日本風狂人伝⑬ 日本最初の民主主義者・中江兆民は明治奇人の筆頭
2015/03/20
日本風狂人伝⑬
2009,7,06
日本最初の民主主義者・中江兆民は奇人の筆頭
前坂 俊之
(なかえ・ちょうみん/1847-1901、本名篤介。明治時代の自由民権思想家。土佐藩の足軽の子として生まれ、フランスへ留学。「東洋自由新聞」を創刊、西欧の民主主義を紆介。第一回総選挙に当選。衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって辞職。『一年有半』などで唯物論哲学を唱えた。
中江兆民は明治を代表する自由民権思想家だが、明治三大奇人の筆頭いわれる。数々の奇行、珍談でも知られており、『中江兆民奇行談』という本まで出ている。
兆民は酔うと、裸になるクセがあった。兆民が役人だった頃、華族令嬢と結婚することになり、花嫁が輿入れした。
ところが、兆民はすっかり酔って、出来上がっていた。兆民はイキナリ、フンドシをとって真っ裸になるや、キンタマを手で大きく広げて、「今は冬なのに、オレは一文なしで、花嫁にやるものがない。ただ一つ、ここにキンタマ火鉢があるから、これをやろう」と差し出した。
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当時の男は酔うと裸になって、ハダカ踊りをしたり、アソコの長さを、芸者に測らせたりするバカ遊びは異常なことではなく、酒の席ではよくあることだった。 もう一つ、同じような兆民先生のキンタマ話。
ある時、宴会で酔った兆民は芸者に悪ふざけして、キンタマの袋を大きく広げて、杯のようにして酒を注ぎ、飲ませて遊んだ。
芸者もさる者、「お返しをー」と女中に命じて、熱燗(あつかん)にした日本酒を、兆民のキンタマに返杯したから、たまらない。兆民は「アッチッチ」と天井まで、飛び上がった。
兆民は徹底した〝平民主義″であった。
「平民主義というのはまだ階級に未練がある。余はさらに下がって『新平民主義』である」と言い切っていた。 代議士になっても、ドテラを着て登院し、ウメボシ入りのニギリ飯を、竹の皮に包んで持ってきた。生涯、船や鉄道は三等で通した。
〝平民主義″の実践は名前に象徴されていた。兆民は「億兆の民」という意味であった。
周囲の民権論者が、勲位をありがたがっている点を「あたかも、熊公や八公が名前だけではものたらず、腕や背中にイレズミをして、″ヒゴイの八″だの〝青竜の熊″と呼ばれて青んでいるのと同じ」と切り捨てた。
兆民は、名前などどうでもよい、と自分の息子は丑(うし)の年に生まれたので、丑吉と名づけたのをはじめ、弟の虎馬に女の子が生まれると「猿吉」と名づけて、「家の中で牛や猿がさわいでうるさい」と喜んでいた。
「女の子に、猿吉とはヒドすぎる」と周囲から非難され、しぶしぶ「艶子」 にかえた。
兆民の弟子が幸徳秋水である。秋水というペンネームは兆民が与えたが、それにはエピソードがあった。
ある日、兆民が幸徳に笑っていうには、
「今朝、高利貸がきたが、彼の態度は不要領であいまいだ。しかし、彼は大変な金持ちである。処世の秘訣は、この高利貸のように、もうろうとしたところにある。君は何事にも正邪を明白にして、はなはだ、もうろうたるところを憎む。ペンネームは春霞の二字にせよ」
しかし、幸徳は、
「イヤ、先生、私は態度を明白にせず、もうろうとするのは大嫌いだ。別のペンネームにしていただきたい」と断った。 すると、兆民は大声で笑いながら、
「それでは秋水の二字をやろう。これは正に春霞の反対だ。私もこの号を用いたことがあるが、君にやろう」
幸徳が十八、九歳の時の話である。
兆民が貧乏の極にあった頃の話-。
衣服、着るものは全くなく、蔵書は生活費のために売りつくして、これまたなし。食べるものは、朝は豆腐の・カスと野菜だけであった。このドン底をみかねて、岩崎家から見舞金として大金が送り届けられたことがあった。兆民の親戚筋の一人が岩崎家に勤めており、岩崎弥太郎の弟久弥にその窮状が伝わったのである。
大金が届けられたが、兆民は辞退し、その理由を手紙にして託した。
「小生の目は自身のことに関しては、涙なき性分ですが、岩崎家の用意周到なる親切とその心をつくした勧説に対しては、不覚にも涙がこぼれました。
ただ、一面識もなき、路上の行人同様の人より贈与を受けては、君子の道において穏当ならざるところあり、よだれを流しっつ、残念やせ我慢をはって御辞退申し上げる。ただ、貧乏書生の頑固を笑うべし」
兆民の節操は金では買えなかったのである。
兆民が北海道小樽にいた時のこと。東京の友人二、三人が集まった席で、兆民の貧乏が話題となった。友人の一人が兆民に同情して、金を為替にして送ってきた。受け取った兆民はありがたいとも思わず、すぐに便所に行って、この為替を出して二度三度もみほぐしたかと思うと、尻ふき紙に代用した。
兆民は常にあおむけになって、寝ているクセがあった。来訪者がくると、枕を二つ持ってきて「僕も横になるから、君もそうしたまえ」と言って、一つを差し出した。「今日は別にご馳走すべきものがない。これが君へのご馳走だ」と言って、ゴロッとあおむけに寝て、平気ですましていた。
兆民は直情径行の人でもあった。人をあざむくことが出来ないと同時に、己をもあざむくことが出来ない、純真な性格であった。
ある時、頭山満の家で知人の竹内正志に会った。竹内がその無沙汰をわび、「近日おうかがいしたいと思っている」とあいさつすると兆民は「俺は貴様に用はない。来るにおよばん」とはねつけた。
兆民は単刀直入に思うところをズバリと言った。
ある時、兆民の親友が亡くなった。兆民はすぐ黒水引と白紙一枚をフトコロにして、友人宅にかけつけた。友人の未亡人にていねいに弔辞を述べたあと、兆民は「少々お願いいしたいことがありますので、別室に案内願います」と申し出た。
未亡人が別室に導くと、兆民は至急、金が必要なので、申し訳ないが金二両を貸して下さい」と切り出した。未亡人は場所柄もわきまえず、全く無礼な人と内心、立腹しながらも、半面、夫から〝稀代の奇人〃とも聞いていたので、思い直して、二両を貸した。
すると、兆民は「相すまぬ」と別室に行き、フトコロから黒水引と白紙を出して、二両をその中に包み、霊前に進み、香典として差し出した。
一八九〇(明治二十三)年の第一回総選挙の時、兆民は全く選挙運動をせず、費用は一切使わず、ゆうゆう当選して代議士となった。
国会に行くと、政党同士の愚劣な足の引っぼりあいに、「こんな連中とは、口をきくのもイヤだ」と早々に愛想をつかした。
三日目に「アルコール中毒のため、評決の議に加われかね候」と辞職届を提出した。わずか三日間で代議士をやめたのは、後にも先にも兆民一人であった。
五十五歳の時、兆民はガンと診断され、医者から「余命は一年半、せいぜい二年」と宣告された。兆民は呼吸もできないほどの苦痛にさいなまれ、夜も眠れなかったが、絶望しなかった。
「一年半、諸君は短促なりといわん。余は極めて悠久なりという。もし、短といわんと欲せば十年も短なり、百年も短なり」と。
兆民は『一年有半』を一冊の本ももたず、記憶だけで毎日、書き続け、これに命をかけた。貧乏の極にあった兆民の家には、すでに書物は売り払われ、一冊もなかったのである。
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