日本最高の弁護士正木ひろし③―ジャーナリストとしての正木ひろしー戦時下の言論抵抗(Ⅱ)―
―ジャーナリストとしての正木ひろしー戦時下の言論抵抗(2)―
前坂 俊之
以上のようなファシズムの嵐が吹き荒れた政治、言論状況の中で、「近きより」は創刊されたのである。
正木は「少しでも政府、軍部の方針を批判することは、刑罰によっておどされていた状況下にあって、私は、この小雑誌の中で、日に日に衰亡して行った日本国民の生態を記録し、言論なき死の社会に対する批判と考察とを、いわゆる『奴隷の言葉』によって、合法線のぎりぎりで述べ、逆説で表現し、毎号数千部を発行した」と書いている。
『近きより』は昭和十二年四月に第一巻第一号を発刊。大きさは四六判(十二センチ×十八センチ)、頁数は多い時は50頁、創刊号は四千部。以来、昭和二十四年十月に第十一巻第二号を出して終刊するまで、月刊ペースで毎回、時局に対する痛烈な批判的言論を盛り込んだ内容で発行された。計12年間にわたり活字版のもの九十号冊、謄写版のもの八号冊、合計九十八号冊を出版した。
4 「近きより」の内容―昭和12年
『近きより』の創刊号は一五頁。内容は『巻頭言』『近々抄』『街路に拾う』「人生断章」「日常法律問答」「編集後記」などの正木はほぼ1人で執筆したものと、正木の数多くの知人の作家、法律家、ジャーナリストらメンバーの原稿、アンケートの回答など多彩な時局批判雑誌としてとなっている。
正木は記者兼編集長兼発行人と1人三役を忙しい弁護活動と並行しながら、『巻頭言』『近々抄』『街路に拾う』「人生断章」などで、毎月、精力的に体験記、エッセー、至言、アフォリズム、哲学的な断片など多岐にわたって執筆しており、バラエティーに富んだ内容となっている。初めは同人雑誌的なものだったが、だんだんと純個人的雑誌に変っていった。
創刊号は、いわゆる低姿勢で、露骨な表現をさけ、オドケのレトリックなどを使って書いたという。「『少壮軍人の中には、ナポレオンのような自負心をもつ傑物がいるとのことであるが、いまだ池中のもので雲を得ず、いたずらに妖気を発散させているのは遺憾である』といった調子で、横暴な軍部を、オダテながら非難するといった論法」である。
創刊第2号では、政治を正面から取り上げて、陸軍大将・林銑十郎内閣28は「祭政一致」を呪文のように唱えて、神がかり的な政策を推進し軍部の言いなりであったが、正木は「コケオドシの低能内閣」と激しい言葉で一刀両断している。
「気の毒なる日本の古武士的将軍よ。彼の存在は初めから時代錯誤でもあった。組閣第一声のという言葉が既に孔孟時代の代物である。一層のこと、各神社の神主さん達を立候補させて与党を作った方が、よく似合ったであろう」(昭和12年5月号)とからかったり、「辞めると大抵少しは同情されるものだが、林大将ばかりは全く馬鹿者扱いにされた。やはり軍人は政治に干与すべきものではない」(同年7月号)とズバリと斬り捨てている。
国民へ強制された「滅私奉公」については「場所と時代を間違えている御奉公は、眼をつぶり自意識を滅しなければ、とても気まりが悪くって勤まるものではない」(昭和12年5月号)と皮肉り、軍部を「威張るなら威張るだけの権威を示せ。暴騰する物価を号令で止めてくれ」(同年5月号)「非常時、非常時と騒いだところが愛国心が湧くものではない。外国は悪い国だと宣伝したところが愛国心が湧くものではない。況んや国内の異色ある分子に悪名をつけて迫害したところが愛国心が湧くものではない」(同号)と批判している。
軍部大臣現役武官制をタテにして軍部は字垣一成内閣成立を阻止したが、「陛下の大命を受けた字垣に煮湯をのませ、国民の感情を蹂躙し、国務を停頓せしめ、国威を海外に失墜せしめた独善の本体は、今ぞその力の限界と、知恵の限界と、而して自己陶酔の限界とを知るべきである。日本を暗くしていた無責任なる存在よ。それに躍った分限知らずの大将共よ」(昭和12年6月号)
一番の問題の軍部大臣現役制も「現役でなければ大臣になれないような規則を作っておいて、そして機械的に権力を獲得せんとする方法は、国民の心服する方法ではない」(同号)と指弾している。
「日本人の中の特殊の人だけにしか通用しないような思想をもって、世界を征服することはむつかし過ぎはしないだろうか。況んや肉弾を以って煙に対抗するなんて、おかしくってしょうがない。支那の抗日思想にも困ったものだが、日本の無思想にも困ったものである。思想が出来かかると妙ちきりんな国体観念とやらで、国士業者達が寄ってたかって妨害してしまうので、いつも発育不全に終ってしまうのである。日本の思想を貧困にするのは国士業者である。」(昭和12年9月号)
ここではタブー化されていた国体論を暗示した「思想」、共産主義思想を「煙」とレトリックに包んで政治の貧困性と、軍隊の残虐性を突き、「日本兵が強いのは、生きていても面白いことがないからだろう」とまで揶揄したが、このためかこの号は発禁になってしまった。
「自己の路を見失った者には、『世の中』が標準となる。けれど『世の中』に忠実に従っても、『世の中』には責任者がいない。大衆の走り赴くところ、往々にして大正十二年九月一日の被服廠のようなところがある」(同月号)。
関東大震災で最も犠牲者が出たのは陸軍被服廠跡で、約三万八千人が亡くなったが、ファシズムに従順に押し流されていく国民の行く先は同じように、戦争、空襲による無惨な死しかないことを鋭く予見している。
日中戦争の戦火は拡大一方で、連日、上海事変の戦闘報道が掲載され「部隊長は塹壕に飛び込み血達磨となって切りまくり、壮烈なる戦死を遂げた。」など「血達磨」という言葉が記事に氾濫していた。
正木は「達磨は日本では玩具で、滑稽で無抵抗のシンポル。傷ついた将士を手もなく足もなく達磨にたとえ、その鮮血にまみれた状態を彷彿させるのは不謹慎である」(同10月号)と批判し、その後、新聞から「血達磨」という表現は一挙に減ったと言う。「近きより」がジャーナリズムの中で、広く読まれていた証拠である。
正木は検閲の網の目をごまかすために表現には細心の注意を払い、各種の迷彩やトリックを用いた。官憲や軍部の横暴、無知、圧迫、恥知らずを非難するに当って、ヒューマニティというかわりに、「大御心」と書き、悪虐、非人道というべきところを「不忠・不臣」と置きかえた。そのためにかなり大胆な時局評ができた。
正木が最初に出版した本は昭和5年の「志学校・選定より突破まで」(同年3月刊、木星社版、後に三成社が「志望選定五十箇条」と改題して再刊)というものだが、思想弾
圧時代のレトリックはすでに、ここで実験ずみであった。これに磨きをかけて正攻法だけではなく、一見『奴隷の言葉』の裏に比喩、暗喩、エスプリ、ジョーク、トリックとからめ手からの巧妙な表現方法を多彩に駆使したのである。
5 「近きより」の内容―昭和13年―
ただし、スタート1,2年くらいの正木の文章を順次見ていくと、正木の自由主義、民主主義的な思想、思考、見解や反軍的な批判、時流への先を見通した的確な論評ばかりではない。南京事件などで見せた正木の態度には、中国、中国人に対する抜きがたい侮蔑、逆に日本精神への思い入れ、優越心、いわゆるエスノセントイズム(民族的優越心)が随所に感じられる。奴隷の言葉、時流におもねる表現も散見され、正木の本音のニュアンスが強く、エスノセントイズムから解放されてなかったことを示している。
昭和12年12月、日本軍は南京を攻略して占領したが、昭和13年1月号「巻頭言」で、は「日本開闢以来の理想、東洋制覇の夢は、実現されようとしている。夢!まことに夢の如き事実である。日本も南京を落して見たらば東洋の盟主になっていたのである。七十年前に封建時代を卒業した日本は、今日島国的日本を卒業したのである。大陸大日本帝国の第一年が始まった。我々は今、あらゆる島国的のケチ臭い根性と、陋習から脱却し、真に世界最優秀の国民としての資格を具有しなければならない」と誇らしく書いている。
「頼まれもしないのに、英語を第一外国語として、全国の中等学校に強制までして親英の実を尽くして来た日本に対し、何という侮蔑か。英国に触れて来ると、初めて我々の血液の中の民族意識が眼を醒ます」
一九三八年(昭和13)1月16日、対中国和平交渉に行き詰まった近衛内閣は、「帝国政府は、爾後国民政府を対手とせず」と声明を発表(第一次近衛声明)、対中国和平交渉を打ち切り、以後、日中戦争はますます泥沼化を深めた。『国民政府を対手とせず』は誠に結構だが、『国民、政府を相手とせず』ということにならない用心が肝要である」(昭和13年2月号)とからかい、「日本が国際的に苦境に陥ったり、日本の進展が障げられるのは、日本人が日本の歴史を暗記していないためではない。余りに暗記し過ぎるからだ。忠君愛国が足りないためではない、宣伝が過ぎるからだ。英国のように、静かに進展して行けば、もっと早く最後の目的を達成することが出来るのだ」(同月号)
「忠君愛国を我物顔する貴族院の動脈硬化議員、某教授の著述の中の片言半句をとがめだてす。明治大帝の左の御製を繰り返し拝誦せよ、浅緑すみわたりたる大空のひろきをおのが心ともがな」(同月号)と大学への思想統制をけん制した。
1937(昭和12)年10月、国民精神総動員中央連盟結成以後、国粋主義や偏屈な排外思想が横行して国民生活の統制と干渉が本格化してきた。ダンスホール禁止、パーマネント禁止、広告用の日の丸の旗禁止などなど「まるで感化院に入れられたるが如し」と正木は歎いて、次のような巧みな比喩を駆使して批判している。
「肺臓が病魔と闘っている時には、胃腸はなるべく美味な物を沢山喰べて、血液を豊富にし、循環をよくしなければならぬ。肺が苦しんでいるのだから、胃腸まで苦しめと言うのだったら全身衰弱だ。戦線で同胞が苦闘しているのだから、内地もあらゆる娯楽を遠慮しろというのは、国家百年の長計を考えない阿世の徒だ。」(昭和13年2月号)
三月号では読者欄に、旭硝子の大塚進中尉の戦死状況報告の公文書の全文が掲載された。当時、戦死者は「天皇陛下バンザイ」と叫んでから死ぬことになっていた。「同中尉が、敵弾によって、心臓を打ち貫かれた後、天皇陛下万歳を唱えて死んだ」と書かれており、正木は国民を愚にした軍部のヤリカタを証拠をあげて暴露したのである。
「日本は天皇が機関でない如く、国民もまた機械ではない。これを動かすにはこれを動かすに足る最高の原理の発現を要す。国民精神総動員は、先ずこの最高原理の骨董化を救うことより始めよ」(昭和13年4月号)
陸軍大将・松井石根 陸軍中将・柳川平助は二・二六事件後の粛軍で一旦、予備役に回り、日中戦争後は司令官に復帰して軍功を上げたが、正木はこの点から軍部大臣現役武官制を「松井大将、柳川中将等が現役に非ずして、あの大功績を成就したのを想う時、軍部大臣を現役に限ったあの法令が、如何に非科学的なものであったかが明瞭となったであろう」(4月号)と論評した。
「(軍部の)息がかからねば、いきて行けない政治家の何と多いことよ。そしてまた実業家も。いきのかかった人間の何と鼻息の荒いことよ。『にらまれる』という言葉が、しばしばお役所の下級官吏や大会社のサラリーマンの会話に出る。この言葉が通用する限り、日本の社会は明朗にならないであろう」(同年5月号)
このように、一貫して軍部批判、軍部大臣現役制の批判のペンをとり、寸鉄人を刺す論評を続けている。
「日本の中等学校で外国語をやめることを主張するのが愛国主義者であるかの如く流行しているが、ムッソリーニが独、仏、英、何語でも自由に会話するのを知ったら、ちょっと意外に思うであろう」(昭和13年5月号)
十月号で、正木は皇軍失明勇士に感謝する法曹有志の素人絵画展を開くことを予告した。上海ではトーチカ戦が始まっており、軍は素人の新召集兵を古参兵より先にトーチカに入れた。トーチカのノゾキ穴から打ち込まれる敵弾によって、新召集兵の多くは眼をやられた。その中には美術家や画学生もいたが、突然の召集に次ぐ失明によって、絶望し、発狂者をが数多く出た。それを知った正木は戦争の悲惨を国民に広く知らせると共に、失明者に同情して慰問展覧会を思い立ったのである。
十一月号「漢口陥落33記念号」では「外国の雑誌に、蛇が豚を呑んで、苦しがっているフウシ画があった。その蛇にジャパンと書かれ、豚にチャイナと書いていた。もし日本が支那を同化することができなければ、このような結果になるであろう。いたずらに各地に新政府を樹立したところが、その勝利は一時的な桜の花のごとく散ってしまうであろう」と書いた。
6 「近きより」の内容―昭和14年―
昭和14年4月に、約一カ月間にわたって、正木は中国を旅行した。日本軍の中国人の過酷な取り扱いやその実態に触れて、そのことを書くと同時に反戦的な意識がますます強くなってきた。「近きより」の内容もその後は一層、反戦、反軍、反官的な色彩が強くなっていく。
「弱い者いじめが一番いけない。そうでなくても島国根性を清算しなければならなくなっている時代なのに、一部の人間はますます島国根性を発揮しょうとしている。貧乏人が初めて金を持ったように、権力を初めて持つ人間はそれに陶酔し易いものだ。陛下の赤子を大切に扱え、大御心に副わぬような勝手な振舞をする者は、軍人であろうと官吏であろうと不忠の臣、非国民である。官吏や軍人の古手ばかりがのさばる時ではない」(昭和14年3月号)
「『右向け左』という号令をかけられたら、如何に優秀な兵隊でも迷うであろう。親善のための戦いというのは、中々むつかしい問題だが、不可能ではない。昔マホメットは『剣かしからずんばコーランか』という題目を掲げて戦争をなし、支那の如く広い中央亜細亜を回教によって統一した。日本は今、それ以上の大仕掛な戦争をしている。『剣かしからずんば親善か』である。このコーランに比すべき親善は、コーラン以上のもの、すなわち『大御心』でなければならない。支那大陸に大御心が浸潤しなければならない。日本人の精神はコーラン以上に高められているであろうか」(昭和14年6月号)
荒木貞夫文相34は戦時態勢化強化として早起励行、勤労奉公、節約貯蓄、心身鍛錬な
ど七綱目の「国民生活綱要」を発表したのに対して、「荒木氏も畑違いの国民教育をやるより、真面目に軍隊教育に専心した方がいいのではあるまいか。今日ほど軍隊に教育を要する時代はないのだ。荒木氏よ、易を去って難につくのが日本精神ではあるまいか」(昭和14年8月号)
「実に多くの軍人が、政治的に野心をもって飛び出しては失敗して行く。なげかわしいことである」「日本の思想が本当に成熟しているならば、共産思想など何で恐れよう。しかし、もし日本の思想が幼稚で未熟ならば永久にその脅威をまぬかれることは出来ない。敵は外にあるよりは内にある」「自分の犯す不始末を蔽わんために言論に不当な圧迫を加えるものは、陛下の行政上の大権を私するもので、不忠この上ないものである」(以上、同月号)
「実に多くの軍人が、政治的に野心をもって飛び出しては失敗して行く。なげかわしいことである」「日本の思想が本当に成熟しているならば、共産思想など何で恐れよう。しかし、もし日本の思想が幼稚で未熟ならば永久にその脅威をまぬかれることは出来ない。敵は外にあるよりは内にある」「自分の犯す不始末を蔽わんために言論に不当な圧迫を加えるものは、陛下の行政上の大権を私するもので、不忠この上ないものである」(以上、同月号)
また、「軍部が国境で闘っている間に、国内の思想の水準をドンドンと高めなければならない。マゴマゴすると、三民主義に対しても負けてしまうだろう」「そうでなくてさえ国民は段々と不自由になって行くのであるから、わざわざ不自由にするようなことは慎んだ方がいい。本当に不自由になった時に、国民はそれが人為的のものであるような誤解を持ったら大変である」「物は惜しめ。精神は出来るだけ自由にせよ」「精神をヒン曲げて、強い国民の出来ようはずがない」「少女、父に向い、『お父さん、本当のことを言ってはいけないんですってね』」(同月号)とますます、切れ味鋭く、問題の本質を直接批判したり、多種多様の形で、官憲の暴政や社会の矛盾への抗議、時局批判が続けられた。
このように、正木はきわめて危険な綱渡りのごとき表現をつづけたが、「この雑誌が敗戦の日までどうして続いたかは、不思議としかいいようがない」と鶴見俊輔35は書いている。『近きより』が摘発をまぬがれたのは「おおむね『奴隷の言葉』を用い、一応表面的には天皇制を讃美し、戦争を支持するかのごとき偽装を行ない、『パラドックス』『反語』『隠喩』『直喩』(いずれも正木自身の用語による)等を縦横に駆使し、なかなかしっぽをつかまえられないようにして、実質的には痛烈な批判をつづけた」ことによるのである。
7 警視庁・憲兵隊からの呼び出し、発禁処分
それにもかかわらず、「近きより」は、新聞紙法によって、ヒンパンに発禁処分をうけ、その度に警視庁の検閲課に出頭を命じられた。
昭和14年十二月二十三日、東京憲兵隊から突然、正木に「明日朝、『近きより』で話したいことがあるから来てくれ」との電話があった。その後、長谷川如是閑翁を訪問すると「君は誰でも昔から考えていることをズバズバ書いて得意になっているが、やめた方がいい。わかり切っていることを書いて物議を起すことは、君はいいかも知れないが、君の雑誌に登場する人達が迷惑をする」と言われ、正木は冷水三斗で、返す言葉もなかった。
翌朝の十時頃に憲兵隊へ行った。正木を呼び出した若い軍曹が「近きより」(十二月号)を開き、赤い線が引いてある部分をいちいち質問をした。「軍部に反感を持っている」と思った軍曹が正木を追及したのだが、正木の説明で氷解した。
最後に軍曹は「もう注意を受けないように誓って欲しい」といった。正木は「それは出来ません」と断った。
「自分がいいと信じていることを、他人が悪いと言わないと誓うことは不可能です。私が将来貧乏はいたしませんと誓ったところが、世間が不景気になれば私は貧乏するでしょう。聖書の中にも汝等誓うことなかれといっている、私は誓う事は出来ません」
「此方では誓約書を入れて貰わないと困る」
「悪い雑誌と思うなら発行禁止してもらった方がいいんです」
結局、押し問答となり、誓約書はウニャムニャになった。
憲兵隊長が会いたいというので、翌日もう一度来ることになった。正木は持っていた翌月号のゲラを渡して、「この中でいけないところがあったら指定して欲しい」といって2ヵ所が削除された。
翌日、隊長の大尉に会うと、いきなり「やあお待たせしました、あなたの雑誌を全部読んだら趣旨に大賛成です。私にはよく解る、誓約書なんて水臭いものはいりません」ときっぱり言った。
このドサクサ時代、万一の場合、憲兵隊に十日や二十日に不法監禁されることくらいは覚悟しておかねばなるまいと正木は覚悟していただけに、一度に疑念は解け、率直に喜んだ。
このような呼び出しがひんぱんにあり、憲兵が時どき正木宅を訪問した。検閲は警視庁と憲兵隊とが二重に行なっていた。「誌面の各所に赤線をひいて、”ここが悪い″と言ったわけだが、しかし、なぜ悪いのか、その説明をきいたことは一度もなかったように記憶する」38と正木は書いている。
時代は日中戦争の泥沼化から、太平洋戦争へと坂道を急速に転がり落ち、言論の最暗黒の時代へと突入していくが、正木は命がけの勇気をふるって書き続けた。
「亡国後、数年または十数年の後に、生き残った少数の子孫によって、『近きより』の一冊、二冊が偶然の機会に、日本のどこかの防空壕の跡からでも拾い出され、『昭和の晴黒時代にも、こういう言論があったのか』ということ、またわれわれの父兄たちは、こういう悪魔の支配によって、家畜のように殺されたのか、という事実を知ってもらい、これを教訓とし、反省してくれればいいのだ」と考え、空襲下の深夜、ひそかに自らのなぐさめとしていたのである」
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