<クイズ>世界で最高にもてた日本人は誰かーー答えは「ハリウッドを制したイケメンNo.1の早川雪洲じゃよ」①
2019/07/27
前坂 俊之
ハリウッドNO1のイケメンはだれじゃ
100余年の輝かしいハリウッドの歴史の中で、唯一、ハリウッドを制した日本人と言えば早川雪洲なのじゃよ。もちろん今の若い人は全く知らんじゃろうが。サイレントムービーのハリウッドができたばかりのこのじゃ。
いまなら、ハリウッドの有名日本人と言えば、アカデミー特別賞に輝いた黒沢明監督や、「ラストサムライ」で助演男優賞にノミネートされた渡辺謙らがいるではないか、といわれそうだが、そうじゃない。
ハリウッド創生期に百数十本以上のサイレントムービーに主演して、ハリウッドのトップスターとして活躍して、自分でも映画会社を作って主演、監督して映画を製作したのじゃ。チャップリンと同時期に活躍した日本人だが、彼と同じようにね。映画は大ヒットするし、ギャラーはチャップリンに並ぶ高額なので、日本人をもっとよく知ってもらおうとハリウッドに大豪邸をつくったのよ。
そして、連日連夜、スターや監督を招いて派手なパーティーを開いて、『聖林(ハリウッド)の王者』と呼ばれた伝説の日本人なのですよ。すごい男じゃ。
早川 雪洲(本名・早川金太郎)は1889(明治22)年6月に千葉県千倉で、網元の子として生まれた。少年期には海軍軍人を夢見ていたが挫折し、1909年、21歳でシカゴ大学法制経済学部に留学するために渡米する。
同大学を卒業前にロスアンジェルスのリトル・トウキョウへ行き、日本人の劇団に入り徳富慮花の「不如帰」を演出、主演して大評判になり、次々にヒット芝居を上演したのです。
これに目をつけたのが、ハリウッド創世期の大物プロジューサーのトマス・H・インスで、彼の製作の「タイフーン」(1914)に初主演し、これが大ヒットした。続くセシル・B・デミル監督「ザ・チート」(1915)で、人妻に焼きごてを押す冷酷な日本人プレイボーイを演じて一躍、マチネー・アイドルとなった。
世紀の美男俳優・ルドルフ・ヴァレンティノを上回る人気
「さいなら、さいなら」でご存じの映画おじさん・淀川長治は早川をよくしっているが、こう書いているよ。
お若い方はご存じないかもしれませんが、早川雪洲といったら、アメリカではハリウッド映画史上、ナンバーワン、第一号の美男子スターだった人。次がウォーレス・リード。三番目がルドルフ・ヴアレンチノ。
早川さんは長いこと映画に出て、ご自分で監督もして、シナリオも書いた。いっぱい作品があります。
そのなかでも、サイレント時代の相手役は、ベシー・ラブという女の子が多かった。『スワンプ』(1921)でも共演しています。この女優さんは、いかにも東洋風。どうして彼女が相手役をしたかと言うと体が小さいのね。小柄だから日本人の早川雪洲にはもってこいだったんです。
わたしがハリウッドに行きはじめたころのこと。そのべシー・ラブと会いましたら、いきなり、「セッシューさんはお元気ですか」とあいさつされました。びっくりしました。実は彼女だけではなく映画関係者からも、「セッシューさんはお元気ですか」とよく聞かれました。それからずっと後になると、「クロサワさんはお元気ですか」になった。つまり、「クロサワさん」の前は、ハリウッドではみな「セッシューさん」だった。(以上、淀川長治著『追想の扉』 TBSブリタリカ1996年刊)
18歳でバラキリ
私の六十余年の半生は波乱万丈の一語につきます。1889年(明治22)6月10日、外房総の千葉県七浦村(旧安房郡千倉町、現南房総市)に生れました。
この村は昔から「千田の與一」と「和田の鉄砲」という二つの勢力が相争っていて、魚場の争いから斬込みなどもしばしば行われ・大変気の荒いところでした。
私の家は、村でも名の知れた網元で、いつも十五、六人の若い者が、宿節と称してゴロゴロしており、それに剣道、柔道のほか漢文、習字などまで先生をつけて教えていました。私の本名は金太郎という勇ましい名前で、六歳のころから若い者の仲間に入り、武道を習っていた。私が立って竹刀を構えると、先生が坐ってちょうど同じ位の背の高さで、私が十一歳の時のことです。
ならず者を11歳で日本刀で斬りつける
ある日ならず者が金をゆすりにやって来ました。父は奥座敷にいたが、そのならず者は玄関に坐り込んでわめいていた。私は、その男が余りに父に対して失敬なことをいうので、子供心に腹が立ってきて、日本刀を持って玄関にとび出してゆき、「えい!」と斬りつけました。
ちっぽけな子供が長い日本刀を顔にかざして現われたので、ならず者はびっくり仰天、どこかに傷を受けて逃げてしまった。私は無我夢中でやったことです。
「板子一枚、下は地獄」という気の荒い漁師仲聞の中で育った私は子供時分から父のいいつけに従って、お茶、活花、俳句のほかに日本画も習って、殺伐な気持ちを柔らげるように努めてきました。
そのとろの私の望みは海軍の軍人になることでした。小学校を卒業して、東京の当時海軍予備校といった海城中学に入って海軍兵学校の試験準備をはじめました。
朝に夕に海軍士官の姿を夢みつつ、私は夢中で勉強した。夜は正則中学にも通って、なんとしても試験にバスしたいと思っていた。いよいよ海軍兵学校の試験。当時、試験は7月で3,000人ものの応募者があって、第一回の学科試験も終えて、あとは第2回目の体格試験を受ける段階になりました。
ところが、夏なので水泳中に、高いところから飛込みをして、鼓膜を破ってしまいました。
実際は破ったというほどのことではなかったのだが、炎症を起こし食事も出来ないほどはれ上ってしまった。
腹切りを愛犬の知らせで助かる
体格検査にホータイを巻いて行ったが、耳が悪くては海軍士官にはなれないといわれ、はねられてしまった。眼の前が真っ暗になって生きを望みを失なって、私は家の土蔵にこもって短刀で割腹しました。血を四リットルも流して、気を失っていたところ、家の可愛がっていた愛犬が異常なほどに蔵に向かって吠えて、家族が蔵に入って血まみれの私を救ってくれたのです。もう少しのところで死ぬところでしたった。
22歳で、アメリカに渡る
アメリカへ行く時の私の気持ちは、もし成功しなければ再び故郷の士を踏むまい。向うでも誰の世話も受けず、どこまでも独立独歩で行こうと思っていました。両親とは水盃(みずさかずき)までして、1911年(明治44年)6月、太平洋を渡った。
二十二歳の時である。サンフランシスコには中学時代の友人がいて、彼を頼ることにした。船はシアトル止りだったので、別の船に乗りかえてサンフランシスコに着いた。船中で1人の背の低い日本人と友だちになったが、彼は盛んに武道を自慢をする。私はその方でも自信はあったが、彼の自慢話を聞き流していた。サンフランシスコに着いたのが午前二時、波止場は真っ暗である。
船中で、ホールド・アッブが多いから明るくなってから上陸してはどうかと忠告されたが、武道自慢の男は“何、大丈夫だ〃といって私を誘った。
私も早くアメリカの士を踏みたい、そして落ちつき先の熊本旅館に着きたかつたので支那行李〈中国カバン〉をぶら下げて下船した。
そのころのサンフランシスコは自動車ではなくて馬車である。二頭立ての馬車といっても、荷物を運ぶ車に二人は乗せてもらった。御者の顔は暗くて見えない。われわれのほか、もう2人は荷物の方に乗っていた。
いきなりピストルで・・
しばらくガタガタと石畳の暗い道をいくと馬車がガタンと止った。御者が私たちに〝下りろ″というので、もう着いたのかと思って、いわれるまま車に下りると、荷物の上にいた二人の男がピストルをポケットから出したり入れたりして、〝お前たちは帰れ″といい出した。私はこれは大変なことになったと思った。
向うは三人、こっちは2人である。しかし連れの男は武道の心得があるといっていたので、小声で「僕はこっちの2人を引受ける、君は他の1人を引受けろ」といって、いきなり私は2人に向かって突進し、二人を倒してしまった。
武道で2人をやっつける
二人はのびてしまったので、もう一人はどうしたろうとみると、御者は馬車で逃げ出している。追っかけていって、ぶん捕えて引ずり落し当身を加えてギューとやった。ほっとして、気がつくと友達の姿がみえぬ。いくら呼んでも出て来ない。一時間位して、巡査をつれて走って来た。どうも彼の武道自慢は口ばかりだったらしい。アメリカの士を踏んだとたんにこの事件。
私は余程しつかり気をつけないといかんと思った。私は着いた翌日から、鉄道会社直営の駅の食道に皿洗いとして勤めることになった。月給30ドル位だったと思う。そして、皿洗いの余暇に、日本人に英語を教えて月謝をもらった。
アルバイトで学費を貯金、シカゴ大学に入学
あのころの日本人は、英語を読むことも、書くことも出来ない人たちが多かったので、私の学歴でも結構、間に合ったわけである。食うや食わずの生活で我鰻して、残りは学費として貯金した。
実に苦しい生活だったが、若くて負けず嫌いの私には平気である。やつと学費が出来たので、シカゴへ行き、ジカゴ大学の予科に入った。試験は地理とか化学などほどうでもよく、英語が出来ればいいというので、難なくバスした。大学に入ったが実にとぼしい学費なので遊んで暮すわけにはゆかない。スクール・ボーイとなって働きながら勉強することにした。のスクール・ボーイというのは学校寄宿舎に泊って、朝食を作って、夕食の血洗いをやれば少しばかりの小遣いもくれる。弁当も持たしてくれて一日学校へ行ける。-これで私はようやく前途にやゝ明るさを見出すことができるようになった。
アメフトで学費免除
私はスポーツが好きだった。とくにアメリカンフットボールのタックルがうまかった。
柔道の手をつかってコロットころがす。誰も私にかなわない。推されて正選手になることが出来た。そのお蔭で学費免除にしてもらった。
そうなると、スタール・ボーイをする必要はない。寄宿舎に入って、うまいものが食べられてフットボールをやる。そのうち、顔が売れて、寄宿舎の幹事に推されることになった。
その町の大学チームの選手たちのうちに小さな選手が2人いた。1人はハーバード大学のケリー-という選手、もう1人は私である。ケリーは実にすばしこい。ねずみのように速くてとても捕えることが出来ない。
柔道の手でコロッと、ころがして点数を稼ぐ
いつでもハーバードとの対抗になるとケリーにしてやられる。これに対して私の後方に選手をつけさせ、私が攻めてくる奴をストンストンと倒して進む、この方法で大分点を稼いだ。
そのうちに、「早川のタックルはどうもおかもい」といわれるようになった。柔道の手ということがバレたのは一年後であったが、結局、〝お前の手は使ってはいかん〃といわれ、やれば罰則を食うのでやれなくなってしまった。私にこの手を封じたのでは選手の能力はない。選手を退いてしまった。1913年(大正二年)、24歳の夏休みに、私はロサンゼルスに遊びに来た。
退屈まぎれに町を歩いていると、日本人の芝居が上演されている。常盤正劇団という名前で、藤田東洋が座頭で、常盤操という名前でやっているが、どうみてもうまくない。浅草あたりの壮士芝居みたいな変なお芝居である。
ロサンゼルスで芝居をする
私は「こんな芝居ではいけない僕にやらせてみろ」というと、「何をやる」ときくので「不如帰(ホトトギス)」と答えた。
「不如帰」は私が初めて読んだ小説で、東京にいたころ藤沢浅二郎の武男、木村操の浪子で、幾度もみているのでセリフはほとんど覚えていたし、軍服姿も海軍予備校で経験ずみ、なかなか板についている。
いざ、公演ということになも、ふたをあけてみると大変な人気で「あの武男はほんとうの武男だ」と.いうわけで大入り満員である。
私の芝居に対するうぬぼれが出て来て、「不如帰」をもってあちらこちら巡業してまわって、いい気持ちになっていた。
英語劇「タイフーン」が認められる
どうも日本人相手ではおもしろくない、ひとつ西洋人にみせてもわかる芝居をやろうという野心がわいて来た。そうしてやったのが「タイフーン」という英語劇。俳優をやとっては高いので、俳優学校の生徒を使って、西洋人の劇場でフタを開けた。
これをみにきていた「ニューヨーク・モーション・ピクチェア・カンパニー」のトーマス・インスというプロデュサ-が、私に映画界入りをすすめてくれた。
初出演映画で大成功、パラマウント入り
1914年、私が25歳の時で、あのころのハリウッドは2巻物が多く、処女出演映画「タイフーン」を六巻物で撮影した。当時としては大作だったわけで、これがニューヨークでヒットし、お陰で私はパラマウントに三年契約で入社することが出来た。パラマウントができたばかりのころである。
シカゴ大学へ入学して経済をやった。三ヵ月の暑中休暇を利用して、学資をかせごうと思ってロサンゼルスヘやってきたら、日本人が芝居やってるから見にいった。
いわゆる壮士芝居というやつでヘンな芝居。一座のものに「芝居をやらせろ」といった。「なにをやるか」 「不如帰だ」 「やったことがあるのか」 「やったことはないいけど、見たことがある」といった。雪洲が一番はじめに読んだ小説がこれ。東京で学校にいってたとろ、叔父さんのうちにいたが、小説なんか読むことは固くとめられていた。浅草の下宿で、友だちがボロボロ涙をこぼしながら読んでる本をのぞいて見たら、「不如帰」だった。
「不如帰」が大ヒットのわけ
「なんだい、こんなもので泣いて」一といって、ちよっと読んでみたらとてもおもしろい。借りて帰って、よく読んだら涙が出た。20、30回も読んだ。芝居を何度も見たから、武男、浪子、片岡中将、千人岩なんかのせりふをすっかり暗記した。それで、「不如帰」で武男をやると評判になった。「役者じゃない。ほんものだ」と大変な人気。
歩き方、敬礼のしかた、浪子さんと別れる時のサッパリした軍人気質…・。とにかくたいへんな人気、ほうぼうから買いにくる。サンフランシスコ、サクラメント、シアトル、日本人の寄るところ全部へ出かけた。到るところでもうかった。
映画の都・ハリウッドはロサンゼルスにあり、日本人街の『リトルトーキョー』もその近くである。ハリウッドに最初の映画スタジオが建設されたのは1911年のこと。
日本人移民は明治になり、ハワイを皮切りに米本国、特に西海岸のロスやサンフランシスコなどに年々、うなぎのぼりに増えて、1910(明治43)年には7万2000人、さらには1920(大正9)年には11万人を突破した。
西海岸で農業や農作業に従事したものが大半だが、『リトルトーキョー』はそうした日本人の全米最大の拠点であった。ハリウッドの製作者も日本人移民の労働者が多く映画を最大の娯楽としていうことを知り、日本人向けの映画を製作したのである。
もともと、自信満々の親分肌の性格の早川は、卒業してから立ち寄ったロサンゼルスの下町『リトルトーキョー』芸名も尊敬する西郷隆盛(南洲)から名をとって“雪洲”とつけた。この芝居は『リトルトーキョー』で大評判となった。
雪洲の堂々たる風貌と演技力がパラマウント映画の大プロデューサーのトーマス・H・インスの目にとまり、出演を依頼された。映画俳優などなるつもりは全くなかったが、「自分を主役にする、出演料は週給最低五百ドルほしい」と吹っかけたところインスはすんなりOKして、雪洲の方が逆に驚いた。こうして24歳の時、早川は東洋人俳優では最高のギャラーで映画入りすることになる。
一九一四年にはハリウッドで記念碑的な超大作、D・W・グリフィスの「国民の創生」が撮影された年だが、雪洲は『火の海』でデビューし、『タイフーン』で初の主役を演じ、大ヒットとなった。
一夜にして大物スターとなり,日本人初のハリウッドスター早川雪洲が誕生した。翌年、パラマウント系の別の映画会社に週給千ドルという破格のギャラで迎えられた。
『タイフーン』が評判となり、翌年にハリウッド第一のプロデューサーセシル・B・デミル監督が早川雪洲を抜擢して『ザ・チート』に主演させた。
『ザ・チート』に主演して、大ヒット、一躍スターに
共演女優はファニー・ワードという一流の舞台女優。ストーリーは早川は、鳥居という名前の白人上流社交界に出入りする金持ちの日本人プレイボーイ役で、馬の尻を焼く焼きゴテを作って遊んでいる。アメリカ人の金持ち夫人(ファニー・ワード役)が、旦那が金を使い込んで、鳥居から金を借りに来た。
「貴女が特別の好意を示してくれれば必要な金を用立てよう。もし返せなかったら、その肌に私の所有物であることを示す焼き印を押す」との約束で貸す。ところが、期限が来ても返せない。
女性に焼きコテをあてる役
夫人は鳥居に泣きついたが、鳥居は焼きゴテをその肩に当てた。夫人は鳥居をピストルで撃つ。最後は裁判になり、法廷で夫人が肩の肌をあらわにして醜い傷あとを見せると大混乱となり、逃げ出そうとした鳥居は群衆に半殺しにされるという内容。
女性の体に焼き印を押すショッキングでサディスティックなものであったが、雪洲はこの難しい役みごとに演じて、三作目でスターの座をつかんだ。
マチネー・アイドルとして人気スターに
「ザ・チート」によって雪洲はデミルでさえもが予想しなかった新しいマチネー・アイドルとして人気スターの仲間入りをする。マチネー・アイドルとは、女性フアンのアイドル・スターのことで、雪洲の数年後に台頭したルドルフ・ヴァレンティノがその代表格であり、セックス・アピールがそのための最大条件であった。
そして「ザ・チート」以後、日本人庭師や中国人商人は白人女性から、雪洲であるかのように特別の眼で見られ当惑させられる事態まで起こり、日本大使館からデミルに対して正式な抗議がなされた。
世紀の二枚目ルドルフ・バレンチノ以上の人気
この映画は日本では国辱映画として公開されなかったが、雪洲は日本人の復讐心と残忍さを誇張して排日ムードをあおった売国奴として右巽団体からののしられた。しかし、男性美にあふれた雪洲の人気は高まるばかりで、演技者としても高く評価された。
のちの世紀の二枚目ルドルフ・バレンチノ以上の人気を獲得して、アメリカ人女性には超人気アイドルとなった。逆に、日系アメリカ人たちは,白人からしろい目で見られ,日本国内では「国辱スター」と呼ばれたのです。
外国で成功すると、国内での評価は下がるという日本人特有のさびしい嫉妬心ですね。
当時、ハリウッドは、アメリカ人ではないエキゾチックな顔がとっても好きだった。グレタ・ガルボ、ポエフ・ネグリ、ヴアレンチノ……。そういう顔がいいと思っていた。まあ日本で言えば、フランスとかイタリアの俳優がきれいと思うでしょう。それと一緒ですね。 というわけで、アメリカ人は早川雪洲を見て、びっくりした。あまりにもいい男で、『チート』の早川雪洲の役はね。
「セッシュー・ハヤカワは美男子だ。美男子だ」
お化粧して「ハヤカワ映画」を見に行くわけは・・
という評判になって、アメリカ中の女の人が憧れちゃった。だから、アメリカ映画史上の第一号の二枚目はセッシュー・ハヤカワというわけよ。雪洲が出るといったら、女の人は全部飛んでいって見たの。ハリウッドのサイレント時代のスターは2番がウォレス・リード、3番がヴアレンチノ。ナンバーワンが早川雪洲だったのよ。早川雪洲の映画というと、みんなきれいにお化粧して見に行ったほど。なぜかと言うと、「画面から見つめられているから、どうしてもお化粧しておかないと……」
別に早川雪洲が話しかけるわけじゃあないんだけれど、女の人たちはそのくらドキドキして見に行っていたんですね。
「ザ・チート」〈1915年=大正4〉の成功はデミルを大いに喜ばせたが、デミルは8歳下の雪洲を人間としても大いに愛するようになった。
次の「テンプティショ」〈1916年〉もデミルが製作・監督した。この16年、ラスキのフィーチャー・プレイ社は「フェイマス・プレイヤーズ」(ラスキ社)となり、配給会社パラマウントを支配し、パラマウントの商標で映画を作った。
雪洲はこのパラマウント=ラスキのもとで1918年(大正7)の「ザ・シティ・オヴ・デイム・フエイシズ」まで計19本に主演することになった。夫人のツルとは「異郷の人」「ジ・オナラブル・フレンド」「ザ・ソウル・オヴ・クラ=サン」(1916年)、「黒人の意気」「ザ・コール・オヴ・ザ・イースト」〈1917年〉の計5本に共演し、人気はハリウッドのトップに立ったのです。
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