日本風狂人伝③わが愛する頑固一徹、借金大魔王、『美食は外道』とのたまう内田百閒
わが故郷の岡山・百間川が生んだ20世紀最高の頑固一徹、奇人変人オヤジ、内田百閒よ・愛してるよ。
前坂 俊之
(うちだひゃっけん / 一八八九~一九七一)本名栄造。号百鬼園。作家。夏目漱石の門下生で『旅順入城式』などを発表。偏屈的ポーズを見せながら、ユーモアとエスプリに満ちたエッセイを数多く発表。『安房列車』などが代表作。昭和二十四年、芸術院会員に推されたが固辞。
① 「世の中に人の来るこそうるさけれ
荷風と並ぶ奇人作家の代表が内田百聞である。百聞の自宅は東京千代田区六番町にあった。自宅の門柱には「春夏秋冬、日没閉門」の門札がかかっており、玄関には面会謝絶の張り紙があった。
それ以前には江戸時代の蜀山人の歌をもじった、百聞自作の歌が並べて、張ってあった。
「世の中に人の来るこそうるさけれ
とは云うもののお前ではなし」
「世の中に人の来るこそたのしけれ
とは云うもののお前ではなし」
この張り紙をみた訪問者は、よほど気の強い者でないと退散した。ところが、歌の文句の「たのしけれ」のところはいつも客がはぎとるため、ついに百聞もあきらめて、はぎとられたままにしていた。
百聞は漱石を尊敬していたが、内気な性格のため終生、漱石の前では固くなって、本心をしゃべれなかった。
その代わり、激石の謦咳(けいがい)に接した記念として、漱石の鼻毛をひそかに収集し、周囲に自慢していた。
漱石の鼻毛は、長いものや短いものなど計一〇本あり、このうち二本は金毛。淑石は『我輩は猫である』の苦沙弥(くしゃみ)先生のように、鼻毛を抜き、原稿用紙に二本二本ていねいに植えつけるクセがあった。
『道草』の原稿で、書きつぶした草稿が机の横に十五、六センチたまったものを、百聞は分けてもらった。この草稿の中に、鼻毛が植えつけられたものがあり、大事に保存していたのである。
世に遺髪というのはあるが、遺毛?それも文豪の鼻毛を、大切に保管していたものは百聞以外になかったのではなかろうか。百聞は「物故文人展覧会」に出品すべき〝一大記念品!″とみんなにみせては、自慢していた。
「ハトの目」-夏目漱石の息子の伸六は百聞のアダ名をこうつけた。大きな顔にチョッと驚いたようなハトの豆鉄砲のような大きな目玉がそっくりというわけ。百聞は人の古着を譲り受けて着るのが趣味で、漱石の洋服をもらい受けて得意がって着ていた。
百聞は「カツレツを毎日五、六杯は食べる」という大食漢だったため、小柄な漱石の洋服を太った百聞が着ると、股のボタンがほじけとんだ。
ある時、款石の古着を着て旅行に出かけ、夜汽車で寝台によじのぼって、中に入ろうとしたとたん、どリビリとズボンが足から腰のところまできれいに破れてしまった。
翌朝、やむを得ず、パナマ帽に赤い編上靴、浴衣という珍妙なスタイルで旅館にかけ込んだが、旅館では「いったい何者や」と不審がられた。
百聞は自分の建てた家が池に臨んで建っていたので、金閣寺になぞらえていた。しかし、金閣寺と命名するのは芸がないと〝禁客寺″と名づけた。
名前の通り、「誰も上がらせないから、みなさんそのつもりで」ということであった。
百聞は「琴」が得意だった。生田流箏曲を習っており、一九一九(大正八)年頃、当時まだ無名の宮城道雄を知り、その天才を見込んで、親しく交際していた。
毎年一回、宮城道場でアマチュア中心の拳の会「桑原会」が開かれていたが、百聞も出場して見事な芸を披露した。この「桑原会」の命名も、百聞が雷が鳴った時の「クワバラ、クワバラ」からつけた。
② 徳川夢声との奇人対決は滅茶おもしろい
徳川夢声(一八九四~一九七一)も自ら奇人と称していたが、百鬼園先生(百聞の別名)との対決は火花を散らすようにおもしろい。
二人が対談の仕事をしていた時、飲みすぎて百聞は相当酔っぱらった。夢声が麹町の百聞の自宅までタクシーで送った。百聞は「上がれ」といい、夢声が断ると「五分間でもよいから上がれ」とすすめる。
夢声は「本当に五分間でよろしいのですか」と念を押して、仕方なく上がった。夢声はじっと時計を見ていた。
百聞が着替えて座った途端、夢声は「ただ今お約束の五分間が過ぎましたので、これでごめんください」とサッサと表に出て、車に乗り込んだ。
百聞は顔色をかえ、追いかけてきて、「徳川さん、それでよいのですか」と問いただした。
「ハァ、よろしいのです」と夢声は涼しい顔で帰宅した。
帰宅した夢声はやっと一服し、妻にこぼした。
「イヤ、驚いたよ。百鬼園先生には。ぼくもずいぶん世間からは、奇人だの変人だのとウワサされているが、先生に比べたら、まったく勝負にならん」
「そんなに変わった人なの」
「そりゃもう、変わっているのなんのって」
と話していると、トントンと門をたたく音がした。こんなに遅く誰だろうか、と二人は顔を見合わせた。
門を開けると、百聞が先ほどのヨッパライ姿とは打ってかわって、羽織袴(はおりはかま)でステッキを持ち威儀を正して立っていた。
「お休みのところを失礼ですが、一言、御注意申し上げたいことがありまして参りました」とインギンに話し始めた。
「ハァ……?」
「ほかでもありませんが、イヤシクモ、他人の家にきて、お茶一杯も飲まずに帰るというのは、これは無礼もはなはだしきものです」
「いやどうも‥…」
「そもそも、主人の許しを受けず、無断で外へ出ることが怪しからんです。それがもしほかの人なら、私は黙ってそのままにしています。しかし、あなたは今後、永く御交際したいと思っている方ですから。その方が、そういう礼儀に外れた行いをなさるのを、わたしは友人として黙っておれません。一言、御注意申し上げて、あなたの反省をうながす次第です」
「どうも相すいませんでした」
「おわかりですか。おわかりならば、それでよろしい。では、これで御免……」
と百聞が帰ろうとするところを、夢声は引き止めた。
「まあ、ちょっとお入りください」
「イヤ、自動車を待たせてありますから、帰ります」
今度は夢声がドナった。
「イヤシクモ、一歩門内に足をお入れになった以上、ここではわたしが主人です。他人の家に来ながら、お茶一杯も飲まずに帰るのは無礼というものではありませんか」
やむなく、百聞は応接間に通った。夢声が駅前まで走り、ビールを買ってくると、冷えていないビールを、ヒゲをあわだらけにしながら百聞は飲んだ。
③百聞はまた〝オナラ″の名人であった。
夢声が自宅に招かれ、ごちそうを食べていると、百聞はいろいろ小言を言いながら、その間、「ブー」「バリバリ」と堂々と放屈(ほうひ)した。
夢声が開いた。
「あの、チョッと、うかがいますが、さきほどから、二度ほどオナラをなさいましたが、あれは意識しておやりになりましたので……」
「もちろんです。意識せずにオナラが出るようでは、もう長いことありません」
「そういたしますと、わたしは一種の侮辱を感ずるのですがね……」
「なぜですか。オナラというのは、生理現象ではありませんか?」
「それはその通りです。しかし、どうも」
「ムセイさん、あなたはオナラをなさいませんですか?」
「無論、やりますよ。それは」
「それならお互い様ですね」
「しかし、わたしはヒト前で、音を出してやったりはしません」
「では、スカスわけですか」
「いや、やるなら便所でやるとか、廊下へ出てやるとかします。とにかく、こうしてせっかく、ごちそうになっていても、ブーッという音を開きますと、わたしはとたんに妙な場所を連想して、ごちそうがまずくなります」
「そんな連想はせんことですな」
「せんことですって、無理です」
「何が無理ですか?」
というわけで大議論になった。
オナラと並んで、百聞の有名な川柳の…に、「長い塀、つい小便がしたくなり」というのがある。
④ 百聞の借金哲学も常識はずれであった。
「百聞(ヒャッケン)とはシャツキン(借金)のことだよ」と、自分でも言っていたほどの借金の名人であった。
一時は陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学と三つの学校でドイツ語を教え、五〇〇円(現在では三〇〇万円)以上の高額の月給を手にしながら、友人、高利貸(サラ金のこと)から借りまくって、月給はすべて利子で消え、本人は〝赤貧洗うがごとし″の状態にあった。
大正時代のことだが、一〇円の金を借りるのに、鎌倉や千葉まで電車の三等ではなく、二等(グリーン車)に乗って行き、駅から人力車で乗りつけた。こうして、一〇円借りるのに、一〇円のタクシー代や電車賃を使っても平気であった。 淑石の弟子の森田草平は、こうした百聞の貧乏と借金哲学を、雑誌でさびしく批判した。
百聞は百聞で、人力車や自動車に乗って借金に行くのは「何も車に乗りたくて、乗るのではなく、ただ行き帰りの電車賃にすら事欠くので、やむを得ず車に乗るのだ」と屁理屈をこねていた。
その百聞の究極の借金とは-。
「借金こそ心的鍛錬であり、できれば、貧乏仲間で借金をしてきた人から借りるのが、借金道の極致である」
ドイツ文学者の高橋義孝が百聞を自宅まで送っていくため、タクシーを一緒に乗った時のこと。
高橋が気をきかせて運転手に道順を説明した。
「そこを右に曲がって、妻恋坂を行った方が近道じゃないかな」
百聞先生がギョロ目をむいて、反対した。
「高橋さん、私は天皇、皇后がお通り遊ばす道以外は、通りたくありませんな。運転手君、行幸啓の大きい道だけを通ってくれたまえ、近道なんかする必要はないよ」
高橋は「このクソジジイめ。金はオレが払うのに……」と腹が立つやら、アッケにとられるやら。
これまた高橋義孝の話。
ある時、百聞宅へ呼ばれてごちそうにあずかった。六時に来いと言われたので、六時五分前ぐらいにうかがうのが礼儀だろうと考えて、その通りに行くと「そんなに早く来られては、こっちの手順が狂ってしまう」としかられた。
それではと、次には六時五分過ぎにうかがうと「遅刻されては困る」と、文句を言う。
このクソジジイめ-、と、今度は六時カッキリに行ってやるぞと、六時にピッタリと門をたたいたら、「そんなにピシャリと来られては、ビックリするではありませんか」と小言を言われた。
いったい、どうすりゃいいんだ。
⑤ とにかく、すべてに百聞流が貫かれていた。
例えば、タバコ好きの百聞宅には三種類の灰皿があった。燃えさしのマッチ棒を捨てる灰皿、タバコの灰を落とす灰皿、吸い殻を捨てるものの三つである。これを間違えて、違う灰皿に捨てると、百聞は怒った。
タバコを吸う場合も、小さなピンセットを取り出して、ピース缶のフタを開けて、のぞき込んで「どれが、吸われたがっているかな」としげしげ眺めて、一本をつまみ上げては吸っていた、という。
岡山出身の百聞は、地元の「大手まんじゆう」を天下第一等の美味と、折り紙をつけていた。百聞はこの大手まんじゅうを賞味する時もフタを開け、ズラリと並んでいるまんじゅうに向かって「気をつけ!」と号令をかける。
しばらくして「休め!」と声をかけてから、やおらその中の一つ、食べられたがっているのを探しだしては、つまんでいた。
鉄道大好き人間の百聞が〝東京駅長″になったのは一九五二年(昭和二七)一〇月一五日のことである。国鉄は鉄道八〇年記念行事の一環として、百聞ら名士に一日駅長をお願いした。
ワクワクして眠れぬ一夜を過ごした百聞は、駅長の制服制帽をつけて、胸を張って家を出たのはよいが、細い路地からこわごわと、あたりを見回した。「犬が間違えてかみつきはしないかと思って……」
午前十時半に駅長室に現れた百聞は、目をギョロリとむいて、居並ぶ幹部を前に、「命により本職は本日着任す。部下の諸職員は、鉄道精神の本義に徹して、規律をよく守り、規律のためには、千トンの貨物を雨ざらしにし、千人の人を殺しても差しつかえない。大衆というものは、烏合(うごう)の衆であるから、グズグズ申すやからは汽車に乗せなくてもよい」
と過激な訓示を読み上げてニタリ。
午後一時までの勤務の予定だったが、汽車好きの百聞は特急「はと」が汽笛一声東京駅を発車するや否やそれに飛び乗って、最敬礼して中村駅長に挙手、〝職場放棄″してしまった。
百聞は展望車から「これで辞職だよ」と手を振って、一路東海道線を西へ。
⑥ 百聞は「お」の使い方にことのほかうるさい。
「床の間に生けてあるのは、花であり、仏壇に挿(さ)してあるのはお花である」といった具合で、特に「酒」に関しては絶対に「お酒」であった。
生家が造り酒屋であり、自分が好き放題でき、長年お世話になった「酒」に対して、とても「呼び捨てなどできないし、できた義理でもない」のであった。
東京大空襲で、命からがら逃げる際も一升ビンを「これだけは、いくら手がふさがっていても、捨てていくわけにはいかぬ」と手放さず、逃げまどいながら、ポケットに入れてきたコップで酒を飲んでいた。
家が焼けているのに、「こんなにウマイ酒はない」、と感心していたという。
東大でドイツ文学会があり、ある教授が百聞を訪れ、同会の長老として、ぜひ顔をみせてほしいと依頼した。
「顔を出せばいいんですね」と百聞が念をおしたので、「ハイ、それだけで結構です」と教授は懇願した。
百聞は当日、白手袋をはめ、ステッキを持って現れた。会員はいっせいに拍手で迎えたが、顔をチラツとみせただけで「みなさん、ではサヨウナラ」と手を上げてサッサと退場した。
百聞は芸術院会月に推薦された時、これを断ってしまった。
「会員になれば、貧乏な自分にとって、六〇万円の年金はありがたい。しかし、自分の気持を大切にしたいので、どんな組織も入るのがイヤだから辞退する」
百聞は知人に、名刺に辞退する口上メモを書いて託した。
「辞退申したい、なぜか
芸術院という会に入るのがイヤなのです
気が進まないから
なぜ気が進まないか
イヤだから
右の範囲内の繰り返しだけでおすませください」
⑦ 黒澤明監督の遺作「まあだだよ」の原作
百聞と友人、読者らが集まって、毎年、百聞の誕生日の五月二九日に「摩阿陀会(まあだかい)」というのが開かれていた。まだ冥途へ行かないか、という意味である。
第一回目の「摩阿陀会」は昭和二五年に開かれた。その席上での百聞のスピーチがふるっている。
「このクソジジィ。まだ生きているのか、というのが今晩の摩阿陀会です。まあだかいとお聞きになるから、私はまあだだよ、とこうして出てまいったわけであります。こういうことにしてくださいました以上、どうか来年も、再来年も、一先ず、まあだかいと尋ねていただきたいのでして、そのうちにきっと、もういいよ、と申し上げる所存でございますが、その節は御香典の御用意を、なるべくたくさんということにお願いします」
百聞はフロックコートに山高帽子、白の手袋にステッキを携え、深いゴム靴で出席、酒宴が最高潮に達すると、明治の鉄道唱歌を歌いまくった。
この「摩阿陀会」は百聞が亡くなるまでの二〇年間、毎年開かれた。七回目の「摩阿陀会」の時の百聞のあいさつ。
「いつかは『まあだかい』が『もういいよ』となることだけは間違いない。今晩はそのことについてお話したい。
香典はどのくらい包んだらいいか、と案ずるかもしれないが、口数によって計算することにする。若い諸君は一口でいい。トウの立っている紳士が、一口だけということはないでしょう。分に応じ、また御都合に従っていく口でもいい。一口を一〇万円とする。変な顔をしている人もあるようだが、心配しなくてもいいのです。
一どきに、一〇万円という金を出すとなれば誰だって困る。そんなお金を持っていない方が多いでしょう。しかし、ぼくはもらいたい。ぜひもらう。どうするかといえば、皆さんがめいめいで保険に入るのです。香典保険という種目があるかないか、知らないが、従来なかったらぼくのために創設すればいいや契約ができたら、ぼくが保険会社からお金を階り受ける。
借りるのではなく、もらうのだが、東向きは借りたことにしておかないと具合が奮い。今晩こうしてぼくの願いを聞いている、皆さんのお顔の数は五〇人には足りないけれど、口数にすれば五〇より多い。僕は近いうちに五〇〇万円というお金をフトコロにするめぐり合わせになった。それを片っ端から使っていって身辺の用に当てる。悪くないではありませんか」
百聞の最期の言葉。
自宅でいつものように百聞は、横になったままストローでシャンペンを飲んだ。「多すぎるな、(おまえが)半分飲めよしと夫人に言ったのが、最期の言葉となった。
内田百間http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E7%99%BE%E9%96%93
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