日本リーダーパワー史(124)辛亥革命百年(26) 犬養木堂の『孫文の思い出』ー(東京が中国革命の策源地となった)
日本リーダーパワー史(124)
辛亥革命百年(26)犬養木堂の『孫文の思い出』
<辛亥革命の策源地は東京で、支那の革命家という革命家は
全部東京に集まった。そして孫文を首領にして今の国民党
の前身の「中国革命同盟会」をつくった>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
<「木堂雑誌」第七巻第五号1930年 昭和5年8月より>
▲孫文との初対面
孫文と始めて会ったのは明治三十二年(1899)だったかな。宮崎滔天がひょっこり連れて来て引き合わしたのじゃ。
宮崎といえば面白い男で、外務省に頼まれて支那に革命の秘密結社を調査しに出かけおったが、ミイラ取りがミイラになって、帰りがけに横浜で孫文と会い、意気投合してそのまま東京に引ッ張って来た。
そして外務省に出頭して「報告書の代わりに見本を一匹連れて帰った」とやったので、役人連中すっかり毒気を抜かれたそうじゃ。
そのころ、わしはひどく貧乏しとった。正月に、到来物の塩ざけ一びきで五十人の客をしたりなんかしていた時分じゃったよ。しかし故国を追われて身を寄せてきたからには、黙って見てもおれんので、頭山満、平山周、古島一雄なんかと相談していろいろ金を工面したあげく、早稲田に小さな家を持たして、そこに住まわせておいた。
▲「中山」の由来
支那人の名義では都合が悪かろうというので、表札には「中山樵」とだしておいた。この仮名の中山が、いつのまにか孫文の号になってしまって、今で
は孫中山の方が支那人のあいだで通りがいいようじゃ。
その時分は政府でも政党でも外国の亡命志士なんかてんで相手にしなかった。政府では却って、対外関係を恐れて弾圧主義を取っていた。
わしはそのころ憲政本党に関係していたが、この党にしても、また旧自由党系のものにしても、支那の革命派を世話するような奴なんかまるでいなかった。中でも大隈なぞはひどく浪人嫌いで、てんで寄せつけなかったものじゃ。
▲貴様は物好き
で、頭山などは、わしの顔を見るたびに「政党で浪人の面倒を見るのは貴様だけだ。貴様はよほど物好きじゃの」などと言いおった。そのとき孫文は三十四、五の若盛りじやった。
顔立ちは引き締まって、べん髪は組まずにハイカラに分けて、日本人然たる様子をしとった。ふだんは、しんみりした物静かな男じゃが、満州朝廷の腐敗などを説きだすと、とても議論が立って、気鋒の鋭い人物じゃったよ。
だんだんつきあっているうちに、わしもこいつは大物じゃと見てとった。「あれなら相当のことが出来るじゃろう」と頭山なんかとも話し合ったことじゃ。
▲珍しい潔癖
支那人に似合わず潔癖な男で、ふろに入るのが何より好きじやった。それで、わしの家に来ても、まずふろを立ててくれといって、ゆるゆると長湯を使って喜んどった。
酒はさっぱりやらなかったが、飯はどんなまずい菜ででも盛んに食った。あるとき家内がボラの切り身を焼いてだしたことがある。すると、孫文、日を丸くして「今日は御馳走ですね」とお世辞をいった。
これには家内も苦笑していたよ。
日本語は簡単な言葉を少し知っていただけで、話はできなかった。その後も日本には三、四回やって来たが日本語はとうとう物にならなかった。それでも聞くだけは大抵わかるようになっていたようじゃ。
英語はさすがに達者で、読み書きも話すことも不自由はしなかったようで、暇さえあると横文字の新聞、雑誌などを読んでいた。わしとは、いつも筆談じゃった。
▲医者らしい感じ
香港の医学校を出て、二十七、八までマカオで医者をやっていたので医術一通りの心得は持っていた。
そのためか医者らしい感じがどこかに残っていたようじゃ。早稲田の家はしばらくで畳んで横浜の山下町に引っ越していった。そこらには支那人も沢山いたので同志を集めるのに便宜が有ったからじやろう。
横浜では寄老会だとか三合会だとかいう支那独特の秘密結社の連中がうんと周囲に集まっていた。
そいつらは一種の物騒な政治結社じゃな。何しろその時分に革命などという荒仕事をやるには、こんな連中しか寄りついて来なかったものじゃよ、これらの沢山の身内に孫文は実によく尽くしておった。
金がはいると右から左にくれてやって、自分はポロ洋服を着て平気でいた。淡白で清廉で、立派な志士の風骨を帯びていた。
▲とうとう成功
人間がきれいな男じゃから、いうことも、やることも真っ直ぐじやった。で、わしなども心安だてに「君のように釈迦や孔子の説法めいたことばかり説いておっては、とても大きな徒党の首領にはなれんぞ」などと冷やかしたりしたもんじゃが、別に弁解がましいこともいわずにニコニコ笑っとった。
清朝倒滅の革命騒動をやらかして失敗しては日本に亡命して来おった。
そして何度もやったあげく、とうとう第一革命に成功したのじゃ。革命の策源地は東京で日露戦争直後の如きは、支那の革命家という革命家は全部東京に集まった。そして孫文を首領にして今の国民党の前身の「中国革命同盟会」というものを造った。
これが出来てから革命党の勢力が始めて増大したのじゃ。最後に会ったのは、第二革命に失敗して衰世凱にやっつけられた時で大正三年の秋じゃった。このとき今の宋慶齢と東京で結婚式を挙げた。
「もう五十になった」といいおった。
▲日独同盟論
その頃欧州戦争が始まって日本も連合軍に参加して青島攻撃をやったが、孫文はしきりにこれに反対して「日本はドイツと連合すべきだった。日本が大陸政策を遂行するにはドイツと結んで英米の勢力を支那から駆逐すべきであったのに…・・・」といって残念がっていた。支那に帰ってからも、このことは何度も手紙でいいよこしおった。一個の見識じゃな……。
(昭和5年(1930)7月21日東京朝日新聞)
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