日本リーダーパワー史(56) 海軍トップリーダー・山本五十六は国難にどう立ち向かったか②ハワイ攻撃を発案
2015/11/12
日本リーダーパワー史(56)
海軍トップリーダー・山本五十六は国難にどう
立ち向かったか②ハワイ攻撃は山本五十六が発案
真珠湾攻撃は山本司令長官の発案
<政治記者O B会報平成6年8月23日掲載の萩原伯水講演「山本五十六と米内光政」から>
ハワイ攻撃は山本司令長官の発案
海軍航空の目覚ましい進歩は渡洋爆撃の中攻機のみではない。真珠湾攻撃の零式戦闘機がある。日本の真珠湾空襲は誰の発案か、しばしば論議されるところだが、宇垣 纏中将(山本連合艦隊司令長官の参謀長。終戦時は第五航空艦隊司令長官で沖縄戦で部下の特攻隊負と敢空母部隊に体当たりして戦死)の戦藻録によれば、それは山本連合艦隊司令長官その人であった。戦藻録四一頁には次のように記されている。
ハワイ攻撃は山本聯合艦隊司令 長官の発案で、昭和十六年春腹心の第十一航空艦隊参謀長大西瀧次郎少将に立案を命じ、その答申を基礎として右作戦が聯合艦隊の研究課轟として取上げられたのは、同年五月七日米太平洋艦隊のハワイ集中が発表された後のことであった。
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① 、我方の攻撃の時期に、果して米艦隊が真珠湾にいるかどうかあらかじめ知ることができない。
② 我方がハワイにたどりつくまで機動艦隊の行動を秘匿することが困難である。
③ 一か八か余りに投機的である。
そして、南方資源地帯への作戦は是が非でも成功させなければならない大事な作戦だから、少ない航空兵力を二分して二兎を追うのは虻蜂とらずになる危険がある、というにあった。
然し山本長官の信念は固く、断乎として原案遂行を決意したのであった。
其後九月十日から三日間、海軍大学に聯合艦隊の各指揮官を集め、図上演習で作戦計画を練った時、今度は軍令部から反対意見が出たが、山本長官は依然原案を固執して譲らず、其後陸軍が満州の航空兵力を南方に転用することを認め、兵力に余裕ができたので永野軍令部総長の決裁で十月二十日漸く作戦計画が内定したのであった。
このように機動艦隊司令部の首脳は始めからこの作戦に反対であった。従ってその実行に当たっては追撃の決行にやや消極的だったとも考えられる。
海軍省の山本次官の居室の壁には、数本の書がかわるがわる掛けられていた。
日く 国難大好戦必亡
日く 天下雖安忘戦必危
日く 一忍以可支百勇 一静以可制百動
これは幕末の越後長岡藩家老・河井継之助の書である。
そのほかに堀 悌吉中将の一門たる宮島大八翁の書かれた『流星光底長蛇』の一幅があった。この書には逸の字がない。長蛇を逸しないためであろうか。『海上航空部隊の攻撃は、充分なる調査と綿密ななる計画の下に、切り卸す一刀の下に凡てを集中すべしゅとの一刀流的名言(草鹿第一航空艦隊参謀長)によるものか。とにかく長蛇を取り逃してはならない手法を示したもののようであった。
「米内海相」を推す山本次官
私が山本さんに最初にお目にかかったのは、山本さんが次官になってからである。昭和二年の暮れであった。それ以前航空本部長のころから、クラブの先輩に山本本部長は「米のメシだぞ。噛めば噛むほど味が出る」と聞いていた。その本部長が次官に就任した。
二・二六事件のあと広田内閣に代わって林 銑十郎が組閣し、この内閣に米内光政が海軍大臣として入閣した。
当時海軍部内は、五・一五事件の後を受けて余波がくすぶっており、これを一掃して部内を引き締めることが喫緊の課題であった。山本はこの問題の解決には米内を措いて他になしと考えたのである。
林内閣の海相に誰がなるか、それは海軍自体の問題でもあるので黒潮会のわれわれは狂奔した。どんなに焦っても見当がつかない。それとなく流れている情報は藤田尚徳中将だ。仕方がない。それでいこうというので翌日の朝刊は各
紙とも藤田中将と書いた。くたびれて記者クラブの長椅子で仮眠をとっていた。朝七時ころ何か声がする。目覚めてみると山本次官が立っている。
「君達!朝刊の記事は違うぜ。藤田中将じゃない。いま米内長官が電車で東京に向かっているヨ」といい残してスタスタと出ていった。さあ大変。各紙一せいに電話に飛びついて米内だ!米内だ!と叫んでいたのを思い出す。
おそらく山本次官としては前夜にでも米内説をいいたかったのだろうが、部内手続きが済んでいない。すなわち山本から永野大臣に進言し、永野大臣から軍令部総長伏見元帥宮殿下の御同意を得るまでは発表をはばかる事情があった
のであろう。
”夜回り記者“に敬意をもって応対
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「夜分遅く失礼しています」「うおーつ」と次官、「毎度無断で上がり込んで御帰宅を待っておりますが、いつも怒られもせず、有難く思っています」というと、次官の返事は「深夜でも君らは働いているのだろう。僕は働いている人には敬意を表すヨ」-。
これでわかった。次官の真意はそこにあった。敬意を表されるからにはこちらもウカウカしてはいられない。眠気も醒め、心機一転して再び深夜の街に飛び出すのだった。
自分が一兵卒になって畑違いの航空技術の習得に集中できる人だから、他人が勉強するのも大好きだった。われわれ仲間のある記者が当時有名だった英国の海軍記者バイウォータの著書を手に入れて記者会見で披露した。だが読めないので困った。何かいい方法はないだろうかという。これを聞いた山本次官は英語を勉強すればいいじゃないか、そうすれば読めるヨ……と。ぶっさら棒の発言に、くだんの記者は後で「俺に勉強しろとぬかした」と憤慨していたが、次官の言うのがもっともで勉強すれば読めるようになる。要は勉強する意欲があるかないかの問題だ。いい方法とは他人に頼るのではなく、自分でやることだというのが次官の真意だった。
私にもこんな経験があった。ある著名な雑誌社から、当時広東方面で活動中の第四艦隊司令長官近藤信竹中将の人物評論を書いてくれと依頼があった。黒
潮会員だからといって提督全部の人物像を知っているわけではなく、また戦時中軍人の人物紹介は禁止ではないまでも自粛を要請されていた。間違ってもいけないと思い、山本次官に会って近藤長官の人となりを聞いてみた。すると次官日く
君は孫子、呉子を読んだことがあるか、兵法を知らずに軍人を論評してはいけない。
では一体次官はいつ勉強したのだろうか、それは人が寝静まった午前二時ころまでときまっていたようだ。人の眠る深夜は、次官にはまだ宵の口だったのかも知れない。作戦会議や図上演習では三日三晩ぶっつづけということもしばしばである。とにかく頑張ることが好きな人だった。書類の決裁でも机上にうず高く積まれた山を、立ったままボンボンと押印して片づけ、あとはけろっとして来客に接するなり、記者連と雑談するなり、綽々たる余裕を見せていた。
次官室は正面階段を上った突き当たり、大臣室と秘書官室に挟まれた通路で、扉は開けっ放し、誰でも入れるようになっていた。肩怒らした右翼の大物もこの部屋で応接され、帰りには肩の力を抜いた楽な姿勢で、次官に送られて階段を下りるのが常だった。
次官は酒は飲まなかったが、宴席は嫌いではなかった。次官の招待といえば会場は芝浦の某中華科事のことが多く、がやがや、わいわいの賑やかな宴席で次官はニコニコと主人役をつとめ、終わるまでつき合った。
またこんなこともあった。山本が次官になってから黒潮会に力を入れたのは前にも述べたが、当時「馬小屋」とよばれたクラブの部屋があまりに汚いので内装を替えることになり、かなりの出費をいとわず床、壁、天井などを塗り替えた。
新装成った部屋で改装祝いを催すことになり、次官、局長をはじめ秘書官、報道部員など関係者が集まって宴会が始まった。酒は海軍省の倉庫直結なのできれる心配はなく、補給は秘書官がやってくれた。飲むほどに、談ずるほどにヴォルテージが上がってだんだんオカシクなり、豊田副武軍務局長と某記者とが相擁してわめく風景などもあった。そばで次官がニコニコして眺めていたのを思い出す。
私は昭和一四年四月三〇日結婚した。三国同盟の可否をめぐる白熱した論戦の真只中であった。その険しい情勢の下、超多忙な山本次官が私の結婚披露に出席してくれ、祝杯の音頭をとってくれた。若い二人の感激は如何ばかりか、お礼に参上した日の霞ヶ関の緑が眩ゆかった。
「十万の将兵惨として驕らずらず」日米開戦-年頭の山本書簡
山本元帥ほど手紙を書かれた人は少ないだろう。手紙、それも毛筆でちょいちょい書いた。ある正月の夜元帥を探したがいない。秘書官にきいたら大臣官邸にいるという。行ってみると、大臣官邸の二階の一室でせっせと葉書を書いている。地方の中学生から来た年賀状の返事を書いているのだという。
元帥の手紙は達筆で美しかった。私も教本いただいた。その一本は私が召集で千葉県柏の近衛高射砲二連隊にいた時、もう一本は中支の漢陽の陣地で、また一本は南京支局で受け取ったものだ。
山本次官は、昭和一四年八月末連合艦隊司令長官に親補されて海上に出た。私は同八月一六日召集を受けて相の連隊に入った。このことを知ってか、山本はわざわざ手紙をくれたのだ。ある日演習から隊に帰ったら人事係の曹長殿(陸軍では上長には殿をつけた)が私を呼んでいる。行くと曹長殿一通の封書を出し、オマエはこの人を知っているのか。どういう関係かと怪げんそうにきく。見ると宛名は正しく私で、差出人は海軍省 山本五十六とある。そこでかくかくしかじかと説明すると、曹長殿合点が行ったか、それからあと私の待遇が良くなった。良くなったといっても撲られる回数が若干減った程度だったけれど。
柏連隊での一カ月の短期訓練ののち外地に送られたが、着いたところは漢口の奥の漢陽で小高い丘、それも全山基地のてっぺんを平に削って作った高射砲陣地だった。月余の後また山本から封書が届いた。
こんどは軍艦長門 山本五十六とある。ははぁいよいよ海上に出たなぁと知った。一五年春、一旦除隊ののち、こんどは新聞社の南京支局長として発足早々の荘兆銘政権の取材に当たっていた。開戦の年、昭和一六年一月一五日付け元帥の手紙には次の文字がある。
太平洋上波涛益々荒く、今となりては和戦は一にかかって神意によるの外無之、小官の任務も真に重且大、唯一誠以て神意に応えむと努力致居候。幸に機摩下 将兵十万、惨として騎らず、葺くは神明の加護により此難関を突破致し了せむことを祈念罷在候
連合艦隊を率いる長官の苦衷は察するに余りある。私は一〇万の将兵惨として騎らずという語に引っかかった。長い間、頭の奥に引っかかったままだったが、ある日偶然にも唐詩選の中の後出寡と題する杜甫の詩の中に発見した。杜甫は長安城東門内にある軍営の情景を描写したのだ。
(前句数行略)
中天懸名月 令厳夜寂蓼
悲品数声動 壮士惨不壊 借問
大将誰 恐是寄席桃
註=寄席桃は前漠の将軍、終
身塞外の種族旬奴などと戦った。
軍の統制に勝れた名将。
山本元帥は万葉集に詳しいとは聞いていたが、漢詩に造詣ありとは知らなかった。知識をひけらかす人でなかっただけに床しい気がする。それにしてもあの激務の傍らよくもマメに手紙を書いたものと思う。それというのも性來の律義と人情に厚い人柄の現れではなかろうか。
山本戦死で前途に不吉な予感
昭和一八年四月一八日の夕方、元帥戦死の内報を耳にした。大きなショックを受けた私は、居ても立っても居られず真っ先に米内さんのもとへ行った。すでに米内さんは山本家へ行ったというので麹町平河町にあった海軍施設本部に金沢正夫長官を訪ねた。金沢氏は前海軍報道部長だった人、後に呉鎮守府長官になった。
忘れもしない。その日の暮れ方、薄暗い部屋で主客相対した。来意はわかっているのだが、双方とも言葉が出ない。しばらくの間、たったまま涙を流した。やっと金沢がいう。山本が死んだからといって涙を流すのはよそう。山本の死に対して街の人や婦人、子供が悲しむのと同じ悲しみ方では済むまい。
われわれ山本に親しんだ者には、またそれなりの悲しみ方があるはずだ。連合艦隊長官なんかは海軍伝統のやり方があって誰にでもできるのだ。山本の偉いのは、後発の日本海軍航空を世界第一級のものに育て上げたことだ。その間の山本の苦心と努力をわれわれは忘れまい。と。金沢長官の苦しい胸の中もわかるし、それはその通りなのだが、山本戦死という衝撃が大きすぎて、戦争の前途に不吉な予感を禁じ得なかった。事実それから後の戦局は日を追って悪くなり、二年余で日本の敗戦となった。
(つづく)
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