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『リーダーシップの日本近現代史』(168)記事再録/『日本で初めて女性学を切り開いた稀有の高群逸枝夫妻の純愛物語』★『結婚とは死にまでいたる恋愛の完成である』★『1941年(昭和6)7月1日は日本の女性学が誕生!』★『火の国の女の出現』★『日本初の在野女性研究者が独学で女性学を切り開いた』★『 至高の純愛日記』

   

   「国文学」09年4月号に掲載

 <結婚とは死にまでいたる恋愛の完成である>「女性学」を切り開いた稀有の高群逸枝夫妻

  前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)    
  
1・・ 大逆事件に恐れをなした永井荷風
 
 
明治44年に幸徳秋水ら社会主義者たちが一斉にデッチ上げられて処刑された大逆事件を目撃した永井荷風は強い衝撃を受けた。荷風はフランスに遊学した際、ドレフェス事件に対して、エミール・ゾラら文学者、知識人たちが社会正義を求めてペンで抗議し、軍部と戦った勇気ある行動を見聞していた。
それだけに、大逆事件に恐れをなして何も発言しない自分も含めた日本の文学者の勇気のなさに絶望し、以後、自らを「政治的な発言を一切しない、江戸の戯作者レベルに下げて、世捨て人、無用人として生きる方向に転向します。
 
慶応大文学部教授の金看板を捨て、隠遁して生活する一方で、夜は芸者遊び、娼婦、女給らを金で買っては遊蕩と好色にふけり、それをテーマに私小説にしては発表する放蕩三昧の作家生活を送ったのです。
 
生涯単身者として、20人以上の娼婦らと深くつきあっては、次々に捨て去っており、「どこかのカボチャ娘か、大根女郎のように扱い、飯だけをたべさせておけばよい、夜のことは売春に限る。女房は下女と同じ、奴隷扱いである」との再婚者の芸者・巴里八重次から三下り半(離縁状)を突き付けられて、慌てふためきます。
 
女性の立場から見ると、性の欲望を満たすだけの何とわがままで、利己的な荷風の行動ですが、昭和10年代の戦時下では、ほとんどの文学者、知識人が一斉に戦争に協力し、軍国主義になびいていく中で、一人、超然として作品を発表せず日記(「断腸亭日乗」)にのみ、本音を語り、シニカルに社会、世間を観察しては記録して無言の抵抗をした点が、戦後になって高く評価されます。今でも、荷風的な生き方は中年以上の男性にとってはあこがれの的であり、彼の名前の付いた雑誌や本が次々に出版される根強い人気ぶりです。
 
当時の荷風といえば、米国、フランスに長く遊学し、フランス革命によって生まれた「自由」「法の下の平等」「男女平等」「博愛」などの近代人権思想を体験し、フランス文学を専攻した数少ない知識人の1人ですが、女性を対等な人間と見ていない荷風の差別意識まではその強烈なフランス体験によっても変えることができなかったのです。
 
2・・強固な男尊女卑社会の封建国・日本
 
ただし、その旧い男女観、性のモラルは荷風だけが突出していたというわけではなく、当時の文学者、知識人、大學教授、政治家らのエリート層と比べてもさほど変わっていないようにも思います。姦通罪や公娼制度が、明治以来も延々と一九四七年(昭和22)に現憲法などで廃止されるまでは続いていた強固な男尊女卑社会の日本では、男性の女性意識の変えるのは容易なことではなかったのです。
 
明治、大正、昭和戦前でも江戸の風俗文化はまだ依然として続いており、花柳界や芸者、遊郭などが生活文化の1つを占めており、男女関係や夜の生活で遊郭や娼婦、カフェなどの女給の存在は小さくありませんでした。
 
明治初めに、家族制度を批判し、女権拡張論を唱えた自由民権運動家・植木枝盛の場合をみても、娼楼に泊り娼妓と遊びながら廃娼論を書いたといいますし、同じく大井憲太郎も民権論者の影山英子にひどい仕打ちをしていたといわれます。
 
文学者の多くも、たとえば夏目漱石の妻・鏡子が典型的な悪妻とされたように、文壇の大御所となった菊池寛や流行作家の中村武羅夫らが夫人以外にも公認の愛人を何人も持っては、夜の大名遊びを続けて新聞のゴシップ欄をにぎわせたり、明治の政治分野でも、伊藤博文、山県有朋、大隈重信ら維新の多くの元勲たちの夫人は芸者上りで、しかもみな良妻賢母、賢夫人として知られていました。
 
「宴会政治」「待合政治」が長く続いて、政治は実質的に酒と女と夜に動かされていたのです。
 
こうした男性の性の自由が大幅に認められていた社会では、その頂点にいるエリート、知識人、文学者たちが、堅固な封建的、家父長的な家族制度の中で、女性がどのような虐げられた存在と化していたかは男性には見えない構造になっていたのです。
 
1945年に敗戦。新憲法の制定で、やっと女性の参政権などが認められ男女平等となり、奇跡的な経済的発展によって先進国の仲間入りを果たして今や、六十年余。果たして、男尊女卑社会は変わったのでしょうか。
 
最近のデータでも、日本のジェンダー・エンパワーメント指数(女性の社会参画度)は世界38位(78ヵ国、2004年)で先進国中最低です。
世界男女格差報告では日本は79位(115ヵ国、2006年)、女性の社会進出度(女性の国会議員、国家公務員の割合など)では先進国最低の33位で、途上国以下となっています。男女参画社会が声高に叫ばれながら、一向に女性の社会進出度は最低ラインを低迷しており、日本が男性中心社会から今なお、脱皮できていないことを示しています。
 
こうした歴史と現状を踏まえながら、高群逸枝の「女性学の研究」を位置づけて見ると、高群がどんな困難な状況の中から出発し、その業績は前人未到のものだったことがよくわかります。
 
3・・ 1941年(昭和6)7月1日は日本の女性学が誕生!
 
 
昭和6(1941)年7月1日は、日本の女性にとって記念すべき『日本の女性学誕生』の日となった。この日、未知なる学問探求への冒険が熱い志を持った高群逸枝37歳と橋本憲三34歳の夫婦によって始まったのです。
 
東京世田谷区中在家の雑木林の中に敷地面積200坪、クリーム色の方形の2階建て延べ30坪に2人の女性史研究所兼住宅が完成した。ソローの「森の生活」にちなんで『森の家』と名づけられた。1,2階には各3部屋あり、2階に5坪の書斎、ここのタタミ敷の書斎には大きな仕事机が真ん中に1つ、周囲の壁の本棚にはまだ1冊の本もない。机の上には[古事記伝](本居宣長著)が1冊があるのみ。
 
高群は不安と決意を胸に、1人で机の前にポツンと座った。日本の女性学がスタートした瞬間です。高群は「腹は借りもの」 の言葉に怒り、未踏の「女性史」の研究に挑んだのです。
研究のきっかけとなったのは強い愛情と信頼で結ばれた2人の会話からだった。
 
憲三は「あなたの才能は非凡で、稀有なもので、私はそれをしっかりと見てきました。それに野性的なその美貌はカルメンや『緑の館』のリーマに匹敵するものです。私はあなたの下僕となり、よい後援者になる。生活は保証するので女性史の体系化に取り組もう」と熱心に提案した。「私の希望は有名な学者になることではなく、生涯無名の一坑夫になることなの。前途はひどく暗く、貧苦と病苦がともなうだけ・・」と逸枝が答えると、「いいよ、二人でやろう」と憲三は決意を告げた。(高群著「火の国の日記」(理論社、1965年)
こうして、研究所兼住居が完成した。逸枝はそれまでの一切の文筆生活をたち切って、10年計画で婦人論、恋愛論など3部作を完成させる予定だったが、書架にはまだ1冊の参考書とてない。歴史学は全く初めてという、無知、無一文からの出発であった。
 
逸枝は『門外不出』『面会謝絶』『1日最低10時間以上は勉強する』という鉄のオキテを自らに課した。そして、金がない、資料もない、専門家でもない、まだ方法論もない、と全くのないないづくしで船出したのです。
 
当時の逸枝の日課は起床6時、8時に朝食、それから書斎に入って勉強し、昼食ぬきで午後4時まで、午後6時に夕食、そのあと執筆、勉強、午後10時就寝だったが、以後ますます厳しくなっていく。2人は女性史完成のためにすべての生活費も切り詰め, 逸枝は和服を洋服に縫いかえ、夫のズボンをスカートに変えたりしながら、互に髪きりあっては散髪代も節約したといいます。
 
憲三は妻にかわって生活費を稼ぎ、家事、生活の雑事の大部分を分担して、研究に必要な専門書、文献、古本や資料の探索、蒐集、購入を一切やるほか、執筆の手伝い、書いた原稿のチェック、内容の検討、分析を逸枝と2人会議と称して熱心にディスカッションしています。もともの優れた編集者であり、本づくりのプロであった憲三が編集作業の全般を行って逸枝の研究を全面的にバックアップしたのです。逸枝は書斎から一歩も出ず、面会謝絶にして、文献を読破してはカードを作って研究、執筆にひたすら打ち込む。
 
4・・夫婦一体で前人未到の研究へ
 
研究は男のやることで、女性は家に引っ込んで家事、子育て専念する、この逆をやれば世間から非難される、「新しい女」の出現がどんなに好奇の目で見られて非難の的になったか、良妻賢母が強制された時代。
 
そのまるで反対の、逸枝が主役になって、憲三が助ける性役割分担を超えた夫婦の完全共同によるこの研究は杉田玄白らが1冊の辞書もなく悪戦苦闘して翻訳に取組んだ『蘭学事始』に匹敵する知の冒険であり、女性の在野の研究者による壮絶な知の格闘といっても決してオーバーではありません。
 
しかも、スターとした一九三一年(昭和6)七月といえば、関東軍が満州事変を引き起こして、中国大陸を侵略していく三ヵ月前のことです。世界大恐慌の影響で日本国内でも経済はどん底に陥り、東北大凶作などで小作料の払えなくなった農家は娘を遊郭などに数百円で身売りする「人身売買」が続出ていた。
 
戦争への靴音、軍国ファシズムが吹き荒れる下で“女性残酷物語”が展開していましたが、それだけに母系社会の探求や家族制度の批判など怖くて口にできない冬の時代だったのです。
 
2人は女性史確立の堅い決意を胸に以後、約30年間にわたって、外部との交際を立ち、「森の家」にこもりっきりで、日本史の迷宮に分け入り古代、中世史の中に母系制を発見し、『母系制の研究』『招婿婚の研究』『日本女性史』など大著を次々に世に送りだしたのです。
日本の学問、研究史上を見渡しても、女性が表に立つて、夫が陰から支える夫婦一体愛からこのような大業を成し遂げた例はありません。この稀有な夫婦は一体何者なのでしょうか。
 
5・・火の国の女の出現
 
高群逸枝は1894年(明治27)1月、熊本県下益城郡豊川村(現・宇城市)で、小学校長・高群勝太郎の長女として生れた。
 
自伝『火の国の女の日記』の冒頭で「私はこの世に歓迎せられて生まれてきた。そこには実に愉快なお伽ばなしがあった」と書いているが、子供に恵まれなかった両親は観音様に願をかけて、その初観音の縁日に逸枝は生まれた。男系中心家族制度の中で「観音さんの子」として両親から祝福され大事に育てられたが、このことが後の生活に大きな影響を与えた。
 
逸枝は霊感のある天才少女に成長し、校長として教育熱心な父は逸枝に文章作法を教え、文学少女に育て上げた。漢文の素養、皇国史観、後の女性史研究とその膨大な執筆量、日記は父譲りのもので、熊本女学校を卒業し、大正三年四月、西砥用尋常高等小学校代用教員となった。
 
大正6年8月、23歳の逸枝は同じく小学校代用教員をしていた橋本憲三と運命的な出会いを果たした。憲三は3歳年下で、左目を失明した虚無的な文学青年。2人は恋に落ち、恋愛至上主義の逸枝はすぐ「永遠の誓い」を書き送ったが、憲三にはぐらかされる。絶望した逸枝は四国をお遍路をしてまわり、「娘巡礼記」(104回)を『九州日日新聞』に発表、一躍、新進女流作家の誕生として注目を浴びた。
 
25歳で2人は婚約した。逸枝は詩集「放浪者詩」「胸を痛めて」、小説などを次々に発表、この間、最初の子供は死産する。憲三は大正11年、東京に出て小説「恋するものの道」(大正12年)などを発表し、平凡社に入社、アナーキズムに傾倒した。
 
6・・・情死した有島武郎を「ふざけるな」と罵倒
 
30代前半の逸枝は言論戦闘時代に入り、『東京は熱病にかかっている』(31歳で発表)という戦闘的な詩人、アナーキストとして時代の最前線にたった。32歳で『恋愛創生』で、経済と恋愛の思想を両立させる新女性主義を掲げた。情死した有島武郎を「ふざけるな」と罵倒するなど逸枝は精力的なアナ・ボル論争続け、『平凡社』で『大衆文学全集』を手がけて大成功した編集プロの憲三はその原稿の読者、批判者としてバックアップした。
 
昭和5年3月、36歳の逸枝は互いに尊敬し、女性解放運動で生涯強く結びついた平塚らいてうらと無産婦人芸術連盟を結成、逸枝が主宰する雑誌『婦人戦線』を憲三の全面的な編集の協力で創刊するが、売れずに失敗、挫折した。
 
逸枝は37歳を境に、一身二生のように後半生は別方向へと転進する。詩人、評論家兼アナーキスト、女性解放運動家として華々しく活躍したジャーナリズムの表舞台から突然姿を消して、『森の家』に身を隠して、研究に沈潜したのである。福沢諭吉は「門閥制度は親の仇でござる」といったが、逸枝、憲三は「家父長制家族制度は女の仇である」と男性中心史観の逆転に挑んだのです
 
『森の家』の厳格な鉄則はいわば男性社会、歴史への「闘争宣言」そのものといってもよいもので、無名の鉱夫として広大なテーマを掘り進むこと、貧乏と病苦は覚悟の上、「党派からの迫害、黙殺、不快感はある」「家は荒れるにまかせる」「すべてお茶を出さない」など悲壮な決意が語られています。
 
高群の女性史学研究のヒントは『古事記伝』にあった多祖現象です。多祖現象とは、同じ共同体から発祥した同一氏称が、同じ祖先からではなく、別の祖先から出ていることで、一氏一祖でなく、一氏多祖の現象のこと。高群はこれが女系制につながるキーワードになるとみて研究に没頭した。
 
高群の仮説では父系氏族が中心となる前の古代、平安期までは女性の地位が高く女性を中心とした家族、母系社会が形成されていたことを立証することにあった。そのための研究方法として、平安前期編纂の『新撰姓氏録』(神武天皇時代からの姓氏1182氏を記載)などを基本文献にして、この中に出てくる約500家族に絞って氏の出自、複氏、諸姓、氏人、婚姻、相続などを記紀、日記、中世の文献から丹念にたどって数万枚に上る詳細なカードを作成、分類、整理して、系譜を分析したのです。
 
「森の家」の書斎はそのうち憲三が購入、収集した3千冊以上の書籍、文献、資料で埋まり、逸枝は食事もろくにとらず一日16時間も坐りっぱなしで研究に没頭、疑問点は憲三と逐一討議しながら執筆に励む。冬でも暖房はつかわず、寒いと足踏みしてしのぎ、ペンを握る着物の袖口がかすれ切れるほど。
 
もともと病弱な体質の逸枝は栄養失調となり、勉強と本の読みすぎによる視力の減退、めまいなどの健康悪化と戦いながら、驚異的な集中と、スピードで7年後の昭和13年3月、「女性自身、女性の立場から書いた初の女性史」(平塚らいちょうの言葉)という『大日本女性史第1巻』「母系制の研究」が完成したのです。
 
7・・日本初の在野女性研究者が独学で女性学を切り開いた
 
続いて『招婿婚の研究』に取り組むが、昭和15年3月、二年間にわたり取ってきたカード一万枚を全部破棄して、もう一度根本からやり直すなど苦心惨澹の末、昭和28年にやっと完成した。
 
通史としての『女性の歴史』(全4巻、昭和33年刊)を含むライフワーク『日本女性史』(全6巻)はここに完成し、高群女性史学が打ち立てられた。歴史学者の鹿野政直氏は「海外から女性学が入ってくる前に、日本で初めて在野の女性研究者として独学で女性学を切り開いた」ーと高群学説を高く評価している。
 
しかし、この高群学説についてはその後、『平安鎌倉室町家族の研究』(高群逸枝著、栗原 弘校訂、国書刊行会、昭60年刊)の名古屋文理大学・栗原弘大学教授が高群の著述と原史料をチェックした結果、高群が自説の根拠とした、結婚すると夫は妻の家に居住するという平安中期の妻方居住婚の事例は五百家族中、藤原道長家族のたった一例しかなかったとして、全面否定する論考を発表して学会で大きな論争を呼んでいる。
 
このあたりは、筆者は専門的な知識に欠けているので論評できませんが、いずれにしても今のように、フェミニズム、ジェンダー論が盛んになる70年も前に、在野で徒手空拳でもって女性学を切り開いた高群の先駆的な業績は決して小さいものではない。
 
さらに、ここでもっと注目すべきは高群の研究を全面的に支えた憲三の献身的な愛情であり、フェミニストぶりであり、夫婦一体愛の深さである。憲三は彼女の月経で汚れた下着を何度か洗濯したことも赤裸々に書いているが、ここまで家事全般を肩代わりし、妻に優しい愛情を示し、その才能の開花を献身的に支えた日本男性がいたであろうか。
憲三は高群の死後も『高群逸枝雑誌』(季刊で合計31号)を死ぬまで発行して女性史研究を深化させ、未完の『火の国の女の日記』も補筆して出版。同時に2人の共同作業ぶりについては『同日記』や、堀場清子・橋本憲三『わが高群逸枝(上下)』(朝日新聞社、昭和56年刊)の中で詳細に語っており、後進の女性史研究に道を開いた点は、閉鎖的な大学、男社会の学閥に閉じこもった専門家、研究者とは180度違うところである。1964(昭和39)6月7日、逸枝はガン性腹膜炎で70歳で亡くなった。
 
8・・至高の純愛日記
 
この最後の病室での日記は愛情あふれるものであり、2人の会話は感動に満ちている。言葉と行動で率直に愛情表現をすることを恥ずかしがり、夫婦の場合には特に屈折した表現しかできなくなる一般的な日本人の中ではまるで異質な存在である。夫婦の長い道のりの末にたどり着いた至高の純愛を感じさせる。文学を志した2人の共用日記にはその細やかな愛情交換をあざやかに記録しており、日本の日記文学史にも例のない純度の高い大人の恋愛が記されている。以下、少し長くなるが、「火の国の日記」からの抜粋、要約である。
 
「六月七日は日曜日で、病院に午前八時に行った。「逸枝の寝顔の(あまり)美しきに、さめるまで(立ったまま)みとれ(てい)た。彼女は神だ。私は霊感と祈りにみちた心とをおさえ、十数分彼女のそばに立ってみつめていた。すると、とうとう眠りからさめた彼女は、「あなたきていたのね」とにっこりわらい「あなたがいると、たいへん心も体も自由な気がする」といった。
 「夜はどうしているか」と逸枝がきく。
 
「みんなあなたの「留守日記」を手本にしてやっています。お茶も二人分のんでいます。…『火の国』を毎晩四、五枚ずつ浄書してから、あなたに祈念をおくつて、二人のベッドに入ります。…『火の国』の浄書があるので、どんなにさびしさをまざらしているかわからない」と憲三。
 
 私は一日彼女と接近して看護した。胸から頸部にかけて鈍痛。手はふとんのそとに出しているので冷たいが、足はあたたかい。私がいれば尿意も便意も自然になるという。なんべんも取りかえた。ヘアトニックを髪にふりかけてブラシですいてやると目をつぶってよろこんだ。また頭部から手や足をさすってやると、とても気もちがよいという。
 
 「私がいかにあなたを好きだったか、いつでもあなたが出てくると、私は何もかもすべてを打っちゃって、すっ飛んでいった。私とあなたの愛が火の国(自叙伝)でこそよくわかるだろう。しまいまで書いて置いてください。ほんとうに私たちは一体になりました(逸枝)
 
「私はあなたによって救われてここまできました。無にひとしい私をよく愛してくれました。感謝します」(憲三)、「われわれはほんとうにしあわせでしたね」(逸枝)
 
 「われわれはほんとうにしあわせでした」 (憲三)と力をいれてこたえ、さらに顔を近づけて私が、「………」 というと、彼女ははっきりうなずいて、「そうです」 といった。彼女は心からそれをゆるし、そしてよろこんでいるのだった。いまこそわれわれ一体になったのだ。
 
一九六四(昭和三九)年六月七日午後十時四十五分、逸枝の生命は燃え尽きた。連絡でかけつけた憲三は妻・逸枝の髪をなでやわらかい頭をかかえてくちびるを合わせた。翌日、その遺体は平塚らいてうらによって見送られた。憲三は夫婦の愛の結晶ともいうべき「高群逸枝全集(全10巻)」(理論社)を完成させて、昭和51年(1976)五月、79歳でなくなった。
 
「結婚とは死にまでいたる恋愛の完成である」とは逸枝の言葉だが、ここまで深い愛を完成させた夫婦がいたであろうか。

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