下村海南著『日本の黒幕」★『杉山茂丸と秋山定輔』の比較論
2017/06/14
2003年7 月
前坂 俊之(静岡県立大学教授)
明治国家の参謀、明治政府の大物を陰で操ったと言われる杉山茂丸について長年
関心を持って、調査、研究しているが、このほど下村海南著『はきちがえ』四條書房
(昭和八年五月刊)という本を古本屋で見つけ、その中に『杉山茂丸』についての珍し
い文献があったので、以下で紹介する。
下村海南(しもむら かいなん)は1875.5.11~1957.12.9。和歌山県出身。 本名下村宏。
1898年東大政治学科卒業、逓信省入省。貯金局長を経て1915年台湾総督府民
政長官。早大、中大、東京商業大学で財政学の講師となる。その後,朝日新聞副社長、
1945年終戦時の情報局総裁。児玉源太郎、後藤新平と親しかった杉山とは交流が
深く、杉山が亡くなった時、下村は朝日に追悼記を連載している。
秋山定輔は明治の新聞人,政治家。明治26(1893)年10 月に「二六新報」を創刊。最初
はうまくいかず、休刊をへて明治33(1900)年に復刊。1 部2 厘の廉価で「万朝報」に対
抗してセンセーショナルな紙面で労働者階級へアピールし、部数を伸ばした。その後
激しい政府攻撃を展開して発行禁止処分も2 度受けた。
明治37(1904)年に秋山がロシアのスパイだという「露探事件」がおこった。当時の桂
内閣系による陰謀といわれるが、これを機に部数が下降線をたどった、杉山と並んで
明治の政治黒幕的な存在だった。
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杉山茂丸と秋山定輔
下村 海南著
(1) 人形と人形使い
吉田文五郎も、吉田栄三も1年づっ年をとって行く。文楽の人形浄瑠璃というものが、
このままで続くのか、益々盛んになるのか、それとも次第に衰えて行くのか、それもわ
からない。
しかし、文五郎なり、栄三の一年づっ年をとって行く事だけは間違いがない。
文五郎、栄三のあとをつぐ人が出るかどうか、それもわからない。また、人形作人とし
て後世後嗣ぐべき人なしといわれ、人形道の神様にたとえられている文三郎のような
2
人、今後見られないといわれるが、果して、然るかそれもわからない。
維新の元勲として、伊藤博文あり、山県有朋あり、次いで新日本興隆の舞台に立役
者として活躍せる者に、桂太郎あり、児玉源太郎,寺内正毅あり,後藤新平あり、田中
義一あり、これらの人形を躍らした文五郎、栄三にたとへんは言葉が過ぎるかも知れ
ぬ。
しかし、少くとも絶えず、政界の裏面に活躍し、殊に日清、日露の二大戦役の前後を
通じ、奇策縦横、彼の春秋の蘇秦、張儀にも比すべく、かうした立役者の帷幄に活躍
せる者に杉山其日庵がある。
庵主は自らもぐらもちと称している。常に地の底ばかりはいまはっているというのであ
る。
人形とならず人形つかひになってる、それも黒衣を着た人形遣いであるというのであ
る。本人はそういはなくとも、筆者はそういってるのである。しかもその手馴れた人形
は、ぽっりぽっりと無くなつてゆく。おのれの命の影もまた一日一日と薄らいで行く。
庵主は遠からず来るべき死に直面して、さきに『俗戦国策』なる一本を筆にしてある。
日常好んで剣を相し、義太夫を語るの外、文筆をよくして幾多の著書を公にしている。
しかし、何んといっても、其日庵主人杉山茂丸の真価は実ににその便々たる大鼓腹
と蘇秦糞くらへの口舌であらねばならぬ。
庵主の口舌は壇上て、大衆を前にし、とうとう懸河の弁を振うのではない。
相手とサシで取り組み組み説き伏せるのである。相手が大物であればあるほど取組
みやすいらしい。
その六尺近い巨体を擁し、堂々人を圧する魁偉なる容貌と、どこまでも相手を魅了せ
ずにおかない長広舌は、まさに万人が等しく認める座談の雄者であらねばならぬ。
(2) 経済を口にする国士
由来、国士を以て任ずる人々の弁論は、とかく話に上下を付けて竪すぎる。熱烈過ぎ
て、常軌を逸しやすい、感情にはしり過ぎて、話しが抽象に陥りやすい。しかも庵主の
座談には、硬軟とりどり、千紫万紅である。殊に経済なるもの口にする。
払い込がいくらで配当が何分だから利回りがいくらくになるとか、為替が何ドルを割っ
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たから外債の利子がいくらいくらになるとか、日歩がいくらの、コールが何厘だのと、
ソロバン畠の細かい細かい数字を、大日本の百年の国策に取り交ぜ、談論風発相手
を煙幕に巻き込んでしまうのである。
筆者が庵主の座談を耳にしたのは、大正四年、台湾赴任以来の事で、爾来すでに幾
十回たるを算し切れない。
或る時はアパートの一室で、夜蔭に至るまで6 時間近くも、さしで話し合ったというより
は、庵主の立続けの快弁にみせられた事もある。
庵主の座談には、例の政界や軍服の立役者が軒並に出て来る、先方から云へば、
杉山をかったとも、彼を利用したともいうであらう。
庵主からいへば芻僥の言を述べたに過ぎないというか、それともおれはただの人形
の足使いであったーイヤ左使いであったとりふか、イヤ人形使い(シテ)として人形を
躍らしたというか、それは分らぬ。
とにかく、その話題にのぼる役者の顔ぶれれといい、劇場の大きさといい、舞台の装
置といい、一筋書が日清、日露の戦役に織り込まれているのだから、聞いていると、
とても面白い。
(3)其日庵 と文五郎
話の筋がとても誇張されているなと思はれる事もある、イヤ、其法螺丸などいうニ
ックネームに徴してもありさうな事である。
しかし、一度新橋あたりの会席で主人となり、朝に野に文に武に名の売れた一流どこ
の客種をずらりとならべる、それだけでもかなり壮観であり奇観である。
後藤伯爵などは、いつも床の間正面か、その附近に鼻目がねをギョロつかせている。
その前へノソりノソリと乗り出して『おい後藤,一杯もらおうか』とばかりに、ドッコイショ
とエンコして、四本半になった指先をぐつとさし出すところなどは、我党の士をして快
哉を叫ばしめ、気の弱い芸者をしてはらはらさせる。
それなれば「おい下村一杯もらおうか」とくるのかと思うと、中々以て左にあらず、『下
村さん、下村さん』とさんづけにする、こまい人形はつかいにくいと見える。
つまり威勢隆々飛ぶ鳥も落すやうな大物にぐわんと一本当身を喰はしておくだけで、
他は眼中に置かぬといふ形である。
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このほど、台華社の楼上に見舞った時、
『明石も死ぬ、寺内も死ぬ、田中も死ぬ、団まで死んだ。貴様もいい加減に一緒に来
いと、眞黒闇の中から野郎共おれの足を引張りよる。
しかし、此の時局を前にして、これを見すてて行けますかい、見物するだけけでも生き
てをらにやならぬと、寝台にしがみついてがん張るところだよ』
と寝台の上で哄笑する庵主を見た。
近頃は工場の機械で大仕掛に規則と先例で、堅めた千人一色の人形が大量生産で
吐き出されてる。
型外れの人形は段々影をひそめて行く、時は次第に流れて使いなれた人形はいつの
間となく亡くなってゆけば、人形使いも一年づっ年をとってゆく。
さびしいと思うのは攝津越路去って後の、老いたる文五郎を見る文楽ばかりで無い。
(3)訥弁の雄・秋山定輔
其日庵主人の声調は義太夫で叩き込んである丈に太い声である。バスの音である。
どうもソブラノ式の声は男子には割が悪い、言いづらそうであり又聞きづらい。大口喜
六、小川郷太郎諸士の声などはソプラノ式に似て非なるものである、きつく、鋭く響く、
やわらかみが少い、どう声の調子は濁った方が耳当たりが好い、キイキイ声の達弁
は、却ってドス調の訥弁がよい。
訥弁はそこに何等かの真面目さを示している、あまりにしゃべる立てるのは人間の柄
が簿っべらであるような感じを与える。言葉のどもる人は重厚といふやうな感じを与え
る。
僕の知る限りでは、その昔、逓信省で古市公威男を上官に仰いだ事がある。男のど
もる調子が、我われにとても懐しい暖かい真面目な感じを喚び起した。
三宅雪嶺居士の如きもまさに、その一例である。さらに其日奄主人と相並んで連想さ
れるのは秋山定輔翁であるが。翁は訥弁である。然しそれが雄弁以上に開く者の心
を捉へる。
(4)黄金魔を組伏せる弁舌
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二六新報社が悲境に終った時、手当り次第七とこ借りをした高利貸や、あらゆる債
権者方面に毎日、自転車で軒並みにことわりに回る。それが1ヵ月30回とつゞけられ
ると、債推者の方が根負けして、いやもう言い訳だけに毎日押かけられてはたまらぬ
と悲鳴をあげさした秋山君。
自転車で富士登山を強行した秋山君。肺患重くして外遊の途中から須磨まで帰り、快
癒に赴くとその地から、そのまま外遊に登った秋山君、医者から見放された病と四つ
に組んで逐に病魔をくみ伏せ、角力をとる、自転車にのる、サンダーの鉄亜鈴を振り
回はす、硬式テニスをやる。
とうとう十二貫目の体重から十六貫までにのしあげた秋山君。君の二六新報時代に
僕は大井の立会川でその住居を相近くしていたが、毎日の様に君の訥弁に魅せられ
ていた。
数限りない君の思い出話し、離婚話しはまた別に筆にする時もあろう。
ただその時分、僕が風邪など引いて床につくと、定まった様に名士の伝記とか言行録、
さては体育に関する書籍類を枕許へ置いて行く。忘れもせぬ、ある時に枕元でポッリ
ボツリと得意の訥弁で
『君は大臣にもなるだらう、なってもそれは不思議でない。僕は頭を下げない。
しかし、君が自分の健康を考へて、目方が十六貫になつたら、君の前に頭を下げて
平伏する』
こういった事をよく覚えてる。大臣なんかになるより先ず健康第一だ、努力せよという、
健康への努力は大臣になる努力よりも骨が折れるといって、保健をすゝめるのである。
おもしろいじゃないか、しかしさうまで心遣いをして貰っても、時は日露戦役の直後で
あつたが、常時目方が約十四貫目今日に到るも、十四貫目を上下してをる。
十六貫目はおろか十五貫目にもなりさうにない、爾来折々体重を計る時毎に、よく秋
山君の言葉を連想する。
一面には自ら克己心の弱きを嘲り、一面には君の好意を無にしつつ、君を平伏さす
事が一生出奔すじまひになると思ひつつつ。
(『雄弁』7年九月号)
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