日本リーダーパワー史 (21) 中国建国60周年のルーツ・中国革命の生みの親・宮崎滔天にこそ学べ①
日本リーダーパワー史 (21)
中国建国60周年のルーツ・中国革命の生みの親・宮崎滔天に学べ①
前坂 俊之
(フリーライター)
10月1日は中国建国60周年の記念日である。毛沢東の中国旧共産党の革命が成功して1949年10月に中国建国して以来、60年で今や、米国を射程距離にとらえた世界第2の経済大国に躍り出た。今世紀は間違いなく『中国の世紀』となる。
その中国革命のスタートになったのは孫文による『辛亥革命で』あり、日本に亡命してきた孫文を献身的に支え、応援してともに革命に立ち上がったのは宮崎滔天である。宮崎なければ現在の中国なかったのではないか、それは言い過ぎかもしれないが、今後の両国の力が逆転しつつある現在、切っても切れない「日中関係」を考えていく上にも、宮崎の<大アジア精神>をしっかり振り返る必要があるんじゃよ
●志を抱いた浪人
生涯一度たりとも職らしい職につくことなく(フリーターよ)革命家として、孫文(1866-1922)の辛亥革命(1911=明治44年)の成就を助けた宮崎滔天は四十四歳の時、自らの半生を振り返ってこう記している。

いささか、韜晦(とうかい)した言い回しだが、五十二歳で亡くなるまで滔天は浪人に終始し、中国革命のために奔走し、途中で革命の資金稼ぎと同志を募るために浪曲師となったが、志行を貫き通した。
任侠に生き、革命浪人を自負した滔天は自身を乞食生活と自嘲気味に書いたのである。
● しかし、乞食(こじき)にも種類がある。天下の大豪傑じゃ
滔天流の乞食哲学にしたがえば、世の中にゴロゴロいる、単に食えないためにする乞食は「一般的乞食」であり、これは論ずるに値しない。
彼のように「志」を抱いて、天下のため、人々のために何ごとかを成さんとして、友人、知己、知り合いに寄食するのが本物の浪人のことであり、「高等乞食」と称していた。

極度の貧乏に追われる浪人暮らしに耐えながら、中国革命成就のために全て投げうって孫文を助け、ついに革命は成功する。孫文は中華民国誕生の「国父」とたたえられているが、孫文が中国革命の父とするなら、滔天はその生みの親とも言うべき存在である。
宮崎滔天は一八七〇年(明治三)十二月、熊本県玉名郡荒尾村(現・荒尾市)で、村一番の名家・宮崎長蔵の十一人兄姉(八男三女)の末っ子として生まれた。名を寅蔵という。通称・滔天はその後「白浪庵滔天」と自らつけた雅号からきている。
二天一流の剣道家として知られた父・長蔵は幼少期、滔天の頭を毎日なでながら、「豪傑になれ、大将になれ」と繰り返した。「金銀、お金に手を触れるのは、いやしい行為だ」と教えた。貧者には「施せ」という家訓を残した。
母も「畳の上で死ぬのは男子の恥だ」と諭した。
周囲の人々はみな「西南戦争の指導者の一人として戦死した長兄・八郎のようになれ」と口を揃えた。このため物心もつかぬうちから、滔天は官のつく人間は泥棒か悪人で、賊軍とか謀叛(革命)は大将や豪傑が行なうものとの考えを叩き込まれた。
●この宮崎家は“明治の奇跡”ともいわれる「自由民権一家」である。
長男の八郎は明治三年に上京し、新政府の専制政治に怒りを感じ、中江兆民訳「民約論」に感激して、植木学校を作るなど自由民権運動にのめり込んだ。
「九州のルソー」に例えられた人物で、明治政府を激しく批判し、西南の役では西郷軍に身を投じた。
陣中に中江兆民が訪れ「西郷は自由民権主義ではない、一考せよ」と忠告したが、「西郷に天下をとらせて、そのあとまた叛反を起こす」と答え二十七歳で戦死した。滔天が八歳のときである。
兄八郎の生き方に凝縮された自由民権の思想、官職を拒否して革命を企てる豪傑、大将になること、畳の上で死ぬな、という宮崎家の哲学が滔天を革命家一筋の道を歩ませていくことになる。
滔天の兄姉は夭折したものが多かったが、残った二姉二兄のうち、上の兄・民蔵は十五歳で地主制度による小作人の貧窮に心を痛め、自由民権と同時に土地という不平等を解消すること、天から与えたれた土地は人類の基本的な人権の一つではないかと考えるようになった。
社会主義的な思想の先駆けだが、土地の平等な配分、土地問題を志して「土地復権会」を組織、明治三十年から四年間、同志を求めて欧米各国にも遊説して回った。英国では社民党のハイドマン、自由党のロイド・ジョ―ジ、米国では社会労働党のドゥ・レオンらに会い識者の意見を聞いた。
下の兄・弥蔵はまず中国に革命を起こすことによって西欧列強の植民地支配からアジアを開放していくことを念願し「革命的なアジア主義」を唱えて奔走した。有名な「自由民権の三兄弟」である。滔天は弥蔵からも大きな影響を受けた。
●すごいぜ!大アジア会議の「四ツ山会談」

結論は二つに分かれた。貧しい人たちを救い、アジアを救うためには、まず「中国革命を実現しアジアの革新へつげるしかない」という弥蔵やそれに共鳴する滔天に対して、民蔵らは「中国革命など不可能。日本を改革するためには、まず土地改革をやらねばならない。土地は人間が私すべきものではない。人民に土地を均等に分けるべき」と主張した。
この「四ツ山会談」以後、宮崎三兄弟はそれぞれの思想の実現、成就に邁進した。民蔵は土地改革運動で米国、英国などを回って「土地復権同志会」を組織し、土地均分論を唱え、弥蔵、滔天は中国革命運動の実践に入った。
二人は手分けして、弥蔵は中国語を覚えるために、横浜にあった中国人商館のボーイになり、滔天はタイへ移民二十人を連れていって開墾して、革命の資金作りを行うことになった。
幕末、維新の志士たちと共通する明治の青年の直情径行さ、アジア、中国大陸への熱い思い、無私なる行動は驚くべきものがあるが、その奇跡ともいうべき存在が「宮崎三兄弟」であった。
●貧乏どん底の革命支援
一八九五年(明治二十八)末、移民団を率いてタイに渡った滔天は約二年間、悪戦苦闘するがうまくいかず、コレラにかかって医者から死の宣告を受けた。
同志が集まり、「死んでから告別式をやるんじゃなく、生きているうちに永別の宴をやろう」と滔天の病床を囲み、ビールを飲み、詩や歌を朗々と吟じ始めた。
やせ細り、青白い顔の滔天が病床から身を起こし、「同志諸君、これが最後だ。今生の名残りに好きなビールを飲みたい」といい、コップに並並とつがれたビールを一気に飲みほした。
「これで成仏できる」と満足そうに滔天はまた横になったが、そのうち顔に赤みがさし、血の気がよみがえってきた。「元気が出てきた。ビールは起死回生の妙薬じゃ。もう一杯」と滔天はさらに続けて飲むと、いっそう元気になり、死ぬはずが生き返った。
まるでウソのような話だが、滔天は九死に一生をえて帰国する。
一方、弥蔵は病弱な体をおして中国革命を達成するには中国人になりきらねば、と頭をそって弁髪し中国服を着て中国名「管仲甫」とに改めて、横浜中華街の中国人商館に入って活動していたが、一八九六年(明治二十九)七月に二十七歳で急死した。危篤の報に滔天が駈けつけた時にはすでに死亡していた。弥蔵の遺書には和歌一首だけがしたためられていた。
「大丈夫の真心こめし梓弓、放たで死することのくやしさ」
志途中で死ぬ悔しさを歌っているが、滔天はこの兄の中国革命への志を何倍にもして引き継いでいく。弥蔵が接触していた中国革命家・陳少白を探し出した滔天は「兄と私は同じ考えです。まず中国で革命を達成し、日本でも革命を起こし中国を拠点にアジア、世界を解放するのが、私の願いです」と述べて互いに手を携えていくことを誓った。
●孫文とは何者じゃ
ところで、孫文は中国・広東の出身で十二歳でハワイに渡り、ホノルル高校を卒業後、香港で医学を学びマカオで医者を開業した。清朝の圧制による人民の貧困に憤り、革命運動に身を投じ、革命組織「興中会」を結成した。日清戦争後、広州で最初の挙兵を行ったが失敗し、アメリカ、英国に亡命したが、ロンドンで中国公使館に監禁され、二週間後にやっと救出された。
その時の模様を「Kidnappedin London」(ロンドン被難記)と題して出版し、ヨーロッパや日本など各国版に翻訳され、一躍、革命家・孫文の名が世界中に知れ渡った。明治三〇年八月、ロンドンを離れた孫文は革命の拠点を密に日本に移した。
その頃、滔天は知遇を得た犬養毅から外務省の支那秘密結社の調査員を紹介され滔天、平山周の二人は中国にわたった。そこで孫文が横浜の隠れ家にいるという情報を聞いていて、帰国した滔天は、孫文に会いに行った。
(つづく)
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