日本リーダーパワー史(66) 辛亥革命百年⑦犬養毅と孫文について①<鵜崎鷺城「犬養毅伝」誠文堂1932年>
日本リーダーパワー史(66)
辛亥革命百年⑦犬養毅と孫文①
<鵜崎鷺城「犬養毅伝」誠文堂1932年より>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
支那問題の権威
支那問題といえば犬養木堂氏を連想し、犬養氏といえば支那問題を聯想するというほどに、久しき以前から氏は支那問題において知られ、支那問題のオーソリティといえば、先ず何人も氏に第一指を屈した。
元来、支那問題が一般的に重大視されるに至ったのは日清戦争以後で、それまでは両国の間に種々な外交的葛藤があったに拘らず、それほど国民から深い注意を払われなかった。まことに政党員の如きは国内の問題に没頭し、藩閥政府を討つに急にして隣邦の問題を閑却した形であった。
しかるに犬養氏はつとに東方問題に注意して一隻眼を養い、東洋趣味の上からも支那を研究したので、数千年の歴史を有する支那の文化、国民性、習慣、政治組織等について独自一己の主張がある。殊に東亜百年の大計を定めるという点から常に対支外交に思いを潜めたので、氏の支那に対する経論は、単に口舌の論でなくして実行
的であった。政府にして方針を誤ればこれを責め、或いは支那人にして日本を誤解すれば、我国民の真意を知らせるように努め、東洋平和、隣邦扶植という大局的見地に基いて日量に力を用い、殊に革命党は氏の同情と指導に負うところが多かった。それゆえ、犬養大人といえば、帝政時代から支那人の間に著聞していた。
世に支那通と呼ばれ、また自ら支那通を以て誇るものも、多くは生半可、つけ焼刃である。自称、支那通はあたかも木の節穴から片眼で複雑した人間社会を窺いている如く、その視野が狭く限られているから、局部的には通じていても大局を見透すことが出来ない。
犬養は支那というものを大処高処から観察し、表面のみを見ずして遠く将来を洞察し、その知識の本格的にして幅と深みがある。対支政策上の経論を有する点において折紙つきの支那通である。それ故少なくも支那問題に関する限り敵党の人々も権威と認め、政府も氏の議論に重きを置き、一たび支那関係の問題が起ると、先ず国民の聴かんと欲したのは氏の意見であった。
したがって新聞記者も第一番に氏の談話を求めるを常としたが、支那人の間に重んぜられているだけに、氏の言うところは普通人と違って注意され、もし新聞に意味を違えて書かれたり、あるいは話さないことが掲げられた。すると、往々にして日本人の真意が支那人に誤解され、随って影響するところが少なくないという心配があった。
それ故支那問題に関する限り、氏は新聞記者に対しても用心して語り、いやしくも疑惑誤解を招き易いこと、支那人の神経を刺戟することは成るべく口外するのを避けるようにした。それほど氏は日支関係に意を用い来たったのである。
氏の支那研究は古いが、実際運動は東亜同文会設立に始まる。同文会は明治三十年、星亨、佐々友房等と共に創立したもので、近衛篤麿公を会長に挙げ、大隈を始め長岡護美、谷干城、岸田吟香、陸実、佐藤正等も関係し、支那問題研究機関として古い歴史を有するのみならず、今日に至るまで種々の事業をなしている。それ等創業時代の人々はことごとく泉下に入ったが、氏は同文会のき宿として重んぜられ、また同志と共に国民同盟会なるものを組織して対支運動を指導した。同文会といい、同盟会といい、名称は異なるも、共に日支親善、支那領土保全、隣邦開発を目的としたのである。
氏は四たび支那の遊を賦し、粛親王、恭親王、張子洞、那桐、端方、趨爾巽、鉄良、暮煙、盛宜懐等の大官や、保皇会の康有為、梁啓超、熊希齢等の名士とも相識の間であったが、革命党と最も結びつきが深かっただけに自然南方に知己が多く、殊に孫文とは最も親交があった。孫文、黄興等が革命運動に魂を打ち込んだ時代には、故国に志を得ざる浪人で、南方に押し渡。革命運動を援けるものが多かった。多数の浪人群の中にはくいつめ者もあったが、質のよいのになると孫黄の帷幕に用いられたものもあった。滔天・宮崎寅蔵の如きはその一人で、孫黄のあるところ必ず宮崎があるというほどの関係であった。
孫黄中心の支那浪人は、いずれも犬養氏に傾倒し、氏もまた彼等の志を成さしめるため、一は孫の志業を援けるため、或いは外務当局に談判し、渡支の資金を調達してやった。
宮崎のごときは最も氏の恩顧にあずかった一人である。初め氏の尽力により外務省の嘱托で、宮崎と外二人は支那視察に赴き、孫文と相識って革命党と関係を結んだ。革命党の失意時代に宮崎は生活に窮して桃中軒雲右衛門に弟子入し、牛右衛門と名乗って浪花節語。になったこともあったが、そのときも犬養氏の世話になったので、彼は死にいたるまで氏の恩義を忘れなかった。支那浪人も近年は漸次影が薄くなり殆んど四散して何処に何をしているか分からぬのが多いが、後年に至るも彼等は氏を尊崇して先生と呼んでいた。
亡命志士のパトロン
日本に逃れ来たった革命党志士にして氏の庇護を受けないものはないといってよい。独。支那人のみでなく、凡そ政治的亡命客に対しては出来るだけ援助した。けだし氏はアジア民族の大なる味方であり、まことに被圧迫民族、圧迫階級に同情してその解放と幸福とを計る点において、人類主義者である。
かつて朝鮮開国党の金玉均(きんぎょくきん)が韓宮廷の改革を企てて成らず、日本をたよって来たとき、我政府の顧みるところとならず、諸処に転々落托し、空の鳥は巣あり、人の子は枕するところなしというような憐むべき境涯にあった。これより先き慶応義塾には朝鮮人が来学し、警溶、芸異等、後に朝鮮政界の名士になったものもいた。金玉均も日本に来て福沢翁の門に出入し、翁の教示に感奮して故国の政弊刷新の志を堅めたが、それには人物を養成しなければならぬというので、留学生を塾に托した。そういう関係で犬養氏は金と相識るに至った。金の亡命し来たるや、福沢翁は政府の無情を憤り、金の不遇を憐んで住むに家あり喰うに食あらしめ、犬養氏また天涯の孤客に同情して、金が刺客に欺かれて上海に赴くときも、万一の変を憂えて諌止した。
またかって康有為、梁啓超等が変法自彊を光緒帝に献策して用いられ、当時直隷按察使たりし表世軌もこの計画に賛成して兵力を貸そうといったので、康梁は袁世凱を味方と信じていた。しかるに表の口から改革派の密謀が満廷守旧党の首領栄禄に漏れ、栄禄から西太后に告げたので、大事は終に敗れた。
帝は宮けつの一室に幽閉され、康有為と梁啓超とは将に捕われんとするところを日本にのがれ、亡命中犬養氏の世話になった。梁はその後、北京政府の役人になったが、康はそれ以来意を政治に絶って長く須磨に閑居していた。氏は康の人物学問を推称し、康も氏の信義に感激するところあり、梁もまた深く氏を徳としていた。かつて熊希齢が犬養氏を批判するが如き言を為したということが新聞に伝わると、梁は氏が気を悪くして居りはせぬかと心配し、亡命中世話になった某日本人を介して、あれは他人の担造にかかるものであることを弁解して来たことがあった。
大正十四年、インドの志士ラス・ビバリ・ボースが日本に亡命したとき、英国政府の強硬な談判でわが政府より退去命令を発し、彼の一命将に危うからんとしたが、犬養氏はかくの如き無情の処置は人道問題であるのみならず、わが国の恥辱であると頭山等と相謀ってボースを保護し、且つ大隈首相、加藤外相に談判したので、漸く身の安全を保つことが出来た。
ボースは当時の受難を追想して左の如く述べている。
「大正四年十一月、国際的礼儀に背き、余の退去命令を日本政府よ。発せられし時、犬養木堂先生は頭山満翁、河野広中翁、日本の各新聞紙と共に極力国家の恥辱として当然保護すべきを強調せられ、一時余の隠逸を余儀なくせ、その翌年、中野正剛氏と共に早稲田馬場下の先生宅に拝芝(はいし)して以来今日に至るまで御懇遇をうけて居る。けだし先生は単一政治家として極少範疇に観るは妥当ならずと思惟す。」
すなわち先生は単なる政治家にあらずして、偉大なる人格者、偉大なる人類主義者である。被圧迫民族に対する同情と保護の事実は、世上政治家には極少と云うべし。且又先生は単に日本の犬養翁に非ずして全東洋の犬養翁と言い得べし。これインド及び支那否全アジア各国から異数なる人格者として讃仰されて居る所以である。
先年大患より蘇生せられし時、先生は親しく語って日く、「今度は非常に危なかったが、しかし自分は全東洋の解放を見ざるまでは決して死なぬ」と、如何に翁が全東洋のために深憂さるるかを知るに足らん。想うに犬養先生の存在は独り日本の為のみでなく、東洋否世界人類のために意を強くすべきである。
支那関係についても、亡命志士保護についても、犬養氏と併称されるものは頭山立雲(満)である。氏は頭山が玄洋社の豪傑を率いて盛んに政界に暴れていた時代からの知己で、相信じ相親しみ、亡命者を侠援するについて多くの場合協力した。頭山は犬養氏の如く支那人の間に多くの知人をもたぬが、南方志士の間に重望を負い、彼等の日本に来るや、いずれも両氏を目当てにしたもので、犬養氏を訪えば必ず頭山にも行き、あたかも両本山といった形があった。
孫黄派の支那浪人中には、犬養氏の声掛りのものもあれば頭山門下もあって、両氏は支那浪人の頭目という地位にあった。犬養氏は革命党の士に対して談論縦横、或いは激励し或いは苦言して啓発指導したが、頭山は口に経論を説かず、黙々として動かざること山の如くであった。しかも両者の革命党に対
する任侠的同情は、彼等をして心強く思わしめ、父とも師とも仰いだ。金玉均の如きも両氏の恩義には感激していたが、金の上海に暗殺さるるや、遺骸を日本に受け取って盛葬を行う計画であった。しかるに支那の官憲は自国の軍艦に載せて朝鮮に送り、朝鮮政府は金の首を具したので、氏等は金の非業を憐み、頭山門下の豪傑は、時の参謀次長川上操六に支那の暴状を訴え、朝鮮の独立、帝国の威信のために問罪の師を起すべしと迫ったことがある。頭山は容易に動かざるも、一たび止むに止まれぬ場合となれば決然として起つ。これ彼が第一革命に際して犬養氏と共に支那に押し渡った所以である。
孫文との通達
犬養氏と孫文との遭逢は、明治31,2年頃、孫文が日本に亡命したときに始まる。当時孫文は同志と共に広東に革命の旗を挙げて志業瑳(跎)、一旦過れて英国に行ったが、後ち日本に安住の地を求めた。しかるに当時の政府は、政治亡命者を保護しては外交上面白くないというので、圧迫主義を執り、政党も殆んど彼等を顧みなかった時代であるから、孫文は横浜に着いたが東京に入ることが出来なかった。
そのとき支那浪人の宮崎寅蔵が犬養氏のところに来て助けを乞うた。氏は孫文の志を憐み、且つ隣邦の志士を圧迫するが如きは後来日支の関係にも影響するというので、早速外務当局に談判して孫文を入京させることにした。
孫文は宮崎に伴われて犬養氏に面会したが、不案内の土地に初めて身を寄せたことであり、物質的にも困っていたので、氏は同志と相談して先ず早稲田鶴巻町に借家を見つけて、中山という仮名で住まわせることにした。後に孫が中山と号したのはこの仮名から思いついたのである。馬場下の犬養邸とは近かったので、あたかも一家族のように親しくし、来ると風呂に入り食事を共にした。英語は達者であったが日本語が出来なかったので、或るとき犬養夫人に対してオカミさんといったりしたことがある。
後で宮崎が、あんな下等な語は上流の家庭で使うものでないと注意したので、それからは奥さんというようになった。けだし孫文が初めて横浜に上陸したとき、旅館の女中が口にするのを聞いて、総て主婦に対する尊称と思ったからであった。そんな訳で犬養氏と話すときは専ら筆談を用いた。当時横浜には苛老会、三合会の頭目も流寓して居ったので、孫文も同志を糾合して再挙を計るには、東京よりも横浜の方が便利と思ったので、鶴巻町の家を畳んで横浜に移ったが、それからも犬養氏のところへはしばしば来て泊って帰った。
孫文が初めて日本に亡命したときは三十代の血気盛りで、言うことは理想論が多かったけれども、大局に通じ見識もあり、それに人間がすこぶる正直で金に奇麗で支那人臭くなく、同志に対しても親切であった。
犬養氏は大事をなすに足る人物と見たから、彼に同情して出来るだけの援助を与え、孫文もまた氏に傾倒して指導を乞うた。けだし氏が支那革命派の面倒を見たのは、単に彼等の志を遂げしめるという任侠の精神ばかりでなく、日支提携して白人の文明に対してアジアの文化を進め、白人の圧迫に対抗して東亜の平和を計ろうという遠大の理想に出発したもので、この点は孫文と深く黙契するところがあった。
当時は革命党といってもまとまった勢力でなかったから、革命運動を起こしても失敗したが、明治三十九年頃、犬養氏等の肝煎りで、革命派の大同団結を東京で造り、同盟会と称して孫を党首に推した。それ以来革命党は漸次勢力を加え来たって第一革命に成功し、国民党となったのである。
(つづく)