『リーダーシップの日本近現代史』(51)記事再録/明治日本の国家戦略「殖産振興」「廃藩置県」 を実行した大久保利通の最期の遺言
2012-04-14 /日本リーダーパワー史(252)
明治日本の国家戦略「殖産振興」「廃藩置県」
を実行した大久保利通の最期の遺言
前坂俊之(ジャーナリスト)
明治維新の3傑は西郷隆盛、大久保利通,木戸 孝允であり、廃藩置県を断固実行したのは西郷である。
竹馬の友の西郷、大久保は征韓論をめぐって、対立し西郷は下野して、薩摩に帰った。この対立が西南戦争へと発展する。そして、明治10年(1877)9月24日に西郷が城山で自害して果てると、それから8ヵ月後の明治11年5月14日に、大久保内務卿(実質上の総理大臣)は紀尾井坂で西郷信奉者の石川県士族・島田一郎らに襲われて刺殺される。木戸も明治10年(1877年)5月26日)に病死しており、維新の3傑、主役はここに明治10年にそろって歴史の舞台から姿を消したのである。
つまり、この明治維新の3傑は徳川幕府を倒して、明治維新の起す革命家であり、その旧体制を破壊する役割を担ったのである。k明治10年まではこの幕藩体制の破壊期であり、維新の創業期であると言っていい。
そして、第2期の明治の建設は次代のリーダーの伊藤、大隈、山県らに託された訳だが、ひとり実権を掌握した大久保が新日本のけんせつのために、国家戦略を樹立して「殖産振興」『廃藩置県』の断行と、そのあとの日本の行政組織、地方制度の建設に乗り出そうとしていた、ちょうどその日に暗殺されてしまったのである。
大久保は西欧に負けない日本を作るためには30年が必要と考えていた。それを3期に
① 明治元年より10年までを第一期、創業期。
② 11年より20年を第二期。ここが最も重要でも内政を整備し経済殖産を充実する。利通不肖と錐も、十分に内務卿の職を尽さんことを決心せり。
③ 21年より30年は第三期で、守成は後進、賢者に継承する
としていた。
そして、地方会議を開催して、この国家戦略を貫徹するために、旧体制、無能な役人、官僚をクビにして、大号令を発する日に、会議に臨む途中で暗殺されたのである。何とも暗示的である。いま、日本国家倒産の危機という国難に遭遇して、その原因となった行財政改革の失敗の遠因が大久保の作った行財政組織であることを考えると、大久保の決断とビジョンを振り返ることは大変有益であろう。
<徳富蘇峰『近世日本国民史』(明治の三傑)」(昭和36年刊)より>
大久保遭難の影響
大久保の死について最も遺憾であったのは、何人よりも大久保彼自身であったろう。従来、彼は一方には木戸に気兼ねし、他方には西郷に牽制せられ、憤重なる彼は、そのために余計な人知れぬ苦労をした。しかるに木戸は病死し、西郷は戦死し、大久保ひとり勝利者として舞台に残りたる以上は、彼が従来、胸中に鬱積した経綸を、遠慮会釈なく行い得べき時節が到来したのである。
いかに彼が前途に希望を抱きたるかは察するに余りあり、彼はかつて五月十四日、彼が刺殺される数時間前、いや一時間以内であったろうが、彼を訪問したる軒福島県令・山吉盛典に向かって、左のごとく語っている。
、山吉の記録によれば、
五月十四日、午前第六時、内務卿大久保君の邸宅を訪ひ、談話時を移せり。(中略)時正に八時に近きを以て辞して去らんとす。内務卿いわく
「過ぐる日離宮において殖産の事、巳に談示に及びたれども、其の意を尽さざる処ありて、地方官への貫徹せざるあらんことを恐れて、東京府知事・楠本正隆氏へ托してさらに地方官へ懇議せしめんとすれども、今朝の面談は幸ひなれば、意中残らず告げんとするなり。
そもそも皇政維新以来、巳に十ヶ年の星霜を経たりと雖(いえど)も、昨年に至るまでは兵馬騒擾、不肖利通内務卿の職を辱ふすと雖も、末だ一も其の務めを尽す能はず、しかしのみならず東西奔走・海外派出等にて職務の挙がらざるは恐縮に堪へずと雖も、時勢巳むを得ざるなり。今や事漸く平らげり。故に此の際、勉めて維新の盛意を貫徹せんとす。之を貫徹せんには三十年を期するの
素志(そし)なり。
仮りに之を三分し、
④ 明治元年より十年に至るを第一期とす。兵事多くして則ち創業時間なり。
⑤ 十一年より二十年に至るを第二期とす。第二期中は尤も肝要なる時間
にして、内治を整ひ、民産を殖するはこの時にあり。利通不肖と錐も、十分に内務卿の職を尽さんことを決心せり。
二十一年より三十年に至るを第三期とす。三期の守成は後進賢者の継承,修飾するを待つものなり。
利通の素志かくの如し。この故に第二期中の業は深く懐を加へ、将来継ぐ可きの基を垂るるを要す。湖水疏さく、移民開拓、に大隈川通船等の事業充分其の必成を期し、ろ弄失敗して民を困しめ、国を害するの惨状あらしむべからず。目的を三十年に定め、第二期中、創為する所の業は、満期に至りて全備せんこと希望に堪へざるなり。此の精神たるや独り地方長次官に止まらず、属官と雖も 枢要の地に立つ者には篤く貫通せしめ、上下りく力至誠運筆せんことを欲す」といった。
「願はくは股肱の力を効(いた)さん」
を最後に盛典は辞去し、内務卿は直ちに参朝せられたり。
途中、時間をみると八時、元老院に至るや否や、紀尾井坂の凶報あり、盛典は愕然とした。
、大久保内務卿は聖上を補佐し、内政を負担し、「一身をもって国家の安危に任ぜり。この人にして、この変あり。ああ悲しいかな」
すなわちかくのごとく大久保は、明治時代を三期に分かち、明治元年より十年までを第一期とし、それを創業時代となし、十一年より二十年までを第二期として、これを内治整理・民産増殖の時代となし、自ら身をもってこれに当たり、二十二年より三十年までを第三期とし、これを後進に継承せしめんとした。
彼はすなわちその第一期を終わりて、まさに第二期の開幕の剃那において免れたのである。
少しく比倫を失するも、大久保の紀尾井坂の変は、やや信長本能寺の変を連想せしむるものがある。信長は多年の憂いでもあった武田氏を平らげ、この上は西下し、一気に毛利氏を挫き、まさに天下布武の志を達せんとするのよき潮合に際し、思いがけなく明智光秀のために裏切られて頻れた。
大久保の死は、明智ほどの大がかりではなかったが、少なくとも大久保の期待したる十年にわたる国家富強の経絡は、島田一良らのために無ざんにもそのまま葬られ去った。大久保その人としては、誰よりも遺憾であったことは察するに余りありだ。
大久保以外において長も彼の死を遺憾としたるは、日本人民ではなくして、明治政府そのものであった。政府は全く大久保を首脳として存続し、首脳として活動し、首脳として前途の光明を認めていた。伊藤が大久保の死を弔うて、「英雄去りて後、気秋(きあき)の如し」と詠じたのは、まさしく彼の心肝を吐きたるものである。彼にしろ、大隈にしろ、彼らは明治政府において出色の人材ではあったが、その実、次官もしくは秘書官のごときものであった。
西園寺公望がかつて記者に語ったところによれば、大久保が馬車に乗らんとする時には、伊藤は彼のために帽子やステッキを取ってやり、大隈は彼のために馬車の戸を開き、膝掛けを展ベてやるがごときものであったという。
これはもとより形容詞であって、事実必ずしもかくのごとくというではないが、彼ら三人の関係は、かくのごときものであったことを言明したるものである。
大久保は、決して倣憶の人ではない。何人に対しても相当の礼遇を与うるにおいて、決して抜け目はなかった。しかし彼の勢力は、実に内務省ばかりでなく、明治政府全体を動かした。国家の大事小事、一として彼によって決せざるはなかった。しかるにこの人が俄然として舞台を去って、その欠陥は誰か埋むる。いかにして埋むる。いわゆる伊藤の「英雄去りて後、気秋の如し」とはこの場合のことであろう。
大久保自身は洋行以来蓄え来りたる信念の下に、国家富強の基礎である殖産興業を奨励し、内治を整頓して為政者の意志を末梢神経まで徹底せしめ、十年の歳月を期して日本を立派な富強の国たらしめんことを期した。
すわち、地方官会議は五月三日に開場式を済ませ、それより地方官に向かって方針を告諭し、さらに十四日には大隈・伊藤らを太政官に集め、地方官の進退、府県の廃合等いわゆる内治の一大整理を行うべく約束し、彼がまさにそのために参朝せんとするの途中において、彼は遭難したのである。
後継者の伊藤博文に絶筆を託していた。
大久保は念のため、明治十一年五月十四日、太政官に参朝に先だち、伊藤に左の一書をおく贈った。
昨日御約束申し上げ置き候通り、大隈にも同時より参内の約束致し置き候に 御多忙と存じ候へども、暫時御参朝下され候様願ひ奉り候。此の旨念の為草々拝白。
五月十四日 伊藤殿
利 通
これは実に大久保遭難約三十分前に認めたるもので、真に大久保の絶筆というべきものである。これについて伊藤は左のごとく語っている。
大久保公が紀尾井坂にて刺客の難に逢ったのは、つまり西郷の復讐だ。十年の戦争の時、西郷にくみした徒が、彼の忠臣を殺したという迷想から来たので、もとより大久保公もあんな事があろうとは思って居らなかった。
遭難の日は、明治十一年五月十四日のことじゃ。
我輩は十年の戦争が終わって、当時初めて開く所の地方官会議の議長と為った。段々これから地方制度も改良して行こうという時で、府県会なども彼の時であったろうと思う。
そこで地方官を召集して会議を開いた。その時大久保公は、地方官を淘汰しなければならぬという考えを持たれた。この時分は松田道之(東京府知事)などが働いて居ったが、地方官を淘汰しなければいかぬ、老朽不能はいかぬと云い、小県を廃して大きな県に合体させ様という議も起こって、大久保公の言われるに、私の方でも地方官の人物を調べて見ようが、君の方でも、君は実際会議の職掌に当たって居るし、人物もよく分かって居るだろうから、その意見を持ち出してくれという訳で、会議が済んでから地方官の更迭について評議が起こった。
大久保公は、自ら重く執って盲目判を捺す様なことは容易にされなかった。そこで十三日の日に公は、榎坂の邸にやって来られて、「地方官の事も末だ悉く決断して居らぬから、君も忙しかろうけれども、明日の評議には是非出てくれ、君が出てくれなければ困る」とわざわざ来られた。
そこで我輩は「よろしい出ましよう」と云って別れた。すると翌朝、佐々木高行、高崎正風の二人が来て、当時君側に在る侍補の事について、侍補だけでは君徳の培養が不充分であるから、どうぞ大久保公に、宮内省の方も兼ねて君側の方にも尽力する様に働いてくれんかという話をして居る中に、大久保公から手紙が来た。
「今から私は直ぐ参朝するから、君も直ぐに来て下さい」という文意である。何でも暗殺される十数分前に書かれたものだ。対から我輩は二人に断って、私も参朝するからというて赤坂の方から参内する。向こうは紀尾井坂より行った。赤坂御所内の内閣に出ると、兇変を知って居るか、今大久保公が殺されたということで、実に以外千万とも何と悲痛の限り、誠に残念至極、国家の大事変であった。
即ちこの時公が我輩に贈られた手紙は、真に大久保公の絶筆である。これを見ても、いかに大久保が当日の会談を重要視したかがわかる。
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