見て仰天した。下半身裸で、ペニスや睾丸に砂糖をまぶして、地面の上に座ってアリが寄ってきて咬むのを待っているのだ。少し前、庭で珍しいきのこを探していて、アリにペニスを咬まれて弓削の道鏡の巨根のように睾丸ともボール玉のように膨れ上がった。
 
これまで山やジャングルに分け入った時も腰巻1つで観察、採集してきたが、アリに触れられたり、咬まれたりしたことはあっても、これほどひどく膨れ上がった経験はなかった。
 
このアリが何なのか正体を突き詰めようと始めたのだ。1ヵ月ほど同じようにあられもない格好で続けていたが、たくさん集ってきたアリはペニスについた砂糖を持ち運んで帰るだけで、咬むことはなかった。
別の種類のアリで、結局突き止められなかったが、周囲がどう思おうと一切気にせず、自然研究、実験に没入するのが熊楠流のやり方なのだ。
 
 
・自然保護運動、エコロジー運動の先駆者
 
熊楠は自然保護運動、わが国のエコロジー運動の先駆者でもあった。明治40年代に1村1社にして多くの神社を統合、撤廃した明治政府の神社合祀政策に対して、熊楠は先頭にたって反対した。当時、和歌山では2700社あった神社が取り壊されて600社となり、三重県では5547社が942社と強制的に5分の1に減らされた。       

 
宗教と伝統的な文化の守り本尊である神社と同時に地域の自然が保護されていた鎮守の森が破壊され、樹齢数百年という巨木が利権によって次々に伐採され、貴重な緑が奪われていった。
神社の鎮守の森は地域の自然の総合体であり、湧き水があり、その土壌の上に粘菌、苔、水、一体となって植物が自生し、森をつくり昆虫、鳥、動物が一体となって生命体を構築している。
 
海岸に隣接した森林では沿岸の海の海草、魚の培養まで連鎖して総合的な自然環境、エコロジーを形成していることを熊楠は認識しており、神社の破壊は総合自然体の破壊だけではなく、地域の人々の歴史、文化、生活の基盤、シンボル、民俗、お祭り、文化財など総体としての文化を根こそぎ殺していくものであることを知っていた。
 
100年前に生態学・エコロジー的な視点を自然保護運動、公害反対運動の先駆として神社合祀反対に取組んだのである。
1909年(明治42)8月15日から1週間にわたって田辺中学校で紀伊教育委員会主催の夏季講習会が650人の人々が参加して開催された。
 
・神社合祀反対に取組んで逮捕、17日間拘留される
 
熊楠の武勇伝が起きたのはその最終日。神社合祀を進める同教育委員会・田村和夫理事長に面会を求めてきた熊楠は酔っており、会場に大声で現れ,信玄袋を投げつけ「田村を出せ」「神社を破壊するのはけしからん」と怒鳴りながら、イスを持ち上げるなどして場内騒然となった。何人かが熊楠を止めようとしたが、はねのけて乱闘となった。
 
警察署長が止めにはいり、南方を何とか帰宅させたが、翌日,官命抗拒罪で逮捕され、留置場に入れられた。この時、南方家では保釈金を用意したが、本人は「金で欠点を償う日には富者は悪事を慣れ行ない、貧者のみ獄に入る」と保釈を断り、17日間、ブタ箱生活をおくった。この事件は裁判の結果は無罪となった。
 
・1冊の本になるくらいの長文の手紙を書く、
 
熊楠はよく手紙を書いたが、その手紙そのものが1つの作品であり、論文であるといってよかった。それらの手紙を集めて「南方随筆」として出版されているほどだ。自宅にこもって研究に没頭し、あまり外出しなかったので、近所の人にまで何か用事があるとすぐ手紙を出した。
手紙を書き始めると、次々に用件を思い出して朝、昼、晩と日に3度も同じ人に出したこともよくあった。肝心の用件の方は少なくて、横道にそれた話題や雑談、知識の紹介が次々に書き出して、収拾がつかなくなり延々と続くといった具合。
途中で来客があると、「来客があり中断」「眠くなったので、また」と中断して、翌日また書き続けた。どうしても長い手紙になってしまう。
 
一番長い手紙は3日がかりで5万8千字、400字詰めの原稿用紙に換算して145枚という膨大なものであり、このような長文の手紙も珍しくなかった。長文の手紙の場合は書き初めと、終わりには必ず日付けと時間を記していた。
1925年58歳の時に、熊楠は自らの人生を振り返って巻紙で8m30cmにも及ぶ手紙をだした。字数に換算すると37,000字、文庫本にしても80頁以上という長文の『履歴書』を書いた。
 
熊楠には決まった作品や論文が少ないという指摘に対しては、同じ学問的な問題意識を持った研究者や親しい個人に対して、このような手紙で自ら取り組んでいた思想や知識をそっくり披瀝して書き送っていくスタイルをとっており、当時のライプニッツらの書簡文学の影響を受けていたのであろう。これが熊楠の業績への低い評価の一因にもなっている。
 
・フィールドワークによって採集した隠花植物、菌類、藻類の整理、克明な筆写と標本作りなど、粘菌学、民俗学に取組む。
 
熊楠の研究分野は文学、民俗学、論理学、心理学、歴史にかんする洋書、和漢書の読書と多岐にわたっており、その筆写、比較研究と並んでフィールドワークによって採集した隠花植物、菌類、藻類の整理、克明な筆写と標本作りの作業を同時に並行させて、日課として積み上げていった。
中でも、粘菌学、民俗学に集中して取組んだ。熊楠がロンドンにいた頃の19世紀末当時の学問、生物学の最大の関心は生物の起源に向けられていた。熊楠は粘菌が動物と植物の境界にあり、生物の原初的な形態にあることから、生命の起源を解明しようとして研究テーマにしたもので、現在のライフサイエンス研究の先駆けでもあった。
比較民俗学、比較宗教学への熊楠の思考は地球的広がりの中で、事物の発生と発展を捉えていこうとする研究態度と重なってくる。
 
・『南方学』には体系、理論が欠如しているという批判は当たっているか。
 
 
粘菌、隠花植物、生命学、神話的な思考、民俗、野蛮な風俗、比較宗教学、曼陀羅、セクソロジー、男色、猥談、半陰陽など森羅万象についての南方の知の異端な広がりについて、またその博覧強記について、これまで学会や専門家からはガラクタ的な知識の寄せ集めであり、全体貫く理論、思想がないという批判が出されていた。
体系的、総合的な柳田民俗学に対して、あまりに雑然と、多岐にわたっており、『南方学』には体系、理論が欠如しているという批判である。
 
 
・しかし、南方の曼陀羅論、思想は時代を百年間飛び越えて、21世紀に進んでいる。
 
熊楠は那智・勝浦で孤独な研究生活に没頭しながら、東洋の学問と西洋の近代科学との融合という思想的な格闘していた。
高野山管長・士宣法竜への長文の手紙の中で、古代真言密教の曼荼羅と西欧科学の方法論の因果律を深く考察して、仏教の「因縁」の因は因果律(必然的法則)のことであり、縁は偶然性であると指摘して、偶然性という概念を提出しその重要さを主張したのは明治36年(1903)のことである。
 
科学的な方法論で偶然性が重要な問題となってボア、ハイゼルベルグ、ノイマンらの理論物理学者らが量子力学として完成したのは1930年代のことであり、ジャック・モノーが偶然性の概念が出して名著『偶然と必然』が出版されたのは1970年である。
 
また精神医学・分析心理学者のユング(1875-1961)が意識と無意識の世界、無意識の世界にも個人的な意識、普遍的な無意識の世界があることなど無意識の世界の分析を、彼の『曼陀羅論』で展開する以前に、すでに熊楠は深く考察しているなど、時代に先駆けて、いち早く思想的な萌芽を読みとっているのは独創的であり、熊楠の先駆性が示されている。
 
確かに、こうした知見、思考を熊楠はまとまった理論として、この科学的な論文という形式では発表しておらず、士宣への手紙の中で論じているだけで、このため世間に知られる事はなかった。熊楠が正当に評価されてこなかった一因でもある。
 
「鎖につながれた巨人」熊楠の『知の全貌』は今、やっと明らかにされつつある。
 

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