前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本リーダーパワー史(136) 帝国ホテル・犬丸徹三が関東大震災で示した決断と行動力に見習え

   

 日本リーダーパワー史(136)
帝国ホテル・犬丸徹三・関東大震災で示した決断と行動力
<大震災、福島原発危機を乗り越える先人のリーダーシップに学ぶ
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
歴史的にみても危機、非常時には必ず思いがけないところから指導的人物が現れてくるものである。今回、長期戦になるのは覚悟しなければならないが、約3週間経過したところでダメなリーダー、政治家、官僚たちの化けの皮が剥がれると同時に、戦時の若手のリーダー、企業家、ボランティアの活躍ぶりが漸々その姿を現しつつある。メディアはしっかり人物を見極めて、ダメ人間とやる人間を区分けして、批判し、ほめるべき点は賞賛すべきである。なぜなら、メディアがこれらダメリーダーをバッコさせてきた責任があるのだから。危機にあって自分だけ安全地帯にいて、従来通りの垂れ流し報道をすべきではない。ここでは関東大震災で示されたリーダーたちのリスクマネージメントと『常在戦場』の危機突破力についてみて行くことにする。
 
 
犬丸 徹三は<明治20(1887)年6月生れー昭和50年(1981)4月 93歳)は元帝国ホテル支配人、社長。石川県出身、一橋大卒、同大学生リーダーでストライキを指導、政治と、読書と禅に熱中し最後から数えて3番目の成績でかろうじて卒業した強者。満州に渡り大和ホテルで修業、上海、ロンドン、ニューヨークのホテルで勉強した後、大正8年(1919)、33歳で帝国ホテル副支配人となった。その後、常務、代表取締役、専務等を経て、1945年社長。1970年顧問となる
帝国ホテルの建設は1912年、アメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトに新館の設計を依頼した。ライトは来日して、使用する石材から調度品に使う木材の選定に至るまで、徹底した管理体制でこれに臨んだ。設計から11年の歳月を経て、大正12(1923)年にやっとライトの本館は完成した。
9月1日(土曜日)はライトの『新館落成記念披露宴』が開かれることになっていた。まさにこの時、午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の関東直下型地震が起こった。

帝国ホテルではちょうど宴の準備に大忙しの時だった。周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞わわる中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せて、東京随一の偉観を示した。
そのとき、犬丸支配人はどう行動したのか。その時、歴史は動いた。帝国ホテルの歴史的瞬間に、いかに戦ったか。



いかに
対処すべきかーいまのわれわれに大変役立つ『犬丸徹三のリーダーシップから学ぶ』
 
 
帝国ホテルの支配人、犬丸徹三は地震と同時に大混乱状態の中でその生来の沈着さからまず、調理場の火を消すように即座に指示、落成式の中止を決定、コックたちにさつま汁をこしらえるから炭火をおこすように命じた。
 
さつま汁というのは、さつまいもを使った煮こみのスープで、日本ではよく非常時用の食糧に使う。そして彼が宴会場にいってみた時、十二時十五分の大余震がやってきて、そのためにバルコニーの扇風機が雨のように落下してきた。
 
犬丸はすぐに、ホテルにとって最大の危険は火事であると見てとった。通りをへだてて向いの二つの建物には、すでに火がまわっていたが、幸いなことに風向が逆で、火の手を逆の方向にもっていっていた。犬丸はみんなに、窓を閉めるように命じた。それから彼は、バケツ部隊を編成させて、百合の池―これは、ホテルの入口正面の庭にあるもので、設計者のライトがホテルの重役たちの反対を押し切ってこしらえたものであった-から水を汲んできて、ホテルの屋根にかけさせた。それが終ると、バケツ部隊はこんどは、向いの燃えている二軒のうちの一軒の建物の消火に協力したのである。
 
夜になると、別の方向から火の手がホテルに近づいてきたが、これではホテルに燃え移るなと危惧していると、風の方向が変って、火の手を南の方にもっていった。犬丸の回想録を読むと、彼は来賓たちの安全が確保されたと見ると、こんどはその慰安の方に注意を向けている。
 
犬丸は語る。
 
「最初の晩は、火事が心配であった。次の夜は、暴徒の侵入が恐ろしかった。道ひとつへだてた日比谷公園には、何千人という避難民がいたからだ。彼らは、食うものが手にはいらない場合、何をするだろうか?また、もし雨が降ってきたら、どういうことになるだろう?数日間、雨は降らなかった。まだ暑くて、そとで寝ることはできたのだが。
 
ところで、地震の翌日には、市内でけんかや侵入事件があり、避難民が大挙して侵入してくるというこわい噂も流布されていたのであった。ある日本人の官吏が私にささやいたところによると、そうした暴徒たちは、わがホテルーいまや、経済と政治の中心となっていたーを目がけていた上に、東京駅を襲撃して交通をまひさせようとしているということであった。
わがホテルには、数名の大使を含む多くの外国人がいたので、とくべつに警戒する必要があった。ホテルの使用人たちはめいめいに、あり合わせのもので武装して、その晩はひと晩中、警戒に当ったのであった。
   その晩、私は近衛部隊の隊長に手紙を書いて、ホテルに兵隊を派遣してくれるように要請した。ところが、その返事は、軍隊は個人の要請によって出動するものではなくて、命令がなければ出動できない、軍当局がそれを必要と認めれば派遣するだろう、ということであった。
 
そこで私は、自分で出かけていって、こういった。
「では、必要であるという時期を当局はいったいどうしてきめるのですか? 当局で認めたころには、もう手おくれですよ。国内問題だけなら、なんとかかくしておくこともできるでしょう、しかしことが外国関係となると、電信ですぐに伝わってしまいます。いまはその国際的な問題であるのに、どうしてあなたは兵隊を出さんのですか? 警衛ということは、私の仕事ではないのです」
それでも、兵隊をよこしてはくれなかったので、私は翌朝、外務省にいって話したところ、三十名あまりを派遣してくれ、さらにあとで増強してくれた。私は、その晩は眠ることができたのであった」

 地震第二日目となっても
 
地震第二日目となってもリスク管理に冴えわたっていた犬丸徹三が司厨長にいった。「食糧を節約なんかするな。今日の分は、充分あるんだ。みんな使ってしまえ。あしたになったらおれがなんとか見つけてくる」
月曜日になると、犬丸はこの約束を果たすための現金が必要であったのだが、おりから月のはじめで、先月の収入は全部銀行に入れてあったので、現金といっては一文もなかった。

 しかし、銀行が一軒も開いていなくとも、犬丸はほんのちょっとのあいだしかへこたれてはいなかった。徴は外務省にいくと、外人客を丁重に扱うことがいかに大切であるかを説いて、必要なだけの額を出してもらった。

こうして手等を整えた彼は、フランク・ロイド・ライトが残していったキャディラックを含むホテルの自動車で、まだ車が通れる道路のある東京市の北方の田舎へ、食糧買出し隊を派遣した。やがて、一日や二日は充分にもちこたえられるだけの食糧を入手して買出し隊が帰ってきた。犬丸は、その一部を宿泊客用に使い、また一部を向いの日比谷公園に設けられていた避難民用の給食所の方へまわしてやった。

 東京にあった目ぼしい外国公館のうち、アメリカ、ブラジル、フランス、イタリアの公館が焼失し、イギリスの公館は大損傷を受けた。犬丸は、それらの国々の大公使に対して、帝国ホテル内にいっしょに住んで、オフィスも設置するようにと呼びかけた。
 
イギリスには、ロビーの上のバルコニーが割り当てられた。アメリカは北側のウイングが当てられ、また数日後にマニラから到着した同国の救援委員会は、うしろ側にある食糧貯蔵所のついた一階のグリル・ルームにいることになった。
 
宴会場と、そこに通ずる遊歩廊下は、立ち直った東京各紙のために開放され、ここで再刊の準備をすることになった。南側のそでは、焼失してしまった公益事業機関のために開放された。こうしたところの人たちは、食糧持参であって、幹部の面々がロビーに寝起きをして、ホテル正面の車回しのわきの駐車場で火を燃やしては、大きななべで米を炊いていた。

 大倉喜八郎男爵(帝国ホテルの設立者)の邸宅も火災にあったことを知った犬丸は、月曜日の朝まだき、外務省よりも先にまずこの大倉のところを訪ねた。行ってみると、男爵は着物に頭巾という姿で、彼の隠居所だった家の焼跡近くの芝生に立ったまま、ぶすぶすとくすぶっている彼の私設美術館のあとをじっと見ていた。

ここには、当時の価格で一億円を下らないといわれた絵画が集められていたもので、その収集こそは彼の最大の関心事だったのである。犬丸には、人と話をするときに、人差指で相手を突っついて注意をうながすくせがあった。この男爵との会見のときのことについても、彼はのちにこう言っている。

「私は、男爵の身体に軽くさわって話し、私といっしょにホテルに来るように説得につとめた」男爵は言われた通りに下町に出て、彼の会社のあった建物の焼跡を見てから、帝国ホテルにはいったが、犬丸はここで彼に朝食のポリッジをたべさせてから、居心地のいい部屋に案内した。

 
九月六日になって海外電報が部分的にではあったが、打てるようになり、アメリカとのあいだに電報を交換した。当時アメリカでは、フランク・ロイド・ライトはロサンゼルス市内のある建築の設計に当っていたのだが、彼は日本の地震の記事については、一般の読者よりは遥かに熱心な関心を寄せていた。
 
九月四日になると、東京からアメリカやその他の国々に伝わった噂として、帝国ホテルが壊滅してしまったという記事が掲載された。ロサンゼルスのエグザナー紙の記者がライトに電話をして意見をもとめると、ライトはそんなことは信じられないとして、すぐに問い合わせの電報を打ったが、それが結局犬丸のところに届いた。犬丸は、直ちにその電報を大倉男爵に示して、二人で次のような返電を打った。
 
「貴下の天才の記念塔としてのホテルにはいささかの損傷もなく、数有名の避難民に完全なサービスをなしつつあり。ご同慶のいたり。大倉」
 
 
 この大倉男爵からの電報は、九月十三日にウィスコンシン州いたライトのところに届いたが、これは決して単なる感謝電報にとどまるものではなかった。それは、当時の非常事態の下にあって、著名な日本の貴族による目撃報告であったのであり、未曽有の不幸に見舞われた地域からの、極めて数少い明るいニュースの一つだったのである。
 
ふだん口数の少いライトがこの話を新聞記者に伝えると、それが全世界のビッグ・ニュースとなったのは、むしろ当然であった。こうして、東京で地震に堪えた建物は帝国ホテルだけであったという伝説―それは間違っているにもかかわらず、不滅のものと思われるくらいの ーをつくりあげてしまった。この伝説はまた、ライトを全世界に有名にしてしまったと同時に、それにも増して、彼によって代表される建築の流派を広めることになったー彼の流派は、自後四十年間にわたって、世界の大都市の姿に革命をもたらすことになったのである。
 帝国ホテルが地震を通じて、ところどころにほんの少しの歪みがあったくらいで、問題にするほどの損傷は受けず、それによってライトの念願と主張とがかなえられた。
 
 
(参考文献)

●私の履歴書〈第12集〉『犬丸徹三』(日本経済新聞社 1961年)
●犬丸徹三『ホテルとともに70年』(1964年)

●ノネル、F,ブッシュ著、向後英一訳『外人記者の見た関東大震災 正午二分前』(早川書房 昭和43年)
●永沢道雄『大都市が震えた日』(朝日ソノラマ、2000年)

 

 - 人物研究 , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
日本リーダーパワー史(704)「福沢諭吉はなぜ「脱亜論」に一転したか」⑩『林董(ただす)外務次官の証言する朝鮮防穀令事件の真相』防穀令により朝鮮地方官がワイロを貪った。

日本リーダーパワー史(704) 日中韓150年史の真実(9) 「福沢諭吉はなぜ「 …

『Z世代のための太平洋戦争講座』★『山本五十六、井上成美「反戦海軍大将コンビ」のインテリジェンスの欠落ー「米軍がレーダーを開発し、海軍の暗号を解読していたことを知らなかった」

2015/11/17記事再録 ー太平洋海戦敗戦秘史ー山本五十六、井上成美「反戦大 …

スゲーよ、台風16号との鎌倉稲村ヶ崎決闘サーフィン,ガチ勝負④(2021/9/30 pm6)-約百人のサーファーがモンスター波と格闘、乱闘、ジョーズが飲み込まむ。エキサイティングの連続スペクタクル
no image
日本メルトダウン脱出法(790) 「 COP21パリ協定、何が画期的な成果なのか?」●「なぜアベノミクスで不況になったのか 問題は「GDP600兆円」ではなく社会保障だ」●「 加山雄三 数十億円あった借金を完済するまでの道のりを語る」

    日本メルトダウン脱出法(790) COP21パリ協定、何が画期的な成果な …

no image
日本の「戦略思想不在の歴史」⑶日本で最初の対外戦争「元寇の役」はなぜ起きたか③『現在の北朝鮮問題と同じケース、一国平和主義に閉じこもっていた鎌倉日本に対して世界大帝国『元』から朝貢(属国化)に来なければ武力攻撃して、日本を滅ぼすと恫喝してきた!、国難迫る!』

日本の「戦略思想不在の歴史」⑶ 日本で最初の対外戦争「元寇の役」の内幕 第4回目 …

no image
近現代史の復習問題/記事再録/日本リーダーパワー史(82)尾崎行雄の遺言「日本はなぜ敗れたかーその原因は封建思想の奴隷根性」

日本リーダーパワー史(82)尾崎行雄の遺言「日本はなぜ敗れたかーその原因は封建思 …

no image
★『地球の未来/明日の世界どうなる』< 東アジア・メルトダウン(1077)>『米朝開戦すれば!ーEMP攻撃についてのまとめ』★『アメリカ軍の非核型電磁パルス(EMP)・高出力マイクロ波(HPM)兵器の種類と構造』★『北朝鮮の「電磁パルス攻撃」は脅威か?米専門家の懐疑論』

  EMP攻撃によって、日本の高度情報IT社会は メルトダウンする 北朝鮮は9月 …

no image
日中朝鮮,ロシア150年戦争史(51) 副島種臣外務卿(外相)の証言③『明治の外交ー日清戦争、三国干渉から日露戦争へ』★『ロシア朝鮮支配の陰謀・奸計で山県外交手玉にとられる』

   日中朝鮮,ロシア150年戦争史(51) 副島種臣外務卿(外相)の …

『Z世代のための 百歳学入門(216)』<松原泰道老師!百歳>『 生涯150冊、百歳こえてもマスコミ殺到!』★『 その百歳長寿脳の秘密は、佐藤一斎の『言志晩録』に「見える限り、聞こえる限り、学問を排してはならない、とある。私も、いまや、目も見えない、耳も聞こえませんが、読み、書く、話すことは生涯続けたいと思います』

  2018/03/17    …

日本リーダーパワー史(815)『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、インテリジェンス㉚『日本史決定的瞬間の児玉源太郎の決断力②』★『児玉の決意ー「ロシアと戦って我輩もきっと勝つとは断言せぬ。勝つと断言できないが、勝つ方法はある。』◎『「国破れて何の山河じゃ。ロシアに譲歩することによって、わが国民は必ず萎縮し、中国人、インド人と同じ運命に苦しみ、アジアは白人の靴で蹂躙され、光明を見るのは何百年の先となる』

 日本リーダーパワー史(815)『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利」し …