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『リーダーシップの日本近現代史』(109)/ 記事再録☆『伊藤博文②暗殺された時のヨーロッパ、中国各紙の追悼記事は・・・』★『<英タイムズなど追悼文で歴史に残る政治家と絶賛>』

   

 

   日本リーダーパワー史(105)記事再録
伊藤博文②暗殺された時のヨーロッパ、中国各紙の追悼記事
<英タイムズなどの追悼文で歴史に残る政治家と絶賛>
 
    前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 19091026日、ドイツ『フランクフルター・ツアイトゥング』夕刊
(ヴォルフ通信)
 
伊藤公爵の暗殺
 
伊藤公爵がハルビンで1人の朝鮮人に暗殺された。このニュースに含まれた言葉はごくわずかだが,1人の狂信者の重大な内容を持つ行為を伝えている。
彼は明らかに全世界に向けて,勝ち誇る日本人に対する彼の民族の憎しみを,血なまぐさい形で表現したのであり,「日出ずる国」を真昼の高みへと導いた人物を殺害したのだ。
 
自由を奪われた朝鮮人と,その自由を奪った日本人との対立は,非常に和解しがたく,勝ち誇る征服者に対する被征服者の感情は・非常に敵対的だったので,自分の民族のために復讐することを自ら任じたその朝鮮人の行為は,非常に忌まわしいものではあるが,それでもほぼ理解できるものに思える。
 
なぜならその行為は,外見上の穏やかさにもかかわらず個々には常に興奮状態にある極東の政治的混乱を,現実的な形で際立たせたからだ。亡くなった伊藤公爵は,すべての日本人から最も立派な人物と見なされていたが,ごく最近中国と結ばれた条約を一層緊密なものにするという政府の秘密任務を帯びて,祖国に奉仕するために満州を旅行していた。
 
伊藤公爵の暗殺は,すべての同じように憎まれているヨーロッパ人の不利になり,アジアの真の支配者だけの恒常的な利益になるのは確かだ。彼を政治の場から暴力によって遠ざけても,日本がほんの数年前に生死をかけた戦いで確保した大陸への一層の進出を妨げることにはならないだろうし,単に足止めするだけだろう。
 
その最大の息子の突然の逝去に対する日本国民の悲しみはまだ非常に激しいものだろう。そして常に全体の幸福に市民としての最大の誇りを求め、また見出している日本人は,ただ2つの機知に富んだ目が閉じられ,1つの勇敢な心臓が鼓動を止めたことを決して忘れないだろう。
もしかすると,その行為は警告として働いたかもしれない。こうしてその狂信者は自分の祖国に間違ったやり方で尽くし,今やそのために命を失わなければならないのだ。
 
最大の日本の政治家,この名誉ある別称を伊藤公爵はすでに生前に身につけていたが,たとえ歴史が彼とその時代に批判的で冷静な判断を下そうとも,この別称は彼のもとにとどまるだろう。彼はその生涯にわたり,日本の内政と外交の見えない糸を操らなければならなかった。
彼は,責任ある大臣として公の立場に立つことはごくまれだったが,常に最高の責任感に満ちており,「近代日本」に貢献しようとしてきた。彼は,その国家のモデルをヨーロッパに見出し,日本でそれを実現するために自分の全生涯をささげた。彼は1863年に21歳の青年として,他の4人の日本人青年とともに,イギリスで初めてヨーロッパの文化に接した。それは彼を強力にとらえたに違いない。その強力な力は,ヨヤロッパ人自身がその不完全さをよく知っているのは確かだが,若いアジア人たちを,祖国がこの強力な力の恵みをできるだけ早く手に入れられるようにという,熱狂的な切望で満たしたに違いない。
 
おそらくそのために,彼は,すでにその当時,自分の領主を説得して下関海峡をヨーロッパ船に開放させようと試みたのだろう。これはもちろん失敗した。イギリスとその同盟諸国の軍艦による砲撃があって初めて,自由な通行を強要することができたからだ。イギリスへの最初の旅行の後は,合衆国を訪問するためにアメリカに,そしてヨーロッパに,一層徹底的な調査旅行を行った。ヨーロッパでは,彼はドイツに最も長く滞在した。そして,彼はここで特にプロシア憲法を綿密に研究したが,これは彼にとり日本に憲法を導入する際に手本として役立つことになった。
 
1871年と1881年のそれぞれ1年以上にわたった旅行の間は,当時は一介の貴族に過ぎなかった伊藤は.日本で国家官僚として自分の理念の実現のために絶え間なく活動していた。
 その理念はどこにあったのだろうか。その答は難しくない。1人の日本人を知るものは,日本をも知っており,1人の日本人の国家理想を知るものは,すべての日本国民の最も気高い国家理想をも知っているからだ。伊藤の目標は,その国民の目標と同じであり,できるだけ速く電光のごとくヨーロッパの技術文化を自ら手にすることであり,それは同じように電光のごとく武力を使ってでも,日本をあらゆるヨーロッパの影響から開放し,アジアの指導的国家にするためだった。
 
この目的の実現に向けての最初の1歩が,1890年の日本へのヨーロッパ的な憲法の導入だったが,この憲法は,その間に伯爵になっていた伊藤が現在ケーニヒスベルグの教授であるモッセの援助を得てつくり上げたものだった。プロシア憲法は,日本人には手本として役立った。もちろんそのことで,プロシア憲法がわれわれにとってましなものになるわけではない。だがこの日本国家の近代的な組織化も,ただそれがヨーロッパ人とヨーロッパ人のアジアへの進出に最も素早く成功裏に対抗できる確かな保証を提供するよう
 
に患えたことだけが理由で,伊藤公爵と彼の追従者によって実行されたのだ。これと同時期のことで,ま.た日本の将来にとって重大なことは,彼が総理大臣を務めるもとで,日本軍の改革が始まり達成されたことだ。
 
このことが,後の中国に対する勝利を可能にし,さらに後にはロシアに対する勝利を可能にしたのだ。彼は,最終的に永続的な支持を得るため,また彼の政治計画を日本に普及させるために,現在最も有力な政発である政友会を設立したが,この政党は今後も長期にわたり日本の国会で最も強力な存在であり続けるだろう。
 伊藤伯爵は,このように日本の内政では国家権力の酎ヒに絶えず意を注いだが,対外政策では,何よりも朝鮮と中国における指導的な地位を日本人にもたらすために努力した。彼の国民は,その地位を得る資格があるのだろうし,自らそれを歴史的使命と見なしていた。
彼は総理大臣でない時期も,繰り返しこの間題で精力的な協力を行った。というのも,その時々の日本政府は最大の政治問題は最上の政治家によってのみ解決され得るという,正しい認識を思い浮かべたようだからだ。かくして彼は190≠年3月に,日本の最初の攻撃でロシァ人が朝鮮を決定的に失ったことを間違いなく納得した後,特派使節として朝鮮にあり,朝鮮を日本にゆだねる条約にソウルで調印した。1905年の終わりにかけて,彼は自分の仕事を完成させようとし,朝鮮における統監職を引き受けた。彼が立ち去ったとき,朝鮮人は安堵のため息をついた。
なぜならそのアジア人は,ヨーロッパ人を自分の味方にしなければならない場合は,ヨーロッパ人以上に礼儀正しくすることを心得ていたが,アジア人を自分の言いなりにしたいときは,残酷なアジア人になることができたからだ。
 
 伊藤公爵は,中国と可能な限り緊密な提携を結ぶという,彼の最後の最大の仕事を完成させることはできなかった。中国と日本の間の了解をもたらすことには,彼は成功した。条約もうまくいき,数週間前に締結された。彼はそれをいっも勧告し,その実現のために絶えず助力していた。この条約の一層の強化は,彼の生涯の仕事の最後を飾るものになり得ただろう。
 
ダが,今では彼には不可能なことになった。だがその最後の仕事の完成がなくとも,伊藤は自分の祖国に,長期にわたる価値を持っ実り多い貢献を成し遂げたのだ。彼の性格,彼の生き方,彼がその国の息子であることを完全な誇りをもって自称していた国の繁栄のための絶えざる活動は,彼をほとんど近代日本の化身のように思わせる。なぜなら,伊藤公爵ほど善悪を問わずアジア人の特徴をはっきりと識別できるように成長させた日本人は,少なくともヨ一口ッノヾ人の見る限り,他にい竃いのは確かだからであり,その国民は完全な誇りをもって彼を「日本のビスマルク」と呼んだのだ。
 
 
ハルビン1026日(ヴォルフ通信)
 
伊藤公爵に対する暗殺が今朝9時に行わ
れた。伊藤公爵はちょうど列車から降りたところで,ココヴツオフ蔵相らのロシアの役人とともに儀仗兵の前を歩き,真っすぐに外国領事たちの一団に向かったが,そのとき彼の背後で数発の銃声が響いた。3発の銃弾が命中し,公爵は致命傷を負って倒れた。日本の総領事が重傷を負ったが,生命の危険に至る怪我ではなかった。南満州鉄道の経営首脳は,足に軽い怪我をした。暗殺者は逮捕された。
 
 ハルビン 1026日(ペテルプルグ電報通信)。
 
伊藤公爵の殺害計画が準備された陰謀であることは明らかだ。蕪家満の
駅では,すでに昨日ロシア警察により3人の回転式拳銃で武装した不審な朝鮮人が逮捕されていた。伊藤公爵の暗殺計画を防ぐことは不可能だった。なぜなら鉄道管理当局は日本総領事の要請ですべての日本人に駅への入場を許可しており,暗殺者は外見的には日本人と区別がっかなかったからだ。伊藤公爵に随行していたすべての人々が,彼に等しく危険にさらされた。ロシアの蔵相は,負傷した日本人たちよりさらに伊藤公爵のすぐ近くにいた。
 
 ペテルプルグ 1026日(ヴォルフ通信)。
 
ハルビンからペテルプルグ電報通信社に伝えられたところでは,伊藤公爵の安暗殺害計画は,彼がハルビン駅でロシアのココヴツオフ蔵相と出会った際に行われた。伊藤公爵暗殺の知らせは,当地では大きな興奮をよんだ。
 
 19091027日付、フランス『ル・タン』
 
伊藤公の暗殺
 
伊藤公が昨日,ハルビンで朝鮮人に暗殺された。伊藤公は周知の通り,ロシア蔵相ココヴツオフと会談のため,ハルビンに赴いたものである。この傑出した政治家の死は,日本人の愛国心を深く揺さぶるだろう。
 伊藤公は長州藩の出身であり,1838年【ママ】に生まれた。25歳のとき,ひそかに国を出て上海に行き,そこから,かねて訪問を強く望んでいたヨーロッパへの船に乗った。
 
ロンドンで1年を過ごした後,日本に帰り,直ちに活発な政治生活に入った。彼自身の言葉を借りれば,彼は「日本の偉大さために必要な措置に貢献することを常に心がけ,ときにはそれを押しつけさえもした」。1868年に兵庫県知事となり,翌年には大蔵次官となる。間もなく内閣総理大臣となり,その長い,輝かしい経歴の中で,4度もこれを務めた。1889年,彼が首相のとき,天皇は憲法を国民に与え,1890年11月に最初の議会を召集した。
 
中国との戦争のときも,下関条約締結のときも彼は首相だった。朝鮮を奪取した後,この国の政治組織を握り,経済開発をその手で進めた。一口で言えば,彼は日本の現代の歴史のすべてに最も密接につながっていた人物であり,その歴史の中で彼はど重大な役割を演じたものは他にない。
 
 その役割は日本の国境を越えさせもした。中でも,1901年末に,使命を帯びてヨーロッパを訪れたときがそうであった。このとき,日本は進むべき道について迷っていた。日本は同盟を欲していた。しかし,その同盟をペテルプルクに求めるか,ロンドンに求めるかで,決めかねていた。国の改造を続け,その工業化を完成するためには,日本は資金を必要としていたし,その資金はヨーロッパにしか求められなかてた。日本は,そめ正当な誇りからして,諸国家の集まりに対等の存在として入ることを希求していたし,激しくかつ規律あるそ    

のすばらしい努力が世界で公式に認知されることを切望していた。しかし,この望みを実現するには,さまざまなやり方がある。
そして,1901年10月に,日本の使節がヨーロッパへ向けて出発したとき,使節の心の中では,いかなる解決策をとるべきか,まだ決心がついていなかったようである。
 
 伊藤侯爵は,その訪問旅行をパリから始めた。彼はたぶん,デルカセ氏が乗り出してくるものと期待していたようだ。ところが,何かよく分からない理由があって,フランスの外務大臣はいかなるイニシアチブをもとるべきではないと考えた。天皇の代理はフランスで1週間を送った後,ペテルプルクへ向かった。そこでは内閣のトップにムラヴィヨフ伯爵がいた。これはロシアの運営を担当した大臣の中で最も凡庸な人物の1人であり,事は急ぐこと,日本は待ちはしないだろうということを理解しなかった。伊藤侯爵はうんざりし,ペテルプルクで話をまとめる希望も欲求も失って,ロンドンへたった。1902年1月,イギリス外務省で交渉が始まった。その月の30日,イギリスと日本の同盟が調印された。過去数年のできごとの進展に,この同盟が重大な影響を及ぼしたことは言うまでもない。    

1903年,伊藤侯爵は政治の第一線を退き,長年にわたり保守思潮と自由思潮を対立させた山県・伊藤の大対決は終わりを告げた。しかし,枢密院議長として,引き続き重要な位置を占め,政府の決定に影響を及ぼした。特に,彼はその弟子であり友である西園寺を強く支持したが,昨年,桂侯爵を総理とする保守派内閣の復帰を阻止することはできなかった。
以来,彼はそれまで以上に朝鮮の仕事に没頭した。数か月前に,彼自身が演説の中でその仕事を規定した興味深い未発表の資料があるので,お目にかけよう。
 
 統監として当地に来て以来,私は朝鮮の幸せのために誠実に心から尽くしてきた。この点について私の考えは変わらない。私の最も強く望むものは,私が前内閣とともにやったように,あなた方の仕事に協力して日本と朝鮮の友情を強め,朝鮮半島の富を高めることである。私たちの努力は,朝鮮の行政を改良し,教育を振興し,国の資産を増やすことであらねばならない。
 かくすることによって,朝鮮が利益を得るのみならず,日本と極東の全体も利益にあずかるのである。本当のところ,私はあえてはっきりと申し上げるが,私が朝鮮半島のために働くことによってめざしているのは,朝鮮の幸福のみではないのである。
独立の問題については,一度ならず日本は隣国にこの権利を保障することに努めたことを想起されるがよい。しかし,そのたびに,朝鮮は日本を支持する努力を怠った。
 
そして,朝鮮には,今日,独立への資格が備わっていないことを認めねばならない。多くの朝鮮人が,朝鮮が独立を回復することを強く求めている。しかし,1つの国民が独立するのはその国民自身によって,すなわち自分自身の働きによってのみ可能であり,他のいかなる強国もこれを与えることはできないことを,この人たちは想起すべきである。したがって,朝鮮が独立を望むなら,独立のためになすべき第1のことは,そのために必要な知識と力を獲得することである。残念なことに,多くの朝鮮人が,よく考えもせず,目的達成のために必要な努力もせずに,独立を語っている。
 
私に言わせれば,これこそ朝群を破壊する最良の方法である。この国の存在は,朝鮮と日本との間に強固な友情が存在し,日本が朝鮮を心から信頼することにかかっている。もしもこの意見に賛成なら,利己的な欲求はすべて捨て,あなた方を分裂させている嫉妬をすべて放棄し,国家の幸福のために心から私に協力してくれるようお願いする。
 
 この賢明な考えにもかかわらず,伊藤公爵は憎悪を解くことに成功しなかった。観鮮人たちは,日本の政治の末端の役人があまりにもしばしば犯した野蛮な行為を彼の・責任にした。しかも,朝鮮人の愛国心は,外国人征服者の憎々しい典型像を彼の中に見た。
朝鮮の帝国が守ることのできなかった自由は,その敗北に際して,報復をそそ
った。この報復は,朝鮮のつらい歴史状況になんの責任もない人物を1人,犠牲にした。それに,暗殺は,いかなる場合にも認めることのできない手段である。故に,ヨーロッパは,悲劇的な死を遂げたこの輝かしい政治家を思い,深甚な追悼と敬意の念をささげるだろう。
 

  1909年10月28日  中国『申報』伊藤刺殺の知らせを聞いて 

 

わが国は甲午の役【日清戦争】以来,朝鮮を失い,台湾を割譲し,2億の賠償金を支払い,朝野ともに大変な痛手を負った。そのとき初めて伊藤博文という人物がさっそうと登場した。彼が弱者をしいたげる心を持っていることは知っていたが,彼がイギリスのロンドンから帰国してより後,内政を事新し,列強と友好関係を深め,その鋭い視線が早くより遠く黄海の東から発され,弱い同族を思いのままにして東アジアを制覇しようという野心を持っていることは知らなかった。

おそらく彼の東北地方に対する企ては,一朝一夕のことではなかったはずだ。
日本人の中国経営は2つの方向から着手されたにはかならない。東南にあっては福建,新江,東北にあっては奉天,吉林である。福建,浙江を狙うなら.まず台湾を手に入れなければならない。そのため,甲午の年までに日本人は台湾でたびたび和を失し,甲午の役が起きて両国がようやく停戦協議を行うと,日本人は隙に乗じてその険要を占拠し,台湾はこの戦いで割譲された。奉天,吉林を狙うなら,まず朝鮮を占拠しなければならない。甲申事変以前にも
朝鮮の日本人は水面下での衝突を繰り返していたが,天津条約が結ばれると日本人はひそかに朝鮮を管理するラインを引いた(例えば中国が派兵する際は必ず日本に通知すること,などの条項)。
そこでついに甲午の戦いが始まり朝鮮はとうとう滅亡を免れなくなったのだ。    

今,東北の日本人の願いはかなえられた。福建.浙江は各国の争う土地ではなくなり,商業の自由行動権も手にして,これ以上謀略に苦労する必要がなくなった。しかしただ東北の片隅をほしいままに統治しているだけでは,近いところではロシア人に争いをうかがわれ,遠いところではイギリスのねたみを買い,列強昔虎視眈々と周囲から観察される。

これこそ日本が片時も安んずることができないでいることであった。伊藤は朝鮮を手に入れると直ちに統監の任に就き皇位を廃して政権を握った。3年を経て配備はおおよそ整い再度の裏切りを憂えることもなくなったため,任を離れ帰国し,その馬首を真っすぐ遼東に向けたのだ。
今回の満州行きは伊藤自身の弁によれば「政治的目的はない」ということだったが,今日の政治的関係からこれを見ると,伊藤が満州で政治的目的なしでいるはずがないことは明らかだ。
伊藤はかつて「朝鮮は満州に至る橋である」と述べたことがある。今,その基礎はすでにできあがり,秋の寒さに風も強まるころ,かくしゃくたる英雄が1人乗り込んだのだから,伊藤は「志が遂げられた」と言ってよかったのだ。
ところが,伊藤氏にとって朝鮮のことは終結していたが,満州のことは今始まったばかりであり.おそらくそのためにまだ得意満面でいられなかったときであり.満州経営に苦労していたときだったのだろう。だから伊藤は極寒の地で老いてなお壮志を奮い立たせ,万里はるかな地にひょうひょうと赴いた。曹操言うところの「当代最高の英雄」であった。
もしその雄大な志を遂げられたなら,東北地方でいかなる風雲を巻き起こし,いかなる姿を現すことができたか私には分からない。しかし天は時を与えてくれなかった。先日突如として暗殺党の一撃に命を奪われ,恨みを忍んだまま亡くなったことは悲じみの至りである。
暗殺覚の伊藤刺殺は朝鮮併合への報復である。伊藤の朝鮮併合は今まさに成功の日を迎えている。朝鮮併合が成し遂げられてしまってから伊藤を襲撃したことで,韓国人の気持を晴らすことができたが,すでに韓国人の状況を救うことはできないのだ。西洋の新聞は「矢がすでに恥と当たってからこれを収めようとしても,絶対にできないものだ」と述べている。ああ.殷の村王に心臓を取り出されたときには比千の体はすでに切りきざまれ死んでおり,予譲が炭を飲んで忠義を誓ったときには晋の智伯の頭はすでに漆を塗られて便器にされていた。    

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