『リーダーシップの日本近現代史』(40)記事再録/『150年かわらぬ日本の弱力内閣制度の矛盾』(日本議会政治の父・尾崎咢堂の警告)』★『日本政治の老害を打破し、青年政治家よ立て』★『 新しい時代には新人が権力を握るものである。明治初年は日本新時代で青壮年が非常に活躍した。 当時、参議や各省長官は三十代で、西郷隆盛や大久保利通でも四十歳前後、六十代の者がなかった。 青年の意気は天を衝くばかり。四十を過ぎた先輩は何事にも遠慮がちであった』
日本リーダーパワー史(242)
<日本議会政治の父・尾崎咢堂のリーダーシップとは何か④ >
―150年かわらぬ日本の弱力内閣制度の矛盾―
―日本政治の老害を打破し、青年政治家よ立てー
★『新しい時代には新人が権力を握るものである。明治初年は日本新時代で青壮年が非常に活躍した。
当時、参議や各省長官は三十代で、西郷隆盛や大久保利通でも四十歳前後、六十代の者がなかった。
青年の意気は天を衝くばかり。四十を過ぎた先輩は何事にも遠慮がちになる気風があった』(尾崎の弁)
当時、参議や各省長官は三十代で、西郷隆盛や大久保利通でも四十歳前後、六十代の者がなかった。
青年の意気は天を衝くばかり。四十を過ぎた先輩は何事にも遠慮がちになる気風があった』(尾崎の弁)
前坂俊之(静岡県立大学名誉教授)
①明治初期の大臣、参議、卿と新内閣制について、 国務大臣と各省長官とは、同一となっている。
② 省庁の代表で省益を追究しても、 国益を損ない 国務を扱えない国務大臣の存在は明治の内閣制度の発足当時に決まった。
③各省大臣の予算分捕りは年中行事になっている弊害は全く変わっていない。
④軍部大臣武官制、陸海軍大臣の並立が日本をつぶした。
⑤60歳70歳の老人が大臣をやっているようではダメ、、0歳、40歳代のもっと若い人が内閣に入り得るようにしなければならぬ。
<以下は尾崎『日本はどうなるか』(昭和12年)より>
大 臣 論
大臣、参議、卿と新内閣制
明治初年(1868年)には、大臣の椅子は三つしかなく、太政大臣と左右両大臣だけだった。しかも三つの椅子のうち1つは空席になっていることが多かった。大臣の職につくことが出来るのは、公卿か大名だけで、三條実美公と、岩倉具視公が長くその位置を占めていた。島津公も一時この職に就いたかと思う。
士族以下の者は、如何に実力があっても大臣になることが出来ず、参議となった。参議は大臣の下にあったが、事実上政治の実権を握っていた。
各省の長官は、これを卿といい、大久保の内務卿、副島の外務卿、といふが如くであった。明治八、九年頃までは、こういう習慣になっていて、私どもは参議も卿も同一のものと思っていた。実際上にも大隈重信参議は大蔵卿をかね、伊藤博文参議は工部卿(いまの経産省)を勤めるというようなことが行なわれた。
ところが、明治七年頃から、内閣分離論という議論がやかましくなって来た。これは内閣と、各省とを分離するという議論であったが、遂に明治十三(1880)、四年頃、実行された。その結果、偉い人物は内閣にいて、各省の長官つまり卿にはならず、卿になるものは、一段下った人物とされるようになった。
参議は内閣にいて二省か三省を監督することになった。大隈重信侯の如きは一時、四省も監督したが、普通は三省を監督していた。
明治十八年に内閣官制がかわって、太政大臣が廃止されて、その代りに総理大臣ができた。同時に各省の長官だった卿を大臣とし、各省を監督していた参議を廃止して、各省長官と国務大臣が一つになった。この制度は以来、現在に及んでいるのである。
国務を扱えない国務大臣
そこで名省と内閣とを分離していた昔の制度がよいか、現在の制度がよいかという問題が起るが、今のわが国(注・昭和12年に尾崎はこの文章を書いているので、75年ほど前の日本)の頭脳の程度では、分離して置く方がよいと思う。
英米も国務大臣と各省長官とは、同一となっているが、英米人の場合には、それが目立つほどの弊害にならない。
日本ではこういう制度であると、各省長官は何れも自分の省の問題には努力するが、国務大臣であることを全く忘れてしまうのが、普通のようである。
現在の日本人には、まだ国家ということが、頭の中によく入っていないから、これはやむを得ない。大臣は誰も国家、国家と口先ではいうけれども、閣議に列して見ると、何時の間にか国家のことは忘れてしまって、各省庁のことばかりに夢中になってつしまう。これは国家というものが、ほんとに頭の中に入っていない証拠である。
日本では各省大臣の予算分捕りは年中行事になっている。陸軍大臣は陸軍のことばかりを考へ、海軍大臣は海軍のことだけを考えるというわけで少しも国家全体について考へることを知らない。これは陸海軍に限ったことではなく、各省大臣みなそうである。
陸海軍の大臣が特にこういう傾向が持っのは、陸海軍大臣があまり専門知誠を持ち過ぎるといふ点にもあるようだ。
陸軍にも海軍にも、歩兵とか工兵とか、色々分科があって、軍人は自然専門家になるように出来ているから、国務大臣になった場合ににはいけないのだと、ある軍人が云っていたのを聞いたことがあるが、国務大臣には専門家でない人の方か適するするようだ。
私は文部と司法の両省にいたが、文部のことも、司法のことも、少しも知らなかったから常に国家全軍とを考へていた。
無任所大臣設置の是非
庶政一新ということが、しきりに言われるが・庶政一新の手始めに陸海軍を合併して国防省を設置するがよい。
国防省となれば、国防大臣1人置けばいいから、陸軍と海軍が互いに予算の分捕り競争をすることだけは防げるわけだ。こういう場合にも陸軍出身の者が大臣なれば陸軍に厚く、海軍出身の者が局にあたれば、海軍を重く見るというような弊害はあるかも知れないが、現在よりよほどよくなるに違いない。
無任所大臣ということが、各省大臣の割拠主義を矯める一つの方法であると考へ、かって関東大震災後の山本内閣の時、大石正巳君を無任所大臣にしたことがあるが、この内閣は短期間で潰れてしまったので、その効果を果たすことができなかった。
無任所大臣を置くとすればそれが非常に有力な人物であればよいが、各省大臣と同じ位の人物だと省を持たないだけに一層、伴食大臣になりがちである。無任所大臣になる人物は少くとも副総理級の資格がなければならない。
現在、軍部が内閣に絶対的勢力を持っているに理由の一つは、陸海軍大臣が、文官制でないためである。大臣というような地位につく人は、文官とか武官とかいう資格で決めるべきではなく人物の禁不適で決めるべきであるというのが、私の多年の主張であったが、最近の実情は、私の主張からますます遠ざかり、陸海軍大臣には、現役の大中将でなければなれないようになっている。
英米では陸海軍大臣は概ね文官で、武官が就任する場合でも大佐であらうと中佐であらうとかまはないことになっている。また軍人が他省の大臣になる時でも・官等にはかかわりない。英国外務大臣のイーデンは中佐か大佐かであると思う。
日本の今日のような制度であると軍部の大中将たけが、一致してストライキを起せば如何なる内閣といえども潰すことが出来るのだから、誠に危い制度である。 ′
軍部大臣を文官制にすることは、昔からの問題だが、この間題が起る度に軍部は統帥権云々を持出して来る。統帥権というものも大権の一つであって、総理大臣輔弼の権限外に置くべきものでない。
いやしくも大臣たるものは、陛下の国家的御行為に対しては悉く輔弼の責任を執らなければならないはずである。私が内閣にいたときは、此の見地から軍部の考へ方に反対した。一木君など大学でどう講義をしたか知らないが、私の意見に黙認を与えていた。実際上にも浜口内閣の頃まででは・陸海軍大臣が不在中、純理大臣が臨時代理をしていた。
たゞ戦争の時、天皇陛下が御親征になって首相が内地に居る場合にはいわゆる
帷幄上奏の必要も起らうが、平時には国務ほ凡て園務大臣の責任に帰すべきものである。右の場合においてすら戦場の駈引きなどになると総理大臣では都合の悪い場合があらう。
ドイツがオーストリアと戦った時、ビスマルクは、始終、軍についていて凱旋軍をウィーンに入れなかった。軍除の方では是非とも兵を敵の首都に進めて、凱旋式を挙行したかったのだが、ビスマルクはそれを拒んで・大問題を惹起した。凱旋軍をウィーンに入れれば、必ずオ―スリア人の反感を買い、他日これを味方にする妨害になるからであった。彼のやり方は、さすが軍には大不平を生じたが、此の一事はその後の普仏戦争や、ドイツ・オーストリア同盟に多大な効果があった。
新時代と青壮年の活躍
近年、わが国では、60歳70歳の老人でなければ大臣になれないというのも、たいそう悪い傾向で、広田弘毅君など比較的若い方だが、それでも六十歳に近いという有様だ。人間は三十歳で大体。成長をとげるものであるから、もっと若い人物が内閣に入り得るようにならなければいけない。
欧米では如何なる内閣にも三十歳代のものが入閣している。英国の例を採って見ても、欧洲外交界に華々しい活躍を績けているイーデンは、当年三十九歳であり、属領省大臣のマルコルム・マクドナルドは三十五歳であって、その他四十歳のものが、三人も入っている。英国には閣議に列席しない大臣が八人あるが、そのうち五人は四十代で、他は二人が五十を少し越したばかり、六十代はたった一人しかいない。アメリカの内閣でも四十代のものと、五十代のものが大多数を占め、六十代のものは少数である。
日本では老人でなければ大臣になれないわけは日本の社命が沈滞しているためである。庶政一新を実行するには先づかかる沈滞した空気を一掃して、人物の如何を標準にして、どしどし若い者を重用するようにしなければならない。
新しい時代には新人が権力を握るものである。明治初年は日本が新時代に向つていた時であるから、青壮年が非常に活躍した。当時、参議や各省長官の椅子について、権勢を振った人物も多くは三十代で、西郷や大久保でも四十歳前後、六十代の者がなかった。
多くの者が30代で活躍していたから、青年の意気は天を衝くばかり。四十を過ぎた先輩は何事にも遠慮うがちになる気風があった。懇親会などの席上で、私どもは四十代の先輩がくると「われわれは老朽者と席を同じくするわけにはいかない。帰ってもらおう、ぐずぐずしているとなぐるぞ」などと怒鳴りつけたものだ。
実際、私には人をなぐりつけやうな腕っ節はなかったが、とにかく、こうして威張るという有様だった。前島密君などはよほど人物であったが、あ席上で私どもに怒鳴りつけられると、別に怒る様子もなく、頭から羽織をかぶって帰ったことさえあった。
政界だけでなく官界でも実業界でも、老人が権力を振っているのが日本の現状だが、老人万能の第二の理由は教育制度が悪いからである。学校教育は普通20年までには終らなければならないはずのものであるのに、我が国では官立の大学を卒業すれば、早くて二十三歳位になり、普通は二十五六歳になってしまう。これは国家としては大変な損失である。文字と言葉が悪いから、日本の教育は、小学校六年の課程のうち、欧米諸国の教育に比し、二ヶ年は損をしている上に、大学卒業までの長い期間、学生は不必要な努力を続けなければならないことになっている。
つづく
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