世界/日本リーダーパワー史(963)ー『欲望資本主義を超克し、21世紀の公益経済学を先取りしたメッセの巨人』~大原孫三郎の生涯②ー
2019/01/15
社会貢献の偉大な父・大原孫三郎の生涯―100年前に企業の社会的責任をこれほど果たし経営者はいない、今はもっといない。
前坂 俊之(ジャーナリスト)
大原孫三郎は「明るい病院で、患者を公平平等に扱う」というコンセプトで、東洋一の理想的病院づくりを目ざした。
米ロックフェラー病院などを見習い、倉敷市内に敷地三万五千平方メートル、建坪一万平方メートル、二百二十ベッドの最高レベルの病院を建設した。約二百万円(現在だと四百億円)の建設費その他はすべて大原が負担。大正十二年(一九二三)六月に開院式が行われた。倉紡中央病院(昭和二年に倉敷中央病院と改称)である。
この病院では、平等を最重視し、見舞品の持ち込みを禁止し、現在の完全看護を実践し入院料の等級もなかった。このため、同病院への患者の信頼は抜群であった。ただし、折りからの不況で、同病院の経営は倉紡の重荷となった。一部の株主から大原の理想主義への批判の声が出た。これに対し、大原は「一時的に損にみえても、長い目でみれば倉紡に大きな利益をもたらす」と大きなソロバン勘定を訴えた。
時代を先取りした「シンクタンク」を創設
孫三郎の社会、文化、教育事業への貢献はあらゆる分野に及んでいるが、その真骨頂は社会問題への深い関心であった。
大正七年(一九一八)八月、米騒動が起き世の中は物情騒然となり、社会連動も一挙に盛り上がった。孤児救済のためには貧困の問題や社会の矛盾の解決なくしては不可能と考えていた大原は社会問題研究所の設立を決意した。京大の河上肇教授を相談に訪れた。
当時、「社会問題」を研究することは危険思想視された。「社会」は「アカ」(共産主義と同義語であり、タブーであり、検挙される危険もあった。大原は東大経済部の高野岩三郎教授に所長就任を依頼し、大阪天王寺に土地を買い、ベルギーのソルベ研究所に模したりっぱな私設研究所を完成した。
孫三郎は私財十五万円(現在の金で約三十億円)を出し、あとは毎年運営費として十万円を何の条件もつけずに提供した。
政府は「社会問題」は不穏当であるとして「生活問題研究所」に変更するよう圧力をかけたが、大原は屈しなかった。経済人としての大原の勇気と社会正義への信念は土性骨が入っていた。孫三郎は設立に当たって「この研究所を世界的に立派なものにしていきたい。自分はもうけた金は全部社会のために使い果たすつもりである」と述べている。
大正八年(一九一九)「大原社会問題研究所」が設立されたが、高野所長のもとに櫛田民蔵、・森戸辰男、久留間鮫造、大内兵衛、細川嘉六、笠信太郎、長谷川如是閑、河上肇らの当時の日本での最高の知識人、代表的な社会科学者そろってスタッフに加わった。
東大、京大経済部と比べてもそん色のない、それ以上の豪華な陣容で国で全くやっていない『日本労働年鑑』『日本社会衛生年鑑』などを刊行、欧米にも研究員を派遣、経済学や社会科学の文献を十二万円も投じて収集させた。大原は社会主義、共産主義運動が高まり、「大原社研はアカ、社会主義研究者の巣」「アカに手をかす資本家大原」と右翼などからの攻撃に対しても一歩もひるまず金は出しても、ロは出さなかった。太っ腹なのである。
同研究所から、「大原」の名前をはずすように言われても、応じなかづた。今でいう「シンクタンク」や「企業研究所」の先駆的なケースだが、大原の構想は一実業象のワクをはるかに超えた国家的な事業を先取りしていた。世界的なレベルの社会問題研究所を一企業家がつくもので大原の世界を視野におさめたスケールの大きさと、哲学を感じる。
現在の日本とくらべて、これまで世界第2の経済大国になったといっても、天下り役人の受け皿の政府系や民間企業のシンクタンクはたくさんあるが、世界的に通用するシンクタンクは皆無であった。
大部分が企業発展、経営、利潤追求のための予想や研究などを主な業務としており、大原が今から100年前につくったこの研究所を上回るものはないと言って過言でない。いかに大原孫三郎が偉大であったかの証明である。
大原社研と並んで、大正十年(一九二一)には「倉敷労働科学研究所」をも設立した。女工たちの劣悪で不衛生な労働環境を改善するために、倉紡内に研究所をおき、社会衛生や産業衛生と取組んだ。同研究所は数多くの業績をあげ、現在は財団法人労働科学研究所に引き継がれている。
もう一つ、農業についても、孫三郎は自らは大地主であったが、地主と小作人の関係を恥ずべきものと思い、小作人の自立化、農業技術の向上のため大正三年に財団法人「大原奨産金」を設立、財源として自己の田畑を寄付し、昭和四年(一九二九)には「大原農業研究所」と名前を改めた。
近藤万太郎博士のもとで、種芸、農芸、化学病理、昆虫の四部門を科学的に研究。岡山を代表する温室ブドウのマスカットや桃の「すいみつとう」、タタミ表の原料である「イグサ」も、品種改良によって生まれた。
また、食用菌の研究によってシイタケ、ヒラタケの人工栽培のほか、稲、穀物、イグサの害虫駆除の研究成果も上げ果樹王国・岡山の基礎を作った。同研究所は昭和二十六年に岡山大に寄付されている。
大原は大正十年(一九二一)正月の倉紡幹部の集まりで所感を述べた。この時、大原は四十歳で事業面でも、精神的にも一番、脂がのり切っていた時であった。そこで、彼の思想哲学を吐露している。
「私の仕事の中では、自己本位のこともあり、間違ったやり方もあるであろうが、ただ自分の家とか、子孫のためとか、という考えは毛頭持ちたくないと思っています。家に子供のあることをむしろ不幸だと考えるくらい自分のことを全然客観的立場に立って一生を過してみたい。私の仕事が社会的に意義を持ち、多少社会のお役に立ち得るならば、それで私は満足であります」。
半世紀前,大内兵衛の岡山の講演『偉大なる財界人大原孫三郎』
大内兵衛(1888―1980)は日本のマルクス経済学者、労農派の論客で、1920年の森戸事件で連座、東大を失職、戦後復職し、昭和25年からは法政大学総長。大内兵衛は大原社研のメンバーとなって、大原孫三郎と親しく接触した。その大内が1960年(昭和35)12月に岡山で開催された全国統計大会で、『偉大なる財界人―大原孫三郎は何をのこしたか』と題して講演した。
この時、大原社研の設立からのいきさつ、孫三郎の人格、思想について、こう語っている。
大原孫三郎のひろくは日本、せまくは倉敷にのこした一遺産はこのように大きい、そしてその数は多い。そこでそのうちに何がいちばん後世に残るだろうか。それについてわたくしはあるとき、大原氏と一生を通じて事業をともにしたもと中国新報社長・柿原政一郎氏と話をしたこ一とがあります。柿原氏はこのとき、大原翁はいろいろのことをやったが後世に残る最大のものは、恐らくは大原美術館であろうといいました。もちろんそれも一説であります。
なるほど芸術は長い、大原美術館も後世にのこるであろう。大原総一郎のビニロンの発達もいい。それもりっぱである。しかしわたくは学問も長いと思います。そしていささかながら、大原社会問題研究所のことを知っているものとして、実業家大原孫三郎が学問の発達のためにつくした功績をも語りつたえたく思うのであります。
大原社会問題研究所とは、大正八年から昭和十二年まで大阪天王寺の裏門の前にあったわが国最初の、そしておそらくは当時もっとも有力な社会問題研究所のことであります。この研究所の跡はいまもなお天王寺の裏門のところにベルギーのソルベー研究所と全く同じ形をして残っております。
そしてその書庫には、世界にも少いぐらいりっぱな経済学の文庫があり、それを大阪の諸大学の先生が利用しております。これが全部、大原孫三郎の出資によってできたものである。その事業そのものは、今日法政大学によってうけつがれ、法政大学大原研究所となっています。
民間の研究所で、しかも、資本主義の世の中からややもすれば一白い眼で見られでいたこの研究所が、四十年もこの生命を保っている、そして少しもその目的を変えないということは、この学問、社会科学のために誇っていいと思います。
大原孫三郎は学問の偉大なパトロン
あたくしはこの研究所のために、その半生を投じ、そのためにその命をささげた所長高野岩三郎先生はもちろん偉かったと思いますが、しかしこの先生の識見と人物とを見込んで、その人に一切のことをまかせ、その創立費はもちろんのこと、年々大金を投じてたくさんの本を買い、多くの学者を養成させた大原孫三郎も、同時に偉大なパトロンであったと思います。
何といっても大原さんは学問には素人でありました。しかし、彼は学問は尊敬すべきもの、真理は尊ぶべきものであると堅く信じていたからこそ、こういうことができたと思います。当時、すなわち大正八年ころから1932年(昭和七)、八年のころまでは、いうまでもなく日本において社会主義が研究されはじめ、無産政党が生れたときでありました。
そこで世の中の進歩的な人々は、この研究所をもって日本の社会科学のメッカとしましたが、また、政府をはじめ保守的な資本家たちは、この研究所をもっていわゆる危険思想の培養所と考えました。事実、世の中にはこの研究所を利用して、いろいろの迷惑を研究所にかけた人もいました。そのため警察がまちがって研究所に疑いをかけたこともありました。
そこでたとえばある有名な社会評論家は、大原研究所に集まっている多くの学者をたとえて、彼らは赤いよく肥えたヒナドリだ、そして高野岩三郎はその親鳥だ、そう見たてて漫画を措き、そこでは大原孫三郎は多数の女工から血と肉とをしぼる、ミルク・メイドの牛乳しぼりで、彼は、そうして高野を肥らせているといいました。
これは全くのウソであり、この事業によって、大原さんは一厘寸銭も儲けたことはあるまい、それどころか年々巨額の金、今でいえば二千万円にも当る金をこの研究所に投じておったのであります。 つづ
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