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『全告白・八海事件-これが真相だ(上)』

   

<サンデー毎日1977年9月4日掲載>
『全告白・八海事件-これが真相だ(上)』
前坂俊之(毎日新聞記者)
<事件も謎が解ければ案外こんなものかもしれない。約十八年間、七度も裁判を繰り返した世紀の八海事件もフタをあければ、拷問と死刑の恐怖から真犯人が多数犯を偽証していたのである>
吉岡晃が残した三十五冊の告白ノート。この中で吉岡は八海事件の驚くべき内幕を暴露している。
「知能の低い、ウソつき」と正木ひろし弁護士から、決めつけられた吉岡は警察官、検事をだまし、互いに慣れあい、果ては「裁判官なんて私以下のバカ」と最後っ屁を放っているのである。
日本の裁判がこんなにも愚ろうされた例はあるまい。それにしても、こんなウソつきの言葉を真に受け、無実の者を死刑台に送ろうとした裁判官が計二十五人中十三人もいた事実は、あまりに深刻ではないか。記者は約六年間、ときには吉岡と寝食をともにしながら“真昼の暗黒”の真相に迫った。
以下はその全報告である。
Ⅰ 見取る家族もなかった49歳の死
昭和五二年七月十一日朝。ちょうど国民が参議院選挙の速報に一喜一憂していたときである。瀬戸内海の名所の一つ“音戸の瀬戸”が眼前の広島県・呉共済病院音戸分院の一室で吉岡はひっそり死んだ。胆のう炎。四十九歳。仮出所中で、しかも昨年五月、呉市内でおこした殺人未遂事件の被告でもあった。
その夜。旧呉海軍工廠付属病院のボロボロの廃屋の中に吉岡の遺体はポツンと安置されていた。まるで化け物屋敷。もちろん、通夜に訪れる人もいない。
床は海岸が近いせいか、カニがはい回っている。全く孤独な死。吉岡にふさわしい最期といえるかもしれない。
身元引受人の原田香留夫弁護士が山口県内に住む兄に電話した。
「マスコミが騒ぐなら行きません」
この兄は何度か念を押し、翌日あらわれ、その日のうちにあわただしく火葬し、帰ったという。
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こうして、希代のウソつきといわれた吉岡のロは永久に閉じられた。あとには三十五冊にのぼる膨大な大学ノートの手記が残されていたのである。
二、三日後。地元の呉警察署の幹部が記者連中に、こう言ったそうだ。
「特ダネを逃がしましたナ。吉岡は死ぬ瞬間に、阿藤らと一緒にやったんじゃと言い残さんかったかネ。その遺言を聞けば特ダネになったのに……」
冗談とはいえ、その底には吉岡の単独犯行を否定する、消し難い偏見が見える。事件が決着しても、偏見は生きつづけるところに、冤罪がいつまでたってもなくならない理由があるのかもしれない。
Ⅱ 仮出所した後、謝罪の旅へ
吉岡は昭和四十六年九月二十二日に広島刑務所を仮出所した。事件以来、実に二十年八カ月ぶり。呉市内の更生施設に入り、造船所に就職、第二の人生にスタートした。
二日後に呉市在住の八海事件弁護団の原田弁護士に会い、冤罪に引き込んだ罪をわびた。そして、「何とか阿藤さんたちにも謝罪したい」 と申し出た。原田弁護士に異存があろうはずはない。十月二十五日、これは実現する。阿藤周平、久永隆一氏の元被告が出席、原田、佐々木哲蔵弁護士が同席した。
吉岡か、阿藤氏らか、どちらがウソをついていたのか、真実を述べたのか。十八年間におよぶ八海事件の真相も、この会見にまさる場面はなかった。
ナゾの多い帝銀事件や、松川事件など戦後の数多い冤罪事件は真犯人が不明だとか、どこかに空白の部分があった。しかし、八海事件だけは、真犯人が公判廷でウソはウソなりに証言を続け、最後にはすべてを暴露したのである。
会見は吉岡のあえぐような、かすれた声と阿藤氏の落ち着いた堂々とした声で始まった。はっきりと対照的な声の相違を聞くだけでも、どちらがウソをついたかは明瞭だった。
吉岡 「ウソをついて、誠に申し訳ない。なんぼ、おわびしても許していただけないと思うけど」
阿藤 「許すも許さんも、吉岡君の出方一つだ。迷惑をかけたみなさんに同じようにわびる必要があると思う」
吉岡 「みなさんに迷惑をかけたことは、どんなにおわびしても許していただけないと思う。阿藤さんの日記を読んで涙が出て仕方がなかった……」
阿藤 「残念なのは、それをもっと早い時期に言ってほしかった、十八年も続く前に。今日はここであなたが良心からそう言うなら、許してもよい……」
吉岡 「一生、社会に出られないと思っていた。刑務所、検察庁のいうなりになっておけと決心していた」
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阿藤 「これは、本当に思うけれど、裁判も公正で最後には真実が勝った。もし、不正な裁判で、そのまま僕は無実の死刑が決まっていたら。今だから、こうやって話し合えてメデタシになっている。吉岡君も心では重荷になったかも知らんが、一つの安堵を持って、仮出所してきた。そこの点をよく考えてほしい」
年が明けて、昭和四十七年一月二十六日。吉岡は原田弁護士とともに他の被告へ謝罪の旅へ出た。名古屋で稲田実氏、阿藤氏の実弟、作之氏にも会い、わびた。
十八年間にわたる無実の苦しみが、一片の謝罪やおわびですむものではないにしても、かつての被告の間では、こうして事件は一応決着したのである。
Ⅲ 「警察をダマす頭はないよ」
私が吉岡に会ったのは昭和四十七年十二月十七日だった。毎日新聞記者として呉支局に勤務していた私は原田弁護士宅を訪れた。濃紺の背広を着た吉岡が来ていた。それまで三、四度、吉岡の顔は見ていたが、原田弁護士から正式に紹介されたのは、この時が初めてであった。
痩身。ほお骨が出、顎が四角に張っている。顔色は病人のように青く、血の気がない。唇は薄く、への字に結んでいる。一重まぶたの目は気の弱さと相手を射貫くような強い光を交互に帯びる。酷薄な男という第一印象だった。
陶器のような冷たさが感じられた。仮面をかぶっているのかと一瞬思ったほどだが、話し出した途端、意表をつかれた。
「もうこれで、背広ばかり八着買った。会社ではワシが一番たくさん持っているんじゃ」
と自慢した。当時、吉岡は市内の鉄工所に勤めていた。
「先生、何か胸につけるバッジはないかね。ピカッーと光る奴は……」
奥に引っ込んだ原田弁護士は、すぐ小さな箱を持ってきた。バッジや小物がたくさん入っていた。その中を吉岡は一生懸命かき回して四十四年の共産党大会の丸いバッジを取り出して着け、得意そうに胸を優った。子供のような仕草に、つい笑いがこみ上げてきた。
三人連れだってヽ近くの中華料理店に行った。途中、吉岡はパートの婦人と一緒に雑役をしていること、給料が安くて社長に文句をつけたことなど次々に話しかけてきた。初対面の者に対する話題としては、多分に思慮に欠けていた。二十年の獄中生活で常識を失ったのかとも思った。
酒が入ると、よけいにロが回る。時々、こちらの反応を探るような鋭い視線を放ちながら、私が質問もしないのに、一人でしゃべりまくった。
「警察は最初から多数犯と決めてかかり、ひどい拷問をかけた。私は何のことかさっ
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ぱりわからない。こらえ切れず、ウソをついた。警察をだます頭など私にはありません。共犯と一緒にやったと言っている限り、待遇がよい。かわいがってくれる。裁判になると死刑をのがれたい一心でウソを続けた。一度ウソをつくと、今度は本当のことが言えなくなる」
吉岡は腕を背中の方に回し、このように“鉄砲”(拷問の手の一つ)をつられたと拷問のゼスチュアを交えて語った。自己弁護と警察、検事、刑務所への責任転嫁のにおいも多分に感じられた。しかし、経験した者にしか語り得ない迫力が話の節々にうかがえた。
当時、私は八海事件といっても何も知らなかった。警察、検察、裁判官も人の子だ。間違いもあるだろう。だが、吉岡の言うようなひどいことを果たしてするだろうか。それくらいの考えしかなかっただけに、鋭利な刃物で刺されたような激しいショックを受けた。
私は計七回にのぼる各判決文のすべてに目を通してみた。八海事件の特徴は他の冤罪事件と違って、二者択一の形で裁判が行われたことであった。吉岡が犯人であることは証拠も多数あり、本人も認めている。阿藤氏らが共犯かどうかで争われた。阿藤氏らは無実を主張、「吉岡の単独犯か、阿藤らとの五人共犯か」が争点になった。つまり「五人でやった」という吉岡の供述が真実かどうかが、事件のポイントだったのである。
Ⅳ 各判決で人間像が別人のように映る
私は七回の裁判で吉岡の性格、人間像がどうとらえられているか各判決文を検討してみた。当然のことだが、各判決によって、吉岡は裁判官たちによってまるで別人のように映っていた。一人の人間が、こんなにまるで違って解釈されたことも日本の裁判史上で例はあるまい。
▼第一審(山口地裁岩国支部、二十七年六月二日)は阿藤死刑、吉岡ら無期。
「吉岡は阿藤にたくみに利用され、手柄顔に立ち働いた。吉岡は多少口の軽い性質である……。吉岡は検挙後、深く自分の非を認めて、日夜被害者の冥福を祈り、悔悟の憎が著しい」
▼第二審(二十八年九月十八日、広島高裁)阿藤死刑、音岡無期、稲田十五年、久永、松崎十二年。
「吉岡は犯行後十分に悔悟している。良心の呵責にたえず、宗教によって救いを求め、懐悔の日々を送り、被害者に対する謝罪とその冥福を祈ることを怠らない」つまり、吉岡は口が軽く人に利用されるたちのお人好しだ。性格が弱く、人一倍罪の意識に敏感で善良な男というわけだ。 4
▼第三審(三十二年十月十五月、最高裁)原判決破棄、差戻し。吉岡についての記述なし。
▼第四審(三十四年九月二十三日、広島高裁)阿藤以下四人無罪。「吉岡は虚言を弄しながら、一応他人を誤信せしめるような生来の技術を身につけている。適宜に実在人を配する巧妙奔放な虚言は、只々あ然たるばかりである」
「吉岡は卑劣軽薄な性格で、吉岡のいう〝テレンポレン″の虚偽の供述は同人の性癖に由来する」
ここでは、前とは正反対の大ウソつきの悪人像が浮かび上がる。
▼第五審(三十七年五月十九日、最高裁)破棄、差戻し。
「記録を反ぷく、熟読すれば、吉岡供述の中には真実にふれ、これを如実に物語っている部分のあることを到底見のがし得ない。吉岡供述は素朴で率直だ」
▼第六審(四十年八月三十日、広島高裁)阿藤死刑、稲田十五年、久永、松崎十二年。
「吉岡の供述の変遷は、阿藤から教えられてチャランポランの供述ないし、執ような働きかけによる動揺の結果だ。吉岡供述は全般にわたり信用し得る」
▼第七審(四十三年十月二十五日、最高裁)無罪。
「吉岡の供述は十回余りも変遷しており、信用性は疑わしい」
以上の判決をみて、読者はどう思うだろうか。吉岡はオッチョコチョイで罪の意識に苦しむ小心者なのか、大ウソつきの卑劣漢なのか、これではまるでジキルとハイドである。
裁判官は膨大な調書や記録の山の中で迷い、肝心の吉岡の人間像を見失ったのではないか。私は吉岡を徹底して究明することで、もつれにもつれた事件から一本の真実の糸をたどることができるのではと思った。
Ⅴ いつも何かにおびえていた
約一カ月後、吉岡を呼び出した。その夜は食事をした後バーなどを三軒回った。長い獄中生活で酒は弱くなったのか、ビールをコップ一パイ飲んだだけでほおを子供のように朱に染めた。
「引っ越す話はどうなったんですか」
吉岡は当時、仮出所した人が入る更生施設にいた。そこから出たいとロぐせのように言っていたのである。
「職安から適当なところを紹介されてネ。ところが、夫婦でないといけんのじゃ。それで近く結婚するとウソを言ってるんじゃが」
「ところで、いい相手はおらんですか。ワシがこんな人間じゃから、懺悔の気持もある
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し、子持ちの年上でもいいし、身体障害者でもエエから……」
二軒目のバーで、吉岡は相当、酔ったのか電話をかけた。相手は会社にパートにきている主婦らしい。
「私ですが、わかりますか」
と、やさしい声を出している。相手が突然切ったらしい。
「この野郎! 切りやがって」と、言葉を荒らげた。
「今のは亭主じゃ、電話せんといてくれというからね。女房がそんなに大事なら、縄につないでおけと言ってやろうと電話したんよ」
と目をつり上げている。最初からこの調子なのである。
こうして、以後二、三日に一度は会い、清を飲み、あちこち連れ歩いた。とにかく、裸の吉岡を知ろうと、夜を徹して飲み明かしたこともしばしばだった。
吉岡は独り者で気安く、何にでも興味を示し、若々しかった。「金がない、金がない」とロぐせのようにいい、私にサイフをあけて底までみせる。これがくせだった。ある時、パチンコに連れて行った。ろくに打ち方も知らない吉岡は、二百円分玉を買ってすぐ負けた。あまり興味のなさそうな顔だったが、換金できると知って目の色が変わった。
それ以来、吉岡は退社してから一人でパチンコに行き、もう負けなかった。毎日閉店までがんばり、執拗にねばり、勝ち続けた。元々大工などをして手先は器用な方だが、私はその驚くべき上達ぶりに舌を巻いた。
勝つ時など一万円以上ももうけることも珍しくなく〝パチンコ・プロ〟顔負けなのだ。私は、金に対する吉岡の執念をみる思いだった。
吉岡は自分が「八海事件の吉岡だ」と知られることを極度に警戒していた。このため、「友田」という変名を使っていた。吉岡という本名を名乗った場合は、絶えず私に「バレんかな」と気にし、くどくなるほど念を押した。
吉岡と私は、急速に親しくなった。土曜日にはいつも私のアパートに泊まり、奇妙な友情が生まれた。私は吉岡の気心がだんだんわかった。後に結核が再発して病院に入院中、他の患者とけんかになり、刃物を持ち出したこともあったが、私と接する吉岡は、決して凶暴な男ではなかった。逆に弱々しく、いつも何かにおびえていた。
「わしは本当に不運な男よな。いまだに職もないし、女房もいない。阿藤らは運送会社の社長をやっているというのに……」
と嘆くこともあった。
吉岡は長い間、警察、検察、刑務所で思うままに操られてきた。吉岡を診断したある医者は、「死につながる状況で、温めたり、冷やされたり、自由にもてあそばれたので、相手の顔色や利用価値を素早く見抜く体質ができ上がったのではないか」と指摘した。吉岡とのつながりを通じて、その指摘はある程度、的を射ていると私は思った。
吉岡に一つの行動原理があるとすれば、それは死にたくない、不利な立場に立ちたくないという自己保存の一念でしかなかった。 6
死刑という極限に立たされて、虚偽を維持することがわずかに生へ通ずるという状況で、吉岡の生来の利己心と他人の苦しみへの無知は決定的なものに培養されたのではないか。吉岡に虚言癖があるというのは的を射た見方ではなかった。
吉岡はそこまで知能犯ではなかった。表情をすぐ顔に出すタイプで、金でもやれば、一度に相好をくずし、非常に無邪気で人のよい面も持っているのである。
ウソは、追い込まれた吉岡がその場を切り抜けるための、苦しまぎれの逃げ道でしかなかった。私は吉岡を知れば知るほど、何でこんな信用できない男を検察側はあくまで死守し、裁判官がコロッとだまされたか。疑問がますますふくれあがってきた。
Ⅵ ノートを頼りに偽証の連続
昭和四十八年五月のゴールデンウイークに吉岡は私のアパートに三日間泊まった。この時、手あかで汚れ、茶色に変色したノート六冊を持ってきた。表紙に検閲のハンコがいくつも押してあり、所持許可書に『用途、一般用、674番、吉岡晃』と書かれてあった。獄中ノートである。
吉岡はデタラメな供述に終始していたため、いつ、どこで、どのように、供述したか頭に入っていなかった。裁判の下調べという形で検事が何度か広島刑務所に足を運び、大事な部分を吉岡に筆記させ、暗記させた。証言台に立つ前には連日、暗記させ、前もって質問と答えを作り上げた。
ノートには吉岡の警察の第一回調書から、阿藤、稲田、久永、松崎各氏の警察、検察に対する供述の一覧表が書いてある。例えば、吉岡の項では、第一回、一月二十九日、警察に対して否認、橋柳旅館で洋服以下千二百円を借り、焼酎一升を三百四十円、テンプラ百円ぐらい買い-といったように裁判でのポイントを書いている。
正木ひろし弁護士が阿藤氏らの無罪の根拠として追及した凶器の「オノ」についても、各人の供述を抜き書きしている。
いずれも、日付、調書の種類、内容の要旨をきちんと整理してノートに記録しており、共同謀議、橋柳旅飴、吉岡上申書の変遷、八海橋についての各供述、奪った金の分配などについて詳細に抜き書きしているのである。
普通、事件についての新聞、雑誌、記録は受刑者には一切見せない。ところが、広島刑務所では八海事件に関するものは吉岡にはフリーパスであったという。
吉岡の話はどこまで信用できるか頭を悩ませていた私は、このノートをみて、八海事件の冤罪の秘密を見た思いだった。吉岡はこのノートを頼りに、偽証を続けたのである。
なぜウソで友人を死刑にまで巻き込んだのか。この点を私は執拗に聞き、吉岡もノートに繰り返し書いている。
「私のあたまは複雑で自分自身にさえわからない。私の心が二つある。一つの心では
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本当の事を言って、阿藤らを助けてやれ。もう一つの心では今まで長い事うまく人をだましてきたのだ。
今さら言ったら自分が苦しまなくてはならないのだ。警察、また検事との約束、そして自分は一生ドク房から出られなくなるのだぜ。どうせ刑務所で一生生活をしなくてはならないのだから、この中でらくにくらせよ。
自分が本当のことを言ったら兄達は世の中の人から冷たくみられ、今以上にかたみのせまい生活をしなくてはならないのだ。
悪の心は善の心をいましめ、善が悪に負けてしまう。私はいくじがないと自分ながらいやになる。私は考えまい、考えまいと思っても自分をごまかす事は出来す、それから毎夜ねられない日がつづいた」(吉岡ノート二十冊目、原文のまま) (つづく)

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