『リーダーシップの日本近現代史』(160)記事再録/『北清事変(義和団の乱)で見せた日本軍のモラルの高さ、柴五郎の活躍が 『日英同盟』締結のきっかけになった』★『柴五郎小伝(続対支回顧録、1941年刊)』
2019/11/22
増補版/ 日本リーダーパワー史(775)記事再録
北清事変(義和団の乱)で見せた日本軍のモラルの高さ、柴五郎の活躍が日英同盟』締結のきっかけになった。
前坂俊之(ジャーナリスト)
『北清事変とロシアの満州占領』
列強のあくなき侵略に対し、清国民の怒りはついに爆発した。一九〇〇年(明治33)五月、義和拳という武術をマスターすれば鉄砲も刀も怖くないという迷信的な政治秘密結社『義和団』の暴徒が「扶清滅洋」(清国を助け、外国を滅せよ)をスローガンに山東省内で排外運動を起こした。
Wiki義和団の乱
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キリスト教徒を次々に殺害し、教会、鉄道、電線など西洋的のものを破壊して、北京に向かって進軍し、ついに20万人以上の暴徒と清国軍が、各国大使館のある北京城を取り囲んだ。
北京城に立て籠もる連合国側は約4000人。大部分は公使館員やその家族、女性、逃げ込んできた清国人キリスト教徒らの民間人であった。公使館付の軍人、兵隊は500にも満たなかった。
連合軍の本国からの救援がなければ、籠城の公使館には武器弾薬も少なく全滅の危機が迫てきた。
このため英国東洋艦隊司令官シーモア中将が六月十日、連合軍陸戦隊二五〇〇人を率いて、北京へ救援に向かったが、途中で、清国兵と義和団に包囲され、危機に陥った。天津の連合軍二千人が救援にかけつけて、やっと天津にもどることができた。
これに対して、六月二十一日、清国宮廷の西大后は、義和団の反乱を支持して列強に宣戦布告した。連合国はオーストリア=ハンガリー帝国、フランス、ドイツ、イタリア、日本、ロシア、イギリス、アメリカの8ヵ国である。
当時、イギリスは南アフリカでボーア戦争の真っ最中で,軍を派遣する余裕はなく、アメリカも米西戦争(米・スペイン戦争)で忙殺され、清国と距離的に一番近い日本に対して派兵の強い要請があった。
とりあえず日本は5月31日、先発隊1200人、7月6日に5師団を中心とした混成1個師団(山口素臣大将)13000人の軍隊と18隻の軍艦を含む連合軍で最大の部隊を派遣した。
これを指揮したのが、川上の懐刀として世界を股に活躍してきたコミュニケーション能力、外交手腕抜群の福島安正少将で七月十四日、天津前面の清国軍を撃破して、天津に入城した。
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福島は五ヵ国語を自由に駆使してできる語学力を活かして、「連合軍作戦会議」の司会役を務めて、スピーディーに会議を進めて各国指揮官の信頼と協力を勝ちとった。
連合軍側の北京救出作戦は山口第五師団長が最も困難な命がけの正面突破を引き受けて、攻撃を開始し、清国軍、暴徒をたちまち撃破して、8月14日に連合軍の勝利となった。
北京城に一番乗りした日本軍が、勇猛果敢な戦闘精神を示すと同時に軍律をきびしく守り支那民家への乱入、放火、掠奪、女性への暴行などの行為などは一切なかった。清国軍、義和団の暴徒、連合軍の他国の一部の兵士による略奪、暴行が跡を絶たなかったのとは、大きな違いを見せた。
これは福島が
➀違反者は厳罰に処すと命令したこと。
② 入城と同時に福島は宮廷と政府の建物を守るため歩哨をつけて、一切の交通を遮断した。
③ この措置で清国兵による掠奪や放火からから清国宮廷と政府を守った。
ためであった。
この結果、勇猛果敢で規律正しい日本軍に対して、清国だけでなく、連合国でも評判となり、日本の評価を一挙に上げた。
柴五郎が活躍した北京籠城55日
連合軍2万人が北京城を解放したのは8月⒕日のことだが、その間、
北清事変のハイライトは北京城内で55日間にわたり立てこもった籠城戦、攻防戦にある。1963年制作のハリウッド映画「北京の55日」(ニコライ・レイ監督、チャールトン・ヘストン、デヴィト・ニーヴン主演)の原作である。
少数の籠城軍で2ヶ月間にわたり北京城を守り抜いた日本軍と、その指揮者の日本公使館付武官・柴五郎中佐の英雄的な活躍は各国から圧倒的な賛辞が送られた。
義和団の乱勃発は明治33年4月のことだが、柴五郎が北京に赴任したのと同時期で、柴30歳の時である。
柴 五郎(しば ごろう、1860年(万延元年5月生)は運命の人である。明治の賊軍・会津藩士の5男として生まれたが、会津戦争で祖母・母・兄嫁・姉妹が自刃し、一家は陸奥国斗南(青森県むつ市)に国替えさせられ、苦難の少年期を過ごした。その後、陸軍幼年学校に入学、士官学校を卒業、明治17年に参謀本部に出仕、清国北京駐在、英国公使館付などを長く務めた参謀本部内でも有数の国際派である。
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柴五郎も川上から見出されて派閥を超えて抜擢され、薫陶を受けた優秀な参謀将校で福島同様に、語学に堪能で英語、フランス語、中国語に通じていた。各国公使館員との会議の公用語はフランス語だが、これにも堪能、英語は米西戦争でのキューバ上陸作戦に武官観戦で参加したので、西欧コンプレックスは全くなかった。
会議ではイギリス、アメリカの士官にたいしては英語でしゃべり、フランス、ロシア将校にはフランス語で対応した。その語学力と作戦能力は福島同様に頭抜けていた。
北京場内の公使館区域は東西900メートル、南北800メートルだが、柴は北京城内と周辺の地理を調べ尽くし、清国人らのスパイを駆使した情報網を築き上げた。そのため北京城内の地理、人脈に一番通じていた。
支那語が話せる軍人が少なかったので清国人と自由に意志疎通ができたのが役立った。日本の戦国時代の真田幸村のように智謀を発揮して、大阪城を守ったケースとよく似ている。
日本軍の守る王府には、義和団の暴徒に追われて多くの中国人クリスチャンが逃げ込んできた。各国公使はこうした難民の受け入れを拒否したが、柴五郎は即座に受け入れたので、感激した清国人クリスチャンたちは、秘密情報を提供したり、城壁の補修、修復や堡塁を築くのを手伝ったりして、日本軍に協力し一緒に戦った。
連合軍兵士、義勇兵は合わせても約5,600人。敵は20万にのぼり、連日周囲の城壁を登って攻撃、城壁のいたるところをくりぬいて銃口を差し込んで、では発砲、突入してきた。
柴五郎率いる日本兵、連合軍は一歩も引かなかった。睡眠時間は3~4時間で、大砲で城壁に穴を開けて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが、延々と繰り返された。
ある時は場内になだれ込んだ敵兵を柴以下の日本軍が武士の作法でサーベルをもって猛然と突撃して、当たるを幸い斬り伏せ、日本兵も次々に敵を突き殺し、清国兵は一斉に退却した。
この凄絶な肉弾戦が英国大使館の連合国女子、子供、民間人の目の前で展開されたので、柴指揮の日本軍の勇猛敢闘なサムライ戦闘ぶりが大評判となった。
それ以来、イギリス公使・マクドナルドは、日本兵の活躍を心底信頼するようになった。
『北京龍城』(ピーター・フレミング著)は、こう書いている。
「戦略上の最重要地である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。
日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験もゆたかであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじて変わった。日本人の姿が模範生として、日本人の勇気、信頼性、明朗さは、籠城者一同の賞讃の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、一言の非難を浴びていないのは、日本人だけである」
北清事変の記録については柴五郎『北京籠城』、籠城者の一人服部宇之志博士の『北京籠城日誌』、菅原佐賀衛『北清事変史要』をはじめ、『北京籠城』(水田南陽)の物語なども刊行されている。
英国人のジョージ・リンチ著『除減洋鬼子・裁和団変乱記』(清見陸郎訳、昭和十七年刊、産業経済社)によると、『義和団側は捕虜をつくらぬために殺害してしまい、籠城城側では密偵は絶対に必要なのだが、捕虜は厄介物をわざわざ抱えこむようなものだから、回避するよりなかったので、双方どちらにも捕虜はまずまずなかった』(長谷川伸全集第9巻『日本捕虜志』朝日新聞社 1971年刊、89P)という。
『ジョージ・リンチは、米・英・仏・独などの将校たちは日本軍の紀律と装備備に驚いたが、日本軍の底に流れている士気に気がつけば一層強く惹きつけられる、それらは自然遺産のようなものだといっている。
そうして、紅巾を身につけた炊字拳、黄巾をつけた乾字拳(いずれも義和団の兵士)と清国兵とが、合流したところの敵を相手に、二カ月の北京公使館区域の籠城を、八月十四日、連合軍が突入して救ってから、連合軍の国別にそれぞれ追った地区を管轄したが、「イギリスやアメリカの管轄区地は、フランスやロシアの区域よりはよかった。しかし、日本軍のそれと較べると遠く及ばなかった」といっている。
ロシャの管轄区域では、死よりも甚しいことが毎日くり返され、階上から飛びおりて死をはかったり、水に投じて死んだり、首をくくって死んだり、或いは凌辱後に殺されたり、と悲運の婦女子のことを書いている。
人道主義の日本地区には「まるで洪水のように」避難民が殺到した。
そういう地区から日本地区に避難するもののおびただしさしさを、「まるで洪水のように」と形容している。
1900年末か、その翌年のことか、イギリス・ロンドン寄席で役者が中国の古器物のようなものを見せ、「これも略奪物かというシャレを飛ばした」、ということが『滞英四十年今昔物語』(牧野義雄、昭和十五年刊、改造社社)にある。
画家で文筆家で、イギリスで有名だったその本の著者が、渡英した翌年あたりのことを回顧したところに、その記事は出ている。北清事変が終って数カ月後に伶敦や巴且で中国の古器物が競売市に出た、それはある国の従軍者のうちにそういう物を中国から横奪してきたものがあったのであるらしい。
『滞英四十年今昔物語』はそこのところで、「しかし、その時、何も略奪しなかったのは日本であったと、各新聞が賞讃し日本人は肩身が広い思いをした」といっている。』(以上、前掲書89-90P)
『リユウトナン・コロネル・シバ』(柴中佐)は英国から勲章を授与された。
『英タイムズ』特派員アーネスト・モリソンの報道でも柴の武勇伝は『リユウトナン・コロネル・シバ』(柴中佐の意)として、欧米で有名となり、事変後、イギリスのビクトリア女王や各国政府から勲章を授与された。
イギリス公使・マクドナルドは共に戦った柴と配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに深く信頼するようになり、一九〇一年(明治34)夏に英国首相・ソールズベリー公爵と何度も会見し、7月15日に日本公使館に林董公使(のちの外相)を訪ねて、日英同盟の強力な推進者となった。その点で、柴五郎は日英同盟のきっかけをつくった立役者の1人なのである。
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