日本経営巨人伝⑪馬越恭平ーーー東洋一のビール王、宣伝王・馬越恭平『心配しても心痛するな』
日本経営巨人伝⑪馬越恭平
東洋一のビール王、宣伝王・馬越恭平
<名言ー心配しても心痛するな、「元気、勇気、長生き、腹の落ち着き」を持て>
本
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馬越恭平翁伝
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昭和10
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大塚栄三
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馬越恭平 1844-1933
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(解説)前坂俊之
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00.09
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13,500
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大空社
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前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)
馬越恭平は弘化元年(一八四四)十月、備中国後月郡(現在の岡山県井原市)で生まれた。十三歳の時、母方の叔父に当たる播磨屋仁平衛の世話で大阪に出て、鴻池家で丁稚奉公して働いた。二年後にその商才が認められ、仁平衛は自らの養子に恭平を迎え入れた。
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播磨屋は徳川時代から諸大名の金銭の用達を務める商家で、維新後は公事宿を営んでいた。幕末で各藩が軍費を調達するのに馬越は乗じて、金銭を貸し付けて大阪の同業者のトップにのし上がった。
播磨屋で働いていた時、馬越はその後に決定的な影響を受けた益田孝(後の三井物産社長)に出会った。益田は馬越より四歳年下であった。益田は欧米に留学したときの体験を馬越にいろいろ話し、経済の新知識、世界経済について啓蒙し大きな影響を与えた。益田は「セルフ・ヘルプ」(西国立志編)を読むように勧め、これを読んだ馬越も感激して座右の書となった。
何とか東京に出て新時代の経済界で飛躍したいと発起した馬越は明治六年(一八七三)、養家が承知しなかったため、妻子と別れ播磨屋を去って益田を頼って上京し、三井物産の前身である先収会社に入った。
明治九年七月、この先収会社は三井物産となり、益田が社長を務め、馬越は売買方となった。ほどなく西南戦争が勃発し、その官軍の軍需品の供給を一手に引き受けた物産は、馬越が戦地に乗り込んで陣頭指揮し、五十万円という巨利を上げた。
明治十三年(一八八〇)に馬越は横浜支店支配人となり、生糸の輸出や海外貿易を行い、横浜生糸荷預所を設立し、生糸をわが国の輸出品の第一位にした。同十七年には三井物産本社売買方専務、二十五年には重役となって朝吹英二らとともに、三井の三羽ガラスと称されるまでになった。
五十三歳の時、二十年間勤めた三井を去って、業績不振の日本麦酒(恵比寿ビール)の経営を任された。文明開花とともに、当時の人々は西洋食にはだいぶ慣れてきたものの、まだビールを飲む習慣は定着していなかった。ところが、ビール会社は多く、供給過剰の状態が続いていた。ビール会社の経営は赤字続きで、日本麦酒も倒産寸前であった。
馬越は経営再建に全力で取り組んだ。持論の「人間は四時間も眠れば十分」という四時間睡眠法で、1日二十時間近く働きまくった。まず、会社の大整理を行い、資本金を四十五万円から三十万円に減資、従業員も削減、雇用したドイツ人の手数料もカットした。
特に、ビール醸造の機械、器具の購入を一任していたドイツ人経営の横浜ラスペ商会が日本人の無知につけこみ、為替相場をごまかして利益をむさぼっていたのを見抜いて、取引を打ち切ってしまった。
その一方で、アイディアマンの馬越はビールの売り込み、宣伝に知恵を絞った。
まず、第一弾で「ビールの売り込みは四者に集中すべし」と号令した。四者とは学者、医者、役者、芸者のことで、世のインテリや有名人に集中して無料試飲会などを開いて、大いに宣伝してビールを売り込み、そこから多数の一般消費者への浸透を図って行った。新年の初荷では「ヱビスビール」と染め抜いたはんてんを社員に着せて、町中を練り歩かせた。工場見学会を開いて、何千人も招待して、アノ手コノ手の宣伝、PRを繰り広げた。
販路の拡大にも必死に取り組み、九州の陸軍大演習の際には、当時珍しかった仕掛け花火を打ち上げ、度肝を抜いたり、次々に新機軸を打ち出した。こうしたことによって日清戦争以後、ビールの消費量は大きく伸びていった。
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白い前掛け姿のウエイトレスに客はジョッキを傾ける、それを銀プラ族が窓越しに眺める、といった当時、最先端をいくショウウィンドーとファッションによってビールを大いに宣伝し、流行の基地とした。これは大評判となり、ビヤホールは一躍、東京の新名所となった。
明治三十七年の日露戦争後に、それまで三つ巴で激烈な競争をしていたビール三社の合同問題が浮上してきた。馬越の日本麦酒、渋沢栄一、大倉喜八郎らの札幌麦酒、外山修造(日銀初代理事)らの大阪麦酒(現在の朝日麦酒の前身) ある。
明治三十九年三月、ついに三社合同が実現し、新社名は「大日本麦酒株式会社」(資本金五六〇万円)となり、馬越がその社長に就任した。三社合併によって大日本麦酒は国内シェアは七二%となり、麒麟麦酒の二〇%をはるかに凌駕した。東洋一の地位を獲得した。
明治四十二年には馬越は何と同社の株主に十割の記念配当を出して世間をアッと驚かせた。馬越は「日本のビール王」から、「東洋一のビール王」と呼ばれた。
昭和八年(一九三三)四月二十日、馬越は八十九歳で亡くなったが、明治の草創期からわが国の実業界の開拓者として、終生現役として活躍した。生涯を通じて関係した企業は九十余にのぼった。
しかし、馬越は「一人一業主義」の根強い欧米諸国の実業界の慣習に学んで、一事業に力を集中し、特に、大日本麦酒会杜社長に就任以来、全力をこの会社に注いでいた。
馬越は仕事に打ち込む一方、私生活の面では精力絶倫で大の女性好き。生涯関係した女性は千六百人を数えたといい、百人目ごとに当たった芸者を落籍しては、赤坂、新橋,神楽坂などに家一軒を与えたり、料亭を持たせたという。
その数何と十六人にのぼった。そのスタミナの秘訣は居眠りをすることで、わずかな時間でも、寸暇を惜しんですぐ居眠りができる、『居眠りの名人』であった。睡眠時間は死ぬまで四時間そこそこだったが、あいた時間はすぐ居眠りをして、夜の部では遊蕩三昧であった。
また馬越のスタミナの秘訣は、居眠りすることで、居眠りの名人だった。重役会に臨んでめんどうなことになると、居眠りを始めた。
本当に眠っているかと思うと、そうではない。チャンと要領をつかんでいて、知らん顔をしていた。万一、自分に不利益なことや、
会社に不利益なことに気づくと、直ちに目を覚まして発言し、ツボをはずさなかったので他の重役たちは驚いた。
また馬越のスタミナの秘訣は、居眠りすることで、居眠りの名人だった。重役会に臨んでめんどうなことになると、居眠りを始めた。
本当に眠っているかと思うと、そうではない。チャンと要領をつかんでいて、知らん顔をしていた。万一、自分に不利益なことや、
会社に不利益なことに気づくと、直ちに目を覚まして発言し、ツボをはずさなかったので他の重役たちは驚いた。
睡眠時間は四時間で、猛烈なビジネスの合間に〝居眠りの天才〃といわれるように、どこでも睡眠をとて、スタミナを回復した。
そして、夜の部では大尽遊びで遊蕩ざんまい。
馬越のモットーは次のようなものであった。
①信仰心を養うこと。 「日本人は概して信仰心がないが、信仰心を養うことが最も必要である。宗教は何宗でもいいから、
必ず信仰心を養成し、各自、安心立命の信念を固くしなければならぬ。
② 平常、心を若くし、老成を気取らず、愉快に活動すべし
『自分は老人になっても、年齢よりは先ず二、三〇年くらい若いつもりで業務に没頭し、老成を気取らぬように
少壮者の心持で愉快に活動している。
少壮者の心持で愉快に活動している。
③ 心配すべし、心痛すべからず
『いずれの事業を問わず、相当の苦心や心配はあるものである。また、時として身をていして大事に当たらなければならぬ事もある。
しかし、そのことが発生した時、苦心、焦燥、心を配ることは大切であるが、自分の身体が衰弱するほどに、心を痛むことは愚かなことである。
いかなる大事でも正心誠意、私心をはさまず、心を配すれば必ず局面打開の道があるものである』
いかなる大事でも正心誠意、私心をはさまず、心を配すれば必ず局面打開の道があるものである』
④四気の必要
元気、勇気、長生き、腹のおちつきーがいずれの事業を行うにしても必要である。この「四気」 こそすべての原点である。
本書は大塚栄三著『馬越恭平翁伝』(馬越恭平翁伝記編纂会、昭和十年、非売品)の復刻である。馬越の伝記としては、これが唯一のものだが、実業界での足跡と同時に茶人としても知られていた馬越の業績については、親交のあった高橋義雄が巻末に執筆している。明治、大正期の経済界の巨人としての馬越の全貌を的確に記述した伝記として研究者には大いに参考になる一書である。
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