日本リーダーパワー史⑫ 東條英機が総理大臣になった理由と経過とは・・日米開戦へ
日本史を変えた大事件前夜・組閣前夜の東條英機
前坂俊之
(静岡県立大学名誉教授)
対米交渉が行き詰まった昭和十六年、御前会議は対米開戦を決意する。開戦を渋る近衛文麿首相に対し、東條英機陸相は大陸撤兵の断固反対を主張して譲らない。窮余の一策だった東久邇宮擁立も失敗に終わり、近衛内閣は崩壊する。
後継首相に指名された開戦論者・東條は一転、御前会議の白紙撤回、開戦回避を画すが、和平への道はあえなく閉ざされ、日本は開戦への道を転がっていく。真珠湾攻撃の前日、戦争準備を終えた東條は、一人寝床で涙にくれていた。
後継首相に指名された開戦論者・東條は一転、御前会議の白紙撤回、開戦回避を画すが、和平への道はあえなく閉ざされ、日本は開戦への道を転がっていく。真珠湾攻撃の前日、戦争準備を終えた東條は、一人寝床で涙にくれていた。
① 万策尽きた近衛内閣

昭和十六年(一九四一)九月六日の第三次近衛内閣の御前会議で、「日本は自存自衛のため、十月下旬をメドに、戦争準備を完整する。十月上旬に至っても外交交渉のメドが立たない場合は開戦を決意する」との方針を決めた。
この二ヵ月前には米国は在米の日本資産を凍結し、石油禁輸を断行。これに対して日本軍は英米戦を辞せずと強硬方針のもとに南部仏印(ベトナム)へ上陸を強行し、アメリカ、イギリス・オランダは対抗措置として「ABCD包囲網」をしき、対決は一触即発の危機にエスカレートしていた。
何とか日米外交を打開したい近衛文麿首相はルーズベルト米大統領への首脳会談を申し込んでいたが、米側は「中国からの撤退」も要求し開催の見込みはなかった。石油の輸入途絶がこのままつづけばあと一年で底を尽く状態となった。
「戦争か、外交か‥」
行き詰った近衛文麿首相は十月十二日、荻窪の私邸に豊田貞次郎外相、東條英機陸相、及川古志郎海相を招き、荻外荘会談を開いた。戦争に反対の及川海相は、和戦の決を総理に一任する態度を示したが、肝心の近衛は「戦争は私には自信がない。自信のある人にやってもらいたい」と発言した。「戦争に自信がないとは何ですか。御前会議の決定変更はできない」と東條は怒り、話し合いは決裂。責任の押しっけが始まった。
十月十四日、定例閣議の直前、近衛は再度念押ししたが、東條は「撤兵は絶対にしない」と答え、「人間、たまには清水の舞台から目をつむって飛び降りることも必要だ」と優柔不断な態度に終始する近衛を皮肉った。
閣議でも東條は「撤兵問題は心臓だ。……米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果が壊滅する。満州国をも危くする」と断固反対を主張。「御前会議(九月六日)の決定をくつがえすためには、総辞職して宮様の東久邇宮稔彦内閣を作るしかない」とその夜、使者を立てて近衛に伝言した。
十六日朝、近衛は「自ら総辞職し、東久邇内閣へバトンタッチする」と木戸幸一内大臣、天皇に打診するが、木戸から「戦争になったとき皇族に責任を負わせることになり、結果によっては皇室が国民の怨府となる恐れがある」と一蹴され、近衛は万策尽き果てて、夕方、政権を投げ出した。
② 組閣の大命下る
東條は自分が後継首班になるとは予想だにしなかった。近衛内閣を倒した責任者は自分であり、政府と統帥部がすでに決定した御前会議の「帝国国策遂行要領」を、統帥部の強い反対を押し切って変更するには皇族内閣しかない、と東久邇宮を強く推薦していたからだ。
この日、大命降下など思いもおよばず、東條は陸相官邸で辞職の後始末や、書類整理などをして、玉川用賀町の私宅への引越し作業をはじめていた。
「前夜、自分に大命が下るという情報は東條にも入っていたが、本人は全く信じていなかった」と東條の側近の佐藤賢了(当時、陸軍省軍務課長)は証言している。
十七日朝から引越し準備をしていると、午後、杉山元参謀総長と懇談中の東條に宮中からお召しがあった。天皇から叱責されるな、と思った東條は総辞職の原因となった陸軍の資料を整えて参内した。
木戸内大臣が「今日は御椅子を賜わりません」と事前に知らせた。普通・天皇に拝謁した後は、椅子を勧められさらに詳しい話をするのが通例となっており、これは叱責に間違いないと、悲痛な覚悟で天皇の前に進み出ると、思いがけず組閣の大命が下った。「突然組閣ノ大命ヲ拝シ、全ク予期セサリシ処二シテ茫然タリ」(東条日記」)
天皇は「しばらく及川海相も呼んであるので、木戸と三人でよく相談して組閣したらよい」と言葉をかけた。東條は足がふるえて何が何だかわからなくなった。
木戸内大臣からは「九月六日の御前会議の決定を白紙に戻すように……」との天皇の意思も告げられた。陸相官邸に戻った東條は依然としてふるえっづけ、頬を休みなくけいれんさせていた、という。
十七日夕刻、組閣の大命は東條陸相に降下し、翌十八日東條内閣が成立したの。
③ 東條首相誕生の裏
『昭和天皇独自録』で昭和天皇は、「九月六日の御前会議の内容を知った者でなければならぬし、陸軍を抑え得る力のある者であることを必要とした。会議の内容は極秘となっているから、内容を知った者と云へば、会議に出席した者の中から選ばねばならぬ。
東條、及川海相、豊田外相(海軍)が候補に上ったが海軍は首相出す事に絶対反対だったので、東條が首相に選ばれる事になった。よく陸軍部内の人心を把握したのでこの男ならば、組閣の際に、条件さへ付けて置けば、陸軍を抑へて順調に事を運んで行くだろうと思った」と経緯を述べている。
東條は陸軍部内の人心をよく把握しており、陸軍大臣時代には信賞必罰の英断を示した。強硬な陸軍を押さえられるのは東條しかいない。天皇への忠誠心でも東條以上の軍人はいないし、天皇の「御前会議の決定を白紙還元せよ」という聖慮を実行できるのも彼しかいない。
天皇、木戸とも東條を高く評価しており、天皇が「虎穴にいらずんば、虎児を得ずだね」と木戸に漏らしたのも、東健への厚い信頼からであった。
しかし、東條にはまさに晴天の霹靂であった。わずかの距離の宮中から一時間以上たってやっと官邸に帰ってきた東條は「神様に相談してきた」と明治神宮、靖国神社、東郷神社まで参拝してきた、ことを側近に告げた。不安と緊張に震えていた。
東條首班は天皇、木戸にとって毒をもって毒を制する、ギリギリの選沢だったのである。忠誠一途な東條なら御前会議の白紙還元を真剣に受け止め、開戦回避に努力するだろうという甘い思惑はすぐはずれた。東久邇宮は驚いて、「日米開戦論者の東條をなぜ推薦したのか」と日記で疑問を呈している。米側も陸軍最強硬論の東條内閣の出現したことに戦争必至体制をとる結果となったの。
こうして開戦内閣は誕生したのである。
東條は組閣に当たって海相に、外交を主張していた豊田、及川を拒否して、三番手で何も知らない嶋田繁太郎大将を選んだ。東條内閣の主な顔ぶれは、内相・陸相は東條が兼任、外相兼拓相は東郷茂徳、蔵相は賀屋興宣、商工相は岸信介、書記官長は星野直樹である。
④ 首相官邸の号泣
総理となった”カミソリ東條”は、天皇の指示を忠実に実行し、今度は開戦派から和平派に立場を変えて日米和平の可能性を探り始めた。九月六日の御前会議をいったん白紙還元して見直す作業を行い、連日、寝る時間もけずって連絡会議を開催して開戦回避の方途を探った。
しかし、客観情勢に変化があったわけではなく、石油禁輸によって生命線の石油は一日一日と減って底をついており、座して(戦わずして)死を待つよりも万に一つの勝利を期待して、戦った方がよいとの方向に大勢をは流れて行った。
十一月二日夜、東條首相は天皇に再検討の結果、御前会議の決定は白紙撤回できず、同じ結論になりましたとを泣きながら報告した。
「ジリ貧をさけようとして、ドカ貧にならぬように注意すべきだ」との米内光政元首相などの警告も届かなかった。
天皇も、いざここまで来て戦いを避けると、世論が憤激して陸軍強硬派が暴発してクーデターを起こして国内は内戦になるのではないか、との危機感に沈黙する。天皇も、政府も、海軍、外交当局者も開戦回避を願いながら断固として、命がけで阻止する勇気を持たず、大勢に順応して、様子見を決め込んで現実に追従し、ここまでくればやむを得ない、と状況に押し流されていく総無責任体制になったのである。
天皇も、いざここまで来て戦いを避けると、世論が憤激して陸軍強硬派が暴発してクーデターを起こして国内は内戦になるのではないか、との危機感に沈黙する。天皇も、政府も、海軍、外交当局者も開戦回避を願いながら断固として、命がけで阻止する勇気を持たず、大勢に順応して、様子見を決め込んで現実に追従し、ここまでくればやむを得ない、と状況に押し流されていく総無責任体制になったのである。
十一月二十七日、「ハル・ノート」によって米国の強硬姿勢が示された。
① 本軍の中国、仏印よりの撤退
② 満州国、国民政府の否認
③ 日独伊三国同盟からの脱退 -がなければ日米交渉には応じないという最後通告的な内容で、これを見た東條は興奮状態で、「もう戦争以外にない」と口走った。
開戦に百パーセント固まった瞬間でである。
開戦に百パーセント固まった瞬間でである。
十二月八日、真珠湾奇襲攻撃で日米戦争は火を噴くが、その前日の七日未明、首相官邸の寝室から東條の号泣が聞こえた。驚いた妻のカツと三女が部屋をのぞくと、東條は皇居に向かいフトンに正座してただ一人で泣いており、それがだんだん号泣に近くなっていく様子を目撃したという(保阪正康著『昭和陸軍の研究』上巻・朝日新聞社一九九九年十一月刊)。
透徹した世界観、長期ビジョンは全くなく、目先の事務能力にたけただけ。カミソリ、能吏、軍人官僚の典型といわれた東條は、これこそ日本型の秀才官僚、能吏の典型的な人物だが、その結果のゆきつく先の敗北という暗い予感に恐れおののいたのである。
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