『オンライン/『日中韓500年/オンライン世界史講義①』★『世界的権威ベルツの日韓衝突の背景、歴史が一番よくわかる講義①』★『明治天皇のドイツ人主治医・ベルツ(滞日30年)の『クイズ『坂の上の雲』ーベルツの『日本・中国・韓国』五百年の三国志①<日露戦争はなぜ起こったのか>
2020/07/20
<2011/02/27 記事再録>
クイズ『坂の上の雲』ーベルツの『日本・中国・韓国』五百年の三国志①<日露戦争はなぜ起こったのか>
クイズ『坂の上の雲』
アジアの観察者・ベルツの『日中韓』三国志の500年①<日清・日露戦争はなぜ起こったのか>
前坂俊之(ジャーナリスト)
エルヴィン・フォン・ベルツ(1849―1913年)はドイツ出身の医者、1876年(明治9)にお雇い外国人として東大医学部(当時は東京医学校)の教師に招かれた。
以後、27年間にわたり医学を教え、明治35年には東大を退官、宮内省侍医を勤めて、明治天皇、皇太子(大正天皇)の主治医となり、皇室の担当となった。また、伊藤博文・井上馨ら元老や政府高官をはじめとしてあらゆる階層の人々と接して、日記にその詳細を記している。
ベルツがドイツに帰国した4年後に伊藤博文は暗殺されている。
その『ベルツの日記』(本題は「黎明期日本における一ドイツ人医師の生活」)(岩波文庫)は、来日直前から日清戦争、日露戦争など、自ら見聞した数々の明治の大事件の裏面史、大官の言動や談話、エピソード、印象や訪問した日本各地はもちろん、中国、韓国、ベトナム、アジア各国のを記しており、大変面白い。
特に、ベルツは医者だけではなく、人類学者としてヨーロッパを代表する知識人として、当時の西欧の目で、アジアを冷静に観察している。日本、中国、韓国の歴史的な対立と平和共存を、三国の民族性、文化、行動様式とヨーロッパにおけるドイツを中心とした隣国との関係と比較、対照しながら考察している点が、明治史を西欧の視点で日本人が客観的に振り替えるためにも大いに参考になる。
韓国の始まりから終焉までの歴史について、書いているが、その中のポイントを紹介する。
①中華思想の華夷序列・冊封体制とは何か
明治維新になって新政府は国内改革と同時に対外外交にも積極的に取り組んだ。特に、隣国の朝鮮政府には対馬藩主・宗義達を通じていち早く修交の使節を送った。
しかし、朝鮮・李王朝は長年の中華思想の影響で支那(中国)を宗主国と仰ぐ一方、華夷序列から、支那からの距離によって遠く離れたベトナム、東南アジア、日本などは夷狄(いてき=文明化しない野蛮人)、禽獣(獣に等しい存在)と蔑む冊封体制=さくほうたいせい=事大朝貢体制)の意識をもっていた。
朝鮮国王・李太王の実父で実権をにぎっていた大院君はこうした文化的優越主義思想(中華思想)にこり固まり、日本を東夷と低く見て「洋夷」(欧米)を排除する攘夷鎖国政策をとっていた。このため、鎖国を解いた明治新政府を逆に、中華秩序への挑戦であると批判、「恐るに足らず」と見くびっていた。
明治元年十一月、明治新政府は王政復古の内容を通告して修好を求めたが、文書の中に「皇」「奉勅」などの文字が入っていたのに朝鮮側は驚き、会見を謝絶し、国書を突き返した。皇は中国皇帝しか使われず、天皇が朝鮮国王の上に立つことを意味し、日本は朝鮮支配の野心があるものと誤解した。朝鮮は開国の要請は内政干渉であるとして強く反発し、両国の異文化間コミュニケーションの理解のズレ、誤認、誤解のボタンの掛け違いが始まった。
この中国の華夷序列の冊封体制=さくほうたいせい=事大朝貢体制)については、ベルツはこう指摘している。
『中国の国家運営の不変原則は、属国の内政への干渉は必要最小限にとどめ、土着の王が中国を宗主国として認め、朝貢の義務を怠らぬ限り、その自主性は犯さないというものであった。
幕僚を従えた総督の役目は、反乱や離反の兆候を監視することにある。この原則は今日でもチベットやモンゴルに適用されている。それはイギリスがインドでイギリス総督の監視下、土侯国の統治を土着の君主に任せているのと同じ原理である。
中国は、新たに接触した異民族は必ずや中国のすぐれた文化に屈するものと信じて疑わなかった。実際、過去三〇〇〇年の歴史を通じて、どの近隣民族も例外なくその通りになった。
中国は時代の流れのなかで、フン族、タタ-ル族、モンゴル人、満州人など異民族の王朝に支配されることが多かった。しかしその異民族も一世代後には、ことごとく中国に同化した。文化、宗教、国家制度、世界観などを中国から受容しながら、政治的に中国に屈しなかった日本は唯一の例外である。
それを可能にしたのは地理的な位置と民族の勇敢さである』
②豊田秀吉の朝鮮出兵ー文禄・慶長の役
ベルツは『戦国時代に成長し、戦に飢えた五〇万の兵士を抱えた秀吉は、彼らに仕事を与えなければならなかった」ために出兵を考えたとしているが、これは西郷隆盛の「征韓論」の理由が明治維新を達成後の士族の仕事、失業対策事業と全く同じである。
『十六世紀半ば、東アジア世界にはヨーロッパ人という新たな重大要因が加わる。最初にやって来たのは、ポルトガルの冒険家と商人であった。中国や日本を黄金の国と伝えた彼らの旅行記(マルコポーロ『東方見聞録』)に触発されて、インドで布教活動をしていたイエズス会の宣教師たちは新天地へと急いだ。
彼らは日本での布教に成功し、数多くの大名のほか、一〇〇万を超える庶民や武士を改宗させた。一五八〇年頃の日本は五〇〇年にわたる動乱の時代を経て、ようやく平和が訪れていた。
成り上がり者ながら天才的な秀吉は、封建諸侯の力を最終的に断って日本を統一国家に仕上げ、形だけは天皇の名のもとに号令を下した。しかし戦国時代に成長し、戦に飢えた五〇万の兵士を抱えた秀吉は、彼らに仕事を与えなければならなかった。
そこで秀吉は、中国と朝鮮を征服し、「天の下」の世界(日本語では天下)の支配者となる計画を立てた。そのために彼はポルトガル人やイエズス会の宣教師を利用して、部下に銃の製造法と使用法を伝授させた。
さらにヨーロッパの戦法で利用できそうなものはないかと情報を集めた。十分に準備が整うと、秀吉は朝鮮に同盟を持ちかけ、日本軍の通過を認め、応援の軍を出して共に中国と戦うよう求めた。朝鮮王は中国の臣下としての忠誠をつらぬき、これを拒否した。
そこで一回日の侵攻が朝鮮を見舞った。一五九一年春、二手に別れた大軍が南岸に上陸し、当時としては法外な速度で敵を掃討しながら首都に迫り、占領した。国王は都を落ちのび、戦線はさらに広がり、激しい戦闘の未に、自然と人知によって堅固に守られていた旧都、平壌も攻め落とされた。
日本軍は中国に攻め入るのに必要な援軍と食料を運んで来る船団を待つため、この地で足踏みを余儀なくされた。中国と朝鮮の問の古い条約にもとづいて両国間には中立地帯が設けられており、その人跡未踏の荒野を進むには膨大な食料を必要としたのである。
だが船卸は来なかった。最初に触れた朝鮮の水軍提督、李舜臣はただひとり、日本との同盟を拒否した暁に李朝をおそうであろう深刻な危機をいち早く見抜いていた。
提督は極秘裸に大艦隊を編成し、みずから考案した装甲船によって強化を図った。その外形から「亀甲艦」と呼ばれる戦艦は、甲板にかぶせた亀の甲羅のように膨らんだドームに装甲板を張りつけ、その内側に強力な槍を(それゆえ船の側面から斜度をもって突き出すように)仕込み、乗員のための通路を通したものである。
李提督は日本の船団を捜し出し、撤退すると見せかけてしだいに沖へおびき出し、全滅させた。一方、陸上でも朝鮮の人々は当初の衝撃による無力感から立ち直り、伝統的な戦鞠精神を取り戻した。山岳地帯ではゲリラ戦で侵入者を苦しめ補給路を断った。中国も動き、援軍を送る一方で時間稼ぎのために日本軍の司令官と交渉を続け、数ヵ月間の休戦に漕ぎつける。料を迎え、母国との連絡を断たれた侵略軍は悲惨な状況に陥った。そこを不意に中国の大軍が襲った。激戦の末、日本軍は首都ソウルへの撤退を決意し、さらに南へ下がった。
二年半に及ぶ戦いの後、日本軍は半島の南東端に追いつめられる。最終的に中国の使節が秀吉に勅書をもたらすことで決着したが、そこに日本国王の称号を進呈すると書かれていたことが、中国皇帝と同格に扱われ、同等の称号で呼ばれてしかるべきだと考えていた秀吉を激怒させた。そこで新たに遠征軍が組まれ、一五九七年、朝鮮に上陸するが、二度と勝利を収めることはなかった。
今回の戦いでも季提督は大いに采配を振るい、二度にわたって日本の艦隊を撃ち破り、最後の会戦では「火炎放射器」を用いて遠距離から敵船を焼き打ちにしている。
1598年、日本の権力者、秀吉は病の床に着き、死期の近いことを悟った。そして軍を朝鮮から引き上げ、講和を成立させた。島国(日本)による朝鮮侵略の試みは、こうして終わった。
しかし今や国土(朝鮮)は恐るべき荒廃を示していた。日本人は腹いせから大きな町を焼き払い、美術品や貴重書を手当たり次第に略奪していった。何年も耕されぬまま放置された田畑も多く、どの地方も軒並み人口が激減した。この状態から立ち直る暇もないまま、数十年も経たぬうちに朝鮮は二波にわたり満州族の侵略を受ける。満州軍と明軍の戦いにおいて、朝鮮王が満州側を応援しょうとしなかったというのがその理由である。朝鮮は宗主国への忠義立てのために、二度もひどい目に遭わねばならなかった。
朝鮮は一六〇〇年から一八七六年まで、中国を例外として外国に固く門戸を閉ざし、着岸を試みたヨーロッパ船をことごとく追い払った。しかし、こうして二〇〇年以上も鎖国を続け、外界の戦火を免れたにもかわらず、風ガは「同に回復しなかった。非力な国王たちは民衆の膏血を吸る怠惰で残忍な官吏を抑えきれず、外部からの刺激は完全に欠けていた。長い間、朝鮮についての情報はほとんど外国に届かなかった。十七世紀には何度もオランダ船が座礁している。乗組員は残酷に扱われることもあれば、親切な待遇を受けることもあったが、いずれにせよ厳しい監視下に置かれた。ある時、八人の遭難者が日本の長崎へ脱出し、そこからアムステルダムへ帰ることに成功した。そのうちの一人、ベンドリッグ・ハメルの書いた冒険と苦難の手記はヨーロッパにセンセーションを巻き起こした。
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