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日本リーダーパワー史(84)尾崎行雄の傑作人物評―『西郷隆盛はどこが偉かったのか』(下)

      2015/01/02

日本リーダーパワー史(84)
尾崎行雄の傑作人物評―『西郷隆盛はどこが偉かったのか』(下)
 <政治リーダーシップは力より徳>
  前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 大西郷はどこが偉かつたか
 
                                            
今日お話しすることは先日來、注文を受けて居りました。然るにこの頃、衆議院の方が大分やましくなって小学校生徒が運動会にでも出たような騒ぎをしております。私もその小学校生徒の一人となってしきりにあばれておるものでありますから、諸君に向つて、利益になるやうなお話をするべき心理状態になっておらぬのであります。
 
あばれる方のお話しならよくできると思ひますが、おとなしくして、よく身を持つといふようなことは、今ちょっと頭に無いのであります。故にひょっとしたら、ためになるどころではない、大分不為になる話もするか知れませぬ。それは聞く諸君が、既に人通りの思慮分明のある方々たることを疑はないのであります。
 
養育院の観察
 
私が丁度、東京市長を致して居りました頃、養育院に参った。度々参りましたが、市長になって後、間もなくはじめて東京市の養育院に参りました。ここは食うことも出来ない、極くの貧乏人等を集めて居る場所であって、今も巣鴨にあります。そこにはいっている者は、今では余程増えておりますが、その頃でも800人位はあったと思います。路で行倒れになった人も入っておる。

何うしても食って行くことの出来ない、又それを引取る人もない男女、及び子供、老人を、このところに収容して居るのであります。案内をした人の言うのに「あれはもと判事をしておった‥…・相当の高い地位の判事でありますが、今はここに居ります」というようなことを教へ、それから大分年をとったお婆さんがありましたが、よほど品のよく見える、人品、格好いかにも上品なお婆さんである。これは「どうして、ここに居るか」と聞いて見ますると、其の人の履歴を話すのに、「東京市の生れの人であって、随分その町内では1,2を争ふ大層金持の奥様であったのが、いろいろ世故の変遷にあってこの養育院に生活するようになったのである」という返事をいしました。

 
いろいろ不遇の人間
 
なは細かにみますると、男女の中でも、よほど人品の立派な者がここに入って居ります。如何にも不思議に感じた。その他種々、子供についても捨児があります。これは親の分らない捨児を拾って育てておりますが、其の中に眼に着くやうな子供がおる。又中にはそういう父母の知れない子供をもらって育てる。人によっては、素性の知れた子供より楽しみになるものと見えまして、立派な家柄から捨児をもらいに参ります。養育院で育てた捨児で、今は立派なる家の御主人になっておる者も大分有る。又華族になっておる者も有ります。
 
故に人世の遇、不遇は不思議なものであって、かつては一流の富豪のお嬢さん、奥さんと言はれた人も、養育院に来ておるかと思うと、又生れて間も無く路傍に捨てられて、拾い手がないために養育院で育て、捨児として他にもらわれ
て、今は皇室の藩屏といはれる華族の戸主となっておるといふのもある。如何にも不思議なものだといふ感じに打たれたのであります。
私は巡視しておる間に、あまりに不思議に感じたものでありますから、養育院の幹事に向つて、一つの質問を出して見た。
 
入院者の通有性は何か
 
出すに当たっては、極めて難かしい質問で、恐らくは幹事に尋ねるのは無理である、多分答へることは出来ないであらうと考へつつ、一つの質問を出しました。それはこういうのであります。
 
 「かく色々な種類の人がある。老幼、貧富、総ての階級の人が一養育院の中に集っておるが、各種類を通じて、何か特質は無いか」といふことを尋ねた。「通有性は無いか、全体に行渡った何か特別の性質は無いか」と問うた。
 
 
わがまま、身勝手
 
 容易に答えられぬであらうと思って問うたところが、案内をしておった幹事先生は、私の声に応じて答へた。
 「有ります。同情に乏しい、我が身勝手、我ままのみをなすというのが、すべての人の通有性であります」と答へた。
 私はその答の早かったのに驚いたが、其の身勝手で自分の事ばかり考へておる人々が、ここに入っておるのであるという、それが通有性で有るという、その答辞の趣意についても驚いた。驚いたと同時に不思議なことには、私の脳帯に電光にでも打たれた如く、一寸一つの思想が浮んで来たのは西郷隆盛である。
 
 養育院に行く時には、西郷隆盛の事は少しも考へておらなかった。その常時、別に養育院の外においても、どこにおっても考へておらなかったと思います。しかるに、養育院に居る総ての人に対する通有性は、我ままで、身勝手である、
他人の困苦をー切顧みない性質であると答えを得た時に、色々な驚きに打たれると同時に、西郷隆盛の事が脳髄に浮んで、自分ながら不思議に思うたのであります。
 
 どうして西郷隆盛の事が頭に浮んだかといって、その経歴の御話をいしますると、私は子供の時から英雄豪傑に興味を持っておったのであります。色々な豪傑を書物や何かで見て、その性質・容貌・風采等を色々に想像して、ひとり自分から喜んで居る癖が子供の時分からあった。
 
西郷はどこが偉いのか
 
 
西郷隆盛なるものは、丁度私が物心を覚える時分に、日本においては最も有名な人であって、殊に私が初めて新聞紙で論説を書いたという時分に、西郷隆盛及び薩摩に関係して書いたのである。
 
即ち「西郷隆盛討つべし、薩閥打破すべし」ということが、初めて筆を執って新聞紙にのせた論文であります。処女論文がそれであります。今でも薩閥打破を行っておる者で有ります。(拍手笑声起る)随分古い者であります。(拍手) 即ちその時においては、西郷隆盛の我ままを憎んで、如何なる豪傑であらうとも、薩摩の一隅に割きょして隠然敵国の観をなしている以上は、討滅してしまへという単純の理窟によって‥単純なる文章を書いたのであります。
 
それが縁故となって、西郷隆盛という人は、私の脳中を数十年来往来しておりましたが、その間に最も疑問とする所は、西郷隆盛という人はどこが偉かったのであるか、その人望から申しますると、恐らくは日本の歴史上、二千有余年の間、西郷隆盛翁ほど人望の広く、深く、厚い人はなかつたらうと思います。大層名望家と言われた人は、昔から歴史に大分有りますけれども、何れを見ても西郷隆盛ほどの人望は無かつたようであります。
 
 西郷隆盛が朝廷の官職を辞し、薩摩に帰って百姓をして肥桶などをかついで田を耕しておった時分ですらも、日本全国の人は、皆西郷隆盛翁を尊敬して、見ず知らずの人までも西郷さんのためなら命を捨てようという者が、日本全図におりました。
 
西郷翁の勢力
 
 見ておる人、世話になったとか、話を聴いて感服したがために、命を捨てようというならば、それは有りそうな事である。然るに、写真を見たことも無い、唯西郷翁という名を聞いただけで、あの人のためなら命を捨てようという者が東西南北各地にあった。その結果、明治十年……よほどの昔の事でありまするが、明治十年に西郷翁が「新政厚徳」の旗を翻して薩摩の一隅に決起した時には、全図の志士、仁人とも言うべき者が皆、命を棄てる覚悟でこれに応じ、遂に
 
日本全国の兵を一手に引受け、 天皇陛下の征討軍を発し給うたものを、西郷隆盛たった一人の力で、兵糧も無く、金も無い、ただ戦争までは肥桶をかついだり、銭砲をかついで猟をしておったりした西郷隆盛が、日本全国の力を以て征伐するにあたって、一人それに立って、約半年以上の日月を支えて、対抗をしておりました。
 
 謀叛は勿論よろしくない。又そのの原因にさかのぼって見ますれば、これは西郷翁の謀叛ではなくして、少年客気の士が兵を挙げたものであるから、やむを得ず西郷はこれに応じて、一身を己れの子弟のために棄てたのであるといふ説があります。
 
 これもです、たとえその原因は西郷が自分の意であらうとあるまいと、とにに角、朝敵となって薩摩の一隅に「新政厚徳」の旗を翻えしたのであります。それに対して、天皇陛下の兵隊、全図の精鋭を率ゐて全国の富と力とを以て征伐したが、一匹夫を討滅するがために半年有余の日月を要した。
 
 この如き事例も日本歴史にないと思います。あるいは朝廷の側に立って働いた楠正成のような者もある。あるいは賊の方に立って働いた人も色々あります。然しながら、それは皆、昔からの大名か豪族で、家の子郎党を数千人、若しくは数万人持っておって、しかも金穀の権を担っておった人々が、その金、その武器、其の家の子郎党を率いて、長い間戦ったという例はありますけれども、何も持たない西郷隆盛の如き者が起って、而も統一したる日本全国の力を以て征伐することの出来る場合に、半年以上支へたという事は、朝敵となったのは憎むべきことであるけれども、その力に至っては実に驚くべきものが有る。            、
 
勢力はどこからきたのか
 
 この力はどこから来たかといえば、たゞ西郷翁に伴う所の徳望というより外にない。世間には唯、西郷のためなら死なう、何のためか分らぬけれども、西郷先生のためなら、官軍でも朝敵でも何でも構わぬ、とに角、西郷先生のためなら順逆を問わずして死のうという。西郷が正しい方に立って朝廷を助ける場合において、西郷のために死のうという者がたくさん有ることは是は当たり前である。然るに、朝廷に反対する場合においても矢張り死なうというのである。
 
驚くべき徳望!
 
 事の善悪はさておき、西郷翁一人の徳望に至っては、実に驚くべきものであります。この徳望なるものは、どこから来たかというのが、私多年の疑問であります。 
どうして西郷はあれだけの徳望を得たか、どこが偉らいのであるか。人の感服する性格を申しますれば、大層智慧があるとか、学問があるとか、働きがあるとか、大計画、大経綸を持っておるとか、何かあって、しかして人がそれに感服するのである。
 
西郷は何を持っておたがためにあれだけ多数の人が感服をしたかという疑問が、若い時分から私の脳の中にあって何うしても解くことが出来ない。それから又、その人の立てた議論を見ましても、子供の頃、私には余り感服すべき議論を西郷が立てたとも見えない。有名な征韓論、朝鮮征伐をしようという議論が、最も広く世間に知られた大議論、大経綸でありますけれども、あの朝鮮征伐といふ議論に就いてすら、如何なる計画で、如何なる方法が有ったのか。私にはどう聞いて見ても解らない。
 
「ただ朝鮮に行って、死んで来るのである」と西郷が言つたという事は、伝記にも書いてありますが、死んでどれだけの事を仕遂げるのであるか、その方法如何といふことは容易に解らない。どうも、大計画、大経綸といふのは有ったであらうが、どこにあったか、どういふものであったかといふことも私には解らない。
思慮分別が非常にあったかといふと、どうも、さして有ったらしくも思はれぬ。無いとも断ぜられませぬけれども、さして思慮において、大久保その他の人に優れて居つたとも思はれぬ。はといへば、なる程、無単なる薩摩人の中には優れて居ったけれども、常り前の人に比べれば、大して優れて居らぬ。詩を作らうと、
何をしようと平凡なる頭の人間である。どこが偉かったといふ、何うしてあれだけの徳望を得たかといふことは、解らなかったのであります。
 
まだ 疑問
 
 殊に僧月照という坊さんと抱き合って、薩摩潟に身を投げ棄てて自殺を計つたということも、何のために死のうとしたのか、私には解らないのである。死ぬのが目的であったか、泳いで生き直るのが目的であったかそれは解らない。坊さんだけは死んでしまったけれども、西郷だけは生き残った。二人で抱き合って死ぬ気であったら死ねばよい。生くる気なら、何も飛込まぬでもよさそうなものである。何のためか、一向解らなかった。
 
 かういふ類の疑問は、たくさん子供の時に私の胸中に浮んで解釈が出来ない。その後大分、西郷と同時に廟堂に立って、征韓論の時に議論を上下した人々にも交わりを結ぶようになりましたから、その人々について親しく西郷の偉かった所を尋ねて見ますけれども、誰に聴いて見ても、ただ偉かったという人はあるけれども、どこが偉くて、どうして人望が付いたのであるかということを教へてくれた人は、一人も無かったのであります。
 
 故に明治三十六年の頃、私が東京市長となって、養育院に行った時分までは随分長い間、明治十年から明治三十六年であるから、二十五、六年の間は、どうしても、西郷の偉かった所以が私には解らなかった。余り長く解らぬから、
私はもう見切を付けてこれは駄目である、この上,せんさくをしても解らぬのであるという考えで、明治三十年以後は、殆んど西郷という人を忘れて、私の勝中には無かったのであります。
 
同情心だ、ああこれだ
 
 然るに養育院に行って、前申しました話を幹事から聴くと、ひょっと、久しく数年聞忘れて居った西郷が、私の脳髄に感じて、「ああ、これだー」と思った。
 養育院におる者はみな自分の事ばかり考へて、他の世話は一切せぬ人である。それが養育院におる者の通有性であるということを聞いた時に、西郷なるものが脳中に浮んだ。総ての人から尊敬さられるというのは、養育院に入る人と、正反射の性格を持っておったがためであらうと思う。(拍手)
 
 自分のことばかり考へておれば、すべての人に棄てられて、官吏の果でも、財産家の果でも、遂に養育院に入っておる者がたくさんある。それに反して、西郷隆盛の如きは、自分の事は考えない、人のことばかり考える。よって総ては西郷のために働かうとなった。もう少し短い言葉で言うならば、養育院に入っておる人の通有性は同情の心が無い。何人に対しても、同情を寄せないという考えが通有性である。然るに西郷は何人に向つても、同情を寄せる。命を棄てても、あの人は助けてやりたいという同情は、誰に向つても持っておる。故に、島流しにならうが、どこに行かうが、決して人に対する同情は忘れない。
 
月給を受取つても、自分では使わない、自分の家来の百姓上りのような者に預けて、勝手に使わせる。何事にしても、自分一身のことは考へない、始終人のことと、国のためばかりを考へ、大して智慧も分別も持っておりませんので、持っておったかも知れませぬが、その智慧、分別は確に自分のために使わない。小さいと大きいとを問わず、総ての人の為に使った。

総ての人に向つて己れの命に換へても助けようといふ同情を持っておつたから、その同情が矢張り西郷に向つて反射した。すべての人が西郷翁のためなら死なうと考へた。考えるはずである。西郷が誰のためにでも死のうという同情を持っておりましたから、総ての人は、西郷は自分のために命を棄ててくれると思いますから、その結果、西郷のために命を棄てようということになった。


       なぜ月照と身を投げた

・西郷の命は一つより無いけれども、その一命は万人、百万人、何れに向つても棄てる。それ故に、万人、百万人も皆、西郷に向つて、一つの命を棄てようという気になったのであります。
その例として月照と共に、薩摩潟に身を投げた事を憶う。僧月照も人物であったに達ひない。西郷とは交りが深くして、互に約束した事も多かったでありましょう。しかしながら、西郷の心では、月照が人物であろうが、無からうが構わない。兎に角、朝廷のために働くという志を同じくした者が、天地の間に身を寄せるべきところが無いので薩摩に逃げて来た。

 西郷は自分の力でかばおうとするけれども力及ばない。一人の坊さんの命を助けてやることが出来ない。その場合に何うする?・・人を助けることが出来なければ、その人と切あて一緒に死ぬより外にない。故にそのことが国の為にならうが、なるまいが、月照なるものと身を投じた。命を捨てても救ひたいけれど、力微にして故へない。やむを得ず、二人で死のうというので、薩摩潟に身を投げた。

 よく明瞭に解ります。死のうと思って確かに投げた。その時には西郷の胸中には、天地蘭に月照を救おうといふ考へよりほかに無い。其の時には、死んだ後にどうなるかという考は無い。家族も何も無い、天地間唯我が救ひたい所
の月照あるのみである。故に二人投じた所が、どういふはずみか月照だけ死んで、西郷は生き返ったといふのが事実らしく思われます。

        同情心の感応

 かくの如き事は兎も角、同情に富んでおりますれば、其の同情は総てに反射し、感応するものである。これを他のことでたとえ見ると良く解ります。西郷の命は一つよりしか無い、たとえ命がけで救おうといった所が、月照と抱き合って死ねば西郷の命は無くなるから、外の総ての万人が西郷のために死のうといふのは馬鹿らしいやうに考えますけれども、たまたま月照を救おうとしたから月照と一緒に死のうとしたのである。
もし権兵衛(山本)と死のうとしたら、矢張り権兵衛と先きに死んだのであります。(笑声起る)誰とでも死ぬのでありますから、一つの命であるけれども、千人、万人、誰のために死ぬのか解らぬということになる。(拍手)

 故に千人、万人も其の同情心に報ゆる。われも、われもと一命を西郷のために捧げるということになります。他のたとえで申しますと、このところに『一人の乱暴人が刀を扱いて気達いの如く暴れておる。たった一人である。それに百人の巡査が刀を抜いて来ても、一人暴れておると、なかなか勝たれぬ。何故なれば、かかる者は一人であつても、どこの一人に来るか分らぬから、千人おっても、万人おつても、自分の命が恐いから、一人の乱暴者があれば、容易にこれを押へることが出来ないというのは、皆一つのものがどこに来るか解らぬからである。同情でも然うである。

 そこで初めて養育院で、西郷隆盛という人の、徳望のある所以の一端が、電光石火の如く解った。
 
その疑問はじめて解く
 
 それから以後、西郷翁の伝記を少しづつ読んで見ると、それまで解らなかったことが、皆分ります。 あの人は、徹頭徹尾、同情ということを以て満たされた人であった。その同情なるものは、高い人のみに向う同情では無い。朝廷のためにも注げば、島津候のためにも注ぐ。さりとて自分の使っておる仲間のためにも、上下貴賎の別はない。誰にでも平等に、一身を以て之を救うという風の同情がありますから、全国の人は皆、大西郷に感服して、これがために命を棄てるようになったのであるといふ点を押へてその伝記を読みますと、誠に善く解るやうに感じております。
他日機会を得たならば、西郷の事について小冊子を書きたいと心掛けております。
 
腕にあらす徳
 
 およそ人間が社会に処するには、徳望というものはかかる如く貴いものである。又、力や分別位ではとてもいかない。如何に智慧があった所が知れたものであります。力や分別は何程あった所が何にも役に立たぬ。唯、同情、徳義というものが数万人を動かす力を持っておる。しかるに近来、不思議なことには、これも一時の流行でありましょうが、世の中では腕とか力とかいうものばかりに重きを置いて、この徳、即ち同情の一部である所の、同情とはぼ似たものであるところの徳に向つて、力の入れ方が極めて少いように見えます。
 
 あの人は偉いとか、偉くないとかいう、その標準としておるのはどういうことかと申しますると、あの人は腕があるという、腕は不具者でなければ誰もあります。そんな腕はあったところが、何の役にも立たぬのである。徳があれば数万人を服することが出来るけれども、一人で如何に働いた所が十人も服することは出来ない。
 
世間の弊風を一掃せよ
 
 しるに手腕がある、働きのあるのが人物の偉いというが如く、書物もさういう風に書いておる。これが根底の誤りであります。腕などが幾らあったところが、腕で天下を支配することは出来るものではない、腕は天下を支配するその
上流の人に使わるべきものである。車夫の脚の如きである。車に乗る人は脚は強くなくてもよろしいのである。人に使はれるためには、腕の働きが無ければならぬ。人を使う方の上から言いますれば、昔の言葉で「垂撰して天下治る」ということがある。懐手をして坐っておっても、天下を治めることは常に徳で出来ることであって、決して腕で出来るのではない。長袖の中に懐手をしておつてもよろしいのである。故に将来、子弟を教へて行こうという人なり、及び現在人の子弟たる者は、働きの方面を磨く必要もありましょうが、主として徳を磨くことにしなければならぬと思います。
特に人の上立とうとうふ希望を持つ者であり与れば、人を使うのでありますから己の腕よりか、他人の腕を使わせる考えを以て、働きを使うべき性格を養成して行かなければならぬ。それは主として徳であります。
 
西郷などが、自分では特別に何をしたことも無い。何をしても上手でなかったであらう。然るにあれだけの勢力、人望を得た。即ちそれは徳である。謀反をした後の話を聞いても、軍の総大将ありながら何をしておるかというと、何時でも隅に入って毎日碁を囲っておる。決して桐野利秋のように青竹を振ったり、洋剣を以て人を斬ったり、伐ったりしてはおらない。
 
碁を囲っておれば、西郷部下の人は皆死を冒して戦うのであります。唯、評議が起って、どうしたらよかろう、といふ大評議が起って、今度こそは桐野でも決することが出来なかったが、議論が分れたからどうしたらよかろう、このような殆んど危急存亡の場合に当たって、西郷に決断を乞ひますと、「皆がヨカと思うところのことがよからう」何も言はない。自分がよろしいとかいうようなケチなことは言はない。矢はりを碁を囲っておる。そういう人が大人物である。
 
若い時分に、私に西郷隆盛の偉い所以が解らなかったのも無理がない。その時分に私共が大人物の標準であると思ったのは小人物の標準であった。即ち智慧とか、分別とか、腕とかいうものを働かせるとか、小さな仕事師を以て大人物だと思っておった。大人物なるものはそんなものでない。千万人、百万人を使うには自分の腕や智慧では使えない。徳を以て使わなければならぬ。
 
大人物の資格とは何か
 
したがって国の政治家などについても無論その通りである。昔の太政大臣、今の経理大臣でありますが、太政大臣、左右大臣とかいうが如きものは、才、学、徳、この三者を備えなければ、その位につくことは許さぬものと我が昔の制度においては極まっておりました。
 
是は唐の制度を導いたものでありましょうが、この三つを備えなければ太政大臣、左右大臣の職に就かれぬことにした。しかしながら、この三つを備へたものが何れの世にもあると極まって居らぬ。有ることもあるが無いことも多い。故に「其の人が無ければ即ち欠く」と申しまして、ある時代においてはこの三つを備へた者が無ければ、太政大臣・左右大臣を置かない。位は設けて置くけれども、人を任命しない。いわゆる則欠の官で、即ちその人無けれは欠くといふ終りの字を取って「則欠の官」としてある。今のやり方よりはよほど制度の上においてもよろしいやり方である。
 
 こういう高い位地の人は、其の腕や智慧を以て小仕事をする人間を据ゑるべき位地ではないのであります。仕事は次官以下の小役人にさせればそれでよろしい。大臣たる者は其の上に立って何にも働かないでも宜しい。国家の危急存亡の秋に、天下万民をして安心して、其の業務に就かしめるやうにするのが、大臣の職分であります。(拍手)
 
 小利巧にして小智慧を働かす者は小使の仕事である。大臣はそのようなことをすべきものではない。例へは今日の騒ぎでも、世間はなかなか騒いでおる。怪我人も出来ており、警視庁に引かれる人もありますが、その原因は何かと
いへば、シーメンス会社という所から収賄事件が起ったというに過ぎないが、賄賂を取ったといふ金高は五万円とか六万円とかいう端金に過ぎない。こんなものが五つや六つ起った所が国家にとっては何でもない事である。どこの隅でも始終そんな事件は起っておりましょう。
 
然るに内閣に立つ者が、其の人を得ないために、そんな事件が起っても人心みだりに騒ぐ。何故騒ぐ? 何うも上の方のそういう取締をなすべき者が怪しいと思うから騒ぐ。取締をすべき者は必ず取締るに達いない。悪人は必ず罰せられ、善人は必ず質せられるに違いないと世間が皆思っておれば、シーメンス事件が五つや六つ起っても、世間は何とも思はない。

裁判所に委せて置けば立法に裁きが付くと思いますから、たとえ煽動があっても、如何に煽動しても何の騒ぎにもなる等はありませぬ。唯その位におる者が、偶然にして、何だかさういうことには真先に関係しそうな人と世間が思うておりますからであります。それで騒ぐのであります。(拍手)
 

 査問委員会を設けてもそれは怪しい。裁判所が独立しておっても、是も安心ならぬというようなことを考えておるからである。(以下略す)
 
たまたま西郷隆盛の事を、養育院において不図、思い出した関係を御話しするにあたって、これまで議論を及ぼして甚だ長くなり過ぎましたが、私の言わんとする所は、つまり、徳が主にして、才学はその従であるというに過ぎないのであります
 
(大正三年二月十五日の講演会の演説)尾崎愕堂全集第5巻収録(昭和30年刊)
 
 
 

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