日本リーダーパワー史(94)日本政治史分岐点・5・15事件で犬養毅、菊竹六鼓から学ぶ①<言わなければならぬことをいえ>
2015/01/02
日本リーダーパワー史(94)
日本政治史分岐点・5・15事件で犬養毅、菊竹六鼓から学ぶ
<『言いたいことではなく、言わなければならぬことを言え』>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
9月16日、民主党人事は難航しており、幹事長にやっと岡田克也外相の就任が決まった。『時事ドットコム』によると、当初、岡田氏は外相留任にこだわっていたが、同党長老の藤井裕久元財務相らが説得に当たり、「政権交代をしてくれた国民の気持ちを考えたら、いろんなことを考えていられない。天命だ」と受諾を決断した。
これに対し、小沢氏に近い議員からは「納得できない」「ますます党内の亀裂が深まる」などと反発の声が相次いだ。小沢氏は同日夜、自身を支持する議員の会合に出席した後、記者団から「岡田幹事長」へのコメントを求められたが、無言のまま車に乗り込んだ、という。
今、日本は国家沈没の瀬戸際にある。その日本丸の沈没の第一の責任は言うまでもなく政治家にあり、第2は官僚、公務員と言う名の船員にある。またメディアの責任も大きい。政権交代を強く望んだ国民世論によって誕生した民主党議員は、この難局に当たって国会議員であるという原点に立ち戻って党利党略、私利私欲、派閥利益、民主党益、自民党益を離れ、公正公明な地球益、世界益、国益、国民益、天命こそ最優先しなければいけない。その点で岡田のあえて火中の栗を拾った決断、リーダーシップを多としたい。
それにしても、小沢一郎とその派閥の行動はこれまでの日本の政治の一番悪い形を引き続いだ金権ボス政治、派閥の親分政治、それが剛腕で政治能力があるという虚構の政治力を誇張する体質そのものから脱しておらず、水と油の民主党の内情が一層、鮮明にした。このゴタゴタはより近代的な民主党政権への脱皮の苦しみであり、世代交代への一歩前進である。また、田中、金丸派閥が検察捜査で壊滅されたように今後、小沢派閥は急速に解体、分裂へむかう予兆でもある。
今回選挙後に菅総理と小沢氏の話合いもわずか10分ほどで小沢氏が出てきた。鳩山前首相の退任演説の中でも「もっと小沢氏とよく話ができていればよかった」と2人のコミュニケーションがほとんどなかったことも打ち明けている。
小沢氏は敵か味方を峻別して、嫌った相手とは全く口もきかないという性格の人らしい。総理になった直後に菅氏もなんども小沢氏に連絡しても、全く返事がなかったとこぼしていた。つまり、小沢氏は自分の考えを一生懸命伝えようとする政治家ではないし、選挙通ではあっても政策通では絶対ない人で、国民に話し、説得し、コミュニケーションしていくタイプではないのである。
日本の歴代リーダーに欠けるのはこの「話し合う」「話せばわかる」という態度で、すべてを密室、談合のなかでやろうとすることである。小沢氏は日本の旧態依然たる密室政治、問答無用の議会制民主主義に相反する政治姿勢の強いリーダのタイプなのである。
ここで日本の政治史をひもといてみると、明治の元老政治は密室政治とし今では批判されているものの、当時の2大元老の伊藤博文、山県有朋は思想信条は全く違っていたが、日露戦争など国の運命をかけた危機には好き嫌いの私的感情を排して、損得など当然度外視して、しょっちゅうあって口角泡飛ばして徹底して意見を戦わせ、ケンカしながら、ある時は妥協、協力し、ある時は敵対しながら、コミュニケーションは欠さず国家運営に当たっていた。原敬も軍閥の大ボス・山県有朋とも徹底して話し合いながら、その政治力を倒していった。リーダ―シップを発揮していたのである。
いい面での清濁併せのむ、太っぱらで、理性的なリーダーが望まれるのだ。その点で、小沢氏には一国を率いるリーダーの器ではない。
いい面での清濁併せのむ、太っぱらで、理性的なリーダーが望まれるのだ。その点で、小沢氏には一国を率いるリーダーの器ではない。
今回紹介する『憲政の神様』・犬養毅も一度引退しながら、若いだらしのない政治家ばかりで軍閥の暴走を抑えきれなくなって77歳で総理大臣に担ぎ出されて、「議会政治の党利党略、金権腐敗政治」に絶望した海軍若手軍人たちのテロの標的になった。これが、日本の議会政治の最期となって,以後は軍閥政治になるのである。
また、この日本政治史の分岐点となった5・15事件で新聞は軍閥の暴走、テロにおびえて沈黙した中で、唯一正面からテロ、軍部の暴走を批判したのが、『福岡日日新聞』(現西日本新聞)の菊竹六鼓であった。菊竹は『言いたいことを、書きたいことを書くのではなく、言わねばならぬこと、書かねばならぬことを書くのが、政治家、新聞人の義務である』との気概を示した。
いま、国難に対して、政治家、メディアは何をすべなのか。『悪い点ははっきり悪い』、ことの善悪を理性的に判断して、それを明確に主張して、堂々と言論を戦わせるのが民主主義社会、言論の自由の社会で最低の義務であろう。その義務をみずから果たしているかどうかを問いたい。
五・一五事件(昭和7=1932年)とその批判
五・一五事件への序曲は一九三一年(昭和六)年に相次いで橋本欣五郎ら陸軍若手将校による「三月事件」、『十月事件』などのクーデター未遂事件である。
翌年二月には井上準之助蔵相、三月には団啄磨三井合名会社理事長が血盟団による「一人一殺」のテロにあい殺された。国内のテロの恐怖は一九三一年九月の満州事変、以後の中国侵攻に呼応していた。
こうしたクーデター未遂、テロひん発には、世界恐慌の嵐の影響で、農村は疲弊し、特に東北凶作で農民は極度に貧窮、都市の労働者も困窮化していた状況があった。政治は無為無策で政争にあけくれ、疑獄事件が次々に起こり、財閥などの特権階級の腐敗、堕落に国民の怒りは渦巻いていた。これがクーデター、テロを培養し、国民がそれを歓迎する土壌を生んでいった。
しかも、三月事件、十月事件とも関係者は軍や政府から厳罰に処せられず、ヤミからヤミへ処理され、さらに暴発のエネルギーが蓄積されていった。このような背景のなかで、犬養内閣は若槻礼次郎内閣の後を継ぎ、満蒙問題を解決すべく昭和6年末の十二月十三日に誕生した。
この時、犬養首相は七七歳。老齢にムチ打って登場したが、皇道派のシンボルの荒木貞夫が陸軍大臣に座り、書記官長には満蒙強硬論者で軍部と一脈通じる森恪が座るなど前途多難な船出だった。事件前の五月一日にはラジオ契約百万台突破を記念してJOAK(NHKの前身)のマイクを通じて、ファッショ的な政治を批判、五月九日の政友会関東大会では軍部批判をくり返し、天をつく勢いの軍部を強く刺激した。
犬養首相は「陸軍の若い連中を三十人位首切ってしまえば統制は回復できる。参謀総長の了解を得て、陛下に申し上げる」と断固たる決意を周囲にもらしていた。また、満蒙問題では独自に解決しようと中国にいる同志たちに使者を派遣したが、この工作が軍部にバレ、「犬養は怪しからん、満州事変をやめようとしている」と荒木陸相は怒り、これらが五・一五事件の遠因になったといわれる(1)。
事件当日の五月十五日は日曜日。東京は五月晴れの上天気であった。折りから来日中の喜劇王チャップリンの歓迎でわいていた。各新聞社ものんびりムードで事件を予想するものは何もなかった。それが一瞬にして暗転した……。
当時、東京朝日の長岡見斉社会部次長は回想する。「午前十一時ごろ出社したが、全くこの日は何もない。編集局のあちこちではパチリパチリとヘボ碁戦がはじまっている。午後五時三十五分、電話機のベルが鳴った。S君がゆっくりと耳に電話機を持って『はァはァはァ』と間伸びした声を出していたが、実にこの時だ。S君は直立硬直して『大変だ!』とドモリながら『政友会へ爆弾』とだけ言って消えていった。チリリン、第二の電話だ。僕が電話機を持った。『牧野内府邸の前の本社専売店ですがね。今軍人が来て爆弾を投げた』とかん走った声だ。……社会部総員に『すぐ出社せよ』の電報が飛ぶ」(2)
この日の官邸は日曜日とあって閑散。犬養首相は歯医者を呼び治療を受けたあと、和服姿で日本間の安楽椅子にもたれてくつろいでいた。午後五時半、官邸表門に海軍将校二人が車で乗りつけた。裏門でも陸軍士官学校生四人が面会を求めた。表玄関の二人は押しとどめた受付の護衛警官二人に「邪魔をするな」とピストル二発を発射、裏からの四人と合流、犬養首相の日本間へ向かった。
『話せばわかる』-『問答無用』と犬養首相を暗殺
「犬養首相は日本館食堂にいた。一人が拳銃の引き金を引いたが、弾丸は不発だった。首相は泰然自若と『話を聴けばわかることじゃろう』と言いながら男を誘導し日本客間に至った。首相は三、四回『そんな乱暴をしないでも良く話せばわかる』とくり返し、着座した。と一同を見回し『靴ぐらい脱いだらどうじゃ』と言った。一人が『何か言うことがあれば言へ』と言い、首相が言出さんとして体を前に乗り出した時『問答無用』と他の者が叫び、拳銃二発が首発の頭部に発射された」(3)
犬養首相は撃たれ後も女中に『煙草を一本つけてくれ、それから今射った男を連れてこい。よく話を聞かせるから』と話したりしていたが、約六時間後に息を引きとった。〝憲政の神様〃の壮絶な最期であった。
「話せばわかる」は後世に語り継がれた名言だが、このくだりは新聞には出ていない。わずかに『大阪朝日』第二号外(十六日)に「首相は従容として『なぜ、わしにピストルを向けるのじゃ、わしを射っなら話をつけてから射て…血に狂う彼等をたしなめた」とあるだけだ。
犯人は官邸、警視庁、日本銀行、牧野伸顕内務大臣官邸なども同時に襲撃した。犯行は海軍中尉・古賀清志(当時二六歳)、中村義雄(同)ら海軍青年将校、陸軍士官学校生徒ら十七人、民間は愛郷塾頭、橘孝三郎、後藤圀彦らで引き起こされた。
古賀らはこのクーデターで戒厳令を出し、荒木陸相を首班にかついで軍政を引く計画だったが、事件後に、憲兵隊に一斉に自首した。橘孝三郎ら愛郷塾のメンバーもテロに呼応し田端変電所、鬼怒川変電所などを破壊する予定だったが、計画がズサンで未遂に終わった。このクーデター計画も荒唐無稽だったが、首相暗殺の影響は甚大であった。
「犬養首相の暗殺のため政党内閣は終焉を告げた。恐怖手段によって軍の勢力に反対の立場にある政党及び政党政治家に一撃を加え、内外に対する国政の防波堤を切断した。もはや軍部の行動に対して、正面からこれをさえぎるものはなくなった」(4)と満州事変当時、駐支公使であった重光葵は痛憤をこめて書いている。
五・一五事件は日本の政治史上の分岐点になり、政党政治の息の根を止めたばかりではなかった。「話せばわかる」という犬養首相を「問答無用」と撃ち倒したテロは言論の上に暴力が君臨する〝テロ、暴力恐怖時代″の幕開けともなった。
言論界は恐怖し、沈黙し、言論の息の根をも止めたのである。新聞が排外的ナショナリズム、軍国主義を熱狂的にあおり、政府の満蒙政策の弱腰を責め、軍部の独走を支持した結果のツケが早くもあらわれたのである。
この事件を契機に満州事変以降、ますます鼻息の荒くなった軍部の横暴はいっそうエスカレートした。「非常時」が声高に叫ばれるようになり、言論にも、〝問答無用″の圧力を加えるようになった。
事件当初、小磯国昭陸軍次官は「東京に戒厳令を布き、事件に関する報道を一切禁止する」よう政府に迫った。しかし、言論取り締まりの総本山・内務省は「すでに号外も出ておりかえって社会不安を増大させる」と反対、内務省は新聞紙法その他で、事件発生と同時に次の記事差し止め通報を全国の警察に指示、事件の全容の報道をストップした。
①、犬養首相狙撃の不穏事件に閲し事実を捏造誇張し、人心を不安ならしむるが如き記事は掲載しないよう厳重注意。
②、不穏犯人の撒布したる「日本国民に撤す」と称する「ビラ」は禁止せられる。内容を掲載したる新聞紙は差押えよ。
この結果、『朝日』『毎日』『読売』『報知』の号外など八十九件が禁止、百四十二件が注意処分となった。
翌十六日には「犯人の身分、氏名などの素性、事件が軍部に関係ありとし、国軍の基礎に影響あるが如き事項」「原因並びに今後再び起こることありと予見するが如き事項」――が掲載不可となった。ただし、従来より事件の掲載がかなり自由だったと、『東京朝日』十七日社説は指摘している。
ペンが一番その責務を果たすべき時期がこのような時であろう。だが大部分は、言論の勇気が最も必要とされるこの時に、恐れをなし、沈黙し、あるいは追従してしまったのである。
新聞は恐れをなし、沈黙し、追従した
そんななかで言論の本領を発揮した数少ない一つに『大阪朝日』がある。『大阪朝日』は十六日「帝都大不穏事件、憂うべき現下の世相」で異例の二段組みの社説を掲げてテロを弾劾した。
「言語道断、その乱暴狂態はわが固有の道徳律に照らしても、また軍律に照しても、立憲治下における極重悪行為と断じなければならぬ。海陸軍の軍籍に身を置くものが政治上の目的をもって暴力団体的の直接行動に出ずるは、いずれの点より観ても弁護の余地なき言語道断の振舞いといわねばならぬ。たとえその動機において、或は一図に今の世を慨し今の政党に愛想をつかし、今の財閥に憤ったからだといっても、立憲政治の今日、これを革新すべきの途は合法的に存在する。」
その翌十七日説「対策を急げ、総裁の後任は公選を可とす」でも四段の長い社説で「白昼団体的の直接行動にいでた帝都不穏事件の突発が全国の人心に与えた衝撃はここに言論をもって尽せぬものがある。国家多難の際、恐怖時代を現出せしめんとする最も憎むべき所業である。要するに堕落せる現在の既成政党そのものに対して国民が全く信頼し得ないとは勿論であるが、しかし、議会政治と政党の形式以外に暴力その他の非法行動によって獲得さるべき政治に対して、国民多数がそれより以上の信頼を払い得ないことは言を竢たないのである」と。
以後、『大阪朝日』の五・一五事件に関する社説はない。しかし、この社説をみると事件の張本人である軍部の独断、テロをきびしく弾劾しており迫力がある。当時、『大阪朝日』『東京朝日』と『東京日日』『大阪毎日』は経営母体それぞれ大阪が握って同じものながら、社説は異なり別々のものが載っていた。
『東京朝日』は、『大阪朝日』に比べずっと後退した内容で、犯行の動機の純粋さに言及する中途半端な論旨となっている。
十七日「速かに帝都の不安を除け」では「政党政治の弊害の近年特に甚だしいのは既に定評の存するところで、従って青年人士が一面忠良の国民として何等かの非常手段を用いてもこれを打破せんことを考えるその純情のほとばしるところ遂にかくの如き直接行動に及び立憲政治の根本まで破壊することがあっては、いわゆる玉石共にやくもの、結果の期待と相反するはもちろん断じて許すことを得ないのである」
テロを生んだ動機の純粋さをもち出すことは、テロの首謀者を弁護することになる。『東京日日』も同じ論旨であった。
『東京日日』は十六日社説「帝都恐怖に襲はる」でこう論じている。
「われ等は衷心よりかかる事件の起こったことを悲しまねばならぬ。なるほどわが国の現状に対して不満を抱かぬものは少ないであろう。テロリズムを以て社会全般の廓清が短時間に出来ると考えれば、それは余りに単純である。動機の純なるものはなおこれを忍ぶべしとするも、一度殺伐の風の許されんか、世は凶悪なる徒輩の跳梁に委せられ、治安も秩序もなく、その社会自体の破滅とならざるを得ない。」
翌十七日「不祥事と政局」では「国内に不安の事象の生ずるは政治中心に力と威信が欠けているためである。われ等は政治の本体を強固にしなければならぬ。罪は法を以てこれに臨む。けれども罪の人を生ぜる事情は一片の法を以ては如何ともすることを得ない。国民の深思すべきはこの点ではないか」
ことに「不祥事と政局」では政党政治のだらしなさが原因と犯人の肩をもったような内容である。『読売』も同じような論説を掲げた。
『読売』の十七日社説「犬養首相の逝去を悼む、不祥事に脅かされた帝都」は「今日、我国の現状を見るに、失業者は都会に溢れ地方に満ちている。何といっても社会不安は生活不安がその本源である。この根本を匡さない限り、凶事の絶滅は期し得ない。即ち今回の事件の如きは古井戸に溜れるメタンガスの爆発の如きもので、これを不用意に見逃していた政治家の罪でもあるのだ」。
荒木陸相は「本件に参加したものは若いものばかりである。これらの純真なる青年がかくのごとき挙措に出た心情について考えれば、涙なきを得ない。名誉のためとか、私欲のためとか、売国的行為ではない。真にこれが皇国のためになると信じてやったことである。ゆえに本件を処理する上に、単に小乗的観念をもって事務的に片づけるようなことをしてはならない」と各紙に述べたが、これと全く同趣旨である。
『東京日日』『読売』などはテロよりも政治の腐敗へよりきびしい目を向けたが、こうした無責任に青年将校を甘やかす態度が下剋上の気風を助長し、暴走に拍車をかけテロを生んだのである。
このほか、『都新聞』が「一大不祥事」、『報知』が、「首相遭難と政局の不安」、『国民』が「犬養首相遭難」、『時事新報』が「不安社会と後継内閣」、『中外新報』(現『日本経済新聞』)が「人心の安定が急務」などの論説をかかげたが、いずれも大同小異でテロ、ファッショ排撃のものでなく、中途半端で精彩を欠いたものであった。
こうしたなかで、唯一、真正面から批判の矢を放ったのが、全国紙や中央紙ではなく、九州の『福岡日日新聞』(現『西日本新聞』)の菊竹六鼓唯一人であった。「言いたいことを言うのはたやすい。言うべきことをいうには勇気がいる。生命がけの勇気がいる」という一つの例証がここにある。
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