『リーダーシップの日本近現代史』(118)/記事再録☆『日本の歴代宰相で最強の総理大臣、外交家は一体誰でしょうか ?!』★『 (答え)英語の達人だった初代総理大臣・伊藤博文です』★『●明治4年12月、岩倉使節団が米国・サンフランシスコを訪問した際、レセプションで31歳の伊藤博文(同団副使)が英語でスピーチを行なった。これが日本人による公式の場での初英語スピーチ。「日の丸演説」と絶賛された』★『「数百年来の封建制度は、一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、一年で撤廃されました。このような大改革を、世界の歴史で、いずれの国が戦争なくして成し遂げたでしょうか。』
前坂 俊之(ジャーナリスト)
伊藤博文 (天保十二年~明治四二年) 政治家。山口県萩に生まれ、松下村塾に学び、文久三年に井上馨らと密に渡英、討幕運動に奔走。大久保利通の死後、内務卿となる。明治十四年の政変で大隈重信を追放し、最高指導者となる。華族制度、内閣制度、大日本国憲法、皇室典範、枢密院などを定め、初代総理大臣となり、第四次まで内閣を組閣、枢密院議長など歴任。ハルビン駅頭で安重根に暗殺された。
●明治国家を作ったのは伊藤博文ですね。
初代総理大臣 となり、ドイツに学んで帝国憲法を作り、アジア各国が軒並みヨーロッパの植民地にされている危機的な状況の中で、東洋の1小国の日本がわずか40年でロシア帝国と戦争して勝って西洋列強と肩をならべるまでに、明治国家を建設し指導した伊藤の功績は忘れてはなりませんね。貧乏百姓の子から総理大臣、初代枢密院議長、朝鮮総督、明治の元老となるなど、豊臣秀吉以来の日本一の出世男なんだよね、ホントの話(笑)。
● その出世の第一の秘密は何と思いますか?!『英語力』なんですね。
一八八五年(明治十八)十二月、伊藤は初代総理大臣になったが、その時の総理の条件は「英語力」であった 。誰を総理にするか参議たちが集まり選考会議が開かれた。徳川時代からの長年の身分、階級社会が打破されたとはいえ平家の名門・藤原一族の三条実美が自分が指名されるものという顔で上座にいる。
伊藤といえば武士になったのは維新で直前で、最も低い身分の貧農出身。門閥を恐れて誰も発言しない中で、井上馨が恐る恐る「これからの総理は赤電報(外国電報のこと)が読めない者ではだめじゃ」と口火を切り、山県有朋が「そうすると、伊藤君より他にはいないではないか」と賛成した。他の参議も反対せずにあっさり決まった。
伊藤はそれまで英国・ロンドンに半年間滞在しただけで、英語力と言っても度胸英語と言った方が近い。それでも天皇が外国大使と会見する時は、必ず伊藤が通訳をしており、岩倉大使一行の欧米巡視にも同行するなど、英語力はメキメキ上達し、明治政府きっての英語使いとの評判だったんですよ。
●明治4年12月、岩倉使節団が米国・サンフランシスコを訪問した際、レセプションで31歳の伊藤博文(同団副使)が英語でスピーチを行なった。これが日本人による公式の場での初英語スピーチ。「日の丸演説」と絶賛された。
「数百年来の封建制度は、一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、一年で撤廃されました。このような大改革を、世界の歴史で、いずれの国が戦争なくして成し遂げたでしょうか。今日、わが日本の政府、国民の熱望していることは、欧米文明の最高点に達することであります。このために、陸海軍、教育の制度で欧米の方式を採用しており、文明の知識は滔々と流入しつつあります」まさに新生日本を象徴する若々しい、情熱のこもったスピーチに万雷の拍手が起こったといわれます。
●英語の達人の伊藤は欧化主義の積極的な推進者として、鹿鳴館に入れ込んだ。鹿鳴館では内外の大臣、紳士淑女が集まり、衣裳を凝らし仮装舞踏会が催された。第一次伊藤内閣の時には連日連夜、舞踏会や夜会を自ら主催し
「舞踏内閣」
と悪口を叩かれた。伊藤は無類の女好きで夜の部では、こうした舞踏会を利用して片っ端から女を口説いた。伊藤の好色ぶりが有名になったのは鹿鳴館スキャンダルなんだね。
明治二十年四月に首相官邸で主催した派手な大仮装パーティーでは社交界で評判の美人であった戸田氏共伯爵夫人との関係がウワサとなった。
戸田氏共伯は旧大垣藩主で極子夫人は岩倉具定の妹、当時社交界のナンバーワンで、外人も争ってダンスの相手となろうとしたほどの美人だったんです。伊藤は共伯爵夫人を裏庭の茂みに誘い込んで、乱暴して、いかがわしい振る舞いに及んだとか、夫人が裸足で逃げだしたとか新聞がおもしろおかしく書き立てた。このあと、戸田が全権公使に推挙されると、世論は博文にごうごうたる非難をあびせた。
『英雄、色を好む』
ではないが、総理大臣が女性スキャンダルで失脚した例は洋の東西を問わず多いが、伊藤こそ日本の歴代総理大臣の中ではダントツのスケベー人間じゃ。
女たらし、好色漢、色豪ぶりは有名で、本人も一切隠し立てせず、アッケラカンとしていた、そこが伊藤のエライトコでもあるが、ある時、明治天皇が心配して「少し、慎んではどうか」と言うと、「とやかく申す連中には、ひそかに女を囲っておる者もいますが、博文は公認の芸者を公然と遊ぶまでのことです」とケロリと答えた、という。
『博文の行くところ、必ず女あり」
といわれたほど、全国行く先々で女がいた。
日露戦争直後のこと。政商の藤田組・藤田伝三郎が伊藤の助力を得たいと大阪の売れっ子芸者小吉(後の新橋『田中家』女将)に、小遣い百円(今だと百万以上)を与えて、 「これをお届けしてくれ」と水引きのついた大きな箱を持たせ築地の料亭に行かせた。さっそく現れた博文は、「お前は中身を知って持ってきたのか」とたずねたが、箱の中には大きなノシに入っており、「この使いの者四、五日お留置きください」という口上書きがあった。
美女という生きた人形と多額の献金で、藤田伝三郎は明治の終わりに男爵になった。伊藤は酒と宴会と女が大好きだった。特に若い時は酒も好んで
深夜まで1人で飲んでいた事があったが、これは暗殺よけでもあった。次々に政府要人が暗殺された恐怖時代には、必ず午前三時ごろまで酒を飲んでは当たりに気を配り、やっと午前3時が過ぎてから寝ていたと言う。
● 生涯、金や派閥にはアッサリしていた伊藤だが、女だけには目が無く、宴会では新橋の芸者たちを何人もはべらせて、寝るときも、ふとんの両側に若い娘を寝かせて遊んでいた。最期まで毎夜のように女を抱いていた
“絶倫男”
だった。
『新橋三代記』を書いた新橋芸者「つや栄」の証言によると、伊藤の女好みはいきあたりばったりで、何でも手当り次第につまみ食いをしたと絶倫ぶりであったという。このため、イカものに手をやいたこともあった。
新橋の梅勇という売れない芸者と一度だけ遊んで、後はかえりみなかった。鉄火でアネゴ肌の梅勇は腹を立てて、ある時、、伊藤のところへ行き、「御前、お酌を!」とからんだ。その権幕に驚いた博文が、「酔っとるな」というと、「御前にお聞したいことがございます。好きで手をつけたんですか、それともからかったんですか」と梅勇がからんだ。「どうでもええじゃないか」と博文は白をきったが、それからも梅勇は、博文の席に出ると必ずクダをまいた。博文は「梅勇のくる席へはいかぬ」と音をあげた。梅勇は博文を手こずらせた芸者として、一躍一流芸者の仲間入りをした。
●伊藤は、芸者を神奈川県大磯にあった自宅の槍浪閣に二人も呼んで夜伽をさせた。「田中家」の女将・千穂によると、槍浪閣へは、大阪の芸者で文公という女とよく一緒にいった。その文公と二人で夜は交代おつとめをした、という。「今夜、お前はさがってよい」といわれると、隣室で休む。そのうち、博文の枕元の鈴がチリリーンと鳴る。用が終わったからお前もそばへこいという鈴であった。
●伊藤は日露戦争の終結した直後の明治三十八年に初代の朝鮮総督となり、韓国併合の基礎をつくった。博文はこの功績で公爵になったが、韓国人の恨みを一身に浴びて、ハルピン駅頭で暗殺されてしまう。
暗殺の原因となった朝鮮総督就任については、「新橋芸者の『秀松』が指名した」という、伊藤らしいエピソードが残っている。
川村徳太郎の『新橋を語る』によると、日露戦争直後、桂太郎首相は、初代朝鮮総督を誰にするかで苦心した。桂の腹案では伊藤を初代総督にすることだったが、山県その他の元老の手前、ストレートに言えなかった。初代総理、枢密院初代議長と、何でも伊藤が初物ぐいといわれる中で、他の元老連中も内心苦々しく思っていることを察していたので余計に口には出せなかった。
元老たちを集めた宴会で、桂も黙ったままでしばらく沈黙が続いた。芸者・秀松が、伊藤の前でコックリコックリしていると、「こらっ、秀松、貴様居眠りしおったな、無礼者!」伊藤が一喝した。一座の空気がにわかにほぐれ、一喝された秀松も負けてはいない。
「あんまり皆さんが黙っていらっしやるので眠くもなります。何がそんなにむずかしいのですか」といった。「朝鮮へいく親方をきめるのじゃ」と伊藤がいうと、「そんなことなんでもないじゃございませんか。伊藤の御前がいらっしやるのが、一番よいではございませぬか」
秀松がいうと、井上も「そうじや、伊藤さんがいい。秀松の指名じゃ、引受けなされ」といい、全体の流れが決まった。こ博文は朝鮮総監を引受けることになったという。
『伊藤博文直話』
の中で、「自分は、立派な家に住みたいとの考えもないし、巨万の財産を貯えたいという望みもない。ただ公務の余暇に芸者を相手にするのが何よりのたのしみだ」と書いている。「自分は生来欲が少なく貯蓄など毛頭考えない。子孫に美田を残すことも悪いことではないが、たいていは『長者三代』でつぶれる場合が多い。しかも、子孫の独立心を失わせ、放蕩癖を残すことになる。たかだか一万や二万のはした金は子孫の考えでどうにでもなるものだ。人にケチといわれてまで貯蓄する必要はない」
●明治四十二年十月二十六日朝、ハルビン駅頭で伊藤博文は韓国人安重根に狙撃されて、六十九年の生涯をとじた。死後残されたものは、尾崎行雄がその安普請にあきれた「槍浪閥」とわずかな刀剣だけだった。元老の井上馨が千三百万円、松方正義が八百万円もの遺産を残したのに比べると、ゼロに等しく「スケェベー人間・博文」の清廉さを表わしている。
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