日本リーダーパワー史(49)名将・川上操六のモルトケ戦略の応用とは・・ロジスティックの重視⑤
2015/02/16
日本リーダーパワー史(49)名将・川上操六のモルトケ戦略の応用⑤
名将・川上操六はモルトケ戦略を自家薬籠にする⑤・・・
前坂俊之(ジャーナリスト)
『戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となす。五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りを生ず』(武田信玄「甲陽軍鑑」)
明治天皇は日清戦争について「朕の戦争にあらず」と周囲のものにもらしている。参謀総長の川上操六、陸奥宗光外相の2人が引っ張りまわしたと言われる。日清戦争は川上一人によって戦争指導がなされたといわれるほど、絶大なリーダーパワーを発揮した。
日本では江戸末期のころ、ヨーロッパ全土を支配下におさめフランス大帝国を一代にして築き上げたナポレオンを英雄賛美して、明治天皇も伊藤博文も軍人たちも熱烈にナポレオン崇拝していた。ナポレオンの作戦指揮は、天才的なヒラメキ、判断、戦術で、戦場では第一線に立って全軍をまるで天馬の空を駆けて行くように臨機応変に指揮して、周辺各国との戦いに連戦連勝した。しかし、軍事的天才のワンマンプレーそのものなので、ナポレオンに何かあった場合はすべてが台無しになり、国家もともに滅んでしまう。 人の命は一代でも国家の生命は長久でなくてはならない。
このナポレオンの「一人の天才」の戦略に対して、「凡人の集団」で分担して英雄的な仕事をしていく参謀本部を作り上げたのがモルトケで、普仏戦争で勝利して大ドイツ帝国を築き、一躍世界の注目を浴びた。川上はナポレオンを打ち破ったドイツ参謀総長モルトケの戦略を導入したのである。
モルトケの参謀制度は普仏戦争の勝利で一挙に世界の注目を浴びて、各国軍は競って導入した。しかし、各国の事情により、その受け入れ方は違い、敗北したフランスはナポレオン戦略から脱皮できず、モルトケの参謀制度をまねても、参謀の書記・伝令的な性格が強く残した。英米、日本海軍(英国流)も同様だが、最も忠実にまねたのは日本陸軍で、その結果が日清、日露戦争につながったが、その欠点である幕僚統帥・独断専行がよりひどくなり、第2次世界大戦でのドイツ軍、日本陸軍もやぶれてしまったーと「参謀総長・モルトケ」を書いた大橋武夫は指摘する。
ではモルトケの戦略とはーーナポレオンのせん滅戦略(戦いの目的は敵軍の戦力を奪うにあって、領土の獲得ではない)を近代化し、技術の進歩と兵力を著しく増大したことである。その特徴は、最新技術を利用して①鉄道の発達②電信の開発③銃砲火器の開発で、これに歩兵砲兵を一体化した。ナポレオン時代の兵力増大の戦法が、会戦前に先ず兵力を集結したのに対し、戦場に向かい前進しつつ展開態勢していく分進合撃戦法を考案した。
これに合わせて開戦前までに入念な戦争準備を行い、情報収集を徹底する。武器の近代化とともに鉄道、通信など最新技術を利用、兵力集中、動員、輸送をスピーディーに行う。同時に兵站、物資の輸送、ロジスティックスの重視、これらを統合したシステマチックな作戦計画を参謀が策定する。このために優秀な参謀を教育して参謀本部を国軍の中軸に設置して、総合的な戦略立案に当たるのがモルトケ参謀総長の方式で、これでナポレオン3世のフランスは普仏戦争(1870=明治2年―71年)に完敗した。軍事組織の抜本的な改革を行ったモルトケ戦略は現代の組織論、近代マネージメントの基礎となる。
明治17年2月、大山厳陸軍卿(陸相)は、陸軍きっての英才の桂、桂太郎、川上ほか俊英17人を引き連れて、陸軍大改革の準備調査のためにヨーロッパ各国を視察、イタリア、フランス(47日)、英国、ドイツ(70日)、ロシア、米国など回り、翌年1月25日に帰国した。視察の目的は①将来の陸軍の編成、軍政の研究②部隊の演習の実地調査③最新の軍事知識の吸収④ドイツから陸軍大学の教官の1人派遣してもらうーことなどで、ドイツ参謀総長モルトケの推薦で参謀少佐クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル(42歳)を日本に招致することになった。
メッケル小佐は明治18年1月に来日した。この時の日本陸軍は歩兵十三旅団一連隊、騎兵二大隊、砲兵七連隊一砲隊,軽重兵六小隊、屯田兵一大隊一中隊、軍用電信二隊など総兵数はわずか三〇三四二人の劣弱な陸軍をでしかなかった。
これを、兵力百万を超え世界一の陸軍強国・ロシアと戦うことのできる日本陸軍に20年後に育て上げていくために、思い切ってドイツモルトケ戦略に切り替えたのが桂、川上の陸軍きっての俊英コンビで会った。
二人はいずれも少佐で36歳の同年齢であり、山県有朋、大山は若き2人に陸軍建設の将来を託し、調査研究の中心に据えた。旅行を通じて2人は肝胆相照らし、桂(後に大将、日露戦争時の内閣総理大臣)は陸軍軍政を担当し、川上(参謀総長)は国防作戦を担うことを話し合った。すでに桂太郎は明治3年8月からドイツに3年間留学、シュタインの「軍事行政論」などを勉強していた。
ドイツ視察で川上ははじめてモルトケに会い、ドイツ参謀本部の組織に驚嘆した。当時、日本では参謀部は陸軍省の一部にすぎず、内乱用だけであるかないかわからないような存在だった。ドイツ参謀本部の組織は第一総務課、第二情報課、第三鉄道課、第四兵史課、第五地理統計課、第六測量課、第七図書課、第八図案課まできちんと整備され、常時、情報の収集と分析を怠らず、いざ戦争となれば百万の軍隊がたちどころに動員できる体制が整っていた。
近代軍隊の組織、動員、輸送、兵站の運用、機械化、標準化、システム化が整備されて、参謀総長をはじめ参謀、作戦のトップが急死、戦死した場合にも、スムースに引き継ぐマンパワー体制に備えていた。ナポレオン式ではなかった。
川上、桂はドイツ陸軍を徹底して分析することで、フランス側の猛反対を押し切ってドイツ方式に切り替えのである。
川上はヨーロッパから帰国すると少将に昇進、参謀次長になり、その後、新設の近衛第二旅団長になった。明治20年1月にドイツの軍事体制、モルトケ戦略を徹底して研究するよう乃木希典と2人でドイツ留学を命じられた。
明治天皇はドイツ皇帝(カイゼル)あてに「陛下から2人に恩遇を加えていただければ感謝します」のドイツ語の親書をことづけた。川上はモルトケにあい正式に弟子入りと教えを請うた。モルトケはこの時、86歳だったが、30年以上も参謀総長の要職にあり、普仏戦争での大功労者、世界の軍事界の最高峰に君臨していた。一方、川上は38歳で、約50歳もの年齢差があり、まるでひ孫を相手に噛んで含めるように「参謀本部の組織は絶対秘密だが、極東の日本とドイツがまさか戦争することはあるまいから、例外として奥儀まで教えてあげよう」と受け入れた。
ワルデルゼ参謀次長が一緒に立ち合いモルトケのロからでる断片的な教訓を親切に注釈して解説してくれた。
「軍、ならびに軍首脳部は政治の党派や潮流から絶対に独立していることが必要じゃ。つまり、参謀本部は平時は陸軍省からもはなれたものにしておかねばならん、スペイン、フランス、イギリスでさえ軍行政が政治とからんで妨害を受けたことはなんどもある」
「時代がかわれば武器の優秀さや、兵力の多数をもって、わがドイツと競う国は出てくる。しかしな、兵を統帥する指揮将校の優秀さ、こればかりは、わしが今、仕込んでいるガイスト(精神)を忘れぬかぎり、永遠にドイツをしのぐ国はあり得ないのじゃ」「軍略などと言ってなにも特別に難しく考える必要はない。常識と円満こそ軍略の精髄である」
モルトケの指示で、川上は実際にドイツ参謀本部付となって勤務し、同参謀本部ロシア課の大尉から動員、準備、戦術、作戦の講義を実地に受けて、ドイツ陸軍の組織、訓練、情報活動の中身まで、その手の内を見せてくれた。
モルトケ自身からの講義は参謀本部総長控室で行われたが、その横窓からベルリン市動物園が見え、そこにドイツ戦勝記念碑が立っていた。
「あれこそ、わしのきたえたドイツ軍人精神のシムボルなのじゃ。日本にも、これが立つようでなくてはならん」
「あれこそ、わしのきたえたドイツ軍人精神のシムボルなのじゃ。日本にも、これが立つようでなくてはならん」
また時として川上は自宅に迎えられた。老元帥は、バラづくりを自慢にしていたが、極東からきた弟子をそのバラ園にまねいて、自ら手入れをしながら雑談的に講義することもあった。
いつも講義の最後に出る言葉は、「はじめに熟慮。おわりは断行」で、これがモルトケの要諦であった。歴史を好んだモルトケはいろいろな例証を上げ、後年、川上が統帥権の独立を明確に決めたのはモルトケの教示によってであった。
(つづく)
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