日本リーダーパワー史(924)-人気記事再録『戦時下の良心のジャーナリスト・桐生悠々の戦い①』★『関東防空大演習を嗤う」を書いて信濃毎日新聞を追われる』★『以後ミニコミ雑誌『他山の石』で言論抵抗を続けた』
2018/07/29
年1月26日記事再録
日本リーダーパワー史(33)戦時下の良心のジャーナリスト・桐生悠々の戦い①
前坂 俊之
(静岡県立大学名誉教授)
桐生悠々は『他山の石』で言論抵抗を貫く
ジャーナリスト・桐生悠々(1873―1941)の個人誌『他山の石』が一九八七(昭和六十二)年九月、半世紀ぶりに不二出版から完全復刻された。
桐生は『信濃毎日聞』主筆時代の一九三三(昭和八)年八月十一日に社説「関東防空大演習を嗤う」を書いて問題化、『信濃毎日』を退社に追い込まれた。
以後、既成の新聞社での組織内ジャーナリストとしての抵抗は不可能と考え、自ら責任を負う一人のミニコミ誌の創刊を決意、『他山の石』の前身である個人誌「名古屋読書会第一回報告」を一九三四(昭和9)年六月に創刊、毎月二回発行することになった。
同年十二月から『他山の石』と改題、太平洋戦争が起きる三ヵ月前の一九四一年(昭和十六)年九月まで合計177冊を刊行した。
満州事変から太平洋戦争への十五年戦争下のきびしい言論統制の〝冬の時代″に、言論の自由を守り、不正をただし、ジャーナリズムの良心を貫き通した桐生の『他山の石』は、日本のジャーナリズム史上、不滅の金字塔といえる。
<晩年の桐生悠々>
矢内原忠雄の『嘉信』や正木ひろしの『近きより』などの同じようなミニコミ誌があるが、矢内原は学者・宗教家であり、正木は弁護士である。桐生のように新聞記者として『大阪毎日』『大阪朝日』『信濃毎日』などを渡り歩き、その組織内ジャーナリズムの中では真実を報道したり言論の自由を護ることができないと悟り、『個人誌の砦』のなかでたたかい、憤死したのである。
昭和戦前期の新聞記者で、勇気をもってここまで壮絶な人生は新聞の戦争責任、ジャーナリストの生き方を考える上でいわば対極的存在といえる。
今回、復刻されたのは合計百七十七冊のうち、どうしても遺族や研究者のところで みつからなかった四号を除いた計百七十三冊で、原型を縮小した形で出版した。
桐生が「畜生道の地球」を去って約半世紀。息子や孫たちが戦争中や戦後の混乱 期を苦労しながら、大切に守りぬいてきた原稿や『他山の石』の原本、ゲラ刷りなどをもとに復刻した。
伏字や検閲でカットされたり、発禁になった部分も、こうしたものを頼りに、伏字全体の三分の一が元どおりに復元された。これにより、悠々の消された言論の何割かがよみがえったわけで、桐生の言論から学ぼうとするものには大変ありがたいことになった。
復刻ができたのは、事前検閲によって、悠々の手もとに、書いた原稿と検閲された ものがそっくり残されていたためである。
桐生が生涯たたかった言論弾圧、検閲そのものが桐生の言論を半世紀ぶりに蘇生させた要因になるという〝皮肉″なめぐりあわせに悠々も地下でさぞかし苦笑いしていることであろう。さて、桐生が『他山の石』の砦のなかで孤立無援のたたか いを始めるきっかけとなった「関東防空大演習を嗤う」にふれる。
桐生は一八九九(明治三十二)年に東京帝国大学を卒業し たあと、『下野新聞』『大阪毎日』『大阪朝日』と在籍。一九一〇(明治四十三)年に『信濃毎日』の主筆となり、乃木大将が明治天皇の崩御で殉死した記事をスクープ、その殉死を痛烈に批判、社説で三日間にわたり「陋習打破――乃木将軍の殉死」を掲載して物議をかもした。
これは自由主義者・悠々の真骨頂を示した論説の一つといわれる。
憲政擁護の立場から政友会攻撃を激しく行い、 それがもとで『信濃毎日』を一九一四(大正三)年に退社。名古屋の『新愛知』主筆となったが、再び一九二八(昭和三)年一月に『信濃毎日』側からの要請で主筆に返り咲いた。小坂順造社長が、桐生のすぐれた見識とリベラルな姿勢にほれこんでいたのである。
犬養毅首相が暗殺された五・一五事件が発生した時、『信濃毎日』も『福岡日日』とならんできびしい批判をした。桐生を主筆に置くだけあって、『信濃毎日』の紙面もリベラルな伝統が脈打ってた。
1・・五・一五事件を批判
菊竹六鼓の五・一五事件批判のカゲにかくれて、『信濃毎日』の批判はあまり知られていないが、『信濃毎日』の一貫した反軍、リベラルな論調が〝桐生追放″への一つの伏線となった。
一九三二(昭和七)年五月十五日。五・一五事件が起きた翌日の『信濃毎日』のコラム「拡声器」は「今や軍人は狂人と化した」と歯に衣着せず次のように書いた。
「最後のきわにも、話せばわかるとさとした態度は立派だが、遺憾ながら、今や軍人どもがすでに狂人となっていることを見違えた。気違いに話しても、話のわかるわけがない」
十七日付では「◇『軍人ならば会ってやろう』と気を許したのが運の尽き、犬養さん、 狂人に対する認識不足だった◇狂人といいたいが寧ろ『狂犬の群れ』だね◇この狂犬の群れが『祖国を守れ』か……」。
二十日の同欄は、五・一五事件の責任者というべき荒木陸相が後継首相を狙っていることについて、さらにズバリと斬り込んだ。
「白昼、一国の首相を射殺した凶漢を帝都に徘徊せしめた『当の責任者』が後継内閣の待機首相としてほくそ笑む◇この前代未聞の不思議◇大臣の首さえあれなんだから、国民の首なんか、裏の畑の水瓜か大根だ」
このコラムは三沢背山編集局長が執筆した。全国の新聞のほとんどが軍部の鼻息をうかがい、恐れて沈黙するなかで、桐生を主筆にあおいだ『信濃毎日』は『福岡日日』とならんで、そのペンの砲列は壮観といえる。
五・一五事件は、まる一年後に報道解禁となり、一九三三(昭和八)年五月十七日 に司法省、陸海軍から事件の概要が初めて国民に公表された。この時、桐生は五・一五事件を連続して取り上げた。
「五・一五事件に対する当局の謬見」 五月十日
「五・一五事件の政治的結果」 五月十九日
「五・一五事件と国民の積極的責任」 八月九日
「五・一五事件の大教訓」 八月二十日
これらの論説のなかで、桐生は五・一五事件の犯人の軍人たちを、これまでどおり 「名誉的犯罪として、政治犯として裁くことが、暗殺者を続出させた」として陸海軍司法当局の〝時代錯誤″を嗤い、この事件の教訓を活かすも殺すも「国民の自覚」であると述べた。
2・・「関東防空大演習を嗤う」とあえて、〝嗤う″の見出し
関東防空大演習は一九三三(昭和八)年八月九、十、十一日の三日間にわたり、人口五百万人の帝都・東京を中心に一府四県にわたって実施された。演習地域は帝都を中心に直径三百キロに及び攻撃方は陸海軍の航空部隊や航空母艦の艦上機がこれに当り、防衛方には陸軍の戦闘機三個中隊が回った。史上空前の大規模な演習であった。
『信濃毎日』では「三機編隊の赤翼機、凄惨帝都を猛撃、全市修羅の巷と化す」の五段見出しで、こう報じている。
「執拗果敢な攻撃に全市の混乱全く鼎の湧くような様、サイレンや警鐘が前にも増して響き渡り炎天の空を真一文字に今度は荒川、豊島、淀橋、中野、杉並方面へと敵機の容赦なき猛撃が行われた。
これを迎撃する防護団の活動に依って神田ニコライ堂は忽ち濠々たる煙幕に完全に遮蔽された外、十数ヵ所で防護団員の防護演習が敏速に行はれた」(八月十日)
問題となった桐生の社説は、
演習二日目の模様を報ずる第一面左横に掲載された。「関東防空大演習を嗤う」(八月十一日)と、特に〝嗤う″という挑戦的な見出しがついていたが、内容は冷静、科学的に防空演習の目的、狙いを分析して批判、提言しており、決して反軍的というものではなかった。
桐生の社説では大演習に想定しているような敵機襲来という事態に陥れば、木造家屋の密集した都会は一大火災になり、関東大震災以上の惨状になると予想、そうなれば防空演習など全く役立たないと指摘した。さらに、夜襲に備えて、消灯せよというのは滑稽であると決めつけ、「敵機を断じて領土内に入れるな」と主張した。
「この名の如く、東京付近一帯に亘る関東の空において行われ、これに参加した航空機の数も非常に多く、実に大規模のものであった。若しこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言断に絶したことを予想し、痛感したであろう。
というよりもこうした実践が将来決してあってはならないこと、又あらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうということを想像するものである。
将来若し敵機を帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心 阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求めるべく余儀なくされないだろうか。なぜなら、是の時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。
3・・東京大空襲の大惨事を予言
そして、この討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは木造家屋の多い東京市をして、 一挙に焼土たらしめるであろうからである。……投下された爆弾が火災を起こす以外に、各所に火を失しそこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。
だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは我軍の敗北そのものである。この危機以前において、我機は途中これを迎え撃ってこれを射落すか、又はこれを撃退しなければならない。
(中略)
我機は途中に、或は日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵 機を我領土の上空に出現せしめてはならない。
こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のものであり、又如何に屡々それが行われても、実戦には役立たないだろう。帝都の上空において、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最後の戦争を想定するものであらねばならない。
壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一つのパペット・ショーに過ぎない。
特にそれが夜襲であるならば、消灯しこれに備うるが如きは、却って人をして狼狽せしむるのみである。この場合、徒らに消灯して却って市民の狼狽を増大するが如きは滑稽でなくて何であろう。(中略)
赤外線を戦争に利用すれば、如何に暗きところに、又如何なるところに隠れていようとも、明に敵軍機の所在地を知り得るが故に、これを撃退することは容易であるだろう。
こうした観点からも、市民の、市街の消灯は完全に一の滑稽である。
要するに、航空戦はヨーロッパ戦争において、ツエペリンのロンドン空撃が示した如く、空撃したものの勝であり、空撃されたものの負である。だからこの空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない」
この社説は、防空演習の非科学性を指摘しており、読者を納得させるだけの説得力 がある。しかも、その論旨の一貫性はその後の空襲、敗戦を十分に予見しており、改めて桐生の洞察力に驚く。
しかし、うねりのように高まった軍部ファシズム、アナクロニズムの波にこうした冷静で科学的な判断は逆に激しい反発をくらい、押しつぶされていった。
防空演習については、桐生だけではなく、三沢編集局長も、コラムで「敵はどこから 入って来るわかりはしない。要は本土へ入る前に海上で撃墜するほかない」と、同じ趣旨の批判を展開していた。
今から見ると、なぜこの常識的な社説が問題となったのか、わからないほどだが、こうした指摘が激しい集中砲火を浴びるほど、時代は〝狂気″の度を強めていた。
4・・「東京日日」(毎日)は演習を大成功と賛美
「関東防空大演習」について、『東京朝日』『東京日日』も大きな紙面を割いたが、『朝日』は社説ではふれておらず、『東京日日』が八月九日に「関東防空大演習、大規模の計画」として軍部の意向にそった内容のものを書いた。
桐生が批判した演習を「大成功に終ること疑わぬ」として、「(防空)の根本をなすも のは国民の精神的訓練の如何である。
国防の第一線にあるわが陸海軍の健在する限り帝国内地に対する空襲は大陸よりすると、太平洋方面よりするとに論なく、敵国は有力なる空軍をもって、大々的に攻撃し来ることは恐らく不可能に近いであろう。
従って、国民さえ沈着冷静に防空に従事せば、敵機をしてその企図を遂行せしめることなく、大なる害を被らずに終ることが出来る」これが当時の新聞の大部分の認識であり、論調であった。
信州在郷軍同志会は一斉に反発
さて、桐生の一文はたちまち軍部から怒りを招いた。在郷軍人会である信州在郷軍同志会は一斉に反発した。同志会は松本連隊区司令官の指揮のもとに、各支部を糾合、『信濃毎日』のボイコット、不買運動を起こすと脅かした。
かねがね『信濃毎日』の反軍的なリベラルな色彩の強い紙面を苦々しく思っていた 同志会は陛下が御沙汰書まで下した大演習を「あざ笑う」とは何事か、と抗議。桐生、三沢の退社、小坂常務の謝罪文を紙面に掲載するよう要求した。
同志会では不買運動を行う指令書を印刷、これを突きつけて、要求を飲まねば、不 買運動に踏み切ると脅し、陸軍省の新聞班長も「この際、一挙に信毎をつぶせ」と一体となって圧力をかけた。
5・・在郷軍人会が不買運動
当時、『信濃毎日』の部数はわずか二万部、これに八万人という同志会が不買運動 を起こせば、結果は目に見えている。さりとて、無謀な軍人の圧力に屈するわけにはいかない。
小坂常務は経営の圧迫に悩み、同会幹部と三回にわたって会談、上京して軍部中 央とも折衝したが、軍部は話し合いを拒否した。『信濃毎日』は約一ヵ月間抵抗し、そして屈服した。九月八日、桐生は「評論子一週間の謹慎」という文章を掲載した。
「八月十一日発行の本紙評論欄に掲載された『関東防空大演習を嗤う』の一文が偶々一部世人の間に物議を醸したのは、私たちの実に意外とするところであると共に、恐縮に堪えざるところである。
なぜ恐縮に堪えないかといえば、これより先に陛下には畏くも、この大演習の関係 者に対して御沙汰を賜わり、この挙の『重要』なる旨を宣わせられたのであった。それを我評論子が論評したからである。
たとえ、この御沙汰書が一般国民に下し賜わったものではなく、単にこの演習に参加したものに賜わったものであったとしても、従って、私たち一般国民が不幸にしてこれを見落したとしても、新聞当局者として、既にこれを紙上に掲載した以上、その責任を免るることができない。
この意味に於て、そしてこの意味に重きを措く限り、評論子は謹慎の意を表する為、ここ一週間はしばらく筆を絶つ」桐生は御沙汰を賜わった演習を批判したことに恐縮にたえないと謹慎したが、在郷
軍人会の理不尽な圧力には屈しない、自分の論旨は間違いない、と言外ににおわせていた。しかし、桐生が『信濃毎日』で再びペンをとることはなかった。
『信濃毎日』の抵抗は不買運動には抗すべくもなく、二ヵ月間で屈服した。悠々は恩義のある小坂順造社長や『信濃毎日』の他に累の及ぶのを恐れて身を引いたのである。
三ヵ月後、桐生は三十年の新聞記者生活に別れを告げ名古屋の守山町の旧宅へ淋しく引き上げた。
悠々はその後、個人雑誌『他山の石』を創刊。孤独なペンの批判を敢然と続けてい くがこの時の模様をこう回想している。
「私は防空演習については言わねばならぬことを言って、軍部のために、私の生活権を奪われた。私が防空演習について、言わねばならないことを言った証拠は海軍軍人がこれを裏書きしている。
海軍軍人は、その当時においてすら、地方の講演会、現に長野県の講演会において、私と同様の意見を発表している。何ぜなら、陸軍の防空演習は海軍の飛行機を無視しているからだ。敵の飛行機をして、帝都の上空に出現せしむのは海軍の無力なることを示唆するものだからである。
6・ジャーナリストの役割は、「言いたいこと」ではなく、「言はねばならぬこと」をいいきること
私は信濃毎日において度々、軍人を恐れざる政治家出でよと言い、又、五・一五事件及び大阪のゴーストップ事件に関しても、立憲治下の国民として言わねばならないことを言ったために、重ね重ね彼等の怒りを買ったためであろう。
安全第一主義で暮らす現代人には余計のことであるけれども、立憲治下の国民としては、私の言ったことは、言いたいことではなく、言わねばならないことであった。そして、これがために、私は終に、私の生活権を奪われたのであった(1)」
つづく
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