『リーダーシップの日本近現代史』(44)記事再録/明治維新の革命児・高杉晋作の「平生はむろん、死地に入り難局に処しても、困ったという一言だけは断じていうなかれ」①
2015/07/29日本リーダーパワー史(575)
明治維新に火をつけたのは吉田松陰であり、230年惰眠をむさぼった徳川幕府を倒したのは高杉晋作じゃ。「男子は、困ったということは、決していうものじゃない」
前坂 俊之(ジャーナリスト)
7/5日のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」第27回「妻のたたかい」を久しぶりにみた。
禁門の変で敗れて久坂玄瑞が自刃して、文が大奥に上がるまでを描いている。あの疾風怒濤の歴史の大回天ドラマを、実にゆっくりとスローモーで、無表情のドラマに描いているのには見ている方が調子がくるってくる。
戦後すぐの東映、東宝、大映、松竹などのチャンバラちゃらちゃら劇もほとんどが歌舞伎調なのは、いただけなかったが、「花燃ゆ」での当時の武士の話し方、風俗、作法などはもちろん「拙者ということもほとんどないセリフ」にはやはり違和感を覚える。
同時に、H・G・ウエルズも書いているが、世界の近代革命史に燦然と輝く「明治維新」の実像を現在の日本人、世界の人々に誤って伝えることになるのではといささか危惧する。
もちろん、最近のNHKドラマは女性が主人公にしたものがおおく、これもそうなので、井上真央(この女優の演技力は高く評価する)扮する文の「妻の孤軍奮闘物語」と明治維新の原動力となった「松下村塾」の縦横無尽の活躍とが同時並行で進むのだろうが、もっと歴史的事実に忠実に男の猛々しい激烈ドラマも描くべきでなかろうか。
その意味で高杉晋作の天才こそが、革命の真の動力になったことは間違いないので、この点に力点をおかねばならない。
田中光顕の『維新風雲回顧録』を読み直して、改めて高杉の凄さを再確認した。不惜身命の精神である。高杉に弟子入りして、謦咳に接した田中の回想録だけに迫力満点、「風雲児」高杉の神出鬼没、快刀乱麻、勇猛果敢な飄々としたその突破力を明らかにしている。特に「男子というものは、困ったということは、決していうものじゃない」が高杉の不動の信念であり、岩をも貫ぬく熱誠志であり、革命精神であることがわかる。
田中光顕の『維新風雲回顧録』の高杉回顧録は無類におもしろい。これを読んで、今後の「花燃ゆ」での高良健吾君に期待しよう。彼の爛々として燃えさかる炎のような目つきが気に入ったよ。
Wiki田中 光顕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%85%89%E9%A1%95
中岡慎太郎は、「時勢論」 の中において、予言している。
「自今以後、天下を興さんものは、必ず薩長雨藩なるべし、吾思うに、ちに、二藩の命に従うこと、鏡にかけて見るがごとし、しかして他日、天下近日のう国体を立てて外夷の軽侮を絶つも、またこの二藩にもとづくなるべし、これまた封建の天下に功あるところなり」
事実、天下の風雲は、中岡の明言したように動いていたのである。
この時、長州で、私が、最も世話になったのは、高杉晋作である。中岡は、「兵に臨んでまどわず、樵機をみて動き、奇をもって人に勝つものは、高杉東行、これまた洛西の一奇才」と称賛しているが、彼は長州における人物のみならず、天下の人物である。
最初、私が高杉に会ったのは、1863年(文久3)、春、国もとから京都に出た時であった。
高杉は、当時、髪を剃って、クリクリ坊主になって、法衣のようなものをまとい、短剣を一本さしているというような風体。それにはわけがある。
長藩では、彼を国もとへかえして、政務座に抜擢しょうとした。
ところが、高杉は役人になることは御免だと、いい張った。
藩の家老周布政之助が、しきりに、すすめたが、なんとしても聞き入れない。
「拙者は、是非とも勤王の師を起こして、幕府を倒さずにほおかぬ、役人になることなどは思いもよらぬ」
「といって、今、急に、そうはゆくまい、だんだん時勢がすすめば、足下の望みどおりの時機が参ろう、まず・これから十年も待つことだな」
周布がそういった。
「しからば拙者に十年のおいとまを願いたいさすれば、ほかにあって、毛利家のために働きます」
「それほど、足下が熱心なら、たってとも参るまい、十年のおいとまはなんとかして、取り計らって進ぜる」
周布が、中に入ったので、君侯からもお許しが出た、そこで、彼は、すぐに、落籍を脱して坊主となったのである。
西へ行く人を慕うて東行く 我心をば神や知るらん
これはこの時の述懐だ。西へ行く人というのは、西行法師をさす。西行が隠遁したのを慕って、
反対の東へゆくという心持ちは、神よりほかに知るものはないという諷意だ。
私と初対面の時は、正にこういう際であって、何でも場所は東山にある料亭で、高杉は、首に頭陀袋をかけていた。
芸妓が、よってたかって、物珍しそうに、この新発意をからかいはじめた。すると、高杉は、坊主頭をたたいて、謡い出したもんだ。
坊主頭をたたいてみれば 安い西瓜の音がする
満座、笑いくずれてしまった。その飄逸な態度というものは、今もなお、眼底にありありとのこっている。
私は、はじめ中岡の使いとなって、長州から太宰府に転座した五卿を訪ねた。これが、八月一日で、翌々三日に到着してみると、五卿はほとんど監禁同様な御身の上、京都の模様やら長州の事情をちく一、申し上げようとした。すると、五卿御守衛をうけたまわっている薩摩の肥後直右衛門が、面会を許そうとしない。
もっとも、その折、幕府では五卿を関東に檻送しようというので、大目付小林甚六郎なるものが、太宰府に来ていた。
肥後は、俗論派で、内々この一幕吏をはばかっていたらしい。どうしても、五卿に会わせぬというので、相手にならずと、私も、断念した。
「薩藩として、まことにけしからぬことだ、どういう所存か、京都に引き返し、とくと西郷にたださねばならない」
私は・土方桶左衛門(後の久元)に、意中をうちあけて、八日に長州へもどってきた。
そして、久しぶりで、石川清之助(中岡慎太郎の変名)とともに高杉に会見した。
この時の高杉は、坊主頭ではなく、意気軒昂、当たるべからざる勢い。奇兵隊の面倒もみていたし、海軍のことも世話をしていたし、ほとんど陸海軍総督といった地位にあった。
奇兵隊は、高杉の取り立てたもので、長州諸隊の根源となった。さりながら、二州のがえん者の集まりだ、戦争がないと、一日も、じっとしていられぬ、命知らずの壮士の隊だ、通常のものでは、しょせん統御がむずかしく、高杉でないと、おさまらなかったものだ。
これについて、彼はかつていった。
「孫子に、大将厳を先とすとある、自分が裏隊を取り立てた際には、まず法律を厳にし、
これを犯すものには、割腹を命じた。はなはだ残酷のようであるが、一罪を正して
千百人を励ます、しからずしては、壮士を駕御することは困難である」
なるほど、そうであろうと思われる。したがって、奇兵隊の軍律は、簡単明瞭なもので、高杉の性格そのままだ。
盗みを為す者は殺し、法を犯す者は罪す。この二ヵ条にすぎない。ちかごろ感服つかまつる、どうか、ご両所の心掛けとあわせてこの刀を拙者にお譲りを願いたい」
たっての望みだ。
「何としても、ご執心でありますか」
「いや、もう欲しくてたまらぬのであります」
「では、私にもお願いがあります、お聞きとどけ下さらば、さし上げぬものでもありませぬ」
「何んであるかいっていただきたい」
ここぞと、私がつめよせる。
「しからば、あなたのお弟子にしていただきとうござります」
「弱ったな、拙者は、人の師たる器ではない」
「それならいたし方ござりませぬ、刀は、お譲りはできませぬ」
「つらいな、ようし、そういうことなら、およばずながらお世話をすることにしましょう」
ようやく承知してくれたので、私は、この一刀を高杉に贈り、彼の門下に入った。
彼は、この刀が、よほど気に入ったらしく、長崎で写真をとって、私のところへ送り届けてくれた。それをみると、断髪を分けて着流しのまま椅子に腰をおろしている、
そして、貞安の一刀を、腰へんにぴたとつけ、酒落な風姿の中に、一脈の英気、諷爽として、おのずから眉宇の間に閃いている。彼は死ぬ時まで、これを手離さなかったが、死後、どこへどうなったか、この刀の行方がわからない。一振の刀が、薩摩人から土佐人へ、土佐人から長州人へうつりうつって、薩長土の結び付きとなったことは、不可思議な因縁だと思っている。
私が高杉を訪ねた時に高杉は王陽明全集を読んでいる際であった。高杉がいうには
陽明の詩の中に面白いのがあるといって書いてくれた。
四十余年、瞬夢の中。
而今、醒眼、始めて腹脱。
知らず、日すでに亭午を過ぎしを
起って高楼に向って、暁鐘を撞く。
「王陽明は、亭午(ひる)に至って、暁鐘をついたが、自分は、夕陽に及んで、まだ暁鐘がつけない始末だから情ない」
彼は、こういっていた。
私は、もとより書生の分際で、立派な表装もできずに、紙の軸に仕立てて、秘蔵した。
慶応四年になって、私が・高野へ出発の際、岩倉家の家臣のもとへ、あずけて行った。維新後、これを取り戻そうと、岩倉家へ出かけた。すると、どさくさまざれに、どこへか紛失した。
「気の毒だが見当たらぬ」
やむを得ず、そのままになってしまった。
ずつと後になって、岩倉家に、高杉のかいたものがあると聞いた。
「ことによると私があずけたものかもしれない」
そう思って、同家へ検分に行くと、果して、この一軸だった。
で、四十余年日で、再び私の手にもどって、今日なお、大切に保存してある。
高杉の生涯は、極めて顛かい、慶応三年四月、下関で、病死した時が、わずかに二十九歳であった。しかしながら、彼の一挙一動は、天下のさきがけとなって、こう藩の意気を鼓舞したのみならず、全国勤王運動家の指導者となっている。それでも、自分では夕陽に及んで、なお、暁鐘がつけないと嘆息しているくらい、その気性のはげしさは、驚くべきである。
長州滞在中、彼は、私に教えた。
「死すべき時に死し、生くべき時に生くるは、英雄豪傑のなすところである、両三年は、
軽挙妄動をせずして、もっぱら学問をするがよい、そのうちには、英雄の死期がくるであろうから……」
私は、そのため長州において修養のできたことを喜んでいる。またいった。
「およそ英雄というものは、変なき時は、非人乞食となってかくれ、変ある時に及んで、竜のごとくに振舞わねばならない」
彼の生涯が、正しくそれだ。さらにまたいった。
「男子というものは、困ったということは、決していうものじゃない。これは、自分は、父からやかましくいわれたが、自分どもは、とかく平生、つまらぬことに、何の気もなく困ったという癖がある、あれはよろしくない、いかなる難局に処しても、必ず、窮すれば通ずで、どうにかなるもんだ。困るなどということはあるものでない、
自分が、御殿山の公使館を焼打ち
に出かけた時には、まず井上(馨) が、木柵をのりこえて、中へ躍り込んだ、あとから同志がこれにつづいた、さて、中へ入ったはいいが、このままにしておくと、出ることができない、元気一ばいだから誰も、逃げ路まで工夫して、入りはしない、困ったなと口をついて出るところはここだが、自分はそこですぐに、木棚を1本だけ、ごしごしと鋸で切り払って、人夫出入りするくらい
な空処をつくった、それ焼打ちだぞと、館内ではさわぐ、同志のものが、逃げてくる、その時、おい、ここだここだと、元ひとりそこをくぐらせて助け出したことがある。
平生はむろん、死地に入り難局に処しても、困ったという喜だけは断じていうなかれ」
堅くいましめられた。
この一言、今もなお耳底にはっきりと残っている。のみならずそれ以来、私も困ったということは、かりそめにも、口外せぬようにつ誌て、今日に及んでいる。
私は、今年八十五歳だ、少壮時、多くの先輩諸氏の驥尾に付して、風雲の間を狙来したのであるが、なんら君国のために微功をいたさず、いたずらに、馬齢を重ねつつあることは、まことに慚愧にたえない。
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